しなやかな生物読本
エアコンから流れてくる冷風が、無駄に上昇した僕の頭の熱を下げる。そう、無駄に体温が上昇したのは、目の前に座るニコナのせいなのだが、決してニコナが可愛いからとか、そういうことではない。その件に関しては諸兄も理解してくれるものと信じている。決して中学生女子とプロレスごっこを興じたからではない。
いや、確かに興じていたかもしれないが「テキサス・ブロンコ・バックブリーカーのせいだ」というところを強調しておきたい。
僕は無駄に反り返らされた背骨を正常に戻すべく、前屈し整える。
「にぃちゃん、身体固いね。」
僕のストレッチを見て、ニコナもストレッチを始める。
いったい僕は中学生女子と、この決して広いとは言えない空間で何をしているのか。なぜプロレスごっこを興じ、ストレッチ教室を開催せねばならないのか。
僕は前屈だけでストレッチを切り上げ、先程テーブルに置いたグラスを取り麦茶を飲む。
素晴らしい。火照った身体には麦茶が一番だ。
「あれ? このグラスって…」とかが頭をよぎったが、そんなことは中学生男子じゃあるまいし、些細なことだ。そんなことは些細なことぢゃあないか。
ニコナは黙々とストレッチを続けている。素人目にも、どこの部位を伸ばし、ほぐしているのかはわかるのだが、見たことのないストレッチ法だ。
ニコナは想像以上に身体が柔らかい。いや、柔らかいというより「しなやか」と言った方が適切なのかもしれない。彼女は自分を「犬」だと言っていたが、犬というよりネコ科のような気がする。そういうしなやかさを持っている。
「しなる木を風は折らない」とはアフリカのことわざだが、武術に限らずスポーツ全般において「しなやかさ」は重要な要素の一つだろう。その点から考えるとニコナのしなやかさを見るだけで、彼女の身体能力の高さ、強さを垣間見ることが出来る。
そして何も「しなやかさ」とは身体能力に限ったことではない。ニコナの若さがそうさせるのか、武道に身を置くからそうなのかはわからないが、彼女は精神的しなやかさも持ち合わせているような気がした。
僕はどうなのだろうか。確かに身体は固かったが、僕は「しなやか」な思考を持ち合わせているのだろうか。風はもう吹き始めている。僕は折れることなくこの風をやり過ごすことが出来るのだろうか。
僕が感心して見ている間に、ニコナのストレッチは徐々に動きを大きくしていく。なんだかヨガのポーズで見たことがあるような気がするが、それはあれだね、健康的な男子の家でやるようなポーズじゃないんぢゃあないかなぁ。
僕は目のやり場に困り、自然を装って、ごく自然な動きを意識して本棚へと立ち上がる。本棚のラノベを無駄にあいうえお順に並べ直す。
おっと、これは中学生女子には刺激が強すぎるかな? ははは、この本は奥にしまっておこうじゃないか。
僕は本棚の奥に手を突っ込んだ瞬間に目に留まった、無造作に入れ込まれた、ここの本棚には似つかわしくないサイズであり、形態の本の背表紙を見る。
「日本昔話☆桃太郎」
一瞬、バクンと心臓が大きく跳ねる音が聞こえた気がした。僕の心臓の音なのだろうか。
僕は後ろを振り返らずに、一心不乱にストレッチをやっているであろうニコナに声をかける。
「なぁニコナ。鬼っているのかな?」
「いるんじゃないかなぁ。」
僕のすぐ右後ろ後方、斜め下から声がする。
って、おーい!
不用意に僕の後方に近づくな!
不用意に近づくと怪我するぜ! 主に僕の心臓がな! こんどは本当に僕の心臓が大きく跳ねたぜ!
「ねぇ、にぃちゃん。今しまった本って、なぁに?」
「ははは、子供にはとてもとても難しい、学術的且つ専門的な生物読本だよ!
それよりもほれほれ、鬼の話!」
僕はニコナを回れ右させ、肩に両手をかけるとソファまで押していった。
うんうん、エアコンのおかげで暑さはなくなっただろ? 床に座らずともソファに座ったらいいじゃないか!
僕なんかほら、あまりの座り心地の良さに、そのソファで寝てしまうこともしばしばなんだぜ!
「いるんじゃないかなぁって、ニコナは見たことあるの? 鬼。」
「まだないけど…。いると思うよ。」
そう言うと、ソファの手前でニコナは立ち止まる。
ソファに押し倒したいわけじゃないが、こうなるとテコでも動かないな軒島ニコナ。いったいどういう原理なんだ?
諸兄、誤解するなよ! 僕はニコナをソファに押し倒そうだなんて、微塵も考えていなかったからな! 慌てた勢いで事故に見せかけて「おっと、ごめんよニコナ。君を子供扱いしたのは間違いだったよ…」だなんて、ただのこれっぽっちも、ミジンコほども思っていなかったからな!
「んじゃ、にぃちゃん。身体もほぐれたことだし、鬼探しに行こっか!」
ニコナはくるっと振り返り、僕を見上げて無邪気な笑顔を向ける。
どうしてそんなに楽しそうなんだ。それはまるで「ベガとアルタイルを探しに行こっか!」「そうだね。せっかくの七夕なんだし、それも一興だね!」ってノリじゃないか。それにまだまだ日は高く、星空の見える夜までは程遠いぞ、軒島ニコナ。
ましてやそんな簡単にバッタでも捕まえに行くみたいに、鬼が見つかるとでもいうのか。
いやいやいや、そもそも鬼なんているのか。いたと仮定して、鬼をどうするというのだ。星座を眺めるように見るだけだというのか。それとも網で捕まえるとでもいうのか…。
そんな僕のいまだほぐれていない脳髄を他所に、ニコナはスタスタとベランダへ向かう。
「いやいや、ちょっと待て。」
「あ、そうか。ごめんなさい。」
ニコナは空いたグラスを二つ、台所のシンクに持っていく。そしてエアコンをOFFにする。
いや、そういう行儀の良さではなくてだな。
改めてニコナはスタスタとベランダへ向かい、靴を履き始めた。
そして、なぜついてこないの? と言わんばかりに後ろを振り返り、僕の顔をを見る。
「あのなぁ、次は玄関から入ってこいよ。
僕は玄関から出るから。」
本来なら「ここは4階だせ?」と言ったほうが良かったのだろうか。それとも、「グラスを洗ってから出るから、先に降りて待ってて」と言って、脳内整理の時間を確保すべきだったのか。
いや、「鬼なんているわけないじゃん。学術的且つ専門的な生物の話をしようぜ。」と言うべきだったのではないか。
ニコナは頷き、おもむろにベランダの手すりに逆立ちすると、そのまま重力に任せて落下する。
きっと「逆さ飛び込み後ろ宙返り3回転半海老型」とかを決めて着地していることだろう。
僕は念のため、一応は念のため、学術的且つ専門的な生物読本を引き出しにしまい、部屋を一通りチェックし、履きなれたスニーカーに足を突っ込んだ。
玄関に立ち、ふと部屋を振り返る。見慣れたはずの僕の部屋なのだが、先程までニコナがいたせいだろうか、僕の生活に何かが足され、何かが引かれているような気がした。
僕は再びドアに向き直しノブを回す。開いたドアの隙間から一瞬、大きな風が吹き込む。
鬼探し? 一体僕は、中学生女子と白昼から何をしに行こうとしているのだ。
そんな及び腰の僕に対し、追い風は吹いていないじゃないか。むしろ向かい風だ。
エントランスに降りる。ガラス扉越しに陽光の下で佇むニコナが見える。
「すまんすまん。待たせ…。」
「にぃちゃん。鬼探ししなくていいかも。」
「は?」
「だって、向こうから歩いてきたし。」
ニコナはそう言い切ると、いきなりトップスピードで走りだし、Tシャツを着た通行人Aへと攻撃を仕掛ける。
って、おーい! ニコナちゃん何やってるの? 彼は鬼なの?
通行人Aを白昼堂々と襲撃とか、それは君が鬼じゃないの?
僕はやはり「しなやか」な思考など持ち合わせてはいないようだ。
今の状況が全く理解できなかった。