若きウェルテルの鉄パイプ
「もっと光を!」
という、かの有名な言葉を残したのは、賢明なる諸兄諸姉ならばご存知の通り、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ。つまりゲーテだ。彼の人生最後の言葉だと言われている。
そう、そして僕の最後の言葉でもある。
僕の視界は柔らかな慈に阻まれ、そして呼吸も柔らかな愛に塞がれ、人生の灯火が今、消えようとしている。
よもや若きウェルテルだって、シャルロッテが豊満な胸の持ち主だったかどうだかは知らないが、そんな死に方があるとは思うまい…。
となってたまるかー!
「ひふひふぅー! はぁふほへー!」
(大変申し訳ないが、君のその豊かな慈愛をどかしてもらえないだろうか。僕は呼吸が出来なくて死んでしまうよ!
出来るだけ早めにお願いしたい!)
僕の顔面は、佐藤ウズシオに完全にプレスされていたが、出来るだけの抵抗を試み、全身で訴えた。
佐藤ウズシオは緩慢に上体を起こし、僕の上にそのまま座る。僕の視界と呼吸は確保されたが、その代償に下半身がロックされた。
僕と目があった佐藤ウズシオは、右手を挙げて挨拶する。
「よう、息子。」
「その件はもういいよ…。」
念のために言っておくが、いくら慈愛に包まれていたからといって、息子が伸び伸びと育つとは限らない。
そのため、ここは決して佐藤ウズシオが僕の息子に声をかけたわけではない。たぶん、きっと、おそらくない!
過去3度に渡り、僕から幸福を奪い去った佐藤ウズシオ。しかも3度目の今回は前回、前々回と比べるまでもなく、万死に値する所業ではあるまいか!
バシッと、バシーッと言ってやらねばならなるまい。
「バッ!
……。
…。
服装に合わせて髪型も変えるんだな。
あー、んーと、佐藤ウズ…、ウズウズは。」
佐藤ウズシオはコックリと頷く。
「その、あれだ。
僕の名前は幌谷ビャクヤだから。
あだ名でも呼び捨てでも好きなように呼んでくれ。
…息子以外でな。」
なんだかもう、佐藤ウズシオ…、改めウズウズの、その頼り無げ感に、僕は怒る気が無くなった。まぁ確かにどれもこれも言い掛かりに近いのだから、僕がウズウズを怒るのは御門違いなのだが。
そしてウズウズは、何故だかすでに怒られた感を醸し出している。
本来、地面に寝ている僕の上にウズウズが跨り座っているのだから、僕の視点は通常、見上げる形になるはずなのだが、その重力に逆らえない猫背具合からかウズウズは覆い被さるような姿勢であったので、なんだか重力関係を無視し、僕が見下ろしているような錯覚を覚えた。
なんなのだ、この守ってあげたい感は。
「幌谷ビャクヤ。」
うん、呼び捨てでもいいとは言ったが、フルネームはちょっとな。
「幌谷?」
うん、それでいいのだが、なぜ疑問形なのか。
「ホッロロロゥヤァ。」
うん、巻き舌にする必要は無いぞ。
トルティーヤっぽくなるし。
ところで諸兄諸姉。余談だが、姉が僕のことを「はーちゃん」と呼んでいるが、それは幼少期からの風習のようなものなので、つまり姉は未だに僕のことを「ハクヤ」だと思っているだけなので、誤解のないようにお伝えしておく。
確かに「ビャーちゃん」だとまるで九官鳥とかインコの名前のようだから、妥協せざるを得ないのだが。
たかだか名前を教えただけだというのに、ウズウズは途方に暮れたように、少し困ったような表情をしていた。
顎から首にかけての肌の白さが、黒いゴスロリファッションのせいか、より一層、白磁のように映えて見える。
ゴスロリ。ゴスロリというよりは甘ロリ、黒ロリに近いのだろうか。それとも着ているウズウズの華奢な感じ、弱々しい感じがそう見せているのだろうか。
力無く下がった腕にも、随所随所に白いレースがあしらわれ、広く開いた袖口からは細い手指が微かに見えていたが、可愛らしさよりも儚さの方が目立った。
そしてコルセットの編み上げが、ウズウズを縛り上げている緊縛ロープかのように想像させ、その儚さに拍車をかける。
唯一、この場合は唯二なのだろうか。その大きな胸の存在が、儚さとは相反し、多幸感をもたらす存在としてズッシリと鎮座していたのだが、それとてウズウズを全体で見たときには、その儚さを飾る一つの、いや二つのパーツに過ぎなかった。
スカートの裾がフワッと僕の下半身を覆う。その柔らかな感触が僕の胸を撫でる。
まるで今にも壊れそうな陶器人形を乗せているようだ。
と、悠長に感傷的な観賞に浸っている場合ではない。
この路地裏に万が一にもユイ先輩が入ってきて、このようにウズウズ人形を僕の下半身に構えているところを見られたりしたでもしたならば、僕の生涯はここで終焉を迎え、「人生の灯火」という奴は志し半ば、スパパパンと斬り崩されることだろう。
いや、ユイ先輩でなくとも、善良なる一般市民が入ってきて「おいおい、こいつぁなんだい? ナニをナニしてやがるのかい? 白昼夢野郎か? それともあれか、ゴスロリ切り裂き魔か?」などと罵り、商店街をひっくり返すような騒ぎになってしまっては、僕はこの街から出て行かざるを得なくなるだろう。
「ウズウズ、そろそろ立ち上がってもらえるかな?」
ウズウズは僕の提案にピクリと反応したかと思うと、倒れ込むように上体を倒し、僕に密着する。
うっひゃはーい!
なんだろうな? これはなんだろうな?
何故に佐藤のウズウズちゃんは僕に抱きついているのかな?
「私を離さないで? 貴方の人形でありたいの!」「おいおい、僕は君のことを人形だなんて思ってなんかいないよ。だってこんなに柔らかく暖かいぢゃあないか。」って感じなのかな?
それとも「大丈夫だよ。こんなに愛くるしいお人形さんを僕が手離すわけがないぢゃあないか。」って答えるべきなのかな?
そんな心の葛藤を他所に、僕の眼前を鉄パイプが高速回転しながら通り過ぎていく。
そして僕の後方の、地面に寝ている状況の場合は僕の頭上の、という方が正確なのだろうか、鉄パイプは鈍い音を立てながら、コンクリートブロックの塀に突き刺さった。
遅れてパシャラパシャラとコンクリートのカケラが落ちる音が耳に届く。
僕は一瞬にして戦慄を覚える。背筋を貫くように緊張が走り抜け、「何かがヤバい」ということだけは直感的にわかる。
極度な緊張に身体を強張らせ、文字通り地面に寝ている僕を他所に、ウズウズは側面に転がり、空を蹴るように脚を回したかと思うと、その勢いのまま回転し立ち上がる。
僕は辛うじて背中を下にしたまま四つん這いになると、まるで地面を這う虫のように気持ち悪い動きで後退りし、どうにか立ち上がる。
「ウズウズ! こいつはヤバい!ヤバい奴なんだ!
逃げよう! 逃げないとダメだ!!」
明らかに常軌を逸したその男。見た目は確かに何処にでもいる「あ、俺。バンドやってるんすよね。ドラムとかやっちゃってるんすけど。俺、マジこれで飯食うつもりすから。」といった、ごく普通のちょっとがたいのいい兄ちゃんかもしれないが、僕は既に知っている。その目を知っている。その狂気に染まり、「悪意」で作った赤黒い球を、そのまま眼球の代わりに入れました、というようなその目を。
こいつは怒れる一般市民なんかというレベルじゃない。こいつも…鬼だというのか。
僕はウズウズの手を引っ張ると、その男、ドラマーBのいる反対方向へと猛然と駆け出す。突き当たりのブロック塀に突き刺さった鉄パイプをくぐり、左へと曲がる。
「どうして…、僕はいつもこうなんだ…。」
僕は角を曲がり、5〜6m進んだところで立ち止まる。握ったウズウズの手を力無く離した。
僕は思い出す。
姉が握った右手と左手を僕の前に突き出す。「はーちゃんが好きな方、選んでいいよ!」「んー、こっちかなぁ?」
姉は僕が選んだ方の手を開き見せる。それは必ず僕の望んでいない方のお菓子が手のひらの上にあった。
そうだ。いつもこうだ。僕の選んだ方は間違っている。
目の前には金属製の、取り付けられた当時から開ける気がサラサラないといった感じの扉が立ち塞がっていた。
袋の鼠とはこういうことを言うのか。
僕の背後から無理矢理、鉄パイプを引き抜く音が聞こえる。
ジャシャラ、とブロック塀の崩れた塊が落ちる音が聞こえる。
僕は望んでいないお菓子がそこにあるだろうと思いながら、後ろをゆっくりと振り返った。




