奥ゆかしき図星
直径1mのちゃぶ台を挟んで向かい合わせに、僕と壇之浦は良く冷えた烏龍茶を飲んでいる。なぜ僕は壇之浦こと、元父親こと、この男と、前回に引き続き茶を飲まねばならないのか。
僕は飲み干したグラスをちゃぶ台の上に置く。烏龍茶という主を失った氷が所在無さげに小さくカランと鳴った。グラスの表面に付いた水滴がゆっくりと下へと降り、ちゃぶ台に着地する。
なぜこうなった。壇之浦に対し「どうしてここに?」と聞きたいところではあった。だが「どうしてここに」僕がいるのか、答えが不明瞭なのは僕の方だ。それに佐藤ウズシオと僕を引き合わせたのは壇之浦なのだから、佐藤ウズシオの部屋にこの男が居たとて、特に不思議はないのだ。
僕は居た堪れず、飲み干したグラスから視線を外し、窓辺を見る。
干された洗濯物がユラユラ揺れている。だいぶ暑さも和らいだのだろうか。窓から入ってくる風が僕の心を鎮めた。
僕は不在となっているこの部屋の主、佐藤ウズシオのことを考える。
「あの子は一体…。何者なんだ。」
「あの子?
なにお前、嬢ちゃんに惚れたのか。
ああいう子が好みか。」
壇之浦は話をはぐらかす。そういう男だ。
ちなみに諸兄だけには誤解を得ないよう、僕の好みを話しておこう。
決して、隙あらばプロレス技をかけてくるようなバイオレンス女子中学生や、なにを考えているのかわからない、突然フォークを投げてくるようなクレイジー巨乳眼鏡や、ストーカーチックな電話をかけてくるサイコなボクっ子などは僕の好みでは無い。決して無い!
そう、僕の好みはストレートな黒髪ロングで、時折眼鏡をかけ静かに本を読んでいるような、可憐で儚げな少女。バイオレンスもクレイジーもサイコとも縁の無い、優しい微笑みを携えた、守ってあげたくなるような美少女が好みだ!
例えるならば、一輪の雛菊。花言葉は「純潔」。清楚さと奥ゆかしさを合わせ持つ、浴衣姿のよく似合う日本的美少女。
アップにした髪から後れ毛が少し首元にかかり、衣紋から伸びる首筋とうなじの儚げ。横顔から見える、緩やかな曲線美を主張する下あごのライン。僕の視線に気がつき、少し困ったような表情で首を傾げ、「ん?」などと小さく囁かれてしまってはたまらない。
重なった下前と上前は決して乱れることなく、褄先から見える素足は美しく下駄に揃い、その上にある小さく可愛らしい踝や、見えそうで見えない脹脛から可憐さを漂わせる。
嗚呼、コレゾ日本的美少女デハ或ルマヒカ!
諸兄よ、決して共襟の間から見え隠れする胸の谷間や、身八つ口から見えるものに「あれ? それはもしや!」だとか、履きなれない下駄に転びそうになったのを助け、支えた際にハラリとはだけた裾の間に見えてしまった色白の太腿…。
などを期待してはいけないのだ!
清楚さを渇望する我々もまた、清楚さの維持に努めねばならないのだ!
「そんなわけ無いだろ。ネコを運んだだけだ。」
僕は壇之浦とは視線を合わせず、窓から見える夕焼け空を眺め、そして二匹の黒ネコ達を見た。
高橋か鈴木かわからなかったが、一匹の黒ネコが耳だけをこちらに向けている。僕の言葉に少し反応したようだった。
壇之浦は「まあいいや」といった風に、後ろに手をつき、体勢を倒す。
そういえば、壇之浦に会えるのなら100万円を持ってくればよかった。もっとも、いつ会えるかわからないこの男のために、常に持ち歩くような代物ではないわけだが。
雫ミスミからの手紙のことを思い出し、僕は壇之浦に視線を向ける。
「…こないだのお金は次に会った時に返す。
それよりもあの手紙はなんなんだよ。」
「あ?
あぁ、うちの玄関に矢文が刺さっててな。今時、なかなか古風で奥ゆかしい奴もいるもんだなと思って、お前に届けたんだよ。
決闘状じゃなくて良かったな!」
壇之浦はハハハと愉快そうに笑った。
全く愉快ではない。なんだよ、矢文って? サイコと最古の合わせ技かよ! そんなものを「奥ゆかしい」とは言わない!
この電子通信手紙が当たり前の時代において、たとえメモ紙程度の手紙だとしても、直筆の手紙はやはり貰って嬉しいものではないだろうか。ましてやそれが封筒に入れられた手紙なら尚更だろう。
書き手の人柄を彷彿とさせるような、心情を表現する封筒の柄。そして宛名には当たり前なのだが「僕の名前」が相手の手によって書かれている。それだけで、封を開ける前から心を踊らさせるではないか。
さらに取り出したる便箋の柄にまたもやドキドキし、その便箋に書かれた文字の形や筆圧、考えながら書いたであろうその心境の変化や背景などが、塗り潰した誤字の誤魔化し方からすら薫ってくる。
それはもはや単に記号としての文字、文章の意味に留まることはなく、平面という手紙から想像、いや創造される世界は、無限の広がりを見せるのではないか。
その人柄や気持ちなんかを手紙から読み取ることを考えると、書き手も読み手も双方に古き良き「奥ゆかしさ」があるのではなかろうか。
嗚呼、文字ニ託シタル君ヘノ想ヒ!
しかし、それは手紙そのものの話であって、たとえ可愛いらしい文字で「あの日のことが忘れられません」などと書いてあったとしても、たとえ現在が弓矢を主体とする源平合戦の最中だったとしても、送信方法が矢文であっては「奥ゆかしさ」が台無しではないか!
諸兄の中には「ははは! 君の矢文で僕の心も射とめられてしまったよ! そうさ、君のことが好きなのは図星だよ!」などと言う偉丈夫な御仁も5%ぐらいはいらっしゃるかもしれない。
だが僕は「へぇー、弓道の的の中心って図星っていうんだ!」などと思うような寛容さを、持ち合わせてはいない。
「良くねえよ。」
「青春してるじゃねぇか、息子!」
「青春? 僕にそんなゆとりなんて無い。」
「お前ねぇ。いい女抱きてえ、いい車乗りてえ、いい飯食いてえ、って思うこと自体は罪なんかじゃ無ぇんじゃねえの?
それが青春、若者の特権なんじゃねえの。」
「あんたに言われたくねぇよ。」
「ま、その方法論に異論があるのは認めるが、もう少し我儘に生きたっていいと思うぜ、息子。
じゃねえと、本当に大切なものまで失っちまうからな。」
そう勝手に言い切ると、壇之浦は残りの烏龍茶を一気に飲み干した。
僕はそんな自分勝手な生き方などはしたくは無い。
「んじゃ、行くわ。
嬢ちゃんに引き続き頼むぞって言っといてくれ。
あぁ、金は俺が死んだ時に香典で返せ。それまで貸しだ。」
なんて男だ。
そして佐藤ウズシオにいったい何を頼んでるというのだ。
僕は明日にでも香典袋にあの100万円を突っ込んで、送ってやろうかと思った。
主のいない部屋に、僕と黒ネコの高橋と鈴木と、そして空のグラスか二つ取り残される。何処からか、豆腐屋のラッパの音が微かに聞こえる。
僕は僕の我儘について考えた。僕はただ平穏に生きたいだけだ。たとえそれを世の中が許さないとしても。
壇之浦が帰ってからどれくらいの時間が経ったのだろうか。外は夕暮れから薄闇に変わっていっている。
佐藤ウズシオがネコの餌を二袋ぶら下げて帰ってきた。どういう経緯で佐藤ウズシオがナース服になっているのかわからなかったが、僕にはもうツッコミを入れる気力さえ残されていなかった。
「んじゃ、帰るな。後は頼んだ。」
僕の短い言葉に、佐藤ウズシオは無言でコクっと頷いた。