溝を飛び越える鳩の群れ(裏)
女はオフィス街を、出来るだけ日陰を選ぶようにしながら歩いていた。時間は16時を回っていたが、今日は特に暑さが和らいでいないように感じる。
この道の両側に立ち並ぶビル群は、無機質な光を放ち、どうも居心地の悪い違和感を感じさせる。いや、着慣れていないこの黒い上下のパンツスーツのせいか。
通りを歩く人々を、視線を合わせないようにしながら、すれ違う度にそっと観察する。
特別、すれ違う人々に対して警戒しているわけでも興味を持っているわけでもない。ただちょっと、自分と他人との、自分達とその他の人々との違いは何なのかということを考えているだけだった。
住んでいる世界に違いは無い。勿論、同じ世界でも、自分達とその他の人々が見えている風景に違いがあるだろう。いや、捉え方の違いなのかもしれない。
そのことは劣等感だとか、まして優越感などということではない。ただなんとなく、そこにある溝のようなものを埋めたいと思っただけだ。
くだらない。
溝を埋めることに何の意味があるのか。頭の中の、もう一人の自分が否定する。
選ばれたのか、たまたま偶然なのかはわからないが、最終的には自分が選んだ生き方だ。
「溝を埋める」などと言って、他人を真似たところで、根本的な何かが変わるわけではない。
通りを歩く人々だって、それぞれの人が、それぞれの悩みや苦しみを抱えていることだろう。しかし、それとてこの平穏な日常を土台にして…。
女は頭を軽く左右に振る。
どうもマイナス思考だ。いや、妬みのようなものか。愚かしい。
女は歩きながら、御屋形様から聞いた17桁の数字を偶数番目と奇数番目、9桁と10桁の数字に分け、緯度と経度としてスマホの地図アプリに入力する。地図上に表示されたおおよその場所を頭に入れた。
駐輪場に停めていたバイクからフルフェィスのヘルメットを取ってかぶり、エンジンをかける。軽くアクセルを回す。
低いエンジン音が「待ちくたびれた」と言わんばかりに唸りを上げた。
女はゆっくりと、バイクのエンジンを落ち着かせるように走らせる。本通りに出たところで徐々に速度を上げ、縫うように目的地へと向けて進んでいく。黒いバイクと黒いヘルメット、そして黒いスーツの上着の端が風にはためく様は、まるで燕が低空で飛んでいるかのようだ。
バイクを走らせながら、女は考える。
共通の境遇で、共通の問題意識を持ち、共通の目的を持って取り組む相手が欲しい。彼ならその期待に応えてくれるはずだ。
いや違う。自分なら彼の期待に応えられるはずだ。あの日そう心に誓ってから、自分はそのために生きてきた。今は特別、必要と感じていないかもしれない。でも必ず自分は彼の力になれる。
彼の悲しみの声は自分に届いている。彼の悲しみは自分が受け止める。
やがて黒いバイクは倉庫街へと入っていく。低速で走らせるバイクがその一角にあった廃工場の前で止まる。女は念のため、スマホの地図アプリで指定された場所の確認をする。スマホをポケットにしまい、ヘルメットのバイザーを上げず、廃工場を見上げた。青空と白い夏の雲と、茶色く色あせた廃工場のコントラストが、やけに鮮やかに目に写る。
正門は錆びた大きな鎖で封鎖されていたが、そこから数m離れたところにある搬入口の一部に、バイクが通れるほどの隙間があるのを見つけた。
女はバイクのエンジンを切り、その隙間から廃工場の敷地内へと入る。廃工場の建物に並んで、いくつかのコンテナがあったが、その一つに「Bienvenido a casa」(おかえり)と書かれた小さな板切れが立て掛けられていた。
女はその板切れのあるコンテナの前に立つ。見た目は長い時間、風雨に晒されていたように細工してあったが、目立たぬように取りつけられたセキュリティロックは最新式のものだ。女はカードキーを通す。
システムが起動しコード入力画面が表示される。女は素早くスペイン語でコードを入力しようと思ったが、ふと思いとどまり、スワヒリ語で入力する。
「Mimi nina nyumbani」(ただいま)
仮解除されたシステムに対し、続けて自身の虹彩と静脈パターンを登録してセキュリティロックを更新し直す。やがて新たな主を迎え入れるようにコンテナの扉が自動的に半開きとなった。女はバイクを押しそこへ入る。扉が閉鎖されるのと同時に、コンテナ内の照明が点灯された。
コンテナの中は外観とは違い比較的広く、常時空調が効いているようだった。
入口の近くには使い込まれたオフロードバイクが置いてある。
懐かしい。日本を発つ前まで自分が使っていたものだ。整備し直され、最良の状態になっているようだが、出来るだけ部品は交換しないように配慮してくれている。
女はその横に乗ってきた黒いバイクを停め、ヘルメットを横のテーブルに置く。
さっさとスーツを脱ぎ捨てオフロードバイクで走り出したい衝動にかられたが、それは諦め、オフロードバイクのシートをそっと撫でる。
駐輪場所の向かい側の壁に目を向ける。壁一面にライフルなどの銃器類が整然と設置されている。傍らに積まれた大きな木箱、中味はおそらく銃弾だろう。棚にはそれぞれの銃器の予備マガジンが、弾丸が装填された状態で保管されている。
女はその内の一丁、スナイパーライフルを手に取り、各それぞれの機能を手早く慣れた手つきで確認する。棚にあるマガジンの一つをライフルに装着する。静かな室内に金属音だけが響く。
二つあるドアの一つを開ける。簡易式のベットやテーブルが置いてあり、簡単な食事なら作ることも出来そうだ。女は冷蔵庫を開け、そこにあったミネラルウォーターを手に取り一気に飲む。
クローゼットとシャワールームらしき場所を見つける。ミネラルウォーターのペットボトルをくず入れに放り投げ、クローゼットを開けた。
迷彩服のほか、シチュエーションに合わせた服がいくつか掛けられている。中には夜会ドレスのようなものもあったが、女はそれを見てちょっと顔をしかめる。
先程の部屋に戻り一番奥にあるドアを開けた。照明を最小限に抑えられた長い廊下が続いている。女はその廊下をライフルを持って進む。
その廊下は廃工場へと繋がっていた。廃工場に捨て置かれている巨大な脱穀機の扉から出た女は、その扉の内側に液晶画面の付いた小さなリモコンを発見し手に取る。扉を閉めリモコンのスイッチをONにする。廃工場内のいたるところに、レーザーポインターを照射したような赤い点が出現した。
「Genial」(素晴らしい)
女は静かにそう呟き、廃工場内を一通り見回す。
おもむろにライフルを構えたかと思うと、赤い点に向けて次々に試射していく。ライフルの構造のせいなのか発射音は小さいが、途切れることのない発射音がリズムを刻む。それと同時に赤い点が一つ、また一つと消灯していく。
女は全ての弾を打ち尽くし、構えていたライフルを下ろす。
そして再度、静かに呟いた。
「Genial」(素晴らしい)
高い位置にある開け放たれた窓から鳩の一群が入ってくる。鳩が羽音を立てながら廃工場内の上空を飛び回る。
女は満足げな表情で、その一群を見上げた。