子猫からの穴熊
『むかしむかしあるところに、おじいさんとおばあさんが住んでいました。
おじいさんは山へ柴刈りに、おばあさんは…
僕は開いて5秒で本を閉じた。今更、御伽噺の桃太郎を読んでどうなるというのだ。軒島ニコナの問いかけを僕がまるで気にしているみたいではないか。一説によれば桃太郎は桃から生まれたのではなく、おじいさんとおばあさんが、仙人の住まうところより流れてきた「不老長寿の実」的な桃を食べたことにより超常現象的に若返り、回春した二人は柴刈りも洗濯も忘れて日夜激しい子作りに励んだ末、ごく自然的に生まれてきたのだという。
その若返ったおばあさんが、元じいさんをどれほど魅了し、24時間体制で稼働し続けるマシーンに仕立て上げたのか興味がわかないわけではないが、「あなた私にしばかれたいのね? そうなのでしょ? じゃぁ跪きなさい! ほら、はやくその汚らしい黍団子をさらけ出しなさい!」ぐらいの浅はかな発想しか浮かばない僕は、結局のところそれ以上桃太郎という物語を改めて読む気にはなれないのだった。
ピンポーン
こんな夜中に人の家のチャイムを鳴らすやつなんて、ピザをデリバリーしていない時に限っては不逞の輩に決まっている。僕は最終話まで待ち続け、ネットの評価も巷のうわさ話も遮断し続け、ついに僕の中で解禁されたアニメを一気見する準備で忙しいのだ。これから先の時間、僕はこの世から不在なのだ。
ピンポーンピンポーン ピ、ピンポーン
最初のチャイムで無反応だった場合、諸兄諸姉ならば二回目は何回鳴らすだろうか。僕は「二回目のチャイムは二回だけ」派だ。まして連打気味で「ピ、ピンポーン」と鳴らしたりはしない。
いや待て。これは不逞の輩などではなく、小雨に濡れてしまってカタカタと小さく震える、白いブラウスに黒のタイトスカートを履いたおねえさんではないだろうか?
緩やかにウエーブのかかったセミロングの髪から雫を滴らせ、体を小さくしながら哀願の眼差しで「傘を貸してくれませんか?」と頼みに来ているのではないか。それならば震える指先が連打気味になってしまったとしても納得がいく。そうか雨に濡れた子猫ちゃんか!
「はい。」
「よう、息子。」
「只今留守にしています。」
僕は開けて5秒で扉を閉めた。
「いるじゃねえかよ。」
男は閉めた扉を開ける。
「間に合ってます。」
「そうつれないこと言うな、息子。」
「こんな夜中に何の用ですか、壇之浦さん。」
玄関を抜け勝手に上がり込んでくるこの男こと、元父親こと、壇之浦は暴力団関係者だ。つまりはヤクザだ。そして一緒に入ってきたこの女のことは、僕は知らない。
白いシャツに黒いスーツを身に纏った姿は、ネクタイこそ締めていないが、一見すると喪に服した帰りのサラリーマンに見えなくもない。昨今のヤクザ事情を考えると、そうそう派手な服装はしないのだろうか。確かに白いシャツに黒いスラックスだが、そんな来訪者を僕は求めてはいない。
そして一緒にいる女の方はというと、赤地を基調としたアロハシャツにハーフパンツといういでたちで、眼鏡をかけていることはわかるのだが、猫背に俯き加減なため、髪の毛が邪魔して顔立ちも表情もわからない。確かにセミロングと猫は一致しているが、そんな来訪者をやはり僕は求めてはいない。
「どなたですか。」
「…。お前、オヤジの顔を忘れたのか?」
一人でソファーに座った壇之浦は、まるで僕を飛ぶことができなくなったカラスを憐れむような目線で言ったのだが、どこの世界に知らない人間を自宅に入れ、あまつさえソファーに座らせるというのだろうか。この男との会話は、どこかかみ合わないところが、幼少の頃から僕は嫌だった。
「知ってますよ。そこの女性のことです。」
「佐藤ウズシオ。」
「は? …いや、名前ではなく、どういった方ですか。」
「あぁ、拾ったんだよね、そこで。
お前、飼うか?」
僕は「佐藤ウズシオ」という名前が、芸名ならともかく一般女性として成立するのか疑問だったが、そんなことは置いといたとして、拾われた女性が僕の家でなぜ正座しているのか。
「買うか」と言われて、裸にエプロンを付けさせて僕の大好物の麻婆豆腐炒飯を作らせたりだとか、定番ではあるがメイド服を着せて「おかえりなさいませ、ご主人さま」と言わせたりだとか、着物を着せて帯を引っ張り「あーれー」という時代劇的こま回しをやったりだとか、やりかけの美少女SLGのレベル上げをお気に入りのキャラクターのコスプレでしてもらうだとか、あるいは熊のきぐるみを着せて将棋を指させながらも僕は布団の中で待機をし「これが本当の居飛車穴熊ね」と言わせるなどということを、一瞬のうちに考えたりもしたが、息子に対しても人身売買を平然とやってのけようとするこの男に、深い憤りを感じざるをえなかった。
「買わないよ!」
「ま、飼わないわな。
あーぁ、珈琲とか出ないのかなー。」
「珈琲は飲まない主義なんで、うちにはありません。
つか、普通に誘拐だろ、それ。」
「ん? あぁ、まあ成り行き上な。
おいおい、そんなに怒るなよ。置いて行くのもなんだから、ここを出たら解放するさ。」
そう言うならばこの男はちゃんと解放するのだろう。そういうところは良くも悪くも有言実行を信条としているこの男は信用できる。
僕はそこで無言で正座している「佐藤ウズシオ」なる女性に同情し、温かく甘いカフェオレでも淹れてやろうかと思った。諸兄から「珈琲は無いのでは?」という声も聞こえてきそうだが、単に壇之浦に出す珈琲など無いというだけだ。しかし、そんなことよりも「佐藤ウズシオ」なる女性をこの非日常的な空間から、早く解放してやることの方が先だろうと思った。
「用が無いなら帰ってくれませんか。」
「つれないねぇ。んじゃ、元気な顔も見れたし帰るよ。」
壇之浦と佐藤ウズシオは立ち上がり、玄関へと向かった。
とぼとぼと生気なく壇之浦の後ろをついて行く、佐藤ウズシオの後ろ姿を見て僕は声をかけそうになったが、無責任な発言はやめようと踏みとどまった。無責任な優しさは所詮、自己満足でしかない。優しさも厳しさも相手を思えばこそだが、その先の責任を伴えないのであればするべきではないというのが、僕自身に対する戒めだった。
それを見透かしたのかどうなのかはわからないが、壇之浦は去り際に僕の方へと振り返り、笑顔で封筒を差し出しながら言った。
「そうそう、俺のところにお前宛ての手紙がきてたぜ。ほら。
じゃな、早く女つくれよ!」
余計な御世話だ。僕は彼女をつくれないんじゃない、つくらないだけだ。
壇之浦から渡された封筒には可愛らしい女性の字で僕の名前だけがが書いてあったが、厚さ1cm以上のボリュームは一体何なのか。恋文にしては異常な想いではないか。
中を開けてみようと思ったら、元から封はしていなかったようだ。そして100万円札の束が入っているのが見えた。あの男、生活費のつもりか。僕等が受け取らないから狡い手を使ってきたか。僕は封筒からそのお金を出さずに、そのまま封筒を無造作に机の上に放り投げた。
その時には、中に本来の差出人からの手紙が入っていることを、僕はまったく気が付いてはいなかった。