チャーシュー麵は傘をさす(裏)
繁華街を黒色の大きな車がゆっくりと走っていく。車道を走行してるとはいえ、週末の夜ともなれば、陽気になった人々が歩道から溢れることもしばしばだ。車は歩行者に気を配っているのか、一定の速度を保ちながら前へと進む。
その様はまるで深海を流す鮫のようだ。
梅雨が明けたばかりだというのに、あいにく今夜は細く小雨が降っている。それでも繁華街が人々の流れを絶やすことはなかった。
時折ワイパーが左右に動く。
男は雨粒がついた窓越しに、後部座席から街の人々を眺める。今夜も日常的な人々が、非日常を満喫しながら夜の街を埋めている。
いいことだ。たとえその人々が明日の朝を迎え、いつもの日常に身を置かねばならないとしても、一時の非日常の輝きがあるからこそ、日常を生きていくことができる。
そしてその逆もまた然り。
「ちょっと走ってくれるか。」
男は街の流れに満足したかのように、そう告げてシートに身を沈め直し目を瞑る。運転していた若い男はその一言で目的地を察したのか、無言で繁華街を外れ、車を走らせていく。
タイヤが濡れた路面を切りさく音だけが、空間を埋める。男は思案に耽る。
繁華街の喧騒を離れ、車中だけがゆっくりと時間が進んでいるようだった。
やがて目的地に着いたのか、車はとある駅裏を滑るように進み、速度を落とす。
「ここでいい。」
車が止まり、後部のスライドドアが開く。男は外に降り静かに空を見上げたが、雨雲が空を覆っている。「街が湿気ってるな。」男はぼそりと独り言を呟く。
「若頭、使ってください。」
運転席からすぐに降りた若い男は、ビニール傘を恐縮そうにしながら開き、男に差し出す。
「あぁ島、ありがとな。電話する。」
男はそう言って、駅裏の飲み屋街へ向けて歩き出す。先程の繁華街に比べると大人しい雰囲気だとはいえ、居酒屋やスナックから明るい笑い声や歌声が時折もれている。やがて男は飲み屋街からから人通りの少ない裏道へと入る。
数メートル進んだところで男の前方から歩いてきた、うなだれたアロハシャツの女がよろけるように男に接近する。一瞬、男の懐に何かが光る。男はとっさに持っていたハンドバッグでその光るものを受け止め、捻り上げる。
ダガーナイフが路面に落ち、水溜りの水を小さくはねた。恨みつらみのような感情は感じられないが、明らかな殺意は感じられる。
アロハシャツの女が反転しながら男から距離を取り、持っていたもう一本のダガーナイフですぐさま切り掛かってきた。素早い。致命傷を狙うよりも、手数でこちらの反撃に対する牽制をしつつ、隙あらば致命傷を狙うといったような攻撃だ。男はビニール傘でそのナイフをいなす。傘がナイフで割け続ける。男が傘の骨で相手の攻撃を絡めとりながら距離を詰める。しかし、とっさにアロハシャツの女は横に体を捌くと、落ちていたダガーナイフを拾い上げ、と同時にそのモーションを切らさずに投擲する。が、男はその動きを予め読んでいたかのように顔面に飛んできたナイフをかわすと、女の背後に回り、手首を取り締め上げる。
ぐぎゅるるるるるぅぅぅう
悲鳴の代わりに不思議な音が鳴ったが、小雨に音が吸い込まれていった。
負けを認めたのかアロハシャツの女の力が抜けていく。
「腹減ってるのか? 嬢ちゃん。」
「……焼肉。」
「あ?」
「焼肉食べ損ねた。」
「なんだ? 俺を殺したら焼肉食べられたってか?」
アロハシャツの女はコクっと頷く。
やれやれ。世の中の人手不足問題はうちの業界もだとは思ってはいたが、こんな嬢ちゃんが暗殺に来るとはね。腕はありそうだが、空腹じゃ力は出ねえわな。
「嬢ちゃん、俺を殺すのは諦めな。
焼肉を今は食わしてやれねえなぁ。……ラーメンでも食うか?」
アロハシャツの女はコクコクと頷く。
男はアロハシャツの女の腕を解放すると、落ちたダガーナイフを拾い、女に投げる。女はナイフを受け止め、鞘に戻す。
ボロボロになったビニール傘を傍らのゴミ集積所に放る。幸いなことに雨は止みそうだ。
男は女を引き連れ、飲み屋街へと戻る。女は黙って男に従って歩く。
男は飲み屋街のちょっと外れにあったラーメン屋の暖簾をくぐった。
「チャーシュー麺、二つ。
あぁ、一つは大盛りにしてくれ。
それと大将、タオル貸してくれないか?」
二人はテーブル席に向かい合わせで座る。
なんとも正気の抜けた女だ。もう少しシャキッとすれば悪い女じゃないんだが…。
暗殺者にしちゃ可愛いすぎるな。
「んで、嬢ちゃん。××会から頼まれたってところか。」
女はコクっと頷き、続ける。
「壇之浦の命取ったら焼肉。」
「命ぁ? タマなら倅作るときに使ったのが最後だ。」
大方、察していた通りだ。しかし、こんな場所に刺客を送り込むってことは、××会が俺の行動を調べてるってことか。
男は暫し考えると、誰かに電話していくつかの指示を出す。
やがてチャーシュー麺が二つ、テーブルに運ばれてくる。タオルで髪を拭いた女は、タオルを首にかけてチャーシュー麵をじっと見つめる。かけていたメガネが湯気で曇ったが、全く気に留めていないようだ。
ぐぎゅるるるるるぅぅぅう
壇之浦は自身の前に置かれた大盛りの方を、女のと交換する。
「食っていいぞ。
……嬢ちゃん。名前は?」
女はラーメンを頬張ると、プルプルと首を横に振る。
「浮浪児か。」
浮浪児を暗殺者に育てて使うなんざ、失敗すればただの消耗品だ。とは言えこの器量で風俗に沈められてないってことは、それなりの腕だった、ってことだろう。
しっかし焼肉とはねぇ。俺も安く見られたもんだな。
壇之浦はラーメンに箸をのばしたが、口は付けなかった。
「××会は今夜中に無くなる。嬢ちゃんは帰るところが無くなるってことだ。
ま、もっとも失敗した奴に帰る場所なんて最初から無いんだろうがな。」
女は最後のチャーシューをもぐもぐしながら、コクっと頷く。
「住む場所は用意してやる。名前がねえのは不便だな……。」
壇之浦はラーメンからナルトをつまみ、じっと見た。おもむろに女の顔に向けてナルトを飛ばす。
女は箸でそのナルトを受け止める。
「嬢ちゃん、今日から名前は佐藤ウズシオな。
これも食っていいぞ。」
壇之浦は自分のラーメンを女に突き出す。
佐藤ウズシオと名付けられた女は、再びコクっと頷くと二杯目のラーメンを食べ始めた。
そんな佐藤ウズシオを見つめながら、壇之浦は独り言のように呟いた。
「働け。普通の仕事しろ、佐藤ウズシオ。」
佐藤ウズシオはどんぶりを持ち、スープを飲み干し完食する。
壇之浦は財布から1万円札を取り出すと、テーブルに置き立ち上がった。
「大将、勘定置いとくわ。
釣りはタオル代な。」
壇之浦はラーメン屋を出ながら暖簾を手で払うと、静かに空を見上げた。
「街が湿気ってる。」男はぼそりと独り言を呟く。
佐藤ウズシオは壇之浦の真似をし、空を見上げコクっと頷いた。
「さて、佐藤ウズシオ。倅のところに行くか。」
先に歩き出す壇之浦の後ろを、佐藤ウズシオは無言で付き従った。