夜灯りに照らされる失われた祖国
窓から差し込む夜灯りだけを頼りに、僕は天井の模様を眺めていた。それは悩まし気な人の後ろ姿だったりどこかで見た首を傾げたチワワのようだったりで、全くの虚像を描いていた。
夏の透き通るような青空を背景に、流れゆく雲を動物だとか食べ物だとかに見立てることに似ている行為だったが、青空のそれとは違い、ひどく冷たい、薄っぺらで寂れた行為だった。
鬼のことを考える。鬼になってしまった人々のことを考える。それは彼等の本意なのか、たまたま踏み外した階段なのか。運命なのか宿業なのか。
僕たちは、
いや僕は何の為に、誰の為に、鬼を討伐するのか。死に至らしめるのか。
「我々は剣であり盾なのです。」
ミスミの言葉が頭を通過する。
じゃあ僕は誰の剣で誰の盾なのだ。
人類? まったくピンと来ないではないか。
自分自身? そうだ。僕はただ、目の前で起こることから逃れるように刀を振っている。僕はただ現状に流されている。
「幌谷くんが考え、幌谷くんが想い、自身の意思と行動で進んでいただくほかありません。」
「なんていうかなぁ、鬼を倒す覚悟みたいなやつが弱いと思う。」
「問題……、ない。」
三人の言葉が木霊する。
三人が僕を導くわけではない。僕が三人を導くことを切望されている。
『選ぶ術を知る男の祖国は、それは茫漠とした雲の赴くところだ。』
とは誰の言葉だったか。フランスの冒険家、アンドレ・マルローだったか。
選ぶ術を知らないが故に、雲の赴く祖国を失った者か、僕は。
僕は脱水症状によるものか、偏頭痛に顔をしかめ薄靄の思考を切り拓くべく、台所へと立つ。
途中、僕はふらついて椅子の足元をかわし損ね、左足の薬指だけ盛大に打ち付けた。
「痛ってぇなコンチキショうめぇぇぇっ!!」
僕は僕自身に向けて悪態を放ちながら、その悪態すらも流し込むように立て続けに麦茶を2杯と半分飲み干した。水分とミネラルが僕の体内へと濁流する。
「アーリャシマシッター。」「いけすかねぇ! 寸止めだってーの!」「早く移動を。4時のブロックへ。」「あぁ、拾ったんだよね、そこで。お前、飼うか?」「あたしは犬。あんな奴と間違えるなよな。」「こういう雨って、驟雨っていうんだよ。」「と言っても、幌谷さんの最近の生活スタイルを考えると、夜分に入らないのかもしれませんが。」「君の服も洗ってあげるね!」「蟻かと思った。」「新刊並べたよー。仕事はやーいよー!」「喫茶店にお急ぎのようでしたので今日はこの辺で。」「野趣、野生、結構結構!」「はぁ、喉乾いた。コーラ買ってこよ。」「……、本当なの? はーちゃん?」「あ。リモコン見っけ。エアコンつけていいよね?」「それはな、まだお前が「生きたい」って思っている証拠じゃ。」「…、食べればよかった。」
命を潤す麦茶の濁流に抗うかのように、言葉が降り注ぎ次々に鋭く、逃げようとする僕の脳へと楔を穿つ。
その言葉の一つが僕の脳を絡め取り、僕の行動と思考を繋ぎ留め、PCのフリーズ状態にも似た深淵へと落とし込める。
身体の外観の気怠さとは裏腹に、清流の如く冴え渡った脳髄がその言葉をクリアにする。
「頃合い見計らって「おばあさん」を探せ。」
お婆さんを探せ。うぅむ、いちもんG、改めイチモンジの爺さんの言葉か……。
「いつ、どこで、どうやって」という具体的なアドバイスではなく、「戦え」だとか「頑張れ」だとか「男として生まれたからにはトップを目指せ」とかいったような、実のところ極めて抽象的な示唆だったが、目下のところ、それが一番の近道なような気がする。
桃太郎なのだから、お婆様の助力があってしかりではないか。
イチモンジの爺さんの破天荒ぶりから察するに、「まずは川流れの桃から生まれて来ぃやぁぁぁぁぁ!」とかいいながら、巨大包丁を振り下ろす般若のごとき御婆様の姿しか思い浮かばないのだが、僕の今後の人生は大丈夫だろうか……。
いや、これは杞憂と云ふものだ。けつして「ふらぐ」とか云ふものではないのではないのかね!
僕は頭を横に数回振り、変で余計な心配を頭外へと振り払う。
飲み干し空いたグラスを無造作にシンクへと置き、水道水をむやみやたらに流す。
「だからと言ってだよ……、だからと言って、」
どうすりゃいいんだ。
そんな理不尽な言いぐさのジジイの姿を思い浮かべ、僕は再び天井を見上げた。
特別に何かしらの暗示があったわけではない。だが、この「理不尽」というキーワードから、再びもう一人の男の言葉が、僕に脳にリツイートした。
「お前が俺を頼りたくはないってことは、わかっちゃいるけどな。どうしようもなくなったらここに連絡しろ。」
その言葉とともに壇之浦から受け取ったのは何だったか。
そうだポケットティッシュだ。何の変哲もない、何かの広告の入った何の変哲もないただのポケットティッシュだ。
だが壇之浦はここに連絡しろと言ったのだ。
僕は薄暗い部屋の中で、薄ぼやけた記憶を頼りに、リュックのポケットの中をまさぐった。
窓辺に椅子を寄せて座り、差し込む淡く心細い光にそのポケットティッシュをかざす。
白地に青く鮮やかな文字、W&Cのロゴ。「あなたの生活をウォッシュアンドクリーン」と控えめに書かれたその下の文字。
裏を返す。未使用だったそのミシン目を開き、中からティッシュを1枚取り出す。
仄かな石鹸の香りがする。手触りも上等なものだ。
再び広告側を見る。
カスタマーサービスセンターの電話番号の横に「OZ」の文字が、赤ボールペンによるものだろうか、手書きで書き加えられていた。
「オンス? いや、オズの魔法使い?」
いやそれよりもだ。確かに僕はW&Cの製品、いや、W&Cのマスコットであり世界的アイドルの宝鏡カグヤに憧れて、羨望してはいるが、残念ながら僕の部屋にはW&Cの製品は無い。残念ながら僕の部屋のエアコンはこのマンションの備え付けだったし、冷蔵庫や洗濯機も他社製の中古品だ。
よって僕にはカスタマーをサポートしサービスしてもらう根拠がない。
壇之浦は何を根拠に「困ったら連絡しろ」と言うのか。買う前に製品について聞けとでも言うのか。
このご時世、ヤクザも暴対法に締め付けられて「企業舎弟」を持つ身分から、企業の舎弟に転じたとでも言うのか。
いや、そんなはずはあるまい。ではいったい、これはどういうことなのか……。
僕は考えがまとまるだとか目的意識を持つだとかいう類いではなしに、何となくスマホを手にした。
まるで僕の思考を読んでいるのか、いや行動を見ているかのように、タイミングよくスマホが着信を知らせる。やれやれ、ミスミか。
僕はこれからの行動意欲を削がれたような気分になりながら、通知画面を見た。
うおっと、ニコナからのメールかよ!
タイミング良いのか悪いのかわからんけど、危うく「やれやれ、ミスミか…。」とか、ハードボイルドっぽく渋く低い声で呟くところだったよ!
そんな燻し銀なセリフを、名指ししたミスミに盗聴されるところだったよ! 危うく恥ずかしい!!
メールを開くまでもなく、通知画面に収まる範囲で「集合場所と日時」が記されている。
あぁ、そうか。遊園地に連れて行くのは本気という流れか。ジェンガ敗者に断る余地は無しということか。
ふ、まぁいい。
返答は明日の朝にでもしようではないか。
僕はW&Cのカスタマーでサポートなサービスするセンターに電話するにしても、時刻は間もなく日付が変わろうとしていることに気が付き、いくら「24時間」と表記されていても、社会常識的に無しだろ、と、自分の心のどこかに言い訳しながら、件のポケットティッシュをPCの前に置き、なんとなく引き出したティッシュペーパーでスマホの画面を慈しみ撫でるように拭いた。
その行動に呼応するかのように、スマホが再び鳴り響いた。
その鳴動に呼応するかのように、月明かりが強く僕の手元を照らしたのだった。




