~導き~
それから、どれくらいそうしていただろうか。ずいぶん時間が経ってしまった気がするが、空がまだうっすらと明るいので、さほどではないのだろうか。
まだ周囲が騒がしい。母の遺体を兵の人が回収している音と声が聞こえる。
頭の中では、火炙りから母の最期の言葉までが何度も反芻されるが、振り返る度に客観的な視点で遠く過去の思い出の様になって行くのを感じる。
徐々に暗く成り行く広場を、兵士達が次々に灯りを取り、照らして行く。
と、過度の興奮状態の反動か、徐々にだが不自然な程に通常の思考が戻り始めたので、延ばし続けていた返り血だらけの右手を降ろし、左手で涙を拭う。
「……大丈夫かな?」
ふと、自分の右上から男の低い声がした。
そちらに目を向けると、そこでは、仰向けの自分を見下ろす、白髪混じりだが老人と呼ぶにはまだ早い、目付きの鋭い男性が、穏やかな笑みを浮かべていた。
細身の体格に纏っているのは、軍服を兼ねた、黒地に白いラインで、鎧と同じ女神を示す図を全面に描いた、教会の司祭服。右足の外側に巻き付いているのはホルスターだろう。拳銃が覗いている。
顔に切り裂かれた痕の様な傷が、左の頬に二本、左目の上下を縦断する形で一本走っている。
少々威圧的な風貌だが、湛えている穏やかな笑みが、それよりも優しさを推している印象だ。
――この人、何処かで見たことがある――。
「おや?放心状態かな?」
「……あ……すみません……」
再び声を掛けられ、急いで立ち上がろうと上体を起こそうとした時。
「はい」
その男は、クコに右手を差し出した。
「あ、ありがとうございます」
その手を取り、クコは立ち上がる。
「いや~、危なかったねぇ。咄嗟に撃っちゃったけど、君に当たらなくて良かったよ。大丈夫?怪我はないかな?」
「あ……はい……」
――そうか、この人が撃ったのか――。
穏やかな優しい笑顔で述べる彼。教会の人間で有るならば、市民に襲いかかる魔人を排除しただけなのだろう。
だとしたら、この人の判断は間違っては居ない。理屈で考えれば当然の事なのに、しかし心の何処かで何かが疼く。
この人のせいで母が死んだのか――と、一人の人間として、家族を奪われた恨みを抱く自分を感じる。
――私にもこんな感情が残っていたのか。それとも、母の最期の顔を見て目覚めてしまったのだろうか――。
そう思った時だった。
「……気の毒だったね、お母様が魔人になってしまうなんて。君のお母様を魔に染めてしまったのは、私の落ち度だ。その母を射殺してしまったのも私だ。本当に申し訳ない……」
そう言うと、彼はクコに頭を下げた。
「え……」
その言葉と謝罪の意味が一瞬理解出来なかったが、しかし直後に、その言葉をきっかけに、クコはこの男が何者かを思いだし、それによって理解した。
この人は名は、エドガ=バド=アロク。全世界の秩序を管理し、対魔族の軍隊を擁する教会本部から派遣されている、この街と周囲の土地と軍を統治、総合管理する領主である。
その領主が、自分に頭を下げている――。
「あ、ぇ、あぁ、いえ!
その……助けて頂いてありがとうございます。確かに母でしたが、魔に堕ちてしまったのですし……仕方ない事です……」
クコは慌てて、笑顔でそう言った。
助けて頂いた。仕方ない事。自分が本当にそう思っているのかは別として。
「……気丈な子だね。あんな事の後に、ちゃんと言葉が出てくるとは」
エドガは頭を上げ、再び優しく微笑む。
「その寛容さと心の強さを女神は祝福なさる事でしょう」
と、いかにも教会の人間らしい事を言った後、彼は声を落とし、クコの耳元に言う。
「私を恨むなら、女神にバレなそうな所で、魔に染まらない程度に、思いっきり恨みなさい。けれど、私は本当に申し訳ないと思っているから、どうかお願いだから、復讐に殺しに来たりしないでね?お詫びもちゃんとさせてもらうつもりだから」
そのあまりにも教会の人間らしくないその言葉に、クコは呆れたような、拍子抜けたような、何とも言えない気持ちになるのを感じた。
お堅い印象だった教会の人間の口から、まして、この街の最高位に位置する人物から、女神にバレなそうな所で、魔に染まらない程度に、思いっきり恨め等と言われるとは思っていなかった。
そして、そう言われたからこそ、鉛のようになっていたクコの心は、少しだけ軽さを取り戻した気がした。
しかし、それも束の間となってしまう言葉が、ステージの下から飛ばされてきた。
「領主様!!その娘は魔人の子です!!」
「え……」
観客の一人が放った、敵意の籠ったその言葉が、クコを貫いた。
魔人の子――それは現状、間違いなく自分を指すものだと、クコは理解した。
それは同時に、新たな排除対象が民衆に提示されたという事を意味したという事も――。
「……そうだ……魔人の子だ!」
乾いた草原に火を放つように――。
「そいつは本物の魔人の娘だ!!」
水面に立つ波紋の様に――。
「領主様!そいつも魔人の可能性があります!」
一人があげた声は、瞬く間に連鎖し、騒音へと成り果てる。
つい先程まで掲げられていた正義の矛先が今度は一斉にクコへと向けられていた。
正義の行使だ、英雄になれだと叫び、煽り立てていた集団が、今度はそれを新たな獲物とし、群がっていた。
――やはり私はこうなる運命なのか、と思うと何故か笑みが零れるのを、クコは感じる。
この状況になって、自分はこの先どうなるのだろう。
魔人かどうかを識別する検査があると言うのなら、それを受ければ潔白は証明出来るのかもしれない。
しかし、疎まれ続ける人生に変化は無く、それどころか、『魔人の子』となってしまったのでは、更に悪化しそうだ。
それに加え、今後は母が居ない。つまり、生きていくお金を稼がなければならない。
母が居なくなれば良いと願っては居た。しかしそれが叶い、母が居なくなった事で判ったのは、母が居た事によって自分が救われていた、護られていたという事だった。
全ての不幸を母の責任にする事で心を楽にし、母の稼いだ金で生きている事に疑問を持たなかった。
大事な物は、無くしてからその大事さに気付く、とは良く言ったものだ。
「やれやれ……」
ふと、目の前の男が吐き出した。
そして笑顔のままステージの端へ、民衆の前へと足を運ぶと、しばし民衆の声を浴びる。
それからゆっくりと右手を上げ、会場を静かにさせると、徐に語り出す――。
「私はこの儀式を最初から見ていました。それが正しく行われるか、無事に終わるか、皆さんに被害が出ないか見届ける為に。
その上で、彼女は女神の正義を執行した様に見えたのですが……つまり、魔人を倒し、皆さんを護った英雄であり、女神の正義の執行者であり……。それも、その対象は、今まで自分の母親だったのですよ?それがどれだけ心苦しかったか、私は想像するだけで胸が締め付けられます。それでも彼女はそれを乗り越え、正義を行使してくれた。
そんな今現在、最も女神の導きに近い彼女を魔人だなどと貶めるとは、どういう事でしょう?後天性の魔人化であるが為に、遺伝はしていない、という事も最初に提示し、それ故、彼女の潔白を証明する為の儀式でもありましたから、彼女の容疑は無事に晴らされたと思うのですが。
もしや、女神の御力が強まる事に、何か不都合がおありなのですか?」
穏やかな口調だが、彼が何か、かなり恐ろしい事を言っているのは良く判った。
それはつまり、女神の正義を行使した自分を非難する者は、逆に背信者――魔人の容疑がかかるという事を暗に示している。
領主は教会の人間であるが故に、その言葉が持つ力はとても強く、それを証明するように、それ以上何かを言う市民は居なくなってしまった。
僅かにざわめきが残る観客達に向け、エドガは再び告げる。
「では、只今をもってこの場は解散とする!」
その宣言を受け、周囲の兵は解散を促し始め、観客達は任意の方角へと踵を返し、散って行った。
その人の波の中から、ずっと見ていた一人の少年が呟く。
「……何か、面白くなってきやしたねぇ……」
やつれたような細身の体躯に、蒼白な肌の持ち主だが、身に纏う物からは何処か金銭の余裕さを感じさせる。
大きな鹿皮色のキャスケットの鍔の下から、顎まで届きそうな長い灰色の前髪で右目を隠し、対する左目の翡翠の様な瞳ではっきりと覗く彼は、悪戯な笑みを浮かべ、帽子と同じく小柄な身の丈には合わない、同色の大きなジャケットの襟を直し、一度腕を組む。
そして一思案の後、傍らの巨大なトランクケースを右手で肩に担ぎ、その場を立ち去った――。