~直視~
揺らぐ業火の中の母と、その時眼が合った。
憎悪と苦痛と絶望に染まった様な、その自分と同じ薄い紫の瞳は、その瞬間、微かに光っていたのだ。
それは、周囲で暴れまわる炎の光の反射等ではなく、確かに瞳そのものが、瞳そのものの色で光っている――。そう認識し、違和感を覚えた直後だった。
母は、再び叫んだ。
否、今度のそれは、吼えたと表現するべきなのかもしれない。
身を屈めるように頭を下げ、低く長い唸り声からの、それを跳ね上げて天へと、体の底から共鳴し解き放たれる、明らかなる威嚇の咆哮。自身の存在を誇大化させ、周囲の他者を圧倒する獣の如き雄叫び。
そして、それと同時に常軌を逸した現象が発生する。
言うなればそれは爆発――母を包んでいた炎と木材が、母から放たれた衝撃波によって吹き飛び、四散した。
あまりの突風に姿勢を崩しかけ、熱風から両腕で顔を守りながら踏み留まったクコのすぐ横を、火を纏った木材が飛び抜け、先程クコに松明を手渡した兵士に直撃し、ステージから転落させる程に大きく後方へ薙ぎ倒し、弾き跳ばした。
その光景を見る余裕もなく熱波を堪えるクコは、それが冷たい風に変わった時に聞いた、とある金属音に気付き、目を開けた。
既に母は、すぐ目の前に居た。
今の金属音は、自力であの鉄の手枷を引きちぎった音だったのだろう。
クコは、その鎖の切れた手枷がついたままの母の両腕が、自身に迫っていると気付いた時にはもう、その腕に両肩を掴まれ、押し倒されていた。
その骨張った傷だらけの腕からは想像も出来ない程の力で、クコの体はいとも簡単に床へと導かれて行く。
目を開けてから掴まれ、体が浮き、倒れ、背を打ち、追って後頭部を打ち、鈍痛に顔を歪め、両肩に母の体重を感じる間、母の光る瞳から眼を離す事が出来なかった。
それは確かに、いつもの母の眼であり、しかし、しっかりと眼を合わせたのはこの時が初めてかもしれない――。
「アル・ヴァリテ・リテ!!」
「え……」
母が言った。
何処かの国の言葉なのか、理解は出来なかったが、確かにそれは自身へと――母から娘へと投げかけられた言葉だった。
この状況だからか、語気は荒かったが、しかしそこに憎悪や殺意はなく、むしろ逆に、乱暴に背中を押して励ます様な言葉だと、その時クコは感じていた。
見詰め合うその眼と、笑っている様な、泣いている様なその表情から――。
未だかつて、母がこんなにも自分に顔を向け、優しい表情を見せ、まっすぐに言葉をかけてくれた事があっただろうか。
どういう意味なの?と、そう問おうとしたが、しかしその時、それはもう叶わなくなっていた。
――一発の乾いた爆音。群衆の騒ぎの中をかき分けて響いたそれを、認識するより早いか同時か、上にいた母の顔が勢い良く左へと消えて行った。
まるで何かに殴り跳ばされた様に突然に、その不思議な表情のまま、髪よりももっと鮮やかな赤い飛沫を散らして――。
「あ……」
咄嗟に手が出ていた。
視界から消え行く母を、靡く髪を、慣性で遅れて去り行く、肩にかかっていた母の手を、中を舞う赤い血を。何か大切な物を落としそうになり、それを掴もうとするかの様に。
だが、それらはクコの手に触れる事なく逃げて行った。
背中と後頭部の痛みと、両肩に残された手の感覚と、口の中に飛び込んできた鉄臭い塩の味を残して、母は行ってしまった。
手を伸ばしたまま、ゆっくりと左に眼をやるも、そこには、少し高い位置から見る街並みと、既に陽が落ちた後の濃紺と橙の混じる空が広がるだけだった。
――床に、血が撒かれている、その先のステージの下から、人々のざわめく声が聞こえる。
そこに母が居る――。そうは思えど、それを見に行くには恐ろしすぎた。
母は死んだのだろう。頭部を銃弾が貫いたのだろう。と、今になって頭が順に状況を整理し始めていた。
その為に、その直前の記憶も否応なしに蘇る。
正義の行使――。
思えば、母の最期の言葉は呪いだったのかもしれない。あの時の私同様、何かを――私を手放して自由になった顔だったのかもしれない。咄嗟の事に都合良く解釈しようとしているだけで、あの表情は、私を殺そうとしていたのかもしれない。
あぁ――何故だろう、涙が溢れて来る。全身の筋肉が固まってしまった様に、眉一つ動かせないのに、涙だけは止まらない。
昔はあれ程憎んで、通り越して今は何も想わなくなってしまった母なのに、直前まで自らの手で焼き殺そうとした母なのに、どうして――どうしてこんなに、その母の死が悲しいのだろう。どうしてもっと一緒に居たかったと思うのだろう。
――どうして、こんな事になってしまったのだろう――。
「どう……して……?」
そこに居ない誰かに、クコは尋ねた。誰に何を何故尋ねたかったのか、クコ自身にも判らなかった。