心躍り浮足立つタン塩
心躍るとは、こういう心境を言うのだろうか。僕は遠足に行く小学生のように浮足立っていた。
「心躍り浮足立つ。まるで意味がわからんな。」 僕はぼそりと独り言を静かにつぶやく。
今日から僕の所属する「オノマトペ研究会」の合宿が始まる。「合宿」とは銘打っているもののそんなたいそうなものではなく、二泊三日の行程のうち、いつからでも参加でき(もちろん宿泊、食事には事前予約が必要だが)、全行程に参加する者もいれば日帰りの者もいるという、全くもって自由な「オノマトペ研究会」らしい合宿なのだ。行程上決められているのは食事の時間ぐらいなものであり、しいて言えば有志により二日目の夜に花火をすることぐらいだろうか。
中には「こんな人いたっけ?」ぐらいの自由参加型なのだが、全体を通じて「本を読みふける」ことに主眼を置いているためか、お互いに干渉することは少なく、その時読んだり事前に読んだ本とともに「感想を書いたポップ」を表紙に乗せ、誰でも手に取れるようテーブルに並べることが、唯一のルールだ。
そう、それはまるで書店の「店員お勧めコーナー」のような雰囲気だ。もちろんポップには必ず「オノマトペ」を入れることが義務付けられているのだが、そこはきっと最低限の体裁なのだろうと、僕は思っている。
僕はバイトのシフトを調整して丸々二泊三日にエントリーし、この日のためにお勧めするに値する本を、それこそジャンルに幅を持たせつつも「こいつは隠れた逸品だぜ!」的な本を混ぜながら10冊用意し、さらには「出来る男のサバイバルキット」なるものをホームセンターで購入して万全の体制を整え、今日という日を迎えた。
「この本ってちょっと題名があれだけど、とても面白そうね。」
「そうなんだ。作者名も一風変わっているけれど、とても魅了的な本さ!
おっと、外のハンモックで読むのかい? それなら虫よけスプレーをかけたらいい。
ほら、コハーッ、コハーッとね!」
「あら、とても紳士なのね、幌谷君って。そしてオノマトペがとても斬新だわ!」
「いやいや、大したことではないよ。やはり快適に本を読まないとね!
やや? なんだいそこの君。おやつに買ってきた鯖缶が開けられないのかな?
よしよし任せたまえ。僕のパーフェクトツールを使えば、ほら、ごらんのとおり簡単に缶切りできるよ!」
「素敵! 知性とワイルドさを兼ね備えたヘンリー・ウォルトン・某・ジョーンズ・ジュニア博士みたい!」
「はっはっはっ! 鞭は持っていないし中折れ帽はかぶってないけどね!」白い歯キラーン!
となること間違いなしだ!
おっと、諸兄諸姉。これ以上言わせないでくれよ! それもこれも澄河ユイ先輩のためだってな!
はっはっはっ!
…うん、まるっきり心躍り浮足立ってるな、僕は。
そもそもユイ先輩がいつから参加するか、わかっていないじゃないか。
冷静になれ。僕よ、クールにいけ!
そうこうしているうちに電車はホームへと滑り込み、緩慢に扉が開く。無音の夏の暑さが僕を迎える。
僕は2回目の乗り換えのために駅のホームへと降り立った。平日とは言え、都心から離れたこの駅はとても静かだ。駅員のアナウンスに交じり、遠くからセミの声が聞こえる。ここからローカル線に乗って、終点から二つ前の駅まで行けば目的の湖畔までたどり着ける。昨年は迷子になりかけたが今年は大丈夫だ。
僕は自動販売機で冷たいミルクティを買い、ベンチに座って一息つき、読みかけの本を開く。都心と逆方向なだけに朝のこの時間帯は電車の本数が少ない。20分ぐらいは待つことになりそうだ。
本を開いて数分、いや1分と経たぬうちに、背後から回り込むようにベンチに腰掛ける男が視界に入る。僕はチラッと確認したが、確認しなかった、気が付かなかったふりをした。
「よう、息子。こんなところで奇遇だな。」
「奇遇? 奇遇が聞いて呆れますよ。何の用ですか、壇之浦さん。」
僕は本から目を上げずに呟く。文章などろくに目に入ってこなかったが、目を合わせたいとは思わなかった。壇之浦にしたって、声の感じからすると僕に視線を向けているわけではなく、ホームの向こう側の畑か、でかい看板を見ているようだった。まるでお互いが独り語を呟いているような、そんな会話だ。
壇之浦は奇遇などとのたまわったが、どうせ偶然を装った接触に違いない。
「相変わらずつれないねぇ。そんなんじゃ女できないぞ。」
「余計なお世話です。」
「いいか、巨乳の嬢ちゃん。佐藤ウズシオちゃんは押しに弱いと思うぞ。」
「別に巨乳…、いや佐藤ウズシオは好みじゃない!」
「あぁ、すまん。あれか、矢文のねぇちゃんか。」
違ぇよ! と叫びたかったが、それはなんだか敗北を認めるような気がして、僕は押し黙った。
「んま、元気そうで何よりだ。」
それからしばらくの間、僕も壇之浦も黙っていた。黙ってはいるものの、言葉に出さないだけでお互いが心の中でずっと会話しているかのようで、なんだか居心地が悪かった。
僕は開いている本の「あなたがタン塩が好きで、タン塩さえあればご飯が何膳でも、無限に食べ続けることができることは聞かなくてもわかってはいるわ。でもいくら私が魔法少女だからってタン塩を作り出すことなんてできないのよ!」という一文が全く頭に入ってこず、繰り返し、繰り返しその一文を読み続けていた。
「構内ってのは禁煙か。」
壇之浦はボソッと、それこそ独り言のように呟く。
「まぁお前が俺を頼りたくはないってことは、わかっちゃいるけどな。
どうしようもなくなったらここに連絡しろ。俺とは関係がない。」
僕は壇之浦の挙動が視界に入っていたが、視線はそっちには向けなかった。
無視、無反応。そういう態度ではあったが、僕の無言は「無言という肯定」と壇之浦は捉えたのだろう。気にする風でもなく相変わらず壇之浦は目の前の、遠くの何かを見続けているようだった。
「んじゃ、タバコ吸いたいから行くわ。」
そういって壇之浦は立ち上がり、ベンチを離れる。
壇之浦が立ち去った後にはポケットティッシュが一つ置いてあった。「サラ金か何かの宣伝かよ?」と思ったが、僕はそのポケットティッシュをあらためる気にはならず、かといってほっとくわけにもいかず、何となくリュックのサイドポケットにねじり込んだ。
「勝手すぎる。」
僕は誰もいない駅構内で、メジャーなお茶が描かれたでかい看板を見つめ、悪態をつく。
それから間もなくして電車が目の前に止まる。僕は本を読むことを諦め、リュックにしまうと電車に乗り込んだ。さすがローカル線、そして都心から逆方向。乗り込んだ一両に乗っている人は僕を入れて1桁か。
全てのシートの両端が埋まっている。どうして人は端に座りたがるのだろうか。
僕はやむを得ず、いや、あえてシートの真ん中に座る。
それから目的の駅まで、構内禁煙、鬼、雫ミスミ、剣であり盾である、ニコナ、スイカ2玉、桃太郎、海水浴の騒動、タン塩、ウズウズ、巨乳、「僕」、テキサスクローバーホールド、鈴木と高橋、土偶、テンジン・ノルゲイと、ここ最近のことを断片的に、無作為に考えていた。
「ユイ先輩…」
ふと、ユイ先輩の横顔、微笑をたたえた柔らかく清涼な横顔が目に浮かぶ。
人はどうしてシートの端に座りたがり、人はどうして何の脈略もない思考に囚われ、そしてその思考の端から哀しみの落とし穴に落ち、挙げ句の果ていわれない哀しみに囚われたときに、誰かの柔らかな微笑が思い浮かぶのだろうか。
きみにより
思ひならひぬ世の中の
人はこれをや恋というらむ
と詠ったのは誰だったか。在原業平だったか。
僕は目をつぶる。電車の緩い揺れ。窓から差し込む柔らかな日差し。心音のような一定の電車の音。左右に何もなく誰もいないという不安定さ。すべてが僕を優しく包んでいるように感じる。
その中心にはユイ先輩の微笑があった。
僕は恋をしているのだろうか。それともこの孤独感なのか哀しみなのか、それともただの不安感を埋めるため人恋しくなっているだけなのだろうか。僕にはわからなかった。
「お客さん。終点ですよ。」
いつの間に眠りに落ちていたのか。
僕は終点の駅でただ一人、駅員に起こされて現実へと戻ったのだった。