正義でもなく智慧でもなく
第五章 一会
瑠海男の境遇を推察するかのように、亡父の母村崎ルイが上京してきた。瑠海男の父亡き後の日以降、ルイは瑠海男の成長とともに受験期が来ることを想定していた。しかし、瑠海男を丁稚奉公へ行かせるということを聞くに及び、ルイは急遽、葛飾の瑠海男の家にオースチンを乗り付けたのだった。
ずっと祖母に対して冷たい態度をとり続けた母も、受験のため参考書代や学費を援助したいと言ってきた祖母を、妨げなかった。しかし、義父はルイと相対した時、自らの学の無さを隠し嫉妬心からあからさまに歓迎しなかった。
「 進学なんてしたってなんの役に立つんだよ。」
ルイは黙っていた。
「こいつぁ、どこにいっても、いじめられるだけさ。虐められるだけのこんな能無しに、どんなことができるっていうんだい?。」
「……。」
「こっちとら、そもそもこいつに食わせる金なんざ持ち合わせてねえんだよ。」
ルイは、これだけ言われ黙って耐えて暮らしている瑠海男の境地を思った。しかし、まだ黙って聞き続けていた。
「自分の分は自分で稼がせるのさ。俺なんざ、職人になるために、中学を出た時から、ずっと膠まみれだぜ。だから、こいつも中学出たら、働かせるんだよ。」
長々と聞いていたルイは、一言いった。
「………。オメェ、何ゴジャッペ言ってんだか?。瑠海男はオメェの倅か?。居場所もなにも奪って、養子縁組もしてねえでネガィ。」
腰の曲がった小さなルイの剣幕は、大きな図体の義父をだまらせた。ルイは一切の反論を許さなかった。
ルイは、学費ばかりでなく中学卒業後の生活費を出し、亡父が辿った学業進学の道を開いてやることにした。瑠海男は、己の思いもつかないところにある自分の未来と先祖達の辿った道に、思いを巡らせていた。話をつけたあと、ルイは、瑠海男をオースチンの車内に招いた。
岩手の村崎家は、驚いたことに代々隠れキリシタンであった。肥後菊池の切支丹士族であった一族は、桃山期に迫害を避けるように奥羽陸中海岸の平家落人やアイヌの住む田老地区に紛れ込み、今に至っていた。
瑠海男のために、伯母とともに上京してきた祖母ルイは、亡き三男の忘れ形見である孫の瑠海男に久々に声を掛けた。母親を含めて中年以降の女性から優しい声をかけられた事のない瑠海男には、経験したことのない深い憐れみを込めた声だった。
「しばらくぶりでネガィ、瑠海男ちゃん。でも、わしを覚えてネガナ?。すっかりおっきくなったデネガァ?。」
「ルイ婆。ご無沙汰を致しておりました。僕なんかのために、わざわざ東京まで来てくれて…。」
「丁寧に答えられたでねが。流石は三郎の子だ。」
「でも、こんな出来損ないの僕に、なぜこんなにまでしてくれるの?。僕は要領が悪いし、ただバカ正直に一生懸命生きてきただけで、虐められるだけの出来損ないです。正義も見出せず、この世を諦めてあの世の救いを求めているだけです。考えてもまとまらないし、分からないし、納得したくても納得できないし。それも、これも、僕が見る目を持たない役に立たない価値のない人間だからなんだと思います。」
「そんなことはねえ。あんだはよい子だ、優しい子だよ。良くやっているよ。それは、ばあちゃんたちがよくしっているさ。そんな子は天が放っておかない。」
「でも、そのことを考えるには僕はあまりに愚鈍です。正直でも一生懸命でも、現実に結局役に立たない人間では、どこまでいってもダメなことがよく身にしみました。ほんと、実際には何もわからなかったし、なにもできなかった……。」
「そんなことを言わんで良い。かわいそうに。ずいぶん辛いことが続いていたんだな。ばっちゃんが聞いてやるから、みーんな話してしまいな。」
瑠海男は、誰にも話したことのないことを、ポツポツ話し始めた。重太たちの仕打ち、上級生たちからの仕打ち、実現出来ない正義、救いに見える諦観、近くにいる朱璃の絶望とそれに対しての無力、自分だけでは無い他の者たちの悲しみ、苦しみが重なるだけの毎日、それで耐える朱璃の姿、などなどを打ち明けた。それらは、これまで誰にもいったことのない瑠海男の魂の叫びだった。瑠海男にとっては、怠惰であり堕落であり卑怯で惨めな叫びだった。それでも、一度語り始めた心の中の思いが、言葉と叫びになって激しくあふれ出して止まらなかった。
瑠海男の言葉が終わるまで、ルイは黙って瑠海男の方を向いていた。
「……僕は、いじめられても耐えてきました。良い道へ糾そうともしました。虐める奴等は僕が悪いと言うし、義父は僕に原因があるというし、でもなぜ僕に原因があるのかわからない。彼らにもひどい苦しみがあることも知ってます。だから耐えてきました。僕の世話になっている家の娘もいじめられて、しかも病があり死ぬほどの目にあっている。なぜこんなに出口のない苦しみがあるのですか?。苦しみが毎日続くのはなぜなのですか。」
瑠海男の涙は枯れていた。苦しみに翻弄される惨めさだけが、残っていた。それでも瑠海男は、聞いてくれる人がいるだけで良かった。つまらぬ己の惨めなことは、もう聞くには耐えられないだろう、たくさんだろうと思った。しかし、ルイは、そうはいわなかった。瑠海男の話が終わってようやくルイは口を開いた。
「よおぐ打ち明けてくれた。」
瑠海男は、突然に目の周りが熱くなった。流したことのない苦い涙だった。母からも与えられたことのない洞察力に満ちた同情が、ルイの言葉に重なっていた。なんで涙が出てくるのか。嬉しいはずなのに。止まらない…。
ルイは瑠海男に向き直り、瑠海男の目から涙を拭い、未だ成長がままならない孫の頭を静かに撫でつつ、小さく縮んでしまった老体で抱き締めた。ルイは、亡き息子の忘れ形見があまりに過酷な虐めと迫害の中にあることに衝撃と憐れみとを、禁じえなかった。それとともに、都市化しつある地域で育つ子供達の不幸を思った。そして、父親が召されたのちの影響の大きさと、残された女子供の無力さとを思った。
しばらく、オースチンの車内は静まっていた。ルイは、皺深い老いた手で瑠海男の若い髪を撫でながら、一つの言葉を語り出した。
「恐れるな、虫けらのようなヤコブよ・・・
わたしはあなたを助ける・・・
見よ、私はあなたを新しく、鋭く、多くの刃を付けた脱穀機とする・・・
あなたは主によって喜び躍る」
「瑠海男や。私と一緒にこの言葉を言ってごらん。」
「恐れるな、虫けらのようなヤコブよ・・・
わたしはあなたを助ける・・・
見よ、私はあなたを新しく、鋭く、多くの刃を付けた脱穀機とする・・・
あなたは主によって喜び躍る」
「これはお前が生まれる前から、お前のために用意された御言葉じゃ。」
「御言葉?。僕が虫けらだってことは分かるけど。」
「そう思うのけ。しかし、この虫けらは、久遠の慈しみの中にいるべ。」
「どうしてそんなことがあるのでしょう。」
「オメェは三郎の息子だべ。オメェも三郎と同じ智慧がいつもある。おらにはわかるし、おめえにもそのうちわかるようになる。おらたちは、代々選ばれて久遠の慈しみの中に生き延びてきたんだべ。」
「選ばれてきた。…?。だから苦しんできた?。苦しみはなんのため?。」
「ん、それはオメェの練達の為だべ。オメェの受けてきた苦しみでは、オメェがここに生きて来られたように、必ず逃げ道があったはずだべ?。」
「確かに……。しかし、あまりに都合が良過ぎているとも感じています。僕なんかが、なんとかすり抜けていられるなんて。」
「デウス様は確かにオメェの幸のために備えて下さる。しかし、おめえの思い通りにではなく、デウス様に近づくよう成長させるためだべさ。」
ルイの話は続けられたが、神が慈しみを持つあまりに、自分の独り子を犠牲にし、さらに復活の道まで用意するなど、あまりに眩しくあまりに単純で、愚かな自分には恵まれ過ぎた話だった。瑠海男は、何かの哲学的なものの捉え方があるのだろうと逡巡したが、考えれば考えるほど現実にはありえない愚かな作り話のように思えて、さっぱり受け入れることができなかった。
瑠海男にとっては眩しい夏をむかえた。瑠海男は、親の家を離れて伯母の見つけて来たアパートで、一人で暮らすことになった。彼の持ち込んだ荷物は、教科書と古い国民服、お下がりの学生服、靴下、みかん箱の机、そして、新しい聖書だった。それに、ルイが買い与えた運搬用自転車、季節の衣類、寝具、ラジオなどがあった。伯母の朋子は言った。
「本当だったら、私が面倒を見てあげたいのだけれどね。ねえ、もう一回聞くけど、岩手に来る気はないかい?。」
瑠海男は、願っても無い申し出に目眩がした。しかし、この地に留まって為すべきことがあるように感じられたので、熟慮の上で申し訳なさそうに断っていた。
「申し訳ありません。家庭教師をしている相手先様や、学校の先生から、離れるわけにはいかないので。」
ルイは、瑠海男の頼りげのない外見とは裏腹に、意外にしぶとく生きている強さを見つけて、素直に喜んだ。
「家庭教師をしているのけ?。高校生にもなっていねえのにぃ?。こったら驚いた。誰を教えているのけ?。」
「墨田区の小学生なんです。女の子ですけど、飲み込みが早くて教え甲斐があります。というより、中学校から逃げるように帰る僕には、そこにしか居場所がなかったんです。」
「そうだったのかい。そりゃ、主の山に備えあり、ということだべ。」
「主の山に備えあり?。」
「デウス様が、今までもこれからも、オメェを必ず助けるということだよ。」
ルイは、自らが祈り続けて来たにも関わらず、予想を超えた事態の発展に神の配慮を感じて、畏怖を感じて居た。
瑠海男は、こうして一人だけの生活を始めていた。通学を考慮して住み始めた堀切の北向き地蔵の裏のアパートには、時々岩手から来る伯母の持ち込む牛肉と野菜や果物かあった。また、向かいの部屋には、平井家に嫁いだ伯母の娘、共栄学院の保母見習いの娘が住んでいた。これらは、瑠海男の生活レベルや健康状態を飛躍的に改善し、急に背が伸び始め、三高の受験を前にする頃までには一○センチも伸びていた。
一九六一年一月のアメリカのケネディ大統領の就任演説は、聴衆に希望を与えた。瑠海男も希望に背中を押される様にして、高校受験の季節を乗り切った。三月末には、三高の合格通知が瑠海男のもとに届いていた。
瑠海男は晴れて都立高校の合格者となった。身元引受人は義父がすることになっていたが、住む場所と学費と生活費の全ては祖母の家が負担することになっていた。
瑠海男は義父を訪ね、恐る恐る合格を報告した。
「お義父さん。合格通知が来ました。実は……。」
「なんでい。」
義父は横を向いたまま、まともに顔を見ようとはしなかった。
「入学式に、保護者が同行する必要があるのですが。」
「俺が行くのかい?。」
義父は、初めて瑠海男に顔を向けた。相手の弱みを見つけたとばかりに、勝ち誇った言い方だった。
「お願いできませんか?。」
「やだね。」
「お袋ならいいですか?。」
「なんでい。都合の良い時だけ来やがって。ダメだダメだ。お前一人でなんとかするんだな。」
「でも、身元保証人には、なっていただけるはずなのですが。」
「なんでぃ。その口のきき方は。さあ、けえれ、帰れ。」
「そうですか。」
瑠海男が予想した通りの、けんもほろろな応対だった。
義父は、自分の思い通りにしようとしたところへ、邪魔が入ったことでヘソを曲げていた。しかも、ガキ扱いしていた瑠海男が三高生になろうとしていることも、彼にとっては全く面白くなかった。しかし、入学の際につき添いの保護者は、身元保証人として必要であった。瑠海男は思案顔のまま、卒業したばかりの中学校へ向かった。谷山先生は、初めての卒業生であったこともあって、瑠海男に親切だった。
谷山先生は、教師というより事務職として有能だった。
「瑠海男、どうした?。」
「こんにちは。」
谷山先生は瑠海男の思案顔を見て、在学中と同じように声をかけてくれた。瑠海男は、躊躇いがちに口を開いた。
「もう、卒業してしまったはずなのに、御迷惑と承知しながらもお伺いした次第です。先生、実は入学の手続きに義父が協力してくれなくて……。」
「確か、岩手のおばあさまが色々援助してくれてるでしょう?。」
「そうです。でも、書類中の保護者欄に名前を書いてもらうわけには……。」
「わかった。俺から、言ってみるよ。」
谷山先生は、苦労しながら義父を説得してくれた。
「君のお母さんが行ってくれるそうだ。」
そういうことになった。
三高の入学式に、瑠海男は久しぶりに母のサクラと出かけた。三高の正門から左手へ、そして校庭を左手に見ながら体育館へ。三高の桜は遅咲きの八重であった。
「お母さん、ありがとうございます。晴れて、勉学の道へ進む事が出来ました。」
「こんなところまで登り着くとは……。」
サクラは、我が子に戦死した父の血筋が生きているばかりでなく、亡後も我が子を無言で守り続ける存在を感じていた。サクラの口調は、多少自嘲とも言い訳とも響いた。
「いくら私が反対しても、邪魔をしても、貴方には貴方の道があるのね。でも、貴方の義父を含めて私たちは、貴方に反対ばかりしているわけではないのよ。」
サクラは、そう言って体育館の保護者席へ離れていった。学生たちの席では、保護者と別れた新入生を、在校生達が迎えていた。彼らは、三高独特の蛇腹の制服だったが、瑠海男の身につけていた学生服は見慣れぬものだった。詰襟ではあったが、両袖口に一本の白線を織り込んだ黒地の蛇腹織が縫い付けてあった。瑠海男の周りには、いかにも優秀と言う顔をした男女が整列していた。それでも、瑠海男は高校に入学できただけでも満足であり、服にも人間にも無頓着だった。
さて、入学式は、祝辞、校歌斉唱などと続いていた。
「あけくれの みおしえに
ふみのやま わけていり
あさゆうの いそしみに
まなびのうみ こぎてゆく 」
式の後、中庭のある校舎の教室に導かれ、そこで瑠海男は母親のいないことに気づいた。
「帰っちゃったのかな。」
彼の推測は、当たっていた。学校事務所には、教科書の包みとともに母親のメモが残されていた。
「夫の仕事の手伝いのため、先に帰ります。」
伝言は、ただそれだけだった。母サクラの再婚後、母との会話が少なくなったことは、感じていた。母の心が再婚相手に向かっていることに頭では理解していても、瑠海男はその頃からの母とのすれ違いをぼんやりと感じていた。そして、いま、瑠海男は、我が子より連れ合いを選んだことに、またか、と理解した。瑠海男には、母親の再婚の時から感じていた、嫉妬とも言える気持ちが自らにあったことを、今更ながらに思い出していた。
帰りに、飯塚家へ報告に寄った。飯塚家でも、浅草橋の婦人服商に就職した由美子の持ち物が増え、典型的な女所帯となっていた。
「こんにちは。」
「あぁ、瑠海男ちゃん?。」
ミサヲはいつものように、もの静かに瑠海男を迎え入れてくれた。
「身長がいつの間にか伸びたわね。素敵な男前になったわよ。」
いつも、ミサヲは配慮のある言葉をかけてくる。
「その大きな荷物は教科書ね。さすがに量が多いわね。高校の入学式からここへ直接来たの?。お母様はご一緒ではなかったのね。」
瑠海男は少し寂しげな表情をしたのだろうか、ミサヲは話題を直ぐにかえていた。瑠海男はミサヲの配慮に感心した。
「どこの高校だったかしら?。三高だったら制服が違うみたいだけど。」
「あっ、これですか?。まだ制服を買えないので、東北の親戚から貰った詰襟です。」
ミサヲとのやりとりから、瑠海男は、改めてミサヲについて、人の心を読める洞察力の鋭い女性だなぁ、朱璃の飲み込みの早さは母親譲りなのだなあ、と納得していた。朱璃は、卓袱台をセットし、教材を広げていた。六年生の新学期も始まっており、気の乗らなそうな朱璃も、果敢に取り組んでいた。瑠海男も卓袱台の朱璃の隣に胡座をかいたが、二人の脚の長さが、卓袱台を小さく窮屈に感じさせるようになっていた。それでも、無理に座り込んでいたため、二人の足はぶつかり合い、ガタガタ卓袱台を振動させていた。
「今日はここまでにしようよ。」
「そうね。さっきから、瑠海男ちゃんの胡座の膝がわたしの腰をくすぐっているんだもの。」
「そんなことしてないよ。」
二人の顔が少し赤らんでいたのは、気のせいだったろうか。ミサヲから見れば、もともと早熟な朱璃の一面が見えたというところだろうか。しかし、瑠海男にも、そろそろそんなことを明白に意識する歳頃になってもいいのではないのだろうかと、一人考えていた。それぞれが新しい春を歩みだしていた。しかし、それも長くは続かなかった。朱璃は再び他方の脚の大腿部に、骨肉腫を発症していた。瑠海男は心配しつつ、朱璃の入院を見送った。
墨東病院における朱璃の抗がん剤治療が再びはじまった。そのため、彼女が六年生になったばかりなのに、学校を休みがちになった。寂しがり屋の朱璃のために、鵜飼美奈子を含む三人のクラスメイトが時々病室を訪れていた。
「今日は。お土産持ってきたよ。何かなあ。当ててみなよ。」
「ありがとう……。」
それは、小さな箱に詰められた、彼女らが家庭科で作った手作りのお菓子であった。また、箱に少女らしいきらやかな飾り付けがあった。朱璃は嬉しかった。痩せてしまった腕を伸ばそうとしたが、体を動かす気力がなかった。普段なら、朱璃も菓子作りを楽しむところだが、入院中は抗がん剤による吐き気と疲れとで、目を瞑っていることが多かった。彼女らがいる間は気持ちを気力でもたせていた。しかし、彼女らが帰った後、やはり猛烈な吐き気に苦しみはじめていた。瑠海男は陰でしばらく彼女の様子を見ていた。六年生なのに痩せてしまった姿に、少なからずこの病の深刻さを感じた。瑠海男が顔をみせるタイミングを計っていると、後ろから由美子が肩を叩いてきた。
「来てくれていたのね。ありがとう。でも、なぜすぐに入って行かなかいの?。」
「あの、その、知らない女の子達が沢山居たので、少々行き辛かったのです。」
「でも、貴方の行っていた中学校でも、女生徒が沢山いたでしょう?。」
「居ました。でも、苦手で…。」
「でも、お話ぐらいはしたでしょ?」。
「いや、とてもとても。僕、昔からいじめられっ子だったから、みんな話しかけてこなかったし。」
「何故、朱璃は平気なの?。」
「彼女とは一緒に話す話題もあるし……。」
「私とは、どうかしら?。」
瑠海男は少しばかり驚いていた。
「えっ。うーん、由美子さんは美人だし、雄二さんとお付き合いしているみたいだし…。そもそも、僕なんか、相手にならないですよ。」
由美子は、なぜか少し悲しい笑い方をした。
「さあ、朱璃のところへ行きなさい。私は、もう帰るから…。このバナナの房は、持ち帰ってくれるかしら?。今の朱璃には食べられないから。」
病室では、朱璃は看護婦に苦悶の中で、話しかけていた。
「今日、お兄さんが来るの…。」
「良かったわね。早く来ないかしらね。でも、ご家族には男の人はいないでしょ?。親戚のひと?。」
「ううん。」
「どんな人なのかな?。」
「優しいひと。」
瑠海男は、苦悶の中で自分を肯定的に捉え、待ち続け、しかも瑠海男を「優しい」と言う少女の思いに、今までになく、胸を締め付けるものを感じた。朱璃にとっては、同級生の男の子は皆いっしょになって嫌がらせをして来る、子供じみた存在でしかなかった。瑠海男は、背が朱璃より小さかったほどの背格好で控えめなのに、頼りになる兄貴だった。
「高一年?。ふーん。お兄さんというより、お兄ちゃんかな。」
その時、瑠海男は部屋に入って来た。看護婦は驚いたように、瑠海男の顔を見つめた。瑠海男は決して厳しい顔をしていたわけではなかった。むしろ、強い意志を秘めた優しさだった。
「こんにちは。」
「いらっしゃい。そうね、お兄ちゃんと言うより、お兄さんね。」
「お邪魔します。こんにちは、朱璃ちゃん。」
朱璃は苦悶の姿を隠すように、微笑んだ。朱璃は弱みを見せたくなかった。しかし、自らの一生が終わると感じられ、瑠海男との別れを覚悟した胸の思いに、出たのは声ではなく、一筋の涙のみだった。
「消耗するから、何も考えずに、なにも言わずに目を瞑っていようね。」
長いこと処置をしていた看護婦たちは二人を残して出て行った。朱璃は、最近まで瑠海男が来ることに、違和感はなかった。しかし、それでも来てくれる理由はわからなかった。
「なぜ、私のところに来てくれたの?。」
「そうだね。君たち一家だけが僕を受け入れてくれるからだね。」
「父親が誰かもわからないわたしなんかのために…。私の母は、いろんな男の人を相手にしているのよ、ホステスをやっていることの他に……。男の人から女の人に入れられたものが、子供になるのよ。つまり、私のお父さんは誰だかわからない…。」
朱璃は自分の先が短いと思い、秘密のままにしたくはなかった。
「知っているよ。それがどうしたよ。」
瑠海男はそれ以上何も言わなかった。瑠海男にはショックなことだった。しかし、小学生の彼女がそれを隠し続けていた苦しみを思った。また、それを理由として朱璃が自らを貶めるべきではなかった。
「でも、瑠海男ちゃんには、なかなか話せなかったのよ。」
彼女ら一家は、何故瑠海男を受け入れてくれたのか、わかったような気がした。瑠海男の性格と境遇に、同じものを見いだしていたのかもしれない。
「僕は感謝しているよ。こんな僕を受け入れてくれるんだもの。これ以上、自分の身の上に何を望むかな。」
「私にも恵みがたくさんあるのよ。私には辛くても、強く生きるための全てが恵みとして与えられていたの。『イエス様の名前』によっていつも祈ると、それがわかるの。傍にある聖書、共にいてくださるイエス様、そして友達と瑠海男ちゃん。みんな神様からの恵み。」
朱璃はそれだけ言って、目を瞑った。瑠海男は、息の荒い朱璃を見つめていた。改めて、彼女の救いはここにあるのだろうと反芻していた。独り言のように、瑠海男は言葉にして見た。
「イエス様によって祈ります。朱璃ちゃんをお救いください。・・・。」
不思議な光景が広がった。春霞に赤く燃える春の夕日が、差し込んだ。瑠海男が横に居ることで、春の夕日は秋冬にも増して燃えて輝く。最後には沈んで行くものではあっても。そして、夕日とその影は永く停まり、夕日は朱璃の頬を赤く染め続けた。突然、それが、瑠海男と共にある朱璃の久遠の未来を啓示したものであることに、瑠海男は気づいた。今は治療のために元気はない。しかし、再び元気になって若さを咲かす。それでも、その先は…。その先をなるべく長くするためにも、この時点でしっかり集中的に治療するべきなことは、明らかだった。他方、瑠海男は、今はただ朱璃の手を握ってやることしか知らなかった。
美奈子は、忘れ物に気がついた。戻ってみると、見慣れぬ制服の青年が朱璃の手を握って祈りを捧げていた。美奈子は、祈りを邪魔しないようにそっとカーテンを閉めた。廊下で待っていると、病室内で身動ぎをする気配が感じられた。
「あの、すみません。忘れ物をしてまして。」
美奈子が室内に入ると、朱璃は眠っていた。想いに浸っていた瑠海男は、おもむろにカーテンの隙間を見た。先ほど朱璃のところに来ていた美奈子だった。雰囲気から言って、瑠海男の方から声を掛けるべきだなと感じられた。しかし、瑠海男は、今まで自分から女の子に声をかけたことはなかった。顔を真っ赤にしながら、瑠海男は声を掛けた。
「えーと、さっきの人?。」
ぶっきら棒に、こう言いだすのが精一杯だった。
「はい。鵜飼美奈子です。梅若小学校の六年生です。」
どこかで聞いたことのある名前だった。
「同じクラス?。」
「はい?。あっ、朱璃さんの同じクラスです。今日は朱璃ちゃんのお見舞いにうかがってました。」
「あっ、僕は村崎瑠海男と言います。」
「瑠海男さんですか。朱璃さんからよく聴いてます。傍に居てくれるって。」
瑠海男はその言葉になぜか慌てていた。
「え?。あっ?。う、忘れ物って何?。」
瑠海男は慌てて話題を変えた。
「これを朱璃さんに渡すのを忘れていました。」
瑠海男は、見知らぬ女の子の前で、冷静さをすっかり失って居た。我ながらもう少し丁寧で配慮のある話し方が出来ないのかと、情けなく思った。その瑠海男の表情を見ながら、美奈子の方は目の前の高校生が、急にオドオドして居ることに気づいて居た。頼りないような、幼いような、それでいて真剣な表情の男子だった。結局、美奈子は目の前の瑠海男の態度に違和感を覚え続けていた。そのためか、その後の態度は事務的だった。美奈子はすこし厚手の本を取り出した。舊新訳聖書と書かれた古い本だった。瑠海男は、それを手にとって美奈子を思わず見上げた。
「これって?。」
「朱璃さんが欲しいと言っていた聖書です。 」
「彼女、聖書は持ってたはず。」
瑠海男の硬さはまだ取れていなかった。
「彼女は新約聖書しか持っていなかったと思います。」
「新約聖書?。なにそれ?。」
「ご存知かと思っていましたが。朱璃さんが欲しいと言っていたのでお持ちしたのです。多分、新約聖書しかお持ちでなかったと思います。」
瑠海男は本の中を見せてもらった。瑠海男のとは少し違うものだった。瑠海男はこの時とばかりに質問をした。
「美奈子さんと言ったね。教えてくれる?。朱璃ちゃんはこう言っていた。辛くて苦しくても強く生きる恵みがあると。それが傍にある聖書、共に居るイエス様、これはイエズス様じゃあないのかな?。そして周りの人たち…だって。どうしたらそんな気持ちになれるんだろうか?。この本を持っているけど、中身をしっかり把握していないので。新約聖書って何?。イエズスってだれ?。」
「イエズスですか?。えっと、イエス様のことだと思いますが。」
瑠海男は、祖母に話をひと通り聞いていたはずなのに、また聞いている始末であった。他方、美奈子は年上の高校生がぶっきら棒で不躾な質問をしてくることに戸惑っていた。しかも、カトリックの用語で質問されたことが、混乱を増幅させていた。内心「年上なのに質問しないでよ」と悲鳴を上げていた。しかし、年下といえど、初対面の女性に話しかけることに一切慣れていない瑠海男は、このような会話しかできなかった。
「ごめん。質問ばかりで。最後に。なぜ、朱璃ちゃんには心の強さが得られたの?。苦しんでいて、治るともわからないのに。」
美奈子は言った。
「人間には憎しみ、欲、など罪が絡みついています。だから、この世で人間は苦しみ、罪の代価である死から逃れることが出来ません。」
「うん、それはわかる。業の故にこの世には苦しみがあると言うのと似ているね。つまり、苦しみをそのまま受け入れる必要があるわけね。もっと言うと、悟りの境地である菩提心が強いと、受け入れた苦しみを光や憐れみに変えられるのね。」
「そうではありません。苦しみや死があっても、現実に突破するための恵みが与えられるので、苦しみに克って平気になれるのです。」
瑠海男は、まだ理解できていなかった。美奈子はまた分かってもらえそうもないな、と思いながら続けた。
「これらは恵みであって、苦しさを退ける力なのです。それを、聖書ではこう歌っています。
『主は御名にふさわしく
わたしを正しい道に導かれる。
死の陰の谷を行くときも
わたしは災いを恐れない。
そうです、現にあなたがわたしと共にいてくださる。
あなたの鞭、あなたの杖
それがわたしを力づける。
虚しい存在のわたしなのに、
わたしを苦しめる者を前にしても、
あなたはそのわたしに同盟者として食卓を整えてくださる。
わたしの頭に香油を注ぎ
わたしの盃を溢れさせてくださる。
命のある限り
恵みと慈しみはいつもわたしを追う。
主の家にわたしは帰り
生涯、そこにとどまるであろう。』
これでお分かりになるかどうかわからないのですが・・・・。」
瑠海男は人間の罪という業に似た考えを知った。しかし、そこからくる苦しみと死を静かに受け入れるのではなく、他の力によって具体的に打ち破ると言う教えが、余りに虫のいいことに今更ながらに驚いてしまった。病室で逡巡していた瑠海男は、その後も墨東病院広場から錦糸町駅まで歩きながら考えていた。
そこへ、バリバリというエンジンの音に周囲が驚くと同時に、カミナリ族が集団で入って来た。瑠海男や周りの歩行者たちは、顔をしかめながら十台程度のその一群が過ぎるのを待っていた。瑠海男は無意識にエンジンを見ていた。
「あれはV型ツインエンジン。ということは、日本製にはない特徴。あの二台は輸入品?。」
瑠海男はハーレイに乗っている二人の男に注目した。その二台が集団から離れ、瑠海男の方へ曲がってきた。重太たちだった。
瑠海男は朱璃に言われたことを思い出していた。
「イエス様の名前によって、彼らから逃げられますように。」
その祈りが終わらないうちに、オートバイが目の前に止まった。
「貧相なやつだと思ったら、瑠海男くんじゃねえか。おめえ、家から追い出されたみてえだな。」
重太が先に話しかけてきた。瑠海男は、重太を無視して、その背後にきた秀夫に話しかけた。
「秀夫さん。まだ重太と付き合っているのですか?。そのバイクは、相当な値打ちものですね。親父様に買ってもらったのですか。まさか、重太にも?。なるほどね。」
ハーレイは秀夫と重太のみが乗っていた。重太は、とてもハーレイを買える家庭ではなかった。他方、秀夫の親は、盲目と言えるほど息子の欲しいものを買い与えていた。重太が乗っているものも、秀夫のものだった。それを瑠海男に見抜かれ、皮肉たっぷりに指摘をされ、重太はすっかり頭にきていた。いつものどす黒い憎しみにくわえ、得体の知れぬ暗い墓穴を思わせる、冷たい感覚が背中を上下していた。
「瑠海男。この野郎。昔は俺ににらまれて逃げ出したダメな野郎が、なんで進学校に行けるのかよ。」
瑠海男は横目で重太を見ながら、淡々と言った。
「重太、勘違いしているね。僕がダメな人間なことは、変わっていないさ。今の高校に入学できたのは谷山先生や周りの大人たちのおかげだよ。」
先に行ったはずの他のメンバーも集まってきていた。
「みんな、こいつだぞ。」
「やっちまえ。」
瑠海男は工事中の駅ビルの中に逃げ込んだ。ハーレイと見張り一人を広場に置いたまま、重太たちは中へ入っていった。しはらくすると、重太に似た声が叫んでいた。
「おい、オメェ、もういいから、三階を見て来い。」
見張りは慌てて駅ビルの中へ駆け込んで行った。もちろん注意深く聞いてみれば、声は似て非なるものだったが、重太の怖さを知っている見張りにその余裕はなかった。そして、ちょうどその後に、バナナをいっぱいに持った瑠海男が出てきた。そそくさと秀夫のハーレイ以外の排気管の中にバナナの皮をつっこんで、また建物の中へ。次に瑠海男が出てきた時、瑠海男を重太たちが追いかけてきた。瑠海男は、大通りをさっさと北へ走り出していた。しかし、バナナを突っ込まれたオートバイが動くはずもなく、秀夫のハーレイ以外のオートバイはエンジンがかからず、重太たちは追いかけることはできなかった。秀夫だけが瑠海男を追いかけて来た。押上を過ぎ、墨田区北部の入り組んだ路地裏に走り込み、秀夫が運転に難儀すると、短めの金属棒を持った瑠海男が背後から飛び出して来た。
「やられる。」
しかし、瑠海男は、ハーレイの後輪のスポークの間に棒を突き刺し、動きを止めただけだった。秀夫は走り出そうとしたが、金属棒が回転を妨げていた。そして、後輪に手早く針金を巻きつけられ、スポークの一本に外せない金属重りを付けてしまった。降りるにおりられない秀夫は、背後にいる瑠海男の話を聞かされることになった。
「秀夫さん、なんのためにこんなことを?。それに、警告は何回め?。」
「うるせい。」
「このハーレイは、多分親父さんに買ってもらったんだね。」
秀夫は黙っていたが、それが答えだった。
「何故、彼らと付き合うの?。呼びかけは、今日が最後のような気がする。次は、もうなにも言わない。」
「分かっている。でも、あいつらを裏切れない。」
「あいつらに利用されているだけだってことには気づかないの?。重太のハーレイだって、あなたの親父さんが買ったものだろ?。」
「だからまた、きっかけがつかめないから………。」
瑠海男は秀夫が憐れだった。
「分かったよ。でも、あまり高速にして乗らない方が良いね。さっきの衝撃で壊れるよ。」
瑠海男は去って行った。しばらくして、重太らが故障の原因をバナナであることを突き止めた時、重太たちは舌を巻かざるを得なかった。
第六章 迷路
朱璃は、入院したうえで三クールの抗がん剤治療をを要した。外で活動できるようになるには、リハビリを繰り返して冬までかかっていた。それを時々見舞う瑠海男は、三高の授業をフォローするのに苦労しながらも、美奈子の示唆を基に朱璃とともに聖書を読み倒していた。こうして、朱璃がすっかり元気になる頃には、一九六二年も半年が過ぎていた。
そうしてそれぞれはそれぞれの歩みを積みかさねていた。しかし、飯塚の家には再び陰が差してきた。陰は真っ直ぐに由美に降りかかってきていた。
思えば油断があったのかもしれなかった。雄二と出掛け倒していれば、由美子の客が歩いていく由美子に気づかないはずがなかった。その年の梅雨明けの夕暮れ、二人が矢切の渡しへ矢切の渡しへ出かけていた時のことだった。渡しからの道を由美子が雄二と二人で歩いているときに、雄二の知らぬ中年の男が由美子に話しかけてきた。
「あれぇ、キャサリンちゃん?。」
由美子は知らんふりをして通りすぎようとした。
「なんで無視するんだよ。俺は下手だったかよ?。」
由美子の顔がこわばっていた。今一番会いたくない相手が、雄二の前で由美子の顔を覗き込んでいた。雄二が由美子をかばって、男の前に立ちはだかった。
「なんでえ、おめえは。」
「迷惑が嫌いな人間です。」
「お、めえも、この女の客か。それなら、今夜はそちらが優先かよ。わかった。今日はやめとくよ。明日連絡するからな。」
中年の男は、そう言ってこともなく去っていったが、雄二は、客という言葉にショックを受けた。
「客って・・・・・。由美子ちゃん、彼は誰なんだろう?。」
由美子は、かすれた声だった。
「覚えのない人だったわ。」
「でも、さっきは顔が強張っていたよ。何があったの?。なんの客だったの?。」
由美子は、かすれ震えた声で、雄二を呼んだ。
「雄二さん・・・。あ、あれは怖かったからよ。あの男の人は、知らない人よ。」
「知らない人同士が、顔を覗き込むのか?。僕が客に間違えられたけれど、個人で受ける商売って、どんな商売なんだよ。」
雄二は、由美子を見ようともしなかった。彼の頭の中は、由美子への思い、裏の顔の存在、自らの無知、裏切られた思い、などで渦巻いていた。そして、あることに思い当たった。高校生にしては大人びた服装、朱璃の治療費、由美子の母親が複数の男たちを相手にしていたとい噂・・・。
「確かに、妹さんに金が必要だものな。」
彼は、ポツリと言った。そして、しばらくの立ち尽くした後に、彼は踏ん切りをつけるように、言った。
「由美子ちゃん、ここで終わりにしよう。」
二人は無言のまま、帰路に就いた。いつもなら、由美子の自宅のアパートまで、送ってくれるはずが、それもなかった。由美子にとっては突然の破局だった。
由美子は、帰宅してからずっと黙っていた。彼女の頭の中で、雄二の呟きと絶望した眼差しと由美子に向けた背中、声をかけてきた男の顔、いろいろな思いが回り巡っていた。
皆が寝静まった頃、由美子は玄関先で星を見上げていた。
「なにさ。男なんていくらでもいるさ。」
そう言う由美子の頬には涙があった。心配そうに由美子を見ていたミサヲは、由美子の後ろに来て彼女の肩を黙って抱いていた。
「そうね。男なんて、いっぱいいるわよね。」
「雄二さんだけが男じゃないわ。」
由美子はそう言い、両手で顔を覆ってしまった。ミサヲは、その仕草で由美子が雄二と別れたことを知った。
「そうね。そうよね。」
由美子を咎めるわけでもなく、諭すわけでもなく、受け入れてただ由美子の気持ちと言葉を待ちつづけていた。色街に育ったミサヲは、その母親に何度かそうして貰ったものだった。また、由美子が雄二と別れた理由も、慟哭する由美子の肩の細さと自らの経験とから、色街でしか稼ぐことしか知らない女の悲しい諚であると、理解していた。寝入ったはずの朱璃は二人のいない寝床を見て、外の様子を伺った。その時、玄関先から聞こえて来た由美子の慟哭とポツリと言った言葉が心に重くのしかかって来た。
「彼を裏切りたくなかったわ。でも、わかってもらえるはずもないし…。そうでなければ、払うお金もないし。」
朱璃は、母と姉との涙の理由を姉の言葉で理解した。朱璃ほどの洞察力があれば、当然に分かることとだった。多額の治療費がどこから出ていたか。それは、母の稼ぎだった。そして、今では姉まで稼がざるを得なかった。朱璃が知った現実は、自分のために家族が涙を流していたこと、また、自らを含めた女の立場の弱さだった。
夏休みも中盤となって、朱璃はようやく普段の生活ができるまでになった。朱璃は中学一年生となっても授業に出られていなかった遅れを取り戻したいと言って、高二の瑠海男を付き合わせていた。とはいえ、朱璃は元気になるとともに、再び真面目とはいえない悪戯っぽい態度をとるようになっていた。最近は、瑠海男が閉口するほど、好奇心にあふれていた。
お盆の土曜日、八月のお盆の午前中で学校を終えた瑠海男は、自転車を飛ばして墨田の飯塚家に来ていた。
「失礼します。あれ、おばさんは?。」
「買い物と、そのままおっちゃんとのお仕事だって。」
「由美子さんは?。」
「お姉ちゃんのこと?。なんで名前で呼ぶのよ?。『お姉ちゃん』でいいじゃないの?。」
「じゃあ、お姉さんは?。」
「何が『じゃあ』なの?。」
「はいよ。お姉さんは?。」
「年上のおじさんとデートだって。」
瑠海男は、最近同年代の他の娘たちに上げ足をとられて揶揄われていた。朱璃もそんな年齢になったのかと思い、瑠海男はやれやれと苦笑していた。
四時過ぎ頃、瑠海男は教えながらの自分の勉強に疲れを覚えた。朱璃は、瑠海男の根気が尽きる頃合いを知っているかのように、勉強の中断を持ち出してきた。
「きょうはここまでにしよ?。」
「物干し台の洗濯物を取り込まないと。」
「手伝うよ。」
窓の外に付け足したかのような簡単な物干しざおに、所狭しと洗濯物が干されていた。鮮やかな柄のボディコンシャスのワンピースや靴下など、当然ながら女物の服ばかりであった。中学生まで実家での洗濯干物をしていた瑠海男にとっては、見慣れたものであった。しかし、額紙のような紐のついた小さい布や、男性ものとは異なる位置に切れ目のあるパンツなど、絹製のキメの細かい下着類もあった。この方面では保健体育程度の死んだ知識しかない瑠海男には、それらの下着類は単なる不思議なものにすぎなかった。そうして、ふたりとも、手慣れたように丁寧に畳つつカゴに取り込んでいた。
瑠海男が自宅に帰ろうと片づけて洗面所に行った頃、スリーブレスの白ブラウスに青のミニスカート姿の由美子が帰ってきた。色白の由美子には、青がよく似合っていた。
「今日の相手は、しけた男だったよ。これっぽっちさ。」
由美子は万札五枚を投げ出して、朱璃に愚痴っていた。最近の由美子は愚痴っぽく、ため息ばかりついていた。
「でも、姉ちゃん。男の人から、これだけもらえたら良い方じゃないの?。」
「まあ、一晩じゃなくて、休憩だけだったからね。」
瑠海男は、この会話は何のことかと不思議に思っていた。
「洗濯物を取り込んで置いてくれたのね。ありがとう。」
「うん、瑠海男ちゃんも手伝ってうくれたよ。」
「あれ、瑠海男ちゃん、いたのぉ⁈。朱璃、あの下着も瑠海男ちゃんが取り込んだの?。」
「そうだよ。」
素っ頓狂な声で由美子が声を上げた。瑠海男を見つけた由美子は、失敗したという顔をしながら声を掛けてきた。
「あ、あの下着は、私のものなの。商売道具。…,私は、男の人からこうやってお金を貰うのよ。」
瑠海男は、由美子の美貌からみて、モデル料か何かなのだろうと、想像していた。
「由美子さんは綺麗だから、いいね。」
「そうね。実技付きのモデル料のようなものね。」
由美子は、いつになくイラついたように続けて答えた。
「一緒に寝てあげるのよ。」
「お姉ちゃん!どういうこと?。」
朱璃は慌てて姉に声をかけた。朱璃も知らないことになっており、実際最近知ったばかりのことだった。もちろん、それは、瑠海男が当然知らない姉の秘密だった。瑠海男はポカンと口を開いたまま、事態を理解できないでいた。しかし、由美子は構わず続けていた。
「保健体育で、女の子の身体も勉強したでしょ。何のために、ここがあると思っているの?。」
股間と発達した胸を指し示した由美子の言葉の意味を、瑠海男は、突然生じた自分の体の反応で初めて理解した。紅潮した瑠海男の顔を見て、由美子は、知識と弁舌があるにしてはとても初すぎる反応だな、と一瞬感じられた。
「あのね、この世には男と女としかいないのよ。男は両手に余る女の胸を掴み、女は両手に余るお金を掴む…。瑠海男ちゃん、いずれは良いことも悪いことも、知ることになるのよ。だから、今、着替えついでに教えてあげるわ。」
すくっと立つと、由美子は瑠海男の前で着替え始めていた。つい先程まで、瑠海男は女性の身体をあまり意識したことがなかった。また、瑠海男は、母親や幼い妹の下着姿は見慣れていたので、最初は違和感がなかった。しかし、豊かな色白の素肌の丘を抱えたブラや、白い額紙のような小さな布のみを履いた姿を見て、またそれらを脱いだことで明らかになった使用方法と、身につけていた由美子の姿と、商売道具と由美子が言った言葉とに、さらにショックを受けた。瑠海男は、もう由美子の顔も、朱璃の姿でさえも、まともに見ることができなくなっていた。急いで反対側を向いた瑠海男だったが、それにお構いなく由美子はそのまま身体を彼の背中に押し付け、腕を首に回していた。長い乱れ髪が瑠海男の顔に掛かり、彼はその女の匂いにむせそうだった。それでも、頸を抱えられた瑠海男は動くことができなかった。紅潮したまま、耐えるように無言で下を向いた瑠海男の姿を見て、朱璃は由美子に抗議していた。
「お姉ちゃん、私もショックなことだし、瑠海男ちゃんには刺激が強すぎるよ。瑠海男ちゃん、大丈夫?。」
そう言いつつ朱璃は姉の肩に手を掛けて止めようと必死だった。それでも、由美子は体が揺らされても瑠海男の首を離さなかった。朱璃のいることで衝動に何とか耐えていた瑠海男は、下を向き、目を瞑り、絞るように言った。
「写真みたいに綺麗、だね…。多分、カメラマンなら平気なんだろうね。でも、女の人の水着の写真も……見たことのない僕には、耐えられない。」
由美子はようやく瑠海男を離した。これほどモーションをかけ続けたのに、応じない瑠海男が焦れったく、愚かに見えた。
その姉を未だ押しとどめつつ、朱璃が庇うように言った。
「瑠海男ちゃん、恥ずかしくなるのが普通なのよ。」
しかし、瑠海男は、下を向いて凍りついたままだった。
「でも、ちょっと前までは、由美子さんの姿を見ても平気だった。もう、今は身体が言うことを聞かない。…僕、帰るね。」
言葉少なに、瑠海男は飯塚家を後にした。残された朱璃は当惑していた。
「お姉ちゃん、瑠海男ちゃんはとても真面目な人よ。だから、何も言えなくなっていたわ。あんな格好を見せなくても良かったのに。」
由美子は、瑠海男が帰ってしまったことに驚いていた。体を張って瑠海男に迫って見たのに、悲しくなるほどに瑠海男は手を出さなかった。客の男たちも、同じクラスの男子達も、由美子の身体目当てだけの反応しか見せないのとは違い、瑠海男の反応は、あまりに堅苦し過ぎだった。弱虫なのだろうか。
「瑠海男ちゃんは、ウブすぎるわ。勉強だけできても、ダメよ。弱虫だわ。」
「でも、瑠海男ちゃんは、意地悪されても、邪魔されても、病院へ見舞いに来てくれたわ。いろいろなことをよく知っているわ。勉強もよく教えてくれるし。」
「そうかもね。でも、女の子のことを知らなさすぎるわ。相手にしている女の子は、あんたぐらいじゃないの?。私とは勉強の話以外は、なかなか話をしないし。だから、男かどうか試してあげたのよ。」
由美子の期待とは裏腹に、瑠海男は何の行動もとらなかった。由美子は、瑠海男の引いた態度に単純な男とは異なる何かを感じ、混乱した。また、自分が何故あんなにも酷い態度をとったのか、わからなかった。瑠海男と朱璃に嫉妬を感じたのか。その考えに至った時、彼女は、素直ではない自分と、悪い性的影響を与えてしまった行為とを思い返していた。
「お姉ちゃん、瑠海男ちゃんに謝ってよ。もう来てくれないかもしれない。」
朱璃は姉の行動に驚き、瑠海男の紅潮した顔を忘れられなかった。また、自らの日々が瑠海男無しとなる予感に、気持ちが大きくおちこんでいった。
その夜から瑠海男は、ほぼ毎夜何度も夢を見た。由美子の白く豊満な胸と腰は、現実そのままだつた。しかし、瑠海男に何度もショックを与えたのは、中学生となった朱璃の幻だった。瑠海男も、由美子のスタイルの良さは分かっていた。しかし、そんな由美子の夢をを退けても、その後の夢は細身ながら女らしくなった朱璃が、両腕を瑠海男の首へ回して寄り掛かってくる艶めかしい姿だった。妙に現実味のある朱璃の姿が、瑠海男にショックを与えて、後ろめたい快感が瑠海男を何度も苦しめた。次の日、瑠海男は、家庭教師のために朱璃の許へ行こうとした。しかし、朱璃までまともに見られなくなってしまった自分に自信をなくしていた。
この年代の健全な男子であれば、戸惑いつつも楽しんで過ごしているのかもしれなかった。しかし、グラビア漫画などを遠ざけて、ひたすらいじめに耐えつつ清貧と勉学に努めてきた瑠海男には、もともと女性に対する免疫が皆無であった。瑠海男は、病気の朱璃を忘れなかった。忘れられなかった。それでも、突然に意識した朱璃の姿への想いと衝動を、自らを板で叩きのめして抑えようとした。しかし、それも叶わず、自己の体の制御に自信を失った瑠海男は、飯塚家に近づくことさえ出来なかった。
第七章 慈しみ
朱璃の予想通り、瑠海男が飯塚家を訪うことはなくなった。朱璃にとって、瑠海男は身近な空気のようなものだった。それだけ瑠海男は朱璃の明るさの源、生きる源だった。そのためか、中学一年の秋に予定された墨東病院での抗ガン剤治療にも、朱璃は投げやりな態度だった。それでも、ミサヲに促されて、再び始まった朱璃の抗がん剤治療が始まった。
一人一人のガンは、それぞれ個性があり、多様な抗ガン剤のどれが適切かを探り選択される。それでも、抗ガン剤は段々効きが悪くなる。今回の抗ガン剤治療は、効きの悪くなった上に、朱璃が生きる気持ちを無くして、予後はよくなかった。医者は、より強い抗ガン剤を用いることにし、築地のがんセンターに転院して続けられることになった。そのため、飯塚家は、留守がちとなった。
三月になって、瑠海男は、一度飯塚家の前を通ったが、窓は閉め切られ、やはり留守であった。そのまま、かつて、朱璃が美奈子家族とともに通った四つ木の教会にいってみても、美奈子は朱璃が中学校を長く休んでいるとしか知らなかった。そこで、瑠海男は、道場に岡田雄二を訪ねた。瑠海男は、最近道場の練習を休み続けていた。
「雄二さん、失礼します。」
「おう、瑠海男じゃねえか。」
「今後の練習のご相談に、参りました。」
雄二は道場の師範代に位置付けられるほどになっていた。
「勉強が忙しくなったか?。」
「はい、授業についていくのが精一杯で、今までも休みがちです。すっかり余裕がなくなってしまいました。」
「分かった。まあ、時々練習をしにきなよ。」
雄二は、いつものように瑠海男に接していた。
「ところで、雄二さん、朱璃ちゃんは、今どこへ行っているのでしょう。家にもいないし、墨東病院にも入院して居るわけでもないし。」
突然の瑠海男の質問に、雄二は戸惑った。雄二にとっては苦い過去だった。苦しそうな表情を浮かべ、雄二は言った。
「瑠海男、俺は最近由美子さんとは会っていないんだよ。」
「えっ、どうして?。」
「彼女は俺を裏切ったんだ。」
「何か、事情があるのではないでしょうか?。」
「事情?。そんなのあるわけない!。」
雄二は急に大きな声をだしていた。苦悶を絞り出すように雄二は語り、涙声で怒りを露わにしていた。雄二にとって、自らの存在をかけて愛した娘に裏切られたことは、彼が生きようとする力を根元から断つようなものであった。
「彼女は、夜の客を取っていた。それも、体を売っていたんだ。」
瑠海男は、雄二の哀しい怒りに戸惑った。瑠海男は由美子が急に瑠海男にあられもない姿を晒した事件を思い出した。それとともに、なぜ由美子がそんなことをしていたのか。朱璃はそれを知らなかった様子だったが。由美子の裸身と、疑念と、衝撃と、朱璃への心配とが、渦のように瑠海男の頭を巡っていた。そして、たどり着いた推測は、命の危ない朱璃のための過大な治療費と、そのための口にできないほどの工面方法だった。
「雄二さん…。待って下さい。その表面的なことで切り捨てないでください。」
「彼女は男を客としていたんだ。」
雄二は、瑠海男にいって聞かせた。別れたものの、未練がましく由美子を尾行したこと、由美子の下校後の行動と客引き、安宿へと入っていく日常、客だった男達の会話、金のやりとり。その一つ一つをいう雄二は、哀れな涙声だった。
「彼女は俺の信頼を裏切った、操を金のために捨てたのだぞ。」
「そうです。よくわかりました。金のために。彼女の家族、特に朱璃ちゃんの癌のことはご存知のはず。金が朱璃ちゃんを死の影から逃がすための金であっても、許さないのですか?。心まで売ったとは思えませんが。」
「瑠海男!。金など、なんとかなるはずだ。それなのに、何処の馬の骨だかわからねえ男達に体を触れさせるなんて。俺が彼女と一緒の時に、どんな気持ちでずっと彼女に触れなかったか、耐えたか、わからないのか。」
「耐えた心は、わたしも男ですから分かります。でも、貴方は、他利行をなさってはいても、貴方の正しさしか考えていない。何故、由美子さんの心の中を見ようとしないのですか。」
「心の中は、行動でわかるさ。心が清ければ、体を売ろうなどと考えないはずじゃないか。心も清くないから、あんな真似するんだ。」
「彼女の心の有り様を考えてくれませんか。」
「清さを軽視する心をか?。それは正しいことか?。」
彼らはしばらく激しくやり取りをしていた。互の気持ちはよくわかっていた。しかも、彼らは飯塚家の苦しさもわかっていた。それでも折り合えるところは、なかなか見出せなかった
「しかたがないです。毘沙門天様のところへ行きましょう。聞いてもらいましょう。」
「わかった、そうするしかねえようだな。」
夜の御堂は、紫の静けさをたたえたところだった。二人が御堂の中に入り、座った途端、すぐに声が聞こえていた。
「雄二よ、なぜ苦しいと感じるのか。」
「清くないから。清くなければ許せない。」
「許せないのか?。」
「正しくない。」
「なぜ正しくないとする?。」
「神聖なことを軽んじたから。」
「なぜ軽んじたか分かるか?。」
「家族の治療費の為。そんなことで、神聖を侵すべきでない。」
「そうか。では、由美子を助ける気はないのか?。」
「彼女を助けることはいくらでもしましょう。でも、問題は彼女の清さです。清くない以上、裏切られたと言うしかないです。」
横から瑠海男は口を挟まないでは居られなかった。由美子が、あまり親しくもない瑠海男に示してくれていた配慮と思いやりは、それほど瑠海男に強い印象を残していた。
「その見方は、あまりに一面的です。」
雄二は、煩そうに瑠海男の方に顔を向けた。雄二は、そのまま黙まってしまった。
「ここで何が一番大切なことですか?。己の清さですか?。彼女の清さですか?。彼女のしたことで、心が汚れていると?。彼女の菩提心ですら問題にもしていないし。清くないことは、つまり彼女の菩提心が最低であるとでも言うのでしょうか?。」
低い声は、瑠海男の方に向けられた。
「菩提心のことは、問題にしていない。しかし、お前はまた難しいことを言いだしたな。菩提心とな。それにしては、お前は迷いだしてしまったな。菩薩様に教えられながらも、たった一人の人間に拘り、菩提心から遠く迷い出てしまった者よ。菩提心とな。お前にも、彼女にも、菩提心があれば、それに応じて他者への配慮のこころも深まり、いずれ彼岸に至りて救われるだろうに。」
「そうなのですか。毘沙門天様、悟りを得ようということでは足りないのではないですか。他者への慈しみは菩提心に伴って深まるものだそうですが、菩提心が最低であっても、他者への慈しみが、とても深い場合もあります。そうではありませんか。」
「そうであろうか?。煩悩にまみれ、人の業にドップリ浸かって生きるものか、果たして苦しみや悟りに思いを致すであろうか。先ずは、彼女が自身の苦しみに気づくこと、苦しみの原因に気づく事が必要じゃ。そして、その苦しみを変わりゆくものとして受け入れ、悟りを得ようとすること、つまり菩提心をもった先にしか救いはない。救いは、個々の人間の悟ろうとする心、菩提心が関係する。そして、個々の人間には様々な菩提心がある。空海聖人が明らかにしているが、人間の悟ろうとする心、つまりお前の言う菩提心の姿勢に応じて十に分けられるのじゃ。煩悩にまみれた心。道徳に目覚めた境地。俗を超えようとする境地。教えを聞いて悟りを極めようと求める境地。執着と絶望がある故に毎日の生活にて生老死に苦を感じると悟った境地。あらゆる存在が、主観的なものに過ぎず、生滅を繰り返す無常なものと悟った境地。現象は相補的に依存・相対的に成立しているだけの幻影に過ぎず、執着すべきでないとする境地。そして、悟りの三つの境地として、一道無為心、極無自性心、秘密荘厳心があるというておる。それぞれが位置する立場や状況のなかで、森羅万象における何らかの役割を果たしているのじゃ。曼荼羅ともいえるかのう。これは人間にとって救いである浄土をもたらさんとする最高の知恵じゃ。その知恵から見て、雄二は、道徳に目覚めた者じゃ。清さを求めるところは、そこから来る。しかし、雄二が問題にした娘は、その清さを蔑ろにした。煩悩にまみれ、人の業にドップリ浸っているものと言えよう。」
「では、煩悩と苦しみの渦の中にあって救いなど自覚出来ない人は、他者への慈しみは持てないのですか。また、それで菩提心とは別に他者への配慮の心が起きることはないのですか。人間の心を眺めてみれば、そこにあるものは偽善・独善・怒り・怨み・妬み・虚偽・疑い・不信・侮蔑・優越感・エゴ・悲観・劣等感・逃避・放棄・無責任・・。優れていると言われている多くの思想や感情と呼ばれるものには、これらが隠れており、自分のみが正しいと考える軽蔑的で短絡的で排他的なものが多いです。これらは、菩提心からは遠く、苦しみの原因にさえなるのに、優れた考えとして尊重されることすらあります。逆に、優れた考えなど持たない業にまみれた愚かな女に、憐れみがないとどうして言えるのですか?。」
「憐れみは、菩提心から由来するものじゃ。しかし、お前は何もないところから、憐れみの心が生じるというておる。」
「そうです。菩提心から憐れみが生じるということでは、何かが決定的に足らないような気がします。菩提心の程度とは独立に、彼女がなんのために生きようとしたのかを、見極めるべきではありませんでしたか?。もし、彼女が自分のことよりも他人のことを考えていたのであれば、どう扱う考えるべきでしょうか。例えば、自分が幸福であることが他人を害さないよう思っているかもしれません。菩提心の程度が煩悩にまみれた見すぼらしい虫のような存在であったとしても、他の者への憐れみがあるとするなら、考慮すべきところが多いにあると考えるべきではないですか?。」
「瑠海男よ、その発想はどこから来るのか?。菩提心が高くなるほどに、他の誰かを大事にできる慈悲が生じるようになるものだが。」
「では、雄二さんはどうなのですか?。他の者はどうなのですか?。ましてや、私のようなダメな人間は、菩提心などあるはずもないし。」
「彼は自分の道徳に目覚めたものと言えよう。清さを求めるところは、そこから来る。しかし、雄二が問題にした娘は、その清さを蔑ろにした。煩悩にまみれたものと言えよう。」
「確かに、彼女は煩悩にまみれているでしょう。しかし、彼女の行動には、すくなくとも妹を大事に思う心があります。虫のような悟りに遠い存在が、何故そのように考えられるのでしょうか。」
「瑠海男よ。菩提心の高まりがあってこそ、慈悲も深まると言える。煩悩にまみれたものは、他者への愛を持つことは無い。それゆえ男に身を任せたといえよう。心遣いに見えたとしても、愛欲からのものに過ぎぬ。」
瑠海男の疑問は解けなかった。彼がこだわっていたのは、煩悩にまみれた存在が何故他の者を大切に思うことが出来るのは、なぜか、ということだった。まるで、他の誰かが強い憐れみで大切に守り、それが彼女を突き動かしているとかしか考えられなかった。帰宅してからも、瑠海男はずっと考え続けていた。
第八章 犠牲
一九六三年九月のある日、朱璃は四つ木のキリスト教会にいた。再発した太ももの痛みは、以前、もう片方の足で経験済みだった。明日からの闘病に備え、自らの最後の外出と覚悟しての外出だった。すでに瑠海男と会えなくなって一年近くとなり、朱璃は、鵜飼家の人々とともに四つ木の教会へ通っていた。しかし、この日は中学校の帰り道に、四つ木まで足をのばし、夕刻の人気のない教会堂で祈りを捧げていた。
「私は、すでに片足をなくしました。私の残りの脚を助けてください。そして、主よ、どうか、瑠海男ちゃんとあなたの御言葉を分かち合えるようにしてください。」
朱璃はどのくらい祈っていただろうか。すでに七時に近い時間帯で、ただ、黙って教会堂の暗い静寂に自らを埋没させていた。その呻きのような祈りを誰が聞いていたであろうか。しかし、朱璃の髪の毛に、何かが触れたような、かすかな風のような動きがあった。そして、風がささやいたように感じた言葉があった。
「あなたに恵みは十分にある。
あなたは、弱いときにこそ強い。
また、私はどんなときも見捨てない。
あなたを決して見捨てない。」
朱璃は、一礼をして静かに教会堂を去っていった。もう、礼拝には来られないと覚悟していた。
一九六三年の一二月中旬、瑠海男は一期校と二期校の絞り込みを意識して期末テストを受けていた。進路を決めるための最後の期末テストを終えた彼の顔は、疲れつつも達成感と開放感とにあふれていた。三高での期末テストを終えた瑠海男は、校門から線路沿いのキャバレー街を通りすぎながら、錦糸町駅へ向かっていた。その道端で、ロンドンと言うキャバレーの前を通り過ぎるときに、店から遠慮がちに瑠海男を呼び止める若い女の姿があった。厚手の白い毛のコートに身を包みながら、豊かな胸を開けた青のドレスとけばけばしい化粧とで、水商売の女であることはわかった。
「村崎瑠海男ちゃん?。」
瑠海男は体が凍りつき、その女の方を疑い深く凝視していた。深めにかぶった帽子で、顔の様子までは分からなかった。しかし、声は由美子そのものだった。
「由美子さん?。どうしてここに?。」
由美子はそれに答えず、駅の方へ歩き出していた。瑠海男は、それに合わせて歩き出した。三高の制服は、色こそ黒いが帝国海軍士官のそれと似ていた。一九五センチまで背が伸びた瑠海男の制服は、新調したものであり、艶消しの黒色は深く映えていた。由美子は、先を歩く瑠海男の背中を見上げながら、一年以上も見ていない瑠海男の、その背の大きさに驚いていた。
「背が高くなったのね。」
「ええ。うどの大木です。」
瑠海男は、それだけ返事をした。戸惑っている心の内、学生としてふさわしくないのではないかと言う危惧、様々な思いが渦巻いていた。しかし、由美子にはできるだけ皮肉に聞こえないように、トーンに気を使って答えていた。二人は、錦糸町駅前の魚屋の列を越え、錦糸公園に向かって歩いていた。
「朱璃が治療を受けたくないと言うの。友達からも離れて、一人で築地の方へ入院しているのだけれど。」
公園のなかほどで由美子の言葉を聞き、思わず瑠海男は立ち止まった。瑠海男の目の前に由美子が立った。瑠海男は思わず由美子の目を見た。すぐに視線を避け下に外すと、由美子の豊満さに顔が赤くなった。横を向かなければ、冷静さを失ってしまいそうだった。
亀戸天神までの道すがらに瑠海男が聞いた由美子の話では、朱璃は中学二年となった今年、九月になって残存する脚も切断する事態となったらしかった。その後も、今も学校へ行くこともできないまま築地で抗がん剤治療を続けてきたと言う。しかし、死ぬ事が運命と言いはじめ、この二ヶ月ほどは治療を拒み続け、家族の説得もままならないということだった。瑠海男は母のミサヲや姉の由美子が、どんな思いで朱璃を支えてきたかを想像していた。
亀戸天神境内は、カラスや河原鳩たちの騒ぎで騒がしかった。瑠海男は、朱璃への思いばかり巡らせ、境内全体をにらんでいるかのようだった。そうすると、先ほどまでのカラスや河原鳩たちの騒ぎが、瑠海男の前で急にしずかになった。砂利を歩む足音と由美子の声だけが聴こえていた。
「朱璃は、今では家族に背を向け、目も開けてくれません。瑠海男さん、虫のいいおねがいだとはわかっております。でも、一目だけ朱璃にあってくれませんか。」
風に吹かれる瑠海男の心は、穏やかではなかった。瑠海男は自分に自信がなく空回りのまま、気持ちばかり先行していたが、あまり上手に話し始められなかった。
「由美子さん、あちらへ歩いて行きましょう。」
緊張の余り、歩くのが早くなっていた瑠海男は、芝に面したベンチへ、由美子を案内した。由美子にしてみれば、迷惑な話を持ってきた立場もあり、昔の瑠海男に対する仕打ちの引け目もあって、早足で先を行く瑠海男の態度から、瑠海男が由美子を完全に避けて居ると思わざるを得なかった。ようやくにベンチへ座った二人だったが、ぎこちない会話は事務的に続けられた。それでも、由美子は瑠海男に頼み込まないわけにはいかなかった。
「瑠海男さん、先ほどのお願いを聞いていだだけないでしょうか。受験前の大切な時期であると、重々承知の上でのお頼みです。」
「なるほど。」
瑠海男は、自分の心の乱れを由美子に知られたくなかった。一言で返事をして、あとはしばらく黙っていた。昔を見ようとするかのように池の方を見つめていた。由美子は知る由もなかったが、瑠海男は、あの時以来、一八歳になってもストイックなままで、今も毎日のように見る由美子と朱璃の悪夢のせいで、由美子に限らず女性を前にして冷静ではいられなかった。しかし、瑠海男にとって、由美子は実際に妹を助けつつ生活している立派な社会人であり、瑠海男はただ机上の救いを思索している愚か者だった。瑠海男は、どうしても由美子に聞きたかった。
「雄二さんから、お二人が別れたことはお聞きしています。できれば、お母様にこの役をお願いして、あなたは私のところへなど来たくはなかったのでは?。ご覧の通り、私は若い女性をまともに見ることができません。でも、来てくれて、…会えて嬉しかった。」
由美子はこの言葉に戸惑い、愚かな頭の中には言いあらわせるような言葉がなかった。
「私も、母も、春を売ってきた学のない女です。ですから、貴方に声をかけてから、自らの身の程を思いだしています。でも、後生です。どうか妹を助けて下さい。」
瑠海男は、この言葉で十分だった。煩悩にまみれていると誰もが言う欲の世界で、由美子やその母親は底辺の生活をしている。しかし、彼女らは、ただ人のために自らを省みずに生活していたことがはっきりしていた。瑠海男の自らの思いなど叩きのめせばよかった。
「どこへ行けば良いのですか。今すぐに行きます。メモをくださいませんか。」
築地のがんセンターは、設立まもないところで、朱璃の病室は空っぽの四人部屋の一角だった。酸素テントの下で朱璃は輸液を受けつつ眠っていた。一年四カ月ぶりに会った朱璃は、幾分おとなびていた。瑠海男は、眠って居る朱璃を起こさぬよう傍に座り込んだ。 朱璃の体は、顔、腕、腰などはやせ細っていた。病室の朱璃を前にした瑠海男は、いつかまぼろしで見た朱璃の未来を思い出していた。病室を出ると、ミサヲと目が合った。互いに軽く会釈をすると、待合室へと導かれた。そこには普段着に着替えた由美子も座っていた。
「彼女は、もうダメなのかもしれないと、思います。」
ミサヲは疲れ切った表情を隠すように、笑顔を瑠海男に見せた。
「朱璃や私たちとここまでお付き合いくださり、ありがとうございました。」
瑠海男は、自分の身体の反応を打ち叩いて抑えてでも、もっと早く来るべきだったと、後悔した。
「朱璃は、貴方が来なくなってから、ふさぎ込むようになりました。それでも朱璃は、残る足を切断した後も、友達からもらった本を支えにしてきました。でも、治療と病気の進行によって疲れが酷くなって、今はそれも見ることすら出来なくなりました。そのあとは、祈っては疲れ切って眠る、その繰り返しでした。そこまでして、何を祈っているのか、聞いたら、貴方と雄二さんと私たちのために、祈っているというのです。」
「そうだったんですか。」
瑠海男は、後悔するばかりだった。その瑠海男にミサヲが手渡したのは、朱璃が美奈子から貰った聖書だった。付箋が多く差し込まれた各ページは、手垢と涙の跡にまみれていた。瑠海男は朱璃がいつか語っていた言葉を思い出した。
「私には辛くても、強く生きるための全てが、恵みとして与えられていたの。」
誰が朱璃に恵みを与えてきたのか。それは、主なる神、デウス様。それは、瑠海男の祖母ルイの言っていたことと同じだった。瑠海男はふと考えた。
「一方的な恵みが与えられて、他の者へ慈しみが深くなる。それって…,悟りの深さとは関係がないではないか。」
その時に目に入った言葉は、ヨハネ伝と呼ばれる書簡の一ヶ所だった。
「わたしがあなたがたを愛した。あなたがたも互いに愛し合いなさい。」
ミサヲは続けた。
「愚かな私たちも、朱璃の祈りから、人のために生きる喜びを知りました。でも、二ヶ月前に、抗がん剤治療に限界があると言われて、彼女の心が折れてしまいました。祈る言葉さえ、失ってしまいました。」
瑠海男は、ここに至って自ら求めていた問いに、答えを見出した。煩悩と苦しみにまみれ、悟りから遠くても慈しみを与えることができることを、またそれは愛されているからこそできることだった。しかし、瑠海男は、朱璃の絶望的な状況も同時に知った。これでは、朱璃の人生が、瑠海男に慈しみを伝えるためだけに存在していたということになる。こんな愚かな男のための人生だったとは。
朱璃は、ふと目が覚めた。部屋の中に、瑠海男が来たように感じたのだった。知らずに、今の願いを口にしていた。
「私は、両足をなくしました。でも、瑠海男ちゃんに会えるまでは、私の命だけはお護りください。家族のため、瑠海男ちゃんのために。」
瑠海男は、病室に戻るといつの間にか目を覚ましていた朱璃がいた。酸素テントの下で、彼女は瑠海男を見て、力無く喜んで見せた。窓の外は、すでに暗く、星が出始めていた。瑠海男は、思わず歌を囁いていた。
「見上げてごらん。
夜の星を。
小さな星を」
瑠海男はいつまでも歌って聞かせていた。そして、心の中で、聖書の言葉を思い出していた。
「恐れるな、虫けらのようなヤコブよ・・・
わたしはあなたを助ける・・・」
第九章 模索
一九六三年の大晦日、瑠海男は帰省客に混じって、大船渡にむかっていた。祖母ルイに会うためだった。東北線の一関行き客車は、蒸気機関車の臭いが立ち込めていた。年末の帰省ラッシュが終わろうとしているにも関わらず、郡山までは立ち席の客が多数いる混雑だった。制服の瑠海男は、客車の通路に座り込みながら、ミサヲから渡された朱璃の聖書を読みふけっていた。いつしか瑠海男の目の前には、倒れてもなお祈り続けた朱璃の姿が浮かんで来た。祈りとはなんなのか、祈って願いが必ずしも叶うわけではない。では、祈りはなんのためなのか?。瑠海男は心の中を整理しつつ考え続けていた。
一関に降り立つことは、瑠海男にとって初めてのことだった。跨線橋を渡ると、貨物列車のプールされている側の大船渡線ホームは、雪が舞ってまっていた。
盛駅では、伯母の朋子が出迎えに来てくれていた。
「遠いとご、よぐ来たな。」
「伯母さま、お世話になります。」
海岸から遠く田老の方へ盛街道を上がりきったところに、祖母の家はあった。
「どうしたね。なすて電報さよごした?。なんか急ぎか?。大学受験のこどか?。」
ルイは驚いたように、しかし、優しい眼差しで瑠海男を迎えた。ルイの居室に通された瑠海男は座布団から降り、祖母に向かって土下座して頼み始めた。
「僕の大切な友人が死にそうです。私に祈りを教えてください。助けてください。」
目にかけた孫が突然土下座した姿に驚きながらも、ルイは声をかけた。
「どうしたね。そんなに難しいことではねェ。まずは話してくれろ。」
瑠海男は朱璃のいままでのことを、懸命に説明した。
「分がったよ。よく話してくれた。ただ、オメェは受験を控えているから、あまり時間はねえど。それを忘れるな。」
ルイは、噛んで含めるように、孫に言い聞かせた。
「さて、これがらいうごとは、大事なことだべ。ヨオグおぼえておぐんだぞ。おめは、いい友人に巡り会えたな。その友人の方、いや、そのむすめっこは、デウス様のことをよくわがっている子じゃ。その娘っ子には神様、つまり聖霊様が共にいで、オメェが真の恵みを見つけるのを待っていたんでねが?。」
瑠海男は、朱璃を友人と説明していながら、顔を赤くしていた。朱璃は、彼にとって友人と言うより、家族よりも切り放ち難い半身だった。ルイは孫の初々しい反応を見ながら、続けていた。
「それからな、デウス様は、おめえに必要なことは、すでにご存知じゃ。だから、こう祈れば良い。」
「天におられます父なる神様、
聖名をあがめさせたまえ。
御国を来たらせたまえ。
・・・・・・」
「それがらな、おめえは四つ木教会とかいう教会さ結局通わなかったが、そこさ通う美奈子さんとかいう、朱璃さんの友人と共に、見舞えにいつてみれ。」
年が明けて、一九六四年の初めての日曜日。瑠海男は制服着用の上で出かけた。朱璃が通っていた四つ木教会は、瑠海男の住む北向き地蔵裏のアパートの近くだった。そこに、礼拝に来ていた川崎牧師と美奈子家族を訪ねた。昼近くに行くと、会堂から歌の声が響いていた。門を開けて庭へ入ると、遊んでいた子供たちが集まって来た。その中の子供達の中心に、美奈子がいた。
その午後、美奈子と父親、川崎牧師は、瑠海男とともに築地の癌センターに朱璃を見舞った。朱璃は、酸素テントの中で、喘ぎつつ点滴を受けていた。それでも、美奈子と瑠海男の顔を見て、喜んでいたようだった。彼らは由美子に一礼しつつ、ミサヲとともに待合室へ向かった。
「朱璃はやっと積極的になってくれました。」
「容体は如何ですか。」
「少し持ち直したんです。もう少し元気になったら、抗がん剤治療を再開できると、お医者様は言ってくれていますし、みなさんのおかげです。ありがとうございます。」
病室では、美奈子たちの祈りが静かに捧げられていた。オリンピックも含め、進歩を感じさせるこの一九五○年代に、テスパミンという抗ガン剤が開発されるなど、医学も進歩していた。その医学に望みを置きつつ、瑠海男は美奈子たちの祈りに慣れない祈りを重ねていた。そして、この年の春、瑠海男は千葉大学の工学部に合格を果たし、朱璃は、長い入院生活を終えることができた。
一九六四年の夏。朱璃は中学三年の夏休みだった。オリンピックの飾り付けが街に溢れていた。その飾り付けは、夏の若い心を積極的にさせ、様々な挑戦をする気にさせた。その季節を前に、朱璃は両脚の義足をうまく使って歩けるようになって、再び出かけられるようになった。 朱璃はそれが何より嬉しかった。
「瑠海男ちゃん、土曜日は天気がいいよ。約束どおり、瑠海男ちゃんの大学へ連れて行ってよ。」
「お母さんのお許しを貰ったの?。」
「そんなの関係ないよ。」
朱璃は今朝もミサヲと喧嘩をした様子だった。大学一年となった瑠海男は、しばしば朱璃の家へ寄っていた。この夕方も、ひぐらしの鳴くそんな日だった。
「じゃあ、連れて行くけどね。」
「あっ、もしかして、先約があったの?。だれとなの?。同級生?。同じクラスの女の子?。」
「ちょっと、待った。何言ってんの?。化学系の大学生だからね。いつも薬品しか扱っていないよ。それより、なんで、お母さんに食ってかかっているのさ。」
瑠海男は公衆電話からミサヲの職場に連絡を取り、心配そうなミサヲを安心させるように電話口で答えていた。
「最後まで安全に送り届けますよ。」
その土曜日、京成線の荒川駅は、オリンピックマスゲームの練習に参加するらしい幼稚園児たちで、ごった返していた。かれらは、輪っ、輪っ、輪っ、みんなの輪……と歌いながら電車に乗り込んでいった。
「かれらは千駄ヶ谷へいくんだろうな。」
瑠海男と朱璃は、彼らの乗った新橋行き電車を見送っていた。その後に来た千葉行きにのり、みどり台駅を降り、総武線の山側にあるキャンパスへ向かった。朱璃は両脚とも義足であるにもかかわらず、車椅子を嫌がった。若い学生たちが闊歩するキャンパスの群衆の中で、朱璃は瑠海男の腕を掴んでいた。その時から、瑠海男の左腕を頼りに歩むようになった。瑠海男は、若い娘と腕を組むことに慣れておらず、赤面しながら言い張っていた。
「恥ずかしいけど、助けるために腕を貸しているんだからな。」
「わかっているって。でも、助けてくれるなら、もっとしっかり支えてよ。ここのカップルは、みんなそうしているわ。」
朱璃にしてみれば、瑠海男は四歳も歳上なはずなのに、変な見栄を張って女性とろくに話もできないところが、気に入らなかった。しかたなく、朱璃がイニシアチブを取らざるを得ないが、朱璃にしてみても、自らの抵抗感を乗り越えながら瑠海男の左腕を自分の腰骨の位置に誘導していた。こんな朱璃の成長振りに戸惑っていた瑠海男は、余計に朱璃のその態度に困惑していた。
さて、工学部などを一通り歩きまわってから、二人は、埋め立ての始まろうとしている海浜に出ていた。周りにも、ポツポツとカップルが佇んでいた。海風は短めの朱璃の髪を瑠海男に寄せていた。瑠海男は、休憩用の折り畳み椅子を広げて、朱璃を座らせようとした。しかし、朱璃は瑠海男を座らせ、その膝の上に座って微笑んだ。ショートヘアを海風に吹かれながら、朱璃は、目をまっすぐに瑠海男に向けて聞いてきた。
「瑠海男ちゃん、どんな女の人が好きなの?。」
「慈しみを受けているゆえに憐れみを持てる人。」
「ふーん?。わざわざ難しい言い方してる。」
朱璃は、不満を感じた。瑠海男は逃げている。何故か?。朱璃を子ども扱いしているせいか?。
「つまり、情け深い素直に聞く耳を持つ女性かな。」
「それなら、私も含まれるの?。」
「お母さんに反発して朝寝坊なひとはどうかな。おばさんに聞いたよ。いうこと聞かないで、ギリギリまで寝坊しているって。情け深いどころか、情けない…………。」
瑠海男は、苦手な話題をはぐらかそうと一生懸命だったが、朱璃は思い切っていた。
「そんなこと!関係無いじゃない?。」
「ごめんごめん。」
「私の事はどう思ってる?。」
「良い子だよ。大切な子だよ。」
「真面目に答えて。」
「どうしたんだい、急に。」
朱璃は、頭の中で色々考えて、結局思い切って聞いてきた。
「瑠海男ちゃん、わたしのことを恋人にしてくれない?。」
「ええっ。」
瑠海男は、ませた言葉だなと思った。また、ちょっとしたやり取りの中にも、女として成長している姿を見せた少女に、動揺していた。
「そうだなあ。次の機会にでも、考えよう。」
瑠海男は朱璃をまだ子供だと思い、ごまかせたと思った。朱璃は次のデートを考え始めていた。オリンピックの年だった。
第一○章 若さ
一九六五年の春先、朱璃は、瑠海男との勉強の時間もあって、高校への合格を果たしていた。
「瑠海男ちゃん、合格祝いは何をくれるの?。」
「気がはやいね。それなら、デートしてあげる。」
「何それ。デートなんて当然でしょ。恋人なんだから。」
「朱璃ちゃん、僕たちはいつから恋人だった?。」
葛西臨海公園は、ちょっとしたスポットであった。水族館へいくと、そのマグロの大群が銀色に光る大水槽は、人間を海の原点に戻すかのような錯覚をおこす。それに見とれて、朱璃は義足をつまずかせた。いつもなら、横にいて腕を支えるはずだったが、たまたま背後に立っていた瑠海男にとって、差し出した腕は前に倒れようとする朱璃に少し遠かった。自分の腕を思わず伸ばした瑠海男は、朱璃の胸と腹を手で受け止め、前のめりで膝をついていた。床に腹ばいになった朱璃は、反射的に両腕を縮め、瑠海男の腕を前に強く抱える形になって、二人は動けなくなってしまった。瑠海男は、柔らかい胸と細い腹部とに戸惑い、朱璃は自分を強く抱える太い腕に戸惑っていた。
「お、重い。」
朱璃は、両脚が義足ながら、瑠海男とのデートのときは車椅子を使いたがらない。この水族館なら、車椅子の方がゆっくりできそうなものだった。
「え?。」
「違うって。この姿勢が苦しいんだよ。う、うごけない。」
モゾモゾと、瑠海男は動こうとすると、朱璃はもっと固まっていた。
「あつ!。」
朱璃と瑠海男は冷や汗をかいていた。二人は自分たちの行動と、その結果想像していたのとは異なる自分たちの反応に戸惑い、驚いていた。そんな驚きのためか、もともと奥手だった二人は、ぎこちなく気まずくなっていた。朱璃は身を硬くし、瑠海男も朱璃の視線を避けていた。それでも、ベンチに二人で座った時に彼女が語るモーセ五書からエフェソ書、テモテ書、黙示録迄の躍動的な解説は、彼を惹きつけた。その教えは、美奈子と彼女が盛んに行く四つ木教会にて教えられていたものだった。二人は我を忘れて話し込んて、目を合わせては顔を赤くしていた。
梅雨の空が隙を見せると、強烈な陽が肌を焼く。再び二人の盛夏が近かった。小松川の高一となった朱璃の試験週間の終わった日曜日、二人は、四つ木の教会に参列したのちに、いつものように立石の図書館へ勉強のために向かっていた。朱璃と瑠海男はそれぞれに学生として、勉強に励んでいた。土曜日の遅くまで、大学に通う瑠海男には、このときにしか、朱璃に会えなかった。他方、この頃から、朱璃は、何かにつき動かされるように、瑠海男を礼拝へ連れて行くことが多くなった。
そんな夏の夕暮れ、二人は、荒川駅から土手の道を歩いた。荒川を行き交う艀をを見ながら、斜面に座っていた。スリーブレスの朱璃は、つばの広い帽子を深めに被りながら、瑠海男に問いかけていた。
「私、瑠海男チャンを信じていい?。」
「どうしたの?。」
「私、頭悪いし、何やってもうまくいかないし、脚も二本切断して義足だから、あんまし働けないし。何の役にも立たないし…。」
「そんなことないさ。今までも、これからも、僕にとって朱璃ちゃんは生きていくための希望だよ。…話したことはなかったけど、中学二年のとき、同級生や上級生から、いじめられていたんだ。覚えているかな。初めて会ったとき、僕は中学二年生になる時だった。僕は、朱璃ちゃんと同じぐらいの身長だったよね。つまり、小さくて痩せていたから、力も弱かった。いつも、弱いくせに刃向かうなと、言われていた。相手に言い聞かせても、虚しかったなあ。余計に、偉そうだと言って、余計に殴られた。どこにも助けがなかった。そのときに、会えたのが朱璃ちゃんとあなたのお母さん。どれだけ、やすらぎがあったか。それが、愚か者へのあり得ない神様の助けだったね。」
「そう、あのときは、少し不思議に思ったの。でも、私にとっても、導きだったのね。ちょうどこんな言葉があるのよ。」
朱璃は、聖書を取り出した。そこには、ヨハネによる福音書とあった。
「父が私にお与えになる人は、身は私のもとに来る。
私のもとに来る人を私は決して見捨てない。」
「これがちょうど私に示された時に、こんなことがあったのよ。一昨年、瑠海男ちゃんが来てくれる前の九月頃だったかな、夢の中で教会堂にいたとき、思いを祭壇にぶつけたのよ。どうして私はこんな目にあうのかって。そうしたら、祭壇から、大きな手が伸びてきて、声が聞こえたの。弱いときにこそ強いって。また、どんなときも見捨てないって。それがこの言葉だったの。」
「そうなんだ…。」
さて、瑠海男はある程度は予想していたが、書き込みが一ページには一つあることから見ると、以前見たよりも増して何回も読み込んでいる事が、窺えた。
「いつも持ち歩いているの?。」
「小学校五年生の頃からね。」
朱璃は、瑠海男の目を覗き込み、そして、空を見上げた。瑠海男は、朱璃が生き生きとしている理由を、これからも教えて貰いたいと感じた。朱璃の肩をガシッと把んだ瑠海男のその想いが伝わって、朱璃は顔を上げられなかった。朱璃は、聖書を一生懸命読むふりをしてごまかした。そんな朱璃の目に、ある言葉がとびこんできた。
「えっ。」
朱璃の声に思わず聖書を覗き込んだ瑠海男も、その語句に驚いた。
「もし、ある人が自分の相手である娘に対して、情熱が強くなり、その誓いにふさわしくないふるまいをしかねないと感じ、それ以上自分を抑制できないと思うなら、思い通りにしなさい、罪を犯すことにはならない、結婚しなさい。」
二人は、思わず顔を見合わせたが、次の瞬間、その語句の意味を理解して、互いに熱く赤面していた。暮れどきのなかなか来そうもない、初夏の夕暮れだった。その後、朱璃は瑠海男に支えられながら、墨田のアパートへの家路についた。
二人の時が経ち、一九六七年の三月、瑠海男は千葉大学の四年になれるかどうかの時期となった。しかしながら、瑠海男は三年生まであまり良い学生ではなかった。朱璃との時間に溺れてもいた。また、文字通り、自動車部の活動と称して、好きな自動車整備をしていた。大船渡のルイ婆が買い与えた箱型の少し古いスカイラインは、一年の時から彼の研究対象だった。大学内の機械工学科工場に持ち込み、後輪はリーフ式懸架を外してしまい、無謀にも、シャフトを組んだリンク機構、いわば複合的に組んだ懸架に置き換えていた。さらに、前輪はストラット独立懸架のまま残したシャシに、低速域用過給器とオクテンセレクターとを装着したエンジンを乗せていた。特に、エンジンオイルは学科で勉強している有機化学の知識を活かして、数種類のエステル化合物を市販の潤滑油に混ぜ込んで、高融点域から寒冷対策までも仕組んで仕上げていた。
この日は、深夜からようやく路上を試験的に走らせる日だった。ところが、エンジンばかり調整し、車内の油の匂いは抜けておらず、ダッシュボードや座席は、古臭いままだった。かと言って、ボディも草緑色の塗装は禿げ、表面のいたるところに錆びが出て来ていた。綺麗なところは、エンジンルームぐらいだったろう。
「よし、乗って帰ろう。」
瑠海男にとっては、冒険だった。
三時間後の朝、八広の野球場近くの土手にその車が停められていた。ミサヲに車椅子を押してもらい、土手にたどり着いた朱璃は、白と赤茶色のスカイラインを見つけていた。
「このボロ車はなんなの?。こんな土手の道端に停めて、迷惑だわ。」
ガラスの開け放っている窓から室内をのぞいた朱璃は、寝ているのが瑠海男であることに、驚いた。瑠海男は、陽に照らされ、薄眼をやっと開けていた。
「あなたの車なの?。」
「そうです。」
冬の乾いた風に太陽が輝き、起き上がった瑠海男の顔が、てらされていた。瑠海男は、陽の光で顔を照らされているため、相手が婦人警官にみえた。多分に寝ぼけていたこともあって、朱璃だとは気づかなかった。
「こんなところに停めて、住んでいるところへ持っていかないの?。」
「すみません。眠くて、事故を起こさぬよう、ここで寝ていました。」
「大学はちゃんと行っているの?。」
「はい?。行っていますが?。」
「単位は取れたの?。朝の食事は?。」
「はあ?。」
寝ぼけながら、変な婦人警官だなあと思いながら、ようやく姿勢を起こした。
「なんでそんなことを聞くんですか?。その質問に答える義務はないと思いますが。」
「義務はあるわ。こんなに心配かけるんだもの。」
瑠海男はようやく気づき、目を覚ましていた。朱璃は、これほど寝ぼけた瑠海男の姿を見たことがなかった。朱璃から見ると、錆び付いたボロ車の何処がいいのか、さっぱり分からなかった。ただ、ただ瑠海男が熱心に調整を重ねているゆえに、拒否感はなかった。
「足回りは機動性をもたせた自信作なんだ。さあ、手伝うから乗って。」
車内を手早く片付け、瑠海男は手慣れた様子で朱璃を抱き上げ、助手席に乗り込ませた。車椅子をたたんで後部席へ固定した。
「四点シートベルトだよ。足で踏ん張る必要がないからね。朱璃ちゃんでも席では安定しているよ。」
ヒビの入ったシートは、中の綿が見えるほどだったが、車内は小綺麗だったが、座ってみるとそれなりに安定していた。
「じゃあ、九十九里浜まで連れて行ってあげる。」
「それより、大学はちゃんと行っているの?。」
一緒にいる時間の長い朱璃からすれば、ミサヲと同じ心配をせざるを得なかった。平気な顔をして答える瑠海男には、呆れるしかなかった。瑠海男は瑠海男で、そら来たとばかりに自信を持って答えた。
「ちゃんといってるよ。」
「単位が留年スレスレだって、お母さんが言っていた。」
「そうだなあ。まあだいじょぶだよ。」
蔵前橋通りから、京葉道路へ、そして東金へ。南房総の岩場では、春霞のせいか、海岸から水平線は見えなかった。それでも、青く澄んだ海の波は、踊る心のようだった。
帰路の途中、パーキングエリアには海側に開けたラウンジがあった。その海岸の浜に、カミナリ族の集団がいた。海に来ていた観光客を脅している様子だった。
「瑠海男ちゃん、あれは強盗?。」
「えっ。」
瑠海男が振り向いた時、同時に、リーダーらしい男も瑠海男の方を向いた。こちらの視線に気づいたのか、全員がこちら方に動き始めていた。
「瑠海男ちゃん、手を出してはダメよ。」
「そうだね。」
朱璃の指導に従って瑠海男は祈った。
「父なる神様、我らを誘惑に合わせず、悪よりお救いください。」
遠くから迫るその声と背格好は、重太だった。しかし、砂に車輪を取られて、重太たちは出鼻をくじかれていた。瑠海男は急いで朱璃を抱き上げ、助手席へ座らせて運転席へ。瑠海男は、砂に足を取られながらもようやく車を走らせた。雄叫びとともにバイクに乗った重太たちは、背後から周りを囲んで来た。
「瑠海男、この野郎。」
平和的に応対する意思は、みじんも感じられなかった。
「女連れタァ、いいご身分だな。脚なし女か?。まるで幽霊じゃねえか。おめえもクズだし、その女も障害者だ。おめえらは生きていちゃいけねえんだよ。」
瑠海男は、山の方へ進路を取った。房総の山間の道は、急坂や急カーブの連続だった。しばらく加速減速を頻繁に繰り返していくと、重太の空冷のバイクは力を次第に失い、明らかにオーバーヒートに近かった。瑠海男は谷間の川の中に走りこんで、重太のバイクに大量の水を浴びせ掛けて、再び逃げ始めていた。予想通り、重太のエンジンは止まってしまった。
「クソ、このボロバイク。」
重太は毒づいた。秀夫は、思わず嫌な顔をした。重太の乗っていたバイクは、秀夫の父が秀夫のために買ってやった二台のうちの一台だった。
「俺のバイクは、ダメバイクかな。」
「水かぶっただけで、止まっちまったぜ。ダメバイクってことじゃねえか。」
「俺のを使わせてやっているんだぜ。水の中に突っ込んでいくなんてのは、無しだぜ。」
「なんだよ。俺の使い方に文句が有るのかよ。」
秀夫は、無言で瑠海男の車を追って行った。結局、スカイラインのあとをついて来られたのは、秀夫だけだった。利根川を越え、鹿島町まで来た瑠海男は、人里離れたところで、秀夫のバイクを停めさせた。
「秀夫!なぜまだこんなことをしているの?。覚悟を決めてやっているんだよね。」
いや、これは重太が付き合えとうるさいので….…。」
「それは、言い訳だよ。前にも警告していたはずだよね。誘われたから、やるのか?。悪いことであっても?。」
「仕方ねえんだ。」
「甘えるなよ。正義をないがしろにし、立場の弱い者を虐待し、権利を侵害する者!。」
「うるせえよ。」
秀夫は、典型的な一人っ子だった。我儘を通し、甘い父親をして友人重太のバイクまで用意させていた。
「僕が中二の時に、僕を殺し掛けた重太を止めたから、見込みがあると思ったのに。天からも、そう見込まれているはずだよ。」
「関係ねえな。」
「今に、君は重太に殺されるよ。」
秀夫はギョッとした。瑠海男は続けた。
「重太の行動原理は、社会正義や人間の繋がり、互いに大事にし合う思いやりへの反感だよ。長く虐められていた僕は、よく分かる。彼は母親にさえ疎まれ、彼は父親にも増して社会や慈愛に敵対することが、生きる糧になっている。例えば、母や妹と一緒に暮らし、正義をいう僕を憎みきっている。ましてや、君は県警本部長にもなろう人の息子でしょ。」
「そ、そうか。」
秀夫は明らかにショックをうけていた。確かに、彼らの暴走行為は恐喝から強盗に成り果てていた。受験に三度失敗し浪人しているはずの秀夫は、ふらふら遊びまわっており、重太のグループにも遊びのつもりで参加していた。
「わかった。」
「よく考えなよ。こんな事を繰り返すと、きみの父上の仕事を邪魔するばかりでなく、仕事を失いつつ、生きる基盤を失うよ。」
呆然としている秀夫をそこに残して、瑠海男たちはそこを離れた。秀夫は、決して頭の悪い人間ではなかった。
北千住の東口から少しばかり荒川土手へ向かったところに、カネボウの選手寮があった。そこに住む由美子の友人たちの誘いで、由美子とミサヲは、花火を見ることにしていた。
小さい数発の花火から始まった。特に足立区の工場や商店街から、花火の寄付が集まって、大きなスターマインまで用意された見ごたえのあるもよおしであった。
ふと気づくと、横に座る由美子や朱璃の背後に、いるはずのない人影が潜んでいた。気のせいとは思った瑠海男だったが、影は動き、群衆の中に消えて行った。
花火は終わった。暗く広大な河川敷の上空は、周りが低い建物ばかりであるためか、天球そのものの広がりを見せていた。瑠海男はその造作に初めて見入った。銀河と星、川面に映る光、そして手元の密やかな光。再発するかもしれない朱璃の命、また、瑠海男の今の幸せも、そのすべては、はかなく感じられた。しかし、彼女とその家族、そして自分を含めて、見守る方がいることに気がついた。この世には、朱璃を脅かすものと見守る者とがいる、瑠海男はそう思った。
飯塚家の皆と別れ、一人、帰路につく群衆に混じって帰ろうとした時だった。先ほどは気のせいに思えた影があった。決して人が立っているゆえにできる人影ではなかった。朱璃たちの方へ向かおうとする、目立たぬ影だった。その行く手をさえぎろうと、影の向かう路上に立った時、影は横の路地裏へ逸れて行った。其処へ飛び込むと、影は重太の足元へ逃げ込んでいた。重太は、目を瞑り、杖にしては長い鉄棒を持ち、黒い羽織に黒い袴をはいた異様な格好だった。重太の口は動いていないのに、重太の高い声が瑠海男に届いていた。
「ジンの一人、黶是流。この青年と契約をした者。」
「なんぞや、汝の目的。」
「汝の乙女。」
「何故?。」
瑠海男は、強い拒否の意志に、沸々と怒りを重ねた。
「汝こそ我が敵。正義を愚弄する者。」
瑠海男は主の祈りを捧げたが、彼はするりと抜けて行った。
「何故?。祈りが聞かれない。」
彼は、冷たく言い放った。
「正義を言うか。汝の慢心と傲慢と愚かさは天にも届いておるようだ。では、乙女の命はいただく。」
影は、瑠海男の目の前から離れ、素早く、朱璃の車椅子に触れて消えた。
その秋に、朱璃は、肺と肝臓に転移していることがわかった。朱璃は、再びの病室で、願った。
「主よ、瑠海男ちゃんは、私の最後の希望。私の命は無くなっても構いません。瑠海男ちゃんをお護りください。」
朱璃の容態は、小康状態だった。同愛記念病院へ向かった瑠海男には、一つの願いと祈りが錯綜していた。抗ガン剤の効かない状況からみて、朱璃の死は確実だった。それでも、快復を祈り願った。朱璃の教えてくれた聖書の箇所と、瑠海男の知っている言葉の全てをかけて、言葉をつないでいた。
朱璃は個室に移され、面会謝絶になっていた。コデインの影響で眠っている朱璃の横で、付き添いに疲れたミサヲが眠っていた。いつとも知れぬ目覚めの一瞬に、瑠海男は逢えるかどうかわからなかった。彼には、朱璃に伝えたい言葉があった。
「おばさん、僕が付き添ってますから、すこし家で休んだほうがいいと思います。」
「そうね。それじゃ、お願いね。」
ミサヲは乱れた髪を指で揃えつつ帰って行った。残された瑠海男は、痩せてしまった朱璃の腕を摩りながら、祈りつつ語りかけていた。
「朱璃ちゃん、君の心に根ざした聖書の言葉は、僕の宝。そして、君自身は僕の宝。父なる神様、御心ならば彼女の死の盃を現実から取り除いて下さい。いや、わかっています。現実には、朱璃ちゃんの死は避けられないことを。それでも、ああイエスさま。彼女を助けて。彼女は私の宝。」
聖霊が悲しんでいることは、わかっていた。目の前の現象を素直に受け入れないことは、決して従順ではなかった。しかし、それほど瑠海男にとって朱璃は生命そのものだった。そして、神は、少しだけ時を与えて下さった。朱璃は身じろぎをした。
「朱璃ちゃん。」
「瑠海男ちゃん。来ていたの?。今、わたし、あなたの夢を見ていたの。私の横に祈る貴方がいて、目の前にイエス様がいて…、私たちを天の玉座へ連れて行ってくれるところだった…。」
「朱璃ちゃん、また元気にならないといけない。また、元気にならないと。」
瑠海男は知らずに涙声になっていた。朱璃は天井を見上げながら瑠海男に伝えていた。
「私は先に行くね。向こうでまた会えるときまで、待っているから。私、とっても驚いたの。瑠海男ちゃんが聖書をとっても深く読んでくれたなんて。とっても嬉しかった。それだけで、私の生きた意味があったのよ。だから、泣かないで。」
朱璃の声は涙と微笑みに満ちていた。
「朱璃ちゃん、それは、本当のことだね。いま、ここで僕も生きている、その意味も君と、神様のためだ。」
次の日に、急な瑠海男の頼みだったが、川崎牧師は、二人のための受洗と結婚式を司式してくれた。それは、病室での、それも、参列者は四つ木教会の長老たちとミサヲだけだった。
川崎牧師の祈りには、二人を慰める御言葉があった。
「力強きそのみ手は
悩む者を励まし
愛に満つるみ心は
頼る者を見捨てず
悲しみをも痛みをも
憐れみもて癒したもう」
朱璃は瑠海男が横で涙を流したことで、急に心が乱れてしまった。
「瑠海男さん、貴方に添い遂げたかった……。」
「朱璃ちゃん……。」
本来なら、時は全能の神のみが支配なされるものであった。朱璃は、失われつつある自らの時を知りつつも、瑠海男のことだけが無念だった。それでも、朱璃は消え掛けった灯芯のように、心を大きく乱しながら、瑠海男が朱璃の手を握りつつ捧げる賛美と祈りに思いを一つにし、自らを沈めていった。
その後、息を引き取った朱璃は、ルイの計らいで、岩手大船渡の地、村崎家の墓地に埋葬された。大船渡の高台で、瑠海男はひとり海を見ながら祈っていた。
「私は最初に祈りました。朱璃の残りの足を護ってくださいと。次には、朱璃の病気を治してくださいと。次には、朱璃の命を護ってくださいと。しかし、今、私はここにおります、御心のままにと。」
第一一章 転回
埋葬からの帰路、一ノ関発上野行き夜行列車は、吹き始めた木枯らしのなか、走っていた。車内のミサヲや由美子、そして川崎牧師や瑠海男たちは、寡黙だった。皆、朱璃の思い出の中だった。瑠海男は、朱璃の目の色、髪の色、手先の細さ、爪、温もり、仕草、振り向きざまの振る舞い、食事の仕方、幼い時の顔、成長した顔、怒った顔、笑った顔、赤くなった顔、病院での顔、そして臨終が間近での結婚式の唇、また、形見の聖書と讃美歌を見れば、解説、議論、内容、強めた言葉、語りかける言葉に、そして全てが声となって思い出されていた。
利根川を渡る橋梁で、ふと外を見上げた。初冬の空に、オリオンが見え、蜜柑色の光が、墨田区の方へ飛び去っていくのが見えていた。
「あれは、知っている朱璃かなあ。古千谷の毛長川へ飛んで行くのかなあ。」
瑠海男は、そんな気がした。そんなことを、意識もせずに、独り言のようにつぶやいていた。
一九六八年三月、瑠海男は千葉大学を卒業し、春からは谷山先生の勧めもあって警察庁の上級技官の道を選んだ。時間が許せば、唯一の心の拠り所でもあった、四つ木の教会に通っていた。美奈子は、時々瑠海男のやつれた姿を見ることがあった。瑠海男は、まだ朱璃の想い出を引きずっていたようすだった。
ある日、瑠海男は配属された警視庁両国警察署少年課で不良学生の摘発と指導のための見回りを始めていた。
「こんなところでたむろしているのは、ろくな奴じゃないですね。」
瑠海男は先輩達とともに、土手沿い、高速の桁下、パチンコ屋などを、見回っていた。人気のない安田庭園の塀横に、高校生らしい集団が座り込んでいた。
一人が声をかけた。
「お前ら、こんな時間にまだ出歩いているんか?。あっ、シンナーだ。」
声に反応するように、彼等は合図しながら逃げ出していた。刑事達も追いはじめ、瑠海男も見覚えのある後姿を追った。両国駅のホームに逃げ込んだ男を追い込むと、彼は観念したように瑠海男に振り向いた。
「しつけえ警官だなぁ。俺は、高校生じゃないぜ。」
彼は重太だった。瑠海男は、思いがけない再会に驚き、重太も驚いたようだった。
「オメェ、警官になったんかよ。」
「君は、あいつらにシンナー売っていたんだろ。」
「さアな。どんな証拠があるんだよ。それより、久しぶりだな。相変わらず、真面目くさって。あれぇ、なんかあったか?。オメェの顔に書いてあるぜ。死んだのか?。あの女だな。死なれて当然。ざまあ、み晒せ。」
「そうだ。彼女は死んだ。俺みたいなどうしようもない人間のために……。」
「そうだよな。おめえみてえな、虫けら程度の価値しかないおめえには、贅沢すぎたんだ。バカなはずのお前が進学校へ行くのはありえねえ。あの女が役立ったということだよな。」
「そうだね。たしかに。それに、君にとってバカなはずと思った相手が、少しばかりでも口答えしたから頭にきたわけだ。そして、恨み続け、嫉妬し続けたということなのか。それに、僕が単に普遍的な指摘をしたのに、それを受け入れないんて。傲慢で嫉妬深くひねくれているなんて。今じゃ、僕の高校の生徒を相手にシンナーの売人かよ。」
「この野郎。」
「このガスセンサーがシンナーを検出している。捕まえさせてもらう。ここいらの生徒らをそそのかしていたからね。」
重太は逃げようとし、瑠海男と取っ組み合いになった。瑠海男がつまずいた拍子に重太は逃げ出し、路地裏に消えた。
重太は、瑠海男から逃げたその夜遅く、西新井の環七で、けたたましいバイクを仲間たちと走らせていた。スペクターを名乗るこの暴走集団は、この時期になると、我が物顔で道路を逆走していた。気まぐれにUターンをし、次にジグザグ。だいぶ後から、警察車両が追いかけていた。深夜二時となり、行き交う車も少なくなった。
「さあてと、これから本番だぜ。俺のウィリーについて来られるかよ?。」
「オー。重太の十八番!。」
作業員のなかまたちも、道沿いで手を上げている。一躍注目を集めていた。 けたたましくエンジン音を上げ、ウィリーから前輪をつけての曲芸まで披露していた。そして速度は、一六○を超え跨線橋を下りたとき、後続は見えなくなった。
「オー、振り切ったぜ。俺に は誰も追いつけないぜ。」
重太は、疲れを覚え、スピードを落としながら右の横道にそれた。
「そろそろ曲がって大通りへ戻ろう。」
しかし、いくら進んでも、横道はなく、いつの間にか、草むらの中を走らせていた。後ろから女の声が、速く、速く、と急かし始めた。しかし、後ろに女はいなかった。
速く、速く、と呪文のように繰り返す声は、下からきこえた。いつの間にか、バイクの代わりに重太を背中で運んでいたのは、大きな女のように見えた。ハンドルの無い自転車のような乗り物に腹ばいになっていた。
「降ろしてくれ。」
「そうかい。」
投げ出されたのは、社の横の川畔だった。倒れこんだ重太は、自分の横に倒れたバイクを見つけた。
「ここはどこだ。」
そこは、古千谷の毛長川の黶瀬流沼であった。今は開けて広々とした公園になっている舎人公園の向こうのあたりであったろうか、少し前まで、怨念を抱えたままで亡くなった娘たちの断ち切れぬ想いが漂うとされた淵が残っていた。古千谷の毛長川の黶瀬流沼とでも言おうか。少し前に瑠海男の見た蜜柑色の光は、ここにまで飛んできたように見えたのだった。
いつの間にか横に屈みこんでいた女が、話しかけてきた。
「貴方に恨みを持ったまま若死にした乙女が居たんだねえ。ここは恨まれた男が来るところさ。」
「俺が?。 何をした?。」
「罪の自覚が無いなら、救いも無いねえ。誰だろうねえ、貴方に恨みを持って死んだ処女は。」
かつて朱璃だった亡霊がそこに未だ迷っていた。先の亡霊が連れてきた重太に、近づいていった。
「帰らせてくれ。許してくれ。逃がしてくれ。見逃してくれ。」
さっきの亡霊が、重太に体を巻きつけて、話しかけていた。
「そうはいかないんだよ。姉さんが、逃しちゃダメだと言うからね。」
朱璃が重太の目の前に座り込んた。朱璃は、重太に話しかけた。
「貴方、私を覚えているかしら。最近も、瑠海男さんの前で足の無い女と、私を呼んだわねえ。障害者は、生きちゃいけないとね。そうよ、ここのみんなは、死んでるの。足が無いのよ。」
「ひえ〜助けてくれえ。何でもやるから。」
「そうかい。代わりの男でもいるかい。」
淵の奥から、別の低い女のような声が聞こえてきた。
「もっとも、おまえみたいな男なら、いくらでも転がり込んでくるさ。うちらが欲しいのは、真面目で骨のある男。こんな男なら、地獄へひきいれられれば、大手柄さ。」
「そういう男なら知っている。」
「自分勝手なおまえに、そんな頑固な知り合いがいるのかい?。」
闇の奥から、首領らしい女が出てきた。
「そうかい。でも、そういうてらいは、意志で動くから、こんなところに連れて来られないよ。」
「俺からみたら、正義ヅラしていて、生かしちゃいけない嫌な奴だ。」
「そうだろうよ。そんな奴が来るわけ無いだろ。あんたの代わりにならないよ。」
「そんなことは無い。なぜなら、そこにいる女が餌になる。」
重太は、朱璃を指差した。そうして重太は、淵の闇の中へ引き込まれていった。
瑠海男は重太を探していた。古千谷の毛長川の淵で、投げ出された重太のバイクがあったことを、少年課の電話で聞いた。また、朱璃の姿を見たともあったと言ったあとは忽然と姿を消したことを、聞きづてで知った。
「朱璃が未だどこかにいる。」
瑠海男は探し歩き、探して歩いた果てに、毛長川の淵へ迷い込んでいた。気づいたときには、亡霊が瑠海男に身体を巻きつけていた。
「ようこそ、お兄さん。わさわざ恨まれてもいないのに、ここへ来るなんて。」
「退がれ、ジン、悪魔の手先め。」
「あたいたちが悪の手先だって?。悪い奴っていうのはね、あんなみたいな、正論振りかざす人間が勝手に決め付けているだけさ。」
「そういって、正義を悪と言いくるめようとする奴らが、今まで何度も僕を苦しめてきたか。」
「苦しめられた?。そりゃあ、あなたが変な意思を通し過ぎるからだろ。」
亡霊は怒りのあまり、白から赤い光となった。
「私が怖がると思ったかね。そう、確かに私は頑固だ。怖がる前に、悪を憎む。ジン、悪霊ならなおさらだ。」
瑠海男はブルブル震え始めた。恐怖ではなく、悪を前に虐められた過去を思い出し、怒りが抑えられなくなっていた。
「何よ、この男。姉さん!この男はあたいにや無理。」
奥から差し向けられてきた新手がいた。瑠海男は、その姿を見て凍り付いた。そこには魂を悪魔に売って変わり果てた重太の姿があった。
「よお。」
「…重太か?。」
「もうその名は意味がない。」
そして、その後ろに朱璃がいた。
第一二章 栄光
「瑠海男ちゃん、なぜ……此処に?。」
「じ、朱璃ちゃん、だよね。なぜ重太の後ろに…。」
「貴方は、あまりに愚だと天では言われていたわ。あなたが自分自身をあまりに過小評価し、また正義にこだわり、憐れみを見失ってしまったと指摘されたのを、私は聞きました。私も貴方との愛に溺れて、大切なことを見失っていました。それで、死んだ後も貴方のことが気がかりで、召されるはずが迷出てしまいました。それに、わたしは貴方のものになりきれなかった処女。ここは、処女のまま死んだ娘たちの無念の沼よ。私も無念が有って、ここに来ていたの。」
瑠海男は動揺しながら思い出していた。求める朱璃の想いを、受け止めることができなかったことを。
「し、しかし、貴女が教えてくれた言葉によれば、未婚のままで熱情に走ってはいけないと。」
「そうね。でも、ここにいるのは、情念だけの私。もう、そんな理屈なんて、関係無いの。」
「なんてことだ。憐れみを忘れていた。正義と言い続けてきたことより大切なこと、っていうのが、これだったのか。」
瑠海男は思った。彼の生きる意味は朱璃あってのものだった。それに沿って、道を決めてきたし、これからもそのはずだ、と。しかし、仏の教えのように正義への拘りを捨てた時には静となり、業の元凶である悪への追求は消えてしまう。
「ならば、主なる神に任せるべきだ。ただし、正義を言う者は単なるうるさい鐘に過ぎないものに成り下がることには、気をつけなければならない。そうか、わかった。」
瑠海男は重太から目を逸らさなかった。
「ただし、頭領にいおう。これから言う条件は、飲まなければあなた方がいま直ちに滅びることになるかもしれない。僕は今この時に、あなたらの滅びを祈ることもしない。だだ、僕はここにいます、と主に祈るのみ。その意味は、わかるだろう。」
「主なる神がここを支配するのか?。」
頭領が出てきた。
「罪の塊のお前が祈ることに意味があるかね。このまま死ぬだけの分罪で。」
「では、試してみるか。僕は何時も神に立ち返って来た。そのときの最善の祈りがお任せすることであると知った。それはあなたらも知っていることだね。主なる神のお望みは朱璃と僕の立ち返り、そしてあなたたちの滅び。そして、僕が原因で迷い出たのだから、僕が代わりになることが僕のただ一つの願い。多分それがデウス様の御心。」
頭領は明らかに動揺していた。
「わっ、わかった。今は、まだ天の軍勢が来る時ではないはずだ。とすると、…では、悪魔との取引をするのだね。要求を聞こう。」
「私の魂は好きにしろ。しかし、朱璃を……解放しろ。」
「愚かな。あれは情念に過ぎない。そんな小さなことに、今お前が言ったすべてを投げ出すのかね。」
「そう、神に立ち返ることさえ忘れかねない無価値な僕には、ふさわしいことだ。」
「分かった。」
「朱璃ちゃん行きなさい。早く。」
「瑠海男さん、また貴方は勝手に離れてしまうの?。」
「済まない、僕はこの方法しか知らない。行ってくれ。」
「いやよ。」
しかし、朱璃の周りには白い障壁が形成されていた。その脇に立つ青年がいた。青年は瑠海男に呼びかけていた。
「瑠海男よ。安心せよ。」
しかし、青年の後ろでは、朱璃に手を出した重太の姿と朱璃の悲痛な叫びがあった。
「重太よ、天の軍勢に手を出すな。」
青年と頭領とから、同時に声が上がった。しかし、重太は朱璃への執拗な攻撃を加え始めてしまった。しかし、それと同時に重太は引き裂かれ、その炎は、暗い穴の中へ吸い込まれてしまった。しかし、朱璃の叫びは、青年の不思議な声と共に響き続けていた。
「私を元へ戻して。私には資格がないのに。私だけが召されても意味がないのに。私なんか価値がないから、彼を元へ戻して。」
響き渡る朱璃の声。次第に力を失って倒れゆく瑠海男。遠くから呼びかける若者の声があった。
「そなたの願いは聞き入れられた。朱璃は天の万軍に護られた。もう、この悪魔達に手出しは出来ない。安心せよ。」
瑠海男は、これが朱璃との永遠の別れであることを知っていた。何故なら彼は永遠に悪魔の元に留まるから。しかし、彼にはすでに涙もなかった。
「さあ、好きにしてくれ。」
瑠海男は眼を閉じ、増してくる孤独と苦痛を思った。首領は指と喉を鳴らした。朱璃が消えたとき瑠海男は倒れこんだ。死の闇が覆い尽くそうとしていた。頭領が目の前に来て言った。
「愚かな奴め。おまえを俺のものにする前に、散々な目に合わせてくれた仕返しをしてやる。朱璃を奪った分、重太の分、……。」
首領は、鎌槍を瑠海男に突き刺さして言った。
「これがおまえの永遠の苦しみとなる。お前は永遠に苦しむぜ。そう、約束だ。お前の魂は俺のもの…。」
しかし、その時から瑠海男の周りの空間が、瑠海男を引きずりあげようと歪み始めていた。首領は、驚いてあらゆる力を発し、仲間さえもよび入れた。それでも、歪みを増していく空間。いや、時間さえも止まっていた。
「ばかな。こいつの全てはもう俺のものだ。」
しかし動きは止まらない。
「そ、そうか。他の為に死んだからか。抜かった。」
既に、鎌槍の突き刺さる瑠海男の死は確実だった。しかし、頭領は瑠海男の身体から鎌槍を抜き、去っていった。
「全ては、Deus様の定めた通りになりました。」
白い布の青年は、眼を閉じたままの瑠海男にそう語りかけて去って行った。
瑠海男は、荒川の河口の廃船の上に仰向けで寝ていた。
「未だ生きている。何も生きる意味は無いのに。」
と、瑠海男は独り言をいった。瑠海男は荒川の風に吹かれながら、思わず朱璃の面影を探していた。
「もう、この河川敷にはくるまい。私には、なにもなくなってしまった。」
瑠海男にかすかに風の中に、朱璃の声が聞こえたように感じた。
「貴方には、わたしと学んだ御言葉がある。もう一度思い出して!。私がこの世を去る時に共に語った言葉を。何のために、私の人生があったかを思い出して。」
「でも、この地で僕は朱璃ちゃんに会えない。」
「私は、いずれ神様を仰ぎ見ることができます、この身を以て、この目を以て。今、私はその時を待っているの、体の底から焦がれ絶えいるほどに。そして、その時、貴方にも必ず再会できるわ。」
朱璃の後ろでは、天の軍勢が大風のように賛美歌361番をとどろかせていた。
「この世はみな神の世界、
あめつちすべてが歌い交わす。
岩も木々も空も海も
御神の御業をほめたたえる。」
それは、昔から瑠海男を促す意志の声、風の声のようにも聞こえた。それに合せて瑠海男もかすれ声を上げていた。
「この世はみな神の世界、
悪魔の力が世に満ちても
わが心に迷いはなし。
主こそがこの世を収められる。」
聖霊は彼が生まれた時からのように、いつまでも瑠海男の側で見えざる風を放っていた。いつの日か必ず来る日を約束して。
「主よ、私はここにおります。」
瑠海男は改めて父なる神に祈っていた。