泡沫の夢に晩夏
「待ってくれーーーっ!!」
僕は力の限り走り、そして力の限り叫んだ。
僕の伸ばした手は虚しく空を掴む。虚空にして無情。儚い叫び。
蛙水をあと一歩のところで逃し、そして……
花火大会会場へと向かうバスも逃した。
ついには立ち止まり、僕は肩で息をつく。
荒い呼吸と激しく打つ心の鼓動。虚しさだけが風となって吹きすさぶ。
無情にもバスは走り去っていく。もはや視界からすら消えていった。
僕はどうしたらいいのか。
ふと思う。この状況を「桃源郷送り」出来るものなのだろうか?
仮にしたとしたら、なにがどう変わる、いや代わる、そう「代替え」と書いて何に置き換わるのだろうか。全くもって予想できない。つまるところ「無かった」ことにしたところで、どういう未来かは予測できなかった。過去は変えても、代えても、替えても、換えても、先の結果は予測できるものではないのだ。
僕は抗えない「現実」に打ちひしがれていた。
所詮、僕が出来ることなど泡沫の夢に等しく……
「とーーーーーうっ!!」
「ぅほぉおおぅっ、まっつぅ!!」
泡沫と書いて泡沫。からの咆哮。
サンズイに包もうがクチヘンに包もうが、いや実際は微妙に違うのだが。
いやどっちでもいいのだ。僕の夢(夢想)は、鋭く強烈なドロップキックによって儚くはじけた。泡がはじけ消えゆくように。
「ほほぅ……
なかなかのテンションじゃないか、ニコナ。」
ドロップキックを決めといて華麗に着地するとはニコナ。なんと晴れやかな笑顔か。
もはやこれは予定調和。様式美。負けるわけにはいかない。
僕は優雅さを忘れず、立ち上がりながら身体の土埃を払った。
「その調子だと、いや此処に居るということはつまり、うまくいったということか。」
「うん。
にぃちゃんは?」
「僕の方はまぁあれだ。辛くも退けたというか何というか。
いわゆるお察しください、というやつだ。」
「ふ~ん。」
そこまで興味なさそうに返答しつつ、ニコナは道の先、花火大会会場へと向かう道の先を見つめている。そこで待ち受ける者に早くも興味を示しているかのように。
確かに僕は因縁の蛙水を仕留めたとは、仕留め切ったとは言い難い。
がしかし、「退けた」という意味では目的は達せたはず。
うん、諸兄諸姉よ。お察しください。
ニコナを乗せてきたであろう軍用車のような車が、僕らの傍らに止まった。
静かに降り立つ老紳士、いや老執事。一礼し穏やかな表情で乗るよう後部座席のドアを開ける。
今にも「お迎えに上がりました。ご主人様。」と聞こえてきそうな佇まい。車は黒塗りの軍用車だったけれども。
『運命がカードを混ぜ、我々が勝負する。』とは、ドイツの哲学者ショーペンハウアーだったか。
そう、所詮僕らは配られたカード、手札で勝負するしかない。こんなところで一々、車に文句は付けられない。
僕には足が無いのだから。
「えーと、あーんと、ストークさん?」
「記憶では初対面では無いですね。
ならばここでの説明も不要というものでございましょう。
どうぞお乗りください、幌谷様。お送りいたします。」
「あーうん、はい。
よろしくお願いします……。」
確かに話が早いのは助かる。話が長いのはそれはそれで様式美な気がするが、今は長話をする時間はない。それぞれの箇所の襲撃が本命か、それは結局のところ足止めなのかわからない以上、次なるポイント、花火大会会場へと急がねばならないのは事実だ。
ふと、ちょっと記憶を手繰り寄せてみれば、ストークさんとは同時刻に2ヵ所で会ってるような気がするのだが、いや確かにちょっとしたタイムラグはあるにせよ、現実的には合えるのは無理なわけで……
その辺のあたりがどう処理されたのか気になるところではあったが、現実はこうなっているのだ。なのだから考えても論じても無駄というものではなかろうか。
「え~、にぃちゃんそこに乗るの?」
「いや後部座席だとダメなのか? 助手席にはストークさんが乗るだろ?
つかニコナはここまでどこに乗ってきたんだ?」
「ん。」
指さしたのは車の荷台だった。つまり走行している車の荷台からダイレクトに僕へとドロップキックをかましたということか。確かに勢いはあった。納得……。
いやいやいや荷台にって! そこは荷物を載せるところであって人が乗るところではないだろ! せいぜい乗っていいのは仔牛ぐらいなもので、子犬や、いや魔犬を乗せるところではないではないか!!
僕は乗らないぞ! 荷台には!!
「夜風が気持ちよくて爽快だったんだけどなぁ。」
「売られる仔牛はそうでもないと思うけどな。」
「にぃちゃんの前世は仔牛なの?」
「君らと一緒にするな。んま、確かに人間とも言い難いが。」
僕は僕であって僕ではない。それでいて僕だ。
これもまた、考えても論じても無駄というもの。所詮、現世は泡沫の夢。
あっという間に流れ過去になり、曖昧に僕らを構成する因子になるだけ。
「僕は僕ではないが僕だ」と信じるほかない。
後部座席に乗り込んだ僕に続き、しぶしぶというようにニコナが隣に乗り込む。
言葉の割には素直なのがニコナ。もう夜風は十分に堪能しただろ?
「んで、にぃちゃん。あっちで合ってるの?」
「知ってて乗ってるんじゃないのか。
つかそもそも僕が此処に居ることがよく分かったな。」
「ストークさんが大体の場所はわかるって言うから、あとは匂い?」
「相変わらずの嗅覚というか、勘というか。
花火大会会場が鬼門なのは間違いない。この先で鬼退治だ。」
ニコナも薄々は感じていたのではないだろうか。この道の先に在る不穏な空気を。
僕は自分で言った言葉なのにもかかわらず、なんだか夢物語のように現実感を喪失していた。「この先で鬼退治」、この先も鬼退治。当たり前に認識しているのにもかかわらず、どこかふわふわとした現実感の無さ。泡沫の夢。
僕らを乗せた車が夜道を走る。
不自然なほどに道中が静寂している。人々が花火大会へと行ったのだろうか。それともW&Cか山柴による交通統制か。いずれにしろ「嵐の前の静けさ」といった感じだ。
紫に染まる空の端。その先にいるであろう大鬼のことを思う。
ストークさんが忙しなく無線通信を繰り返す。僕らの戦力である山柴家やら浦島家、W&Cは各方面に分散している。花火大会会場に集結するには時間がかかるのかもしれない。恐らく僕が示すまでは花火大会はノーマークに近かった。だが引き寄せられる何かが僕の中にはあった。
車はそれなりの速度で走っていたはずだが、後方から追い上げるように接近してきたバイクが並走する。バイクに乗っているのは勿論、ミスミだ。何かしらの手信号、ジェスチャーで言葉を示し、ミスミが走り去っていく。
「フェゼント隊長、雫ミスミ様は先行なさるそうです。」
ストークさんが呟くように、静かに伝える。
「あーあ。
あたしもあっちに乗せてもらえば良かったなぁ。」
「先行とはいったってまずは索敵だろ?
そんな直ぐに開戦なんて……、なぁ。」
言ってて不安になる。急ぎたいのは僕だって同じだ。
まぁニコナは即開戦したいだけなのだろうけど。
そして姿は見えないが、ウズウズも近くまでは来ているに違いない。
薄い靄がかった記憶が頭を廻る。
そうだ。いつだって鬼ヶ島、大鬼と対峙するときには雉が先行索敵し、しびれを切らした犬が飛び込み、後を追うように僕が進む。気が付けば傍らに猿が潜み、三匹が鬼共を蹂躙していくのだ。
僕はただ、大鬼へと歩を進める。嗤いながら。
黒煙のように瘴気が立ち込める中を、真っすぐに大鬼へと向かって歩むのだ。
僕ではない僕は、今回もまた……
「こちらで、よろしいでしょうか、幌谷様。」
「あ、あぁ、はい。ありがとうございます。」
夢ではない「現実」の扉が開く。
鬼とは関係なく、花火大会の為に敷かれた交通規制に阻まれ、僕は車から降りた。
「私はこれより警察本部へと協力要請に伺います。
最善を尽くしますが、ただ……」
「わかってます。
ここから先は僕らがなんとかします。」
ストークさん達のサポートは、この状況では最低限のことしか期待できない。
「ではご武運を。
……、すでに申し伝えておりましたかな?」
「えぇ、何度か。」
ストークさんの期待をはらんだ笑顔に僕は、出来るだけの笑顔で返した。
「さ~て、ニコナ。鬼退治だ。」
傍らに降り立ったニコナに声をかける。いやこれは僕自身に言ってるのか。
「にぃちゃん、今日はいつになく熱いね。」
「そうか? まぁまだ夏は終わってないしな。」
僕は、僕ではない僕を置き去りにして終わらせに此処に来たのだ。
この短くて長かった夏を。




