八咫烏は感情を表に出すことなく
「八咫辻」
僕らの街を北東から南西に横断する主要幹線道路。その道の緩く弧を描いた中央あたりに突き刺さるかのように三本の直線道路が走っていた。ちょっと変わった形のその五叉路の交差点は、正式な地名としてあるわけじゃなかったが「八咫辻」と皆から呼ばれていた。
主要幹線道路を烏の胴と見立てた場合、確かにそこから伸びる三本の道が「八咫烏」の三本の足に見えなくもない。古くから当たり前のように「八咫辻」はそこにあった。この街に住む者にとっては今更、疑問を挟むような呼称ではなかった。
余談だが、「八咫烏」の八の字を見て「3本と関係ないじゃん!」と思いがちだが、「咫」は長さの単位である。つまり「8m級の巨人」と表現しているようなものだ。
「いやー、晴天ですねー。今夜の花火大会は綺麗に見えそうですねー。」
八咫辻手前にあるバス停の待合室、そのベンチで新聞を広げていたサラリーマン風の男は、僕にそう言った。
16時06分。
僕が乗ろうとしていたバスの時刻まで23分の残り時間だった。
「神のSラインを持つ完全なる曲者」改め「宝鏡カグヤ」もとい「此花サクヤ」との某ラーメン屋での会食、いやほんと「完全無欠な国民的アイドル」とドライでぎこちない食事を終え、僕は自宅で今夜の準備をしていた。
今夜の花火大会は浴衣で行こうかと思っていたが、そういえばウズウズに浴衣を渡したままだったことに今更気付く。
まさかよ? ステテコに商店組合のハッピはないよね? 僕は商店街の組合員じゃないよ?
いくら何でもそれは伊達男すぎるよね?
そこで、くれるとは言っていたが洗って返すつもりで借りていた、浦島リュウエイ氏の作務衣が目に留まった。程よく使い込まれ、そして洗いたてのゴワゴワ感がえって着心地が良さそうに見える。いや事実、着心地よくそして動きやすいことは体験済みだ。
作務衣は「へい! もう一度袖を通すかい?」と言わんばかりにそこに吊るされていた。
あぁ、なんという輝きだろうか。
『おぉ、幌谷氏。なかなかきまっているではないか。
出来る男のオーラが滲み出ている! これで澄河ユイ女史を任せても安心だな!
はっはっはっはっは!』
『いやいや部長、僕なんかまだまだですよ。
でも全力で、全身全霊を込めてユイ先輩を支えていく所存です!』
『幌谷くん、なんだか今日は大人びて見えるわ!
ノスタルジーを体現してるわね!』
『あぁ僕のユイ先輩、僕がノスタルジーなのは仕様ですから仕方がありませんよ!』
嗚呼! これはもうリュウエイ氏の「大人の魅力」に満ち溢れた聖なる羽衣たる作務衣を着ていく他あるまいて!
そうだ! これは不可抗力! 決して邪な気持ちで聖衣に袖を通すわけではない!
僕はリュウエイ氏からお借りしている作務衣に袖を通し、姿見で背面などを確認する。
装備したことにより、僕の「大人の魅力」「ノスタルジー度」のステータスが上方修正されたようだ。防具を手に入れた僕がすべきことは一つだけ。そう、次は武器を手に入れなくては。
防具と言えば防具屋、武器と言えば武器屋。そして僕の武器屋は本屋だ!
14時28分。
集合時間まで十分にゆとりがある。そう言えばユイ先輩と行きそびれた古本屋が、駅近くにあるではないか。そこなら古の伝説的な剣「エクスカリバー」も半額ぐらいで売っているかもしれない。
和装で街を散策するのも悪くないかもな、とか思いながら僕は件の古本屋へと向かった。
ふと、なんとなく、義務のように思いながら僕は、イヤホンを装着しスマホの通話ボタンを押す。
「もしもし。」
「はい、あなたの良きパートナー、ミスミちゃんです。」
「その返しはこの残暑のせいでしょうか。」
「いいえ、通常モードですが? 100%」
「ちなみに今の返し以上に、サクヤの来訪は想定外だったよ。」
「サクヤ様が単独で来られたのは、ボクにも想定外でした。
それで、何かありましたか? 予定よりも早い行動のようですが。」
「うん、スケジュール管理に支障が無いように自ら報告しようと思ってさ。」
スマホの音声アシスタントAIを彷彿とさせるが、当然ミスミの方が優秀だ。優秀過ぎるのも考えどころではあるのだが。僕はもしや人工衛星も駆使しているのでは? とか思いつつ空を見上げる。
晴れ渡る空を一握りの雲が流れる。
「時間にゆとりがあるから古本屋に寄ろうと思う。そのあと一つ二つ次の停留所まで歩いてからバスに乗ろうかな。」
「お送りしますか?」
「いや。なんとなく散歩したい気分なんだ。」
特に遠慮したわけじゃない、実際に歩きたい気分だった。
歩くことでノスタルジーな気分に浸りつつ、色々と考え事をしたくも思った。
「ところでさ、二人はどうしてるんだろうか。」
「ニコナさんは学友と共に学校で夏期講習を受けているようですね。
佐藤さんは把握してませんが、朝早くから出かけられたようです。ただ……」
「ん?」
「佐藤さんの所属する組織の動きが、にわかに落ち着きなく感じます、31%ほど。
少し情報を収集しておきます。」
佐藤さん、ウズウズの所属する組織とは壇之浦の組織のことなのだろう。ミスミが言い淀んだのは、たぶん僕と壇之浦との関係に対する気遣いからだ。
「わかった。
一応、僕のその後の今夜の行動は把握してる通りだと思う。」
「了解しました。くれぐれも油断されませんよう。」
「うん、ありがとう。」
電話を切った後、なんとなくニコナにメールを打った。メールならそんなに夏期講習の邪魔にはならないだろう。
『今夜の花火大会は友達と見に行くの?』
当然、既読はつかない。僕はメールを打ったこと自体に満足し、スマホをしまって街並みを眺めながら歩く。
不思議だ。
何故、いつもの服装と違うだけで、それにより心境が違うだけで見慣れた街並みが違って見えるのだろう。電信柱は変わらず電信柱だし、そこから伸びる電線も変わらない。建物も10年20年、50年前の建物に変わるわけではない。通りを歩いている人は、もちろんいつもとは違う人かもしれない。でもやはりいつも通りの通行人だ。
それなのに僕はまるで幼少期の頃、いや記憶にないはずの時代、ノスタルジーな感覚で世界が見える。僕は昔からこの道を進んでいる気がする。それを今、久々に歩いてる気がする。
古本屋に到着し、建物、店構えそのものが古い店内へと足を踏み入れる。古本屋特有の、本、紙、印刷インクの香りが僕を迎い入れる。所狭しと並べられ、積まれた本、思想、歴史、それぞれの物語たち。
流石、ユイ先輩のお目にかかったお店だけのことはある。ここだけ時間軸から切り離され留まっている。
奥に店主らしき人が座っているのを認めたが、彼は僕の方を見ることなく「ご自由にどうぞ」といった空気感だ。もしかしたら店主もこの中から気になる本を手に取り、読んでいるのかもしれない。
僕はいくつかの本を手に取る。過去に読んだことがあるのに手元にはいない本たち。初めてお会いするのにどこか懐かしさを感じさせるような、出会うことを待っていたかのような本たち。装丁が魅力的な本、題名に惹かれる本、多くの人々の間を渡り歩いてきたのだろうなと感じさせる本、使っていたであろう栞が挟まったままの本。僕は古本屋で過去の本たちと邂逅する。出会いに感謝する。
その中で静かに、少しはにかんでいるような文庫本を手に取る。古さは感じるものの丁寧に扱われてきた軌跡が見える。僕はその本を手に奥に入る店主の元へと向かう。
「260円。」
不愛想。店主の対応はそう言えるかもしれない。
だが僕はその声に不思議と不満を抱かなかった。本に無理やり値段を付けているが故、というものを感じた。僕は無言で千円札をトレーに置く。
釣銭を置く際に店主が「次の読み手に見つかって良かったなぁ」と言った気がした。
僕は思わず店主の顔を見る。だが店主は入ってきたときと同じく、感情を表に出すことなくただ静かにそこにいた。僕はそれでも店主の瞳から本を、物語を愛する人だと思わずにはいられなかった。
僕は古本屋を後にする。
出てちょうど数歩進んだところで、スマホが短く着信を、メールの着信を知らせる。
『うん、帰りに大橋で見る。
首が痛くならない穴場なんだって。』
「そっか。」
僕はニコナからの返信に短く独り言を呟き、「僕はサークルの仲間とと見に行くよ。天気がいいから綺麗に見えそうだな。」と返信する。自然に微笑んでいた気がする。
15時51分。
たぶん、本当の意味で僕の日常が終わった時間だ。




