「見通し」のきかない25%
諸兄は何気ない女子の所作にドキッとしたことがないだろうか。例えば髪をかきあげる、手を組んで大きく伸びをする、伏し目がちに思案するから始まり、照れ隠しにちょっと舌を出す、目が合った時に少し首をかしげる、怒った表現なのか「むー」などと言いながら頬を膨らますなどだ。
或いは、箸の使い方だとか、本の捲り方だとか、珈琲を飲むときにカップを手に取るところ、そして口に運ぶ仕草など。まあここまでくるとドキッとするというより、可愛いだとか美しいだとか、「見惚れる」ところまでいってしまうわけだが。
勿論、誰彼かまわず「その所作が好きだ」ということにはならないのは諸兄も存じ上げていることと思う。ある「特定の人物」のある「特定の所作」にドキッとしてしまう、という話だ。その「特定の人物」に好意を抱いていようといなかろうと。
僕は久方ぶりに某喫茶店、つまり我々「オノマトペ研究会」の活動拠点である某喫茶店の、角の隅にある日の当たらない席に座っている。日が当たらないためか、窓からの景色が見えないせいか、この席はあまり人気がないようだが、僕は店内を「見渡す」ことができるこの席が好きだ。
グラスに注がれたミルクに氷珈琲が解け始め、美しい模様を作りあげている。その模様をこわすのはちょっと残念ではあるが、僕はストローを一周半ほど回し、ミルク氷珈琲を一口飲む。読んでいた小説も一区切りがついたので、栞を挟み本をとじる。
店内を「見回す」。部長は今日も来ていないようだ。就職活動で忙しいのだろうか。副部長はいつものカウンターの端の席で、数冊の本を傍らに置き、読書に没頭している。副部長は変わった特技の持ち主で、数冊の本を同時進行で読んでいく。Aという本を読んでいたと思えば、途中からB、Cの本を読んでいるといった感じだ。なんでもジャンルが違えば使う脳も違うとかで、気分転換に別の本を読むといったことらしい。
多彩なジャンルを読む副部長からのお薦めの本は大抵が面白く、薦める相手に合わせて相性の良さそうな本を「見い出す」副部長のセンスの良さは、単に本を読むだけでなく、人も読んでいるようで感服する。ちなみに僕が読む本の半分は副部長から借りたものだ。
僕はカウンターから視線を窓際の席へと移す。直射日光は当たらないように配慮されてはいるが、窓から差しこむ柔らかい光が、その席に座る彼女を照らしている。彼女は前髪をヘアピンで留め、すこし首を傾げるようにしながら本に目を落としている。美しい。僕は素直にそう思った。
僕の視線に気がついたのか彼女は顔を上げ、僕と目が合うと優しく微笑む。僕はドキッとしながら、その心の機微を「見透かされ」まいと平静を装い、軽く会釈する。
彼女は思い出したかのように、あまり手をつけていなかったアイスカフェオレのグラスを取り、二口、三口と飲む。
正直に話そう。僕はあたかも「干渉されること以下、孤独感を埋めること以上」の絶妙な構成人数である「オノマトペ研究会」に、干渉されることなく孤独感を埋めるために所属しているかのように振舞ってはいるが、僕がこのサークルにいるのは、彼女と出会えるからに他ならない。
昨年の春、新入生獲得に猛攻する多種多様なサークルからの勧誘群をかいくぐり、僕は大学構内の人気の少ない場所を「見極め」、奥へ奥へとつき進んだ。まるで空間そのものが切り替わるように、ぱたっと群集がなくなった所に、一つの幟が立っている。通常ならば「見落とし」かねないその幟は何故だか僕の目に止まった。
そしてその横には、一人分の机、いわゆる学校の教室にある一人掛けの机が置いてあり、まるでどこかの学校の教室の席に座っている女子生徒を、切り取って張り付けたかのように彼女は座っていた。
木漏れ日の中、彼女はさしたる勧誘活動もせず、本を読んでいる。一応、幟には達筆な文字で「オノマトペ研究会」と書いてあり、机の上にはパンフレットらしきものが置いてあった。
僅かな風に彼女の髪が揺れた時、何気ない彼女の髪をかきあげる所作に僕はドキッとした。いや、「見初めた」。
「頂いていいですか?」
「あ、どうぞ?」
パンフレットに手を伸ばした僕に彼女は初めて気がつき、疑問形のように語尾を少し上げて応えた。
パンフレットには、幟と同じ達筆な文字で「ぎゅるんばんばんな部員をどんじゃんがんと募集!」「入部ぶるるん特典!毎月珈琲一杯が、しゅしゅしゅと無料!」の他、よくわからないオノマトペで埋め尽くされていた。ちなみに後から知ったことだが、いずれも部長の直筆で、部長は書道の師範だというから驚きだ。なんて才能の無駄遣いなのだろう。
「裏が入部申込書になってるから、良かったら。」
そう彼女は言いながら優しい微笑みを浮かべる。裏には通り一遍の名前やら学部を書く欄の他、入部希望の代わりなのか「犬、ワンワン以外、猫ニャーニャー以外の鳴き声」を書く欄があった。
僕は通り一遍の欄を埋め、「犬、プキーン。猫、ホロナオウン。」と書いて彼女に手渡した。
「犬は泣いてるのかしら?
よろしくね、幌谷くん。そしてようこそ。
私は二年の澄河ユイよ。私の時は、犬の鳴き声をドゥルルウワッフって書いたわ。」
握手の代わりにユイ先輩はちょこっと舌を出し、明るく微笑んだ。
僕はそんな邪な感情を、誰かに「見咎め」られたような気になり、ミルク氷珈琲を半分ほど飲み干すと、読み掛けの本に手を伸ばした。口の中にミルクの甘味が妙に広がる。
唐突にスマホが着信を知らせる。もちろん、着信音はオフにしてあるが、規則正しい振動が、まるでそんな僕の心をノックするように催促する。
画面には「雫ミスミ」の名が表示されている。
僕はギリギリのラインで平静を保ちながら席を立ち、店の外へと向かう。そんな僕の行動を、心理状態を知ってか知らずか、雫ミスミからの着信は切れることなく鳴り続け、辛抱強く待ち続ける。
扉を開け、飛び込んできた陽光に僕は一瞬くらっとしたが、目を瞑り電話に出た。
「もしもし。」
「ミスミです。」
知ってるよ!
何の用だよ! そしてなんて絶妙なタイミングだよ! 別ベクトルでドキッとするよ!
あの席って外からは死角じゃないの? 僕の心の中は死角じゃないの?
いや、いつまでも「見縊られ」ていては困るな!
知っているのはそっちだけじゃない!
「あぁ、僕が転校するまで同級生だった雫ミスミさん。先日は気がつかなくて申し訳ない。
それで、何か用なのかな?」
「いえ、こちらこそ読書でお寛ぎ中のところを申し訳ありません。
ちょうど中断なさっていたようなので。
あぁ、読書が目的なのは10%ぐらいでしょうから、「女性の鑑賞を中断されたようなので」の間違いでした。」
こわいこわいこわいこわい!
何なんだよ、本当にもう!
どこから見てるんだよ。そしてどんな観察眼だよ!
それに読書の目的は30%ぐらいはあるよ!
僕は恐怖を押し殺し、弓を構えた者を「見逃さない」ように、ゆっくりと周囲の人々を確認する。
「ところで、今時、矢文ってどうなのかな?」
「あれはセキュリティレベルが一般家庭より60%ぐらい高かったので、やむを得ずです。安心して下さい。幌谷さんを撃つ事は95%、たぶんありません。」
そこは100%じゃないのかよ!
それに「たぶん」は付けるなよ!
脳裏に、あの手紙にあった「あの日のこと」とはいったい何なのか、という疑問がよぎったが、僕はあえて「見過ごし」た。
「…それで、用件は。」
「そうでした。
幌谷さん。そろそろ桃太郎の自覚をなさっても、よろしいのではないかと。」
「は?
雫ミスミ…さん。君はいったい…。」
「ミスミちゃん、でもかまいませんよ。
ちなみにボクは雉です。あなたを守るのが任務ですが、やはりご本人に自覚して頂かないと守るのは難しいと思いますので。」
「意味わかんないよ…。」
「自覚する、しないは幌谷さんの自由でしょうから、無理強いをするつもりは45%ぐらいありませんが。
とはいえ、すでに我々の周囲には鬼がいます。その事を努努、お忘れなく。
それでは、また。」
そして唐突にかかってきた電話は、前回同様、唐突に終了した。
本当に何なのだ。僕の周囲はどうなっているのだ。
鬼? 雉? 僕が桃太郎?
どこにそんなことを自覚する理由があるというのだ。
夏の日差しに目が慣れてきた僕は、バカみたいに突き抜けるほど青々とした空を見上げた。それは誰がどう見ようと「見紛う」ことなき夏の青空だ。
これはいつもと同じ、日常的夏の空じゃないか。
しかしその時、空を見上げている僕の耳に、カタンと可動式の歯車が落ち、新しい経路へと動力源を繋いだ音がしたような気がした。
そして歯車は僕の意思などは一切無視し、ゆっくりと廻り始めるのだった。




