反復横跳びするという選択肢
致命的ダメージを与えた僕に対し悠然と狙いを定め、ジョガー鬼が弓を絞るがごとく上体をこれでもかとかがめ、そして一気に飛躍する。肺の潰れて身動きの取れない僕に追撃とは、なんと容赦のないことか。
しかし飛躍した瞬間から、まるで体に粘着物がまとわりついたかのように急速に速度が落ちていき、ジョガー鬼が地上1~2mの空中で静止する。いや、彼の飛躍する速度が落ち、静止したのではない。
ああ、これはつまり、時間が止まっているということか。
時間が止まって僕が動けるのかというと、そういうことではないらしい。動かせるのは思考だけだ。
「逃げないのかい?」
そう僕に問いかけてきた声の主は「僕」だった。
網膜に映っている目の前の風景が、中心点からモノクロに変化して広がり、そしてすぐさま白黒が反転した世界となった。そして僕の目の前に黒い服装の「僕」が現れる。
いや、反転しているのだから「僕」は白い服装なのだろうか。
客観的に「僕」を見て思うが、なんと見るからに鼻持ちならない奴なのだろう。
そう、僕は「僕」を客観的評価をする。
「逃げるって、逃げられるわけないだろ! 肺が潰されて指一本、動かせやしないのだから!」
「逃げるじゃないな、「避ける」か。」
「同じことだろ!」
「いやいや。ちょっとしたニュアンスの違いで結果が変わることもあると思うけどね。
例えば1度のズレで大気圏からはじかれる大気圏突入時の角度みたいにさ。」
時間が止まっているとはいえ、「止まっている」のであって時間そのものは有限だ。この状況下で冷静に理屈っぽい、傍観的セリフを吐く「僕」に僕は苛立つ。
「スペースシャトルの話をしてる場合かよ! 現実問題の話じゃないか。」
「現実問題、可能性は零になることはない。ただ選択の過ちが可能性を零にするという話だよ。」
「選択の適否があるだけで可能性が零にはならないとでも言いたいのか。それは詭弁だ。」
そして僕は「傍観的な僕」に情けなくも説得力の無い反論、ただの否定を繰り返す。
「しかしなんだ。あれを食らってもいいけど、痛いだろうね。
ははは! 痛いで済むかな?」
「すでに遺体同然だよ! 動けたら避けるさ!」
いつまでも否定的反論しかできない僕は、そのこと自体に、僕自身に対し苛立ちを覚えた。
ここまでくるともはや、どちらが僕でどちらが「僕」なのか判別も曖昧になってくる。
「うまいこと言う! じゃない、本当に動けないとでも? 今回は砂に埋まってすらいないぜ?
まあ試してみろよ、なぜ諦める。もう動けるはずだよ。
今までだって、そうだったじゃないか。」
唐突に僕の手に握られたスマホが、着信音に設定していた「がんばれ!ミシュール先生!!」のOP曲を激しく鳴り響かせた。それと同時に「僕」の言葉が消え去り、モノクロの世界が終わる。
それは思考の終わりを告げるサイレンだった。
そのサイレンにより止まっていた時間が再開する。当然、ジョガー鬼の飛躍も再開し、僕の眼前へと迫ってくる。
僕は思いっきり息を吸い込みながら反射的に体をよじり、転がるようにジョガー鬼の「超ジャンピングニードロップ」を避けた。
その直後、ジョガー鬼の膝頭が、僕の背後にあったコンクリートブロックを砕き、ジョガー鬼はその砕けた瓦礫に突き刺さる。
僕はそのまま転がりながら立ち上がり、スマホをスピーカに切り替えてポケットに入れる。
肺は…、呼吸は正常だ。
「今のうちに距離を。」
「わかってるよ、ミスミちゃんっ!!」
スマホが僕の声を拾うように、そして僕の呼吸の正常を今一度確認するように、思いっきり叫んだ。
ガラガラと瓦礫をどけてジョガー鬼は立ち上がる。あんな「超ジャンピングニードロップ」を仕掛けられるのだから、もはやジョガーではなくアスリートだ。いや、この際ムエタイ選手でもいいや。
鬼は僕が攻撃を避け、ダメージを回復していることに疑問は持っていないようだったが、明らかに僕に対する戦意が増したように感じられる。
そして再び僕に向かって「超ダッシュ」からのショルダーアタックかジャンピングニーか、いずれにしろ突撃体勢をとった。
「タンッ」
スマホから「ちょっとノリノリで文書を打ち込む事務員」が放つ軽快なエンターキーのような、単発の音が聞こえる。
直後、パスッという小さな音がジョガー鬼から聞こえ、肩を穿たれてジョガー鬼が体勢を崩す。
「狙撃? え? スナイパーライフル?」
「早く移動を。4時のブロックへ。」
「は? 4時?」
「…。右後方です。そっちじゃなく逆の方のやつです。」
「もっとわかりやすく言ってよ!」
僕は指定されたコンクリートブロックをめがけて走る。「タンッ」という音と共に「ガシャコ、クランッ」という薬莢をはじく音が再びスマホから聞こえたが、振り返って鬼の状況を確認している場合ではない。
「一度そのブロックに隠れてください。」
「了解だー! って、間違っても僕に当ててくれるなよ!」
「当たっても死なないと思います。95%ぐらいの確率で。」
「どういう根拠だよ!」
「当たればわかります。
秒カウントします。0で3時…、左に飛び出してください。
3,2,1,0」
「早いよっ!」
そうは言いつつも僕は雫ミスミのカウントに素早く反応し、左に飛び出す。
「そのまま起重機に向かって前進を。」
「起重機?」
「目の前の黄色い、でかい機械のことです。穴を掘る。」
「そいつはわかりやすい!」
「タンッ」
「今なんか! 耳元をかすめなかったか!」
「気のせいです。
そのまま振り返ってジャンプ。」
「なんですと?」
と言いつつも雫ミスミの注文に、僕は素直に従う。
「右スタートで反復横跳び。」
「どんなオーダーだよ!」
「思いのほか遅い。」
「僕はアスリートでもムエタイ選手でもない!」
目の前にはジョガー鬼が僕へ向かって突進してきていたが、僕の反復横跳びの合間から雫ミスミに着実に撃たれ続け、明らかに勢いが失速していた。とは言え僕とジョガー鬼の距離は5mを切る。
「ストップして、そこで大きく構えて。」
「もうどっからでもかかってこいやー!」
「伏せて。」
僕は大きく熊のように構えた直後から、土下座を超えたうつ伏せ状態へと素早く移行した。
「そのまま伏せていてください。」
雫ミスミのその指示が終わると同時に「タンッ」と最後のエンターキーが打たれる。
ジョガー鬼、僕、そして大きく離れて雫ミスミが一直線上に入ったということなのだろうか。
おそるおそる見上げると、胸の中心、心臓、いや鬼門を貫かれて停止しているジョガー鬼が立っていた。そしてゆっくりと脱力していき、紐の切れた操り人形のように背後へと倒れていった。
僕は立ち上がると同時にジョガー鬼から目をそらし、スマホのスピーカーを解除する。
何を信じたらいいのかわからない状況下にあるというのに、雫ミスミの腕、ジョガー鬼を確実に仕留めたということだけは、当然のことのように信じられた。
どうして初めて見た狙撃の腕なのに、「エンターキーを押せば確定し改行される」ということのように、常識的な信頼感として、僕の心は自然に受け入れているのだろうか。
僕はスマホを耳にあてる。
「疲れた。」
「お疲れ様です。」
「…。彼は死んだのだろうか。」
「半鬼化でとどまっていたようですから、厳密には死んでいません。」
「そっか。」
この期に及んで、少なからず鬼のことを心配してしまう。いや、「死」というものに対する抵抗感なのかもしれない。
僕は「鬼ごっこ」が終わったことに対する安心感からか、大量の疑問点が頭を駆け巡る。
鬼とは何なのだ。なぜ僕が狙われるのだ。いや、僕が知らないだけで誰もが狙われているのか。なぜ普通の人が鬼化するのだ。彼らの鬼門を潰して、その後どうなっているのだ。なぜ海水浴場の一件は世に出ないのだ…
僕はそうすべきなのだろうと思い、建築現場の出口へ向けて歩き出す。
これは現実から目をそらそうとしているのではないか? 最後まで見届けるべきなのではないか?
この後、彼がどうなっていくのか、知る機会なんじゃないのか?
それとも気が付かないふりをあえてして、立ち去ることが大人の正常な選択なのか?
「ミスミちゃん。」
「なんでしょうか。」
「僕はさっき肺が潰れたと思う。」
「確認しています。」
「でも今は正常だ。」
「そのようですね。」
「これはつまり…、僕の、その、あれか。
桃太郎的な「超回復力」とか「超耐久力」とか、そういうやつか。」
「今はそのように捉えていただいてよろしいかと。55%ぐらいは。」
「桃太郎ってそんなにすごかったっけ?」
「はい。当然です。
桃太郎であることをご自覚なさった場合には、そんな些末なものではないことがお分かりになります。」
すごい奴かと聞いて即答で肯定されたとて、僕には魅力的な返答だとは思えなかった。
「僕は…。僕は何を選択すべきなんだ。」
「それについては、ボクには回答しかねます。
でも「選択する」ということは誰にでも与えられた権利なのではないでしょうか。
たとえどのような状況下であっても。」
「どのような状況下でも、か。」
「どのような状況下に置かれるかを、人は「運命」と呼ぶのかもしれません。
しかし、「選択する」ということは、いつだって本人に与えられた自由な権利であるように思います。もちろん「選択しない」ことも選択肢の一つですが。」
「そうかもしれないな。」
「ただ…。選択には責任が付きます。他人に対してではなく自分に対して。」
「重たいな。」
雫ミスミはあえて「自分に対して」と言ったが、僕のする選択が他人に影響を与えないわけがないことはわかっていた。いや、それは僕が「選択していない」ことに対する言い訳なのかもしれない。
雫ミスミは僕の心境を察したのか言葉を続ける。
「ボクは、幌谷さんがどのような選択をしようとも従います。」
そしてしばしの静寂が、電波越しに繋ぐ僕らの間に流れた。それは僕が「返答をしない」という選択肢を選んだから、なのだろうか。
雫ミスミの吐息が耳元で聞こえるような気がする。まるで雫ミスミが僕の左肩に頰を寄せ、眠りについているかのようだった。その静寂はそういう距離感を僕に錯覚させた。
「さて、スイカを買って帰るよ。」
「はい。
それでは、また。」
いつもは雫ミスミから通話終了する電話を、今日は僕の方から切った。
僕は建築現場を後にし、目的のスーパーへと歩を進めた。
夏の暑い日差しが僕を半ば強制的に歩かせているような気がする。「この期に及んで」と僕の中の「僕」が言う。僕は「納得がいって前へと歩いているわけではない」と言い訳する。
「選択しろ。」と僕の中の「僕」は繰り返し、繰り返し僕に言った。