鮎の塩焼き
重なり合った新緑を背景に、黒いバイクが緩いカーブをゆっくりと上がってくる。舗装道から続く古めかしい石造りの門を抜け、洋館の正面中央にある噴水の名残を残したロータリーを回り、隣接する小さな駐車場へと滑り込んだ。駐車場には一台のクラシックな高級車が駐車されており、その隣にバイクが停まる。
バイクのエンジンを停止し、乗っていた女がフルフェイスのメットを脱ぎ、軽く首を回した。
高級車には運転手が動かず静かに待機していた。女は運転手がこちらを見ているかはわからなかったが、軽く会釈し、そのまま空を見上げる。
昨夜の雨も今朝方には上がったが、空には重たい雲が広がっている。天候に期待は出来そうにない。この歯がゆい気分と、今しばらく付き合うしかなさそうだ。
女は視線を、運転手と同じ正面、今さっき上がってきた道へと向けた。都心には珍しく緑の多い場所だ。まるでここだけ世間から切り離されているような錯覚さえ覚える。
メットを置いて行こうかと思ったが、いつ降るかわからない雨を心配し、女はメットを持ったまま洋館の方へと振り返る。門と同じく重厚な石造りのその洋館が、その所有者の歴史的重みを物語っているかのようだった。
特別、女に失態があるわけではなかったが、これから行う報告の内容を思うと、少し気分が重くなった。女は覚悟を決めるように顎を引き、洋館へと向かった。
洋館の入り口には木製の看板に「山柴旧邸美術館」と書かれ、「休館日」の白い札が下げられている。女はそれを一瞥したが、そのまま躊躇することなく両開きの扉の一方を開けて洋館の中へと入る。古めかしい扉だったが、大きな音を立てることもなく、静かに閉じられる。
普段ならば受付がいるのであろう入り口横のカウンターを女は見やる。そのカウンターの上にメット置き、内部に目を向ける。洋館の名残は残っているものの、現在は美術館に姿を変えたその屋敷内には、慎ましく案内版が所々に設置されていた。正面の大きな階段には、上階に絵画作品が展示されていることを示している。
女は直感的に上階へと階段を上る。深く落ち着いた臙脂色の絨毯が足音を吸収する。ふと「この足の裏に感じる感触はあまり好きではないな」と、女は思った。
上階には、廊下に沿って数々の絵画が展示されていた。照明は落ち着いた照度に調整され、時間の流れすらゆっくりと流れているようだった。廊下の中ほどのところで男が一枚の絵画と向き合い眺めている。その絵画は、周りの作品から見ると小さなものだったが、ポスト印象派の影響が色濃く表れ、力強さを感じさせるものだった。女は男の鑑賞の邪魔をすることに気が引けるということもあったが、なんとなくその絵の力強さに心が引かれ、共に静かに眺めた。
どれぐらいの時間が経過したのであろうか。小一時間も眺めていたような気がするし、実際にはわずか数分であったかもしれない。静寂から徐々に目覚めていくように男がゆっくりと話し始めた。
「良い作品だろう。気に入ったかな。」
「はい、絵の良し悪しは私にはわかりませんが、力を分けてもらったような気がします。」
「うんうん、それでいいのだよ。絵画に限らず作品と呼ばれるものは、作った者の命の足跡だからね。人と会話することと同義かもしれないよ。」
男はそう言うと作品から目を離し、女に柔和な笑顔を向けて言葉を続けた。
「御足労かけてすまなかったね。一通りの報告は耳にしているのだが、君の目で見たものを聞きたくてね。場所を移そうか。」
「はい。」
女は短く返事をすると男の歩みに従った。
先程まで眠っていや者が活動を再開したかのように、屋敷内の調度品や装飾の類の鮮やかさが増したように目に飛び込んでくる。役目を終え、時間が止まった静寂の中に身を置きながらも、生活感のような、生きている息遣いがそれらのものから感じられる。
「彼は元気かね。」
「心身にストレスはかかっているようですが、大きな怪我等には至っておりません。」
男は静かに頷き、続きを促しながら階段を下りる。
「現在のところ、ご承知の通り半鬼化した者複数と、鬼一体と接触し浄化しております。
これは犬、猿の功績によるものです。」
「結構なことじゃないか。」
「少々目に余るところもありましたが、これには財団が処理にあたったかと。」
男は外に待たせてあった車に乗り込むと、女に乗るよう目で促す。
運転手は無言でエンジンをスタートさせると、一度だけ車内の様子をルームミラー越しに確認し、車を静かに走りださせた。車外の風景が曇天模様の下、木々の緑が流れ、やがて灰色のビル群へと切り替わっていく。しばらく風景の移り変わりを女は眺めていたが、再び口を開いた。
「接触の頻度と範囲が局地的過ぎるように感じます。特に海水浴場の一件では、間違いなく上位の鬼が存在しているはずです。ですが、発見には至りませんでした。」
「今回はいやに性急過ぎる感はあるね。」
「…大鬼が仕掛けてきているのでしょうか。」
「わからんな。しかし、いずれにしろ桃太郎と大鬼は遅かれ早かれ対峙する定めだ。
早々にこちらも動き出さなければならないだろう。」
女は固く口を結び、車外へと視線を向けた。その目にはどこか哀しみの色があった。
やがて車は表通りから細々とした中小路に入っていく。表通りに比べると極端に歩いている人影が少なくなる。薄曇りの明かりが、このあたりの風景を10年、20年と過去へ遡らせているかのような感覚を与える。
車は周りの空気に合わせるようにゆっくりと進むと、古風な旅館の前で停車した。
「お昼にはまだ少し早いが、食事をして戻ろう。鮎は食べられるかな?」
「はい。ですが…」
「ここの鮎の塩焼きが美味くてね。しかし、一人で食べるとその美味しさも半減するのだよ。」
男は優しく微笑み、女を促した。女は先に車外へと降り周囲を確認すると、ドアに手をかけ男が降りるのを待つ。それは長年積み重ねてきた習慣のような動きだ。
どこからか、風向きの変化を知らせるかのような風鈴の音が、耳元をなでるように小さく聞こえた。
旅館へと歩みながら男は付け加える。
「大丈夫。心配することはないよ。それに心配してもしなくても腹は減るからね。
食べて腹が満たされれば、また次のことを考えられる。」
男はそう言うと、旅館のドアを開き、振り返りながら小さく笑った。




