現実世界へと帰る蟹
「あ、にぃちゃん。おはよー!
こちらがあたしの同級生の琴子。そいで、こっちがひよりん。」
「お兄さん、今日はよろしくお願いします。」
「ヒヨでーす! よろしくお願いしまーす!」
いったい、何がどうしてこうなって、どういうことなのだ。僕は暫し混乱した。
琴子ちゃん。中学生女子の割にはなかなか落ち着いていて、大人びている雰囲気だ。まぁそこを見積もっても見た目通り中学生なのだが。
ひよりんちゃん? ヒヨちゃん? テンション高いな。だが、どうも色々と観察されているような気がするのは気のせいか。視線が痛い。
そしてニコナ。初めて私服を見たが、まぁなんだ、ボーイッシュ風がかえって可愛いじゃないか。わかるだろう諸兄! ボーイッシュ風がかえって女子っぽさを際立てるってことがあることを!
いや、そうじゃない! すまない諸兄。僕としたことが取り乱してしまったよ。脳内だけとはいえ。
ニコナ。君はなんで当然のように涼しい顔をしているのだ。メールでは場所と時間指定しかないという、しごくシンプルなものであったが、友達もいると一言あっても良かったのではなかろうか?
いや、確かにニコナと二人で海に行くのか? とか思ったり思わなかったりだったが。
確かにビーチパラソルだとか、シートだとか、アウトドアチェアを偶然にも4脚だとか、ちょっとしたテーブルだとか、色々と用意はしていたが。
どうなのだ?
「やぁ、おはよう。よろしく!
今日は天気が良くなりそうだね!
荷物は後ろに積もうか。」
僕は爽やかな、夏の早朝に相応しい笑顔で対応し、そして友達の二人が荷物を積んでいる間にニコナを車の影に引っ張った。
「ニコナ、ちょっと…。」
「にぃちゃん、いい車借りられて良かったね。」
「あぁ、あの後すぐに予約したからな。大きい車にして正解だったよ。はっはっは。
って、そうじゃないよ!
僕はどういう設定になっているんだ?」
「ん?
あー。にぃちゃんは父方の従兄弟のにぃちゃんで、大学に入るのに田舎から出てきて、うちでたまに小遣い稼ぎに家庭教師やってる感じ。
好きな食べ物はスープカレーで、嫌いな食べ物は餡子。動物好きだけどペットは飼ってなくて、陰鬱な鳩の物真似が得意。」
「随分、設定が細かいな…。」
「ひよりんが色々とうるさくてさぁ。
あと趣味は、がくどー的なせいへき的な生物読本?」
「学術的で専門的!
それはもう忘れとこうか!」
モラル的にやばい方向に行ってるだろうが!
「今、ヒヨの話してたでしょ!」
ひよりんがニコナにまとわりつくように割り込んでくる。
「いやいや、いい友達だなってさ!
さて、さっそく出発しようか!
後ろは広いから三人で乗ったらいいよ!」
僕はどうして中学生女子達の保護者をやらんといかんのだ。スープカレーは確かに好きだが、餡子は別に嫌いじゃないぞ!
「陰鬱な鳩」ってなんなんだよ!
…。そんなわけで僕は、中学生女子の会話を聞くとなく聞きながら、たまに飛んでくる質問に適当に答えながら、1時間ほどかけて海水浴場へとやってきた。
確かに今日は天気が素晴らしくいい。海水浴日和だ。いや、観測日和だ。
長い間、僕の頭の上に乗っていた蟹を砂浜に下ろし、ニコナ達のビーチボールバレーを観察する。
念のために触れておくが「ビーチバレー」ではない。あの浮き輪の仲間のような、ビニール製のフワフワした玉を使用した、中学生女子に相応しい、平和的でほのぼのとした遊びのことだ。
なんというかまぁ予想通りではあったが、ニコナ対2人の友達か…。
琴子ちゃんが辛うじてレシーブして返した玉を、ニコナが頭上高く飛翔しスパイクする。ビーチボールってそんなに地面すれすれから浮き上がるような動きってするっけ? 玉に全身から直撃し、すくい上げられるように吹き飛ばされたひよりんが、玉と一体化しながら海へと落下する。うーん、笑ってるし楽しそうだからいいか…。
フワフワ感もほのぼの感も、全くないな。
ニコナが救出に…。いや、体操選手のフィニッシュの如く、助走から前転三回、そして空中二回ひねりで海水にダイブしたところを見ると、そうか、突撃か。
肩を下げ、呆れたポージングの琴子ちゃんの背中から「まったく…」という声が聞こえてきそうだった。
白い素肌が美しい子だ。ウエストラインは「中学生だからね」というのは置いといて、背中の中央を走る凹みの曲線が美しい…。
琴子ちゃんはクルッと振り返ると、僕の方へと歩いてくる。
おーっと、蟹ちゃんはどこに行ったかな?
おやおや、現実世界へと帰ってしまったのかな? そーだよねー! 僕も現実世界、いや大人の世界…、いやいやいや、常識的、倫理的、規範的世界へと帰らないとねー!
「隣、いいですか?」
「あぁ。えーっと、琴子ちゃん。
ジュースでも飲む?」
僕はチェアを勧めて、クーラーボックスから適当なジュースを取り出す。
「ありがとうございます。」
琴子ちゃんが大人びた動きでチェアに座り、僕が適当に引き当てた微炭酸のオレンジジュースを受け取るとおいしそうに飲んだ。
僕は彼女に視線を合わせず、水平線を眺める。海の紺、空の蒼、そして白い雲のコントラストが美しい。
「ニコナって」
琴子ちゃんは、中学生女子の割には落ち着いた声で話し始めた。
「ニコナって、背伸びしてるっていうか、ちょっとクールに振舞ってるとこあるじゃないですか。」
そうか? そうなのか?
「でもちょっと無理してるっていうか…。
なんか壊れそうな感じで心配だったんですよね。
お兄さんはご存知だと思いますけど、ニコナのご両親って忙しい人だから。ほら、おばあちゃん子じゃないですか。」
「うん。あぁ、そうだね」
僕は知っている風に返事をした。
僕はニコナのことを何も知らなかった。
「でも最近、ニコナがすっごく楽しそうに笑うようになったなぁ、って。
…上手く言えないんですけど、ニコナのこと、これからもよろしくお願いしますね!
お兄さん!」
僕ははたと琴子ちゃんの方を向いた。彼女は真っ直ぐにニコナとひよりんの方を向いていた。
その視線は、優しさと友達を思う心配さが入り混じった複雑な表情だった。
「あぁ、任せてよ!」
僕は根拠のない返事を自然に返していた。
琴子ちゃんの最後の「お兄さん」という響きは、どこか僕の、いやニコナの嘘、従兄弟ではないということに気がついているような気がした。
ニコナがひよりんの両足を持ち、ジャイアントスイングしている。このまま竜巻を発生させるのではないかという回転具合だ。
「もう、はしゃぎすぎ。」
琴子ちゃんはそう言って立ち上がり、休憩に戻ってくるように、二人に呼びかける。
「二人にも飲み物あげといてよ。ニコナにはコーラもあるし。
なにか食べ物でも買ってくるよ。」
僕はなんとなく気持ちが落ち着かず、そう琴子ちゃんに言付けして堤防の方へと歩いた。
根拠のない返事。いや、初めから僕の行動に、根拠などなかったのではないか。ただ行き当たりばったりで流転しているだけではないのか。
それはまるで何にも回転力を伝えていない水車のようだ。僕は世の中の流れを動力に、ただグルグルと回っている体を装っているだけではないか。当然、それはただ回っているだけで、何にも機能などしてはいない。
自ら動き出すほど、僕にはその根拠を見出すことは出来ない。で、あるならば、せめてこの流れに動かされ、生み出されているその回転に、何かを結びつけなければならないのではないか。結びつけ、何かを果たさなければならないのではないか。
無駄に回転する脳髄を緩やかに止めるように、柔らかな声が僕を呼び止める。
「あら? 幌谷くん。」
その声はまるで、不確かな夢の世界を漂う僕に「起きなさい」と促すような、非現実世界に沈み込む僕を、現実世界に辛うじて繋いでくれるような、そんな柔らかな響きだった。




