基点を定め過去との決別
「己を何処に定めている、ですかー。」
蛙水の声がどこからともなく届く。
乾いた、抑揚が無く無味無臭、つまり無感情な応え。どこから聴こえているのだろうか。まるで僕の心の内から聴こえるかのような、僕の問いに対する応え。
柴刈乃大鉈が反応する。僕は反応する。
蛙水がどこにいるかは把握していない。だが奴の攻撃軌道は把握できる。
太刀を斜め下へと払い、と同時に左足を右後方へと下げ半身となる。
「貴方は僕を煽るように話しますけど……
そこに感情が見えてこない。表情や言葉は仮面だ。
その声に貴方が見えてこない。」
気配がまた消える。
姿を消して移動しているであろうことがわかる。
「己、なんてものは何処に置いてきたか。
記憶にすら残っていませんよー。元からそうだった気さえします、ねぇ。」
背後?!
僕は咄嗟に上体を沈め、反転しながら低く、深く、柴刈乃大鉈の反応に従って横に薙ぐ。切っ先が掠めたのが手応えでわかる。が、浅い。
「……、何ですか、これは?」
目を開け改める。距離を取った蛙水の視線の先。奴の脛。
柴刈乃大鉈が掠めたであろう箇所に横一直線に筆で線を引いたような染みができている。やがてその染みがまるで生きているかのように蠢き、蛙水を侵蝕し始めていた。「無」が蛙水を蝕んでいく。
「なるほどー、これが鬼を喰らうということですか。
再生能力すらままならないとはぁ。」
蛙水がズボンに跳ねた泥でも見る様にため息をつき、躊躇なく自身のそこを抉り切る。ほどなくして再生していく足。
「禍々しいものですねぇ、それは。
鬼よりも禍々しいじゃないですかー。流石は鬼を狩る者ですねぇ。
肉体の再生は出来るのですが、衣服は再生できない。困りましたねぇ、一張羅なんですけどねぇ。これでは、仕事にならなくなるじゃないですかー。」
悔しがるニコナに僕は宝玉を渡す。
僕の胸に飛び込んできたウズウズに宝玉を渡す。
忠誠を誓うかのように僕の手より宝玉をミスミが受ける。
何の心配もいらない。
まるで過剰なダウンロードにチリチリと悲鳴を上げていたような僕の脳髄に、静寂が戻る。思考がクリアになり理解が追い付き始める。
「禍々しい、実に禍々しいぃ!
そうですか! これですか! あなたが待っていたものはぁ!」
自分の姿を見なくてもわかる。蛙水が「禍々しい」というものが。
柴刈乃大鉈から滴る水のように流れ出ているそれは、僕から溢れ出ているものだ。
桃太郎の力。無へと帰す力。真なる漆黒。深淵の闇。零。
その中央に在って僕は基点となる。「無」に自身が飲み込まれぬよう思考する。
僕を確立させるものは何か。僕は何か。僕の意思は何か。
「ははは!
つまりそれを引き出すことが私の仕事だったんですかねー!
いやいやなんとも! 片鱗ぐらいは私にも味わえますか、ねぇ?」
「……。」
蛙水の言う僕の「禍々しき」無。そして蛙水の影、いや闇。
一定の距離感。一定の歩法と速度。そこに在るはずの法則性。何かのタイミング。
音に耳を澄ます。
同じ闇に在って同じに非ず。
闇。いや無に在って僕と蛙水の違い。起点の違いを思考する。
僕の起点、僕の、僕の、僕の。
我、己、自我、自立、確立、自身、世界と自分、外なる現実と今を生きる僕。
僕はどうしたいのか?
蛙水は……
絶望しているのか、この世に。この人生に、この世界に。
堕ちるのか。闇に影に。
陽が堕ちる。
間もなく闇がやってくる。
その闇から逃れる様に、カラスの群れが抗うように、サイレンを鳴らし同族へと、この世へと知らしめる為に、甲高く鳴きながら山へと、明日を生きるために、今日の闇から逃れる様に、群れを作りながら飛んでいく。
彼らは方々へと散り飛散拡大しながら、それでいて闇から逃れる様に集約するのだ。
自身の闇をその身に纏ながら。己を知りながら。
蛙水が消える。
カラスの軌道を読む。その落とした影の行く末を読む。
その先へと僕は跳躍する。
着地と同時に太刀を振るう。
「……読みましたかぁ。」
「読んだ、というよりは耳を傾けました。
音を聞いた、の方が近い表現かもしれません。」
僕の一太刀は流れる様に蛙水を斬り裂いた。
蛙水のそれは、他者の影に入ることだった。
移動していく人、車、飛行機、そして飛び去って行くカラス。その落とした影。
それはまるで他者の影に、落とした虚像に、それでいてその隠された対象の実体を感知し、寄り添うようかのようにその影に潜み、そして内側から篭絡していくような刺さり方ではないか。
そこにはまるで本人、己というものはなかった。ただ相手と同調し、あたかも対象自身の意思かのように誘導していく技術。
ここまで自信を殺し、感情を捨て、相手と同調することが出来るもののだろうか。
相手を知るとか理解するという次元ではない。相手そのものと一体化しつつ、その本来の目的を実現すべく誘導していく。
おそらく影に潜まれた対象は、本来の意思とは違う行動へと導かれたのではないだろうか。本人がその違和感に気が付かぬ程度に。
「いやー、これは……
致命傷というやつでしょうかねぇ。
侵蝕激しぃ……」
蛙水が僕から距離を取る。
抜け目のない男だ。一撃離脱、その離脱を蛙水は準備していたということか。
鬼門諸共、一刀両断するつもりで踏み込み太刀を振り下ろしたが、手応えが僅かに浅かった。副次効果である桃太郎の権能、「無」による浸食は浴びせることが出来たが、蛙水のその言葉通りだとは思えない。
「そろそろお暇させて頂きましょう。」
唐突に蛙水は構えを解き、と同時に中鬼の象徴たる角が消えていく。
「ここまでの流れは私の個人的な興味、いわばサービス、アフターケアですよぉ。」
掻き切るように己の身体を袈裟に堕ちる傷口の「無」を剝ぎ落す。
「そろそろ陽が堕ちます。
私はねぇ、残業は嫌いなんですよー。
んまー、今日付けで退職願を出していますから、この行為はいわば個人的なもの、プライベートなものです。なので残業も何もないんですけどねぇ。」
満身創痍になりながら、浸食が移ったその手すら切り落とす。
「先ほどまでのお膳立て、そこまで成立すれば後のことなど私の知ったことじゃなかったんですが。」
もはや見た目はゾンビ映画のゾンビだ。死体のそれと何ら変わりはない。
「結末まで待てないといいますか、結果は自身で作り出さなければならない性質でしてねぇ。
結果こんな有様ですが、良いものを見させていただきましたよぉ。」
僕は再び柴刈乃大鉈を構え直す。
削り取り切れなかった「無」が執拗に、怠惰に侵蝕し続ける。
「どちらにしろですねー、私の能力。
影なら何処でも入れそうなものですがね、そうもいかないんですよー。」
蛙水が戦う気が無いと表現するかのように両掌を天に向け、更には暗紫色に染まっていく空を見上げる。
「光あるところに影あり。光が無いと成立しないとはなんと皮肉な話でしょうかねぇ。
なのでね、私はこれ以上、お相手差し上げる事はできません。」
蛙水が一礼する。
「貴方を! ここで逃がすのは遺恨が残ると思うのですが!!」
策や方などなく、僕は一気に蛙水へと駆けた。
「世の中、己の望みなど叶わぬは常ですよ。」
太刀が虚空を斬る。
蛙水が消える。
「またいつか、お会いできることを楽しみにしてますよ。
桃太……、いや幌谷さん。」
虚空に最後の一言を残して蛙水は消えた。
気配も殺意もそこには無かった。ただ大きく伸びたビルの影と虚空だけがあった。
僕が斬ったものは何なのか。
この世への未練か。
それとも過去の自分か。
これはこの先へ行くための決別か。




