正義と智慧
やもめの息子と遊女の娘が、いじめや死病という苦しみからの救いを、正義の中に、そして仏教の智慧の中に求めた。模索をしつつ成長していく二人。
第一章 折伏
東武伊勢崎線から北千住のお化け煙突がまだ見えた頃、一九五〇年代末からのおはなし。
東京では東京タワーだけがそびえ立ち、墨田区には高いビルがなく第二次世界大戦の戦災を免れた古い町並みのみが広がっていた。また、足立区へ延びる東武伊勢崎線沿線や葛飾区を過ぎ市川まで延びる京成線沿線には、古くからの池や神社のまわりに田圃や用水路が広がっていた。その頃すでに高度経済成長の兆しがあり、葛飾や足立のどこでも、細く曲がりくねった畦道にそのまま新興の住宅が増えていた。それでも、荒川放水路の土手は、田圃や池の中にどんどん建てられていく家々よりもはるかに高くそびえていた。また、その土手の下の河川敷には、すでに野球場などのグラウンドが整備されていた。ここは、その一つ、四ツ木橋西詰から荒川放水路を少し北へ上がった河川敷野球場だった。
飯塚朱璃は、ほへと通りを抜けて、荒川放水路の土手、野球場の上に来ていた。向かい側の若葉色の土手へ、夕暮れの風が吹き抜けていく。オープンスペースが、空を広く見せていた。
朱璃の住まいは、墨田区のほへと通りから少し路地にはいったところにあった。そこから仕事に通う母親のミサヲは、仕事で擦り切れた心と身体とを癒すために、たびたびこの場所に来ていた。そんな時にはいつも、朱璃を同伴してくるのであった。そのミサヲは、まだ三十にみえただろうか。長い髪は脱色して茶色がまだらに抜けた薄茶色、その肩周りに薄いピンク地と紫のストール、真っ赤なニットとフリルスカート、そして真っ赤な口紅が目立っていた。朱璃はまだ教えられていないが、ミサヲの仕事は男と過ごして金をもらう、いささかよろしく無い仕事であった。
朱璃は、土手を上りきって、背伸びをした。普段ならば、小学三年生の少女らしく、はにかみと警戒心を解かないのだが、この日は母ミサヲと一緒だったためか、警戒感を緩めていた。そんな彼女の視野に入ってきたのは、歳は朱璃より少し上だが背丈は朱璃と同じほどの少年だった。彼の服は当て布だらけの国民服で、元は黒色であったものが擦り落ちたような色だった。
その少年、村崎瑠海男は、もう直ぐ開設される新設校青葉学園の中学二年生になる。その直前の春休みだったろうか。彼は、野球場に居るのに、独りで西洋絵画の本を見て過ごしていた。パッと見ただけでも、変わった様子の男の子だった。
「お兄ちゃん、それなあに?。」
朱璃は、瑠海男の背後から質問していた。小学生から話しかけられたこともあって、瑠海男は警戒感を持ってはいなかった。瑠海男の見ていた絵は、むかし、朱璃が保育園で気に入っていたものであり、大工と手伝う少年の絵だったろうか。瑠海男は朱璃と同じぐらいの身長で小学生に見えたが、そんな瑠海男が隅から隅まで飽きずに絵に見入っていることも不思議だった。朱璃と同じ学年の男子であれば、掃除はサボり、女子に悪戯を仕掛け、スカートめくりなどしかしない馬鹿ばっかりであった。他方、瑠海男には、短髪の朱璃の活発そうな眼が印象的であった。朱璃の目の輝きに、永らく沈んでいた魂を動かす希望を感じた。魂の共鳴、霊的な共鳴があったのかもしれない。
「これは、絵の本だよ。レンブラントなんかのヨーロッパの絵画がたくさん載っているんだ。これはイエスという昔の偉い人が子供の頃、大工だったヨセフに従って仕事をしている姿だね。」
「お兄ちゃんは、どこに住んでいるの?。」
「この川の向こう側。」
「なんでここへ来ているの?。お友達はいないの?。」
「うん。いるけど…。」
瑠海男は、ここに逃げ出してきているとは言えなかった。
「君は何年生?。なんていう名前なの?。」
朱璃は急に相手が年上である事を意識した。
「私は飯塚朱璃です。いまは三年生です。今度の四月で四年生になるんだ。」
「へぇ、小学生なのか。じゃあ、近くの小学校?。」
「ちがうよ。梅若小学校です。ここからちょっと遠いんだ。」
「ふーん。僕は中学二年生になるんだ。向こう岸の葛飾区に住んでいるんだ。」
「じゃあ、お兄ちゃんじゃなくて、お兄さんなのね。」
朱璃は、丁寧語が少しあやしいけれども、話し方がませた様子の子だった。
野球の試合が佳境に入っていったころ、母親のミサヲが帰宅を促していた。
「さぁ、そろそろおっちゃん相手のお仕事だから、かえろう。」
「ありがとうございました。」
瑠海男は、立って直立不動の姿勢から、深く頭を下げた。軍人だった亡き父親と同じような挨拶を、いつも心掛けていた。ミサヲは驚いたが、しばらくしてニコリと別れの挨拶をして土手を降りて行った。朱璃は無邪気に手を振って後を追っていた。
一九五九年四月になった。用水路の横に新設された青葉学園は、桜や柳の若木が植えられた綺麗な校庭が整えられていた。初めての年度を迎えたのだが、瑠海男には不幸なことに、前年度に前の中学校で一年上だった平岩慎吾らが、同じ青葉学園にきていた。さらに、前の中学校で同学年だった江場秀夫や辰巳重太が、同じクラスだった。病弱で一四〇に満たない瑠海男には、一七〇を越える平岩や重太たちは、はるかに大きく恐怖さえ感じるほどだった。
授業が始まった週のある日、下校する瑠海男を捕まえたのは、一年上の新三年生、平岩慎吾と田丸二郎だった。瑠海男の噂を聞いてやって来たのだった。
「瑠海男、可愛がりに来てやったぜ。」
瑠海男と同じクラスの男女は、札付きのワルの姿を見て、皆帰ってしまい、瑠海男だけが残されて居た。二郎たちは瑠海男を校舎裏へつれこみ、半分近く使った消しゴムを見せて、凄みながらいった。
「これ買ってくれよ。」
「お金は持ってないです。」
「じゃあ、交換してやるから、お前のを出せよ。」
「僕ので良いの?。」
瑠海男はギリギリまで使い切る直前の消しゴムを見せようとした。
「誰が使い古しを欲しがるかよ。そんなこともわからねえなんて、相変わらず、空気が読めねえやつだな。俺が使った消しゴムだからよ、特別な価値があるんだぜ。当然新品を用意しろよ。」
「そんなもの無いよ。」
「じゃあ、代金を用意しろよ。」
「金をなんで払わなきゃならないの?。」
「このやろう、金を出せば良いんだよ。」
まだ子供程度の背丈しかない瑠海男には、逃げ場はなかった・・・・。
瑠海男は教師達に訴えたこともあった。新設の学園であることもあり、教師たちは一生懸命であった。しかし、先生達は、厳しい境遇の彼等に同情的だった。それほど葛飾の住民は、皆貧しかった。親たちは、子供に関わる時間もなくひたすら働いていた。子供たちは彼らなりに我武者羅に生きていた。
「先生、また奴等が僕をモップで殴って……。」
「そうか、何があったんだ。」
「重太らが掃除をしないから、指摘したら、四人がかりで殴ってきたんです。」
「あいつら、かわいそうなやつなんだよ。重太なんか母親がいなくなっちまって、本人は毎日食うのに困っているんだぜ。だから仕方ねえよな。まあ、俺の方からも注意しておくよ。」
「でも、前も注意してもらいましたが、またやるんですよ。」
「うーん。わかった。また注意しておく。でも、お前も、いじめられないようにしろよ。なんでそんなに空気が読めないのかなあ。」
「空気?。雰囲気のことですか。調和のことですか。ナンセンスです。他者の権利を侵害している事が調和であるという前に、救いはどこにあるか、正義が何処にあるかを考えるのが、一番初めだと思いますが……。」
先生は、もうたくさんだというかのように、手を振っていた。瑠海男は途方にくれた。以前助けてくれた双葉学園の女の杉浦先生であれば、虐められる側に落ち度は一切無いと言ってくれたものだった。しかしそんな意識の高い日教組組員はいなかった。また、義父には、いじめられるやつに原因があるんだぜと言われるのが関の山だったし、義父に対してあまり立場の強くない母親を悲しませたくなかった。
「・・・誰も助けてくれないな。僕は何にも持ってないからかな、つまらない人間だからかな。正義は曲げられているはずなのに。こんなに辛いことでも、ほんの小さなことにすぎないんだろうな。」
「何をブツブツ言っているんだよ。」
慎吾は、畳み掛けていた。それに合わせて、二郎も瑠海男に絡み始めていた。
「そうだ、お前はつまらない奴なんだぜ。そうだ、ズボンを脱がしてやれ。面白くなるぜ。」
深い草むらに押し込まれると、まだ非力な瑠海男には争う術はなかった。
「お、こいつはもう毛が生えているぜ。」
両手を押さえられ、ズボンや下着を取られた瑠海男は、靴で股間を何度も叩かれて、動けなくなった。
「コラァ、そこで何をしているか。」
校舎裏に来た教師だろうか、遠くから掛け声が掛かった。慎吾と二郎は、動けなくなった瑠海男を放り出して逃げていった。校舎裏の深い草むらの中に隠されて横たわる瑠海男には、しばらく立ち上がる力もなく、また助け起こす者もいなかった。深い草の匂いと温もりだけが、黙って瑠海男を受け入れていた。
瑠海男は、小さく念じていた。
「僕は、なぜかはわからないけど悪いことをして正義に外れたことをしたから、苦しい目に遭うんだろうか。この泥塵にまみれた塵そのもの。何もできない塵。つまらない男だなあ…。苦しい、助けて欲しい。」
しかし、いずれからからの答えがすぐにある筈もなく、虚しい彼の手には惨めな涙しか無かった。
その日のあと、瑠海男なりに教室では目立たないようにいた。帰宅を早めて自らを守る工夫をしたつもりだった。しかし、二週間後の放課後、次に瑠海男に絡んだのは同じクラスの重太等だった。彼等は餌食を見いだして、ニヤニヤしながら絡んできた。瑠海男は、サッサと帰宅しようとしたが、進路を塞がれていた。瑠海男は教室の隅へ追いやられ、逃げ場がなかった。重太たちを前にしてほとんどの生徒は、餌食にならぬよう逃げるようにして教室を出て行ってしまった。
「瑠海男、どこへ行くんだよ。」
「え、えーと、帰るとこだよ。」
瑠海男は直立不動になって答えた。
「帰る?。まだ早いぜ。俺たちの仕事に付き合えよ。」
「やだよぉ。」
「なんだトォ。俺たちはな、食えないと生きられない、食う金は親にも無いんだぜ。お前も、俺たちがかわいそうだろ。だから、俺たちの代わりに、あのスーパーの食べ物を持ってこいよ。」
重太が理屈にならない御託を並べていた。重太は、暗く鈍く淀む空気を漂わせ、目は鉛のような鱗をまとっていた。瑠海男は理屈を考えて、矛盾を指摘すれば逃げられると考えていた。
「盗みは悪い事だから、やらない。脅迫も悪い事だよ。」
「答え方がまるでガキだな。俺たちは、かわいそうな人達なんだぜ。なんで人助けが出来ないんだよ。」
「それは、悪い事だからだよ。かわいそうな人たちは、それでも悪いことはしないよ。仏様の戒律に盗んではならない、と書いてあるし。だからダメなんだし、あなた達は間違っている。今こそ、正しい道へ立ち返るべきだよ。苦しいならそこからの救いの道を求めるべきだよ。」
瑠海男をは歯を食いしばって反論した。
「まちがっているだと?。このやろう。」
重太はこれを聞いて、暗い怒りが込み上げて来た。背中に鈍いものが下から上に走り抜け、ドス黒い怒りが口から言葉とともにほとばしり出た。
「好きで、盗みをしているわけじゃねえぞ。食べるものが無い、着るものが無いから、仕方ねえんだ。食い物を万引きしちゃいけねえって言うなら、三日間公園の水だけ飲んで暮らしてみろよ。親が三日飯食わせなかったら誰だって盗むぜ。」
「それは、死ぬほどの我慢をしたことがないからだよ。食うのに困るのは、多く稼ぐ事が出来ない世の中だから……。」
「そうさ。だからお前が俺たちを…。」
「でも、悪いことは、悪い。稼ぎを多くしたいなら、一生懸命働くことで稼げるように、今を我慢しながら社会を変える必要があるよ。だけど、それをやらずに、悪事を手を染めるなら、明らかに根本が間違っている。死ぬほど耐えたことがないから、甘いことを言っているんだよ。例えば、食べられない時も、何日も我慢しているし、何回も死ぬほどの目にあっても、僕は歯を食いしばって我慢してきたよ。」
「そうかい、そうかい。わけのわからないことを唱えていやがる。それなら痛いのも我慢しな。」
重太が上履きで瑠海男の右頬を殴った。音が高く響き、床に叩きつけられた瑠海男の口から、血が滲み出た。それでも、瑠海男はゆっくり立ち上がり、服装を直し、左頬を重太に向けた。
「なんの真似だ。」
「僕は、つまらない男だから、殴ってもつまらないよ。だから、右の頬を叩かれたら、左の頬も殴られるんだろうな、と思って。それによって、あなたが悪業からの救いを見いだせるかもしれないしね。」
この単純で教条的な同級生は、俺を馬鹿にしているに違いない。そう感じた重太は、怒りを込めて、さらにきつく殴り倒していた。瑠海男の鼻と喉から血の塊が飛び出していた。
「重太、やりすぎだ。殺したら、親父でも庇えねえ。」
秀夫は、思わず重太を制した。警察官の父親には、間違っても人は殺すな、と言われていたのだった。重太の様子は、殺す寸前のように見えたからだった。強いて秀夫は、別の話題をみつけた。
「坊主頭を帽子で隠してんのかよ。かっぺだなぁ。チョッと、帽子をかしてな。」
「あっ。」
「この帽子は逆さまにすると、スリッパになりますぅ。」
「やめろ。」
「うるせえな。」
瑠海男は顎を殴られ、また床に転がつた。
「スリッパに上履きを重ねて、二段ばきの出来上りぃ。」
「やめてくれ。」
ふと、海軍少尉の時の父の写真が目に浮かんだ。通称赤トンボの前で撮られた写真の父は、決して帰らぬ出撃を前に帽子を深めに被っていた。それは、気持ちを静かに押し隠した姿だった。帽子はそんな父の心に繋がるものだった。父と同じように表情を押し隠すために帽子を取り戻そうとした瑠海男だったが、その手は秀夫に踏まれ、同時に重太に脇腹を二度ほど蹴られていた。
「うぐっ。」
瑠海男はくぐもった声しか出せなかった。
彼等は、こうして、瑠海男 を放り出して帰って行った。瑠海男は小さく念じていた。
「右の頬を打たれ、左を打たれ、でも、正義は実現されない。僕は何もできないつまらない男…。何故こんなに苦しまなければならないの?。悪いことをしていなくても苦しむの?。彼等も苦しみをもっているというし、それを取り除けないし。そうか、こうなるのは僕がつまらない価値のない人間だからだ……。でも、でも、苦しい。助けて欲しい。」
しかし、いずれからからの答えがすぐにある筈もなく、虚しい彼の手には惨めな涙しか無かった。ときに、そんな彼を重太たちは家にまで送り届けて、しゃあしゃあと言ってのけたものである。
「転んで怪我をしてらっしゃったので、送ってきました。彼の鞄もここにあります。」
そこには、瑠海男には覚えの無い、読み古した水着写真のついた週刊誌まで、鞄に入れ込まれていた。彼らは、瑠海男に小声で「バラしたら妹の直子が無事に済まないからな。」と言って帰って行った。そのとき彼らに接したのは、外面のいい瑠海男の母親サクラであった。
「なんていい子達なの、感心ね。あんたも見習いなさいよ。」
彼女は続けた。
「それなのに、あんたは女の水着の週刊誌まで鞄にいれて、しかも自宅ばかりでなく学校にまで持ち込んで。女の人の写真は、結婚するまで一切見てはいけませんよ。」
瑠海男はただ聞き入れるしかなかった。また、母に負担とならないよう、義父にも迷惑をかけたくなかった。母は普段の口調で話しかけてきた。
「あれ、転んだ時、何処を怪我したの?。」
「……。」
「あの子達ともう知り合ったの?。良い人たちよね。」
「…。」
「同じクラスと言っていたわよね。良かったわね、友達に恵まれて。」
「…。」
小学校一年生の義妹直子が、心配そうに瑠海男の顔を覗き込んだ。
「お兄ちゃん、大丈夫?。」
「ありがとう…。」
母サクラは、夫の手前、瑠海男を優しく接していた訳ではなかった。しかし、瑠海男たち三人のこんなやり取りを、重太たちは憎しみを持って息を殺して聞いていた。
「瑠海男にはこんな親がいるのかよ。おれは、施設で暮らしてる間、母親から"あんたなんか生むんじゃなかった”って手紙も一〇〇通ぐらい送られてきたさ。母親からの手紙にカミソリ入ってたことだってあるんだぜ。そんな母親も死んじまった。それなのに……。瑠海男は許せねえ。」
瑠海男はその週をなんとか耐え抜き、やっと土曜日となった。その夕暮れ、瑠海男は、後をつけられていないことを確認しながら、逃げるように再び鐘ケ淵の河川敷へ、ひとり自転車で出かけていた。知る人の誰もいないこの場所だけが、安らぎの場所だった。数週間ぶりの土手は、桜の季節を過ぎ、若葉の鳴動が感じられたはずだった。しかし、この日、瑠海男は何も考えず、ただ野球の試合を見つめ続けていた。
一九五九年四月、朱璃は新四年生となった。とはいっても、クラスは三年生のまま担任も関口先生のまま、ただ三年生のクラスがそのまま進級しただけだった。進藤昌男らクラスのバカ男子たちも、そのまま同じクラスのままだった。昌男らは、あいかわらず掃除のサボりとイタズラばかりしていた。今日も、大人しい鵜飼美奈子にチョッカイというより嫌がらせをしていた。
「鵜飼菌がくっつくぞ。」
「逃げろ。」
ほぼ毎日この調子であり、普段は気丈に無視している美奈子だったが、今日は酷かった。
「これは汚いから、ゴミ箱へ。」
「やめて。それは新品よ。」
昌男は、朝の準備で使ったばかりのコークスハサミで新品のノートをつかみ、ゴミ箱へ入れようとしていた。
「やめて。」
美奈子は我慢できず、噛み殺した声で泣き出していた。ちょうど、教室に入ってきた朱璃はそれを見ながら、美奈子の隣の自分の席に着いたところだった。そして、次の瞬間、朱璃は、ゴミ箱にコークスハサミを突っ込んでいる昌男の襟首をつかみ、床に引き倒していた。周りの女子も昌男たちを取り囲みはじめていた。
「何をゴミ箱に入れたの?。」
「さあな。」
「朱璃ちゃん、昌男のやつ、美奈子ちゃんの新品のノートをゴミ箱へ入れたのよ。」
朱璃が取り出すと、新品だったノートはすっかりコークス粉で真っ黒に汚れていた。
「何てことを。」
横から、昌男とつるんでいる後藤諒太がつっかかって来た。
「鵜飼菌がついているから、どうせ汚えんだよ。だから、捨ててやったのさ。」
「そうかい。そういうあんたらも、心だけでなく外も汚くなりな。」
朱璃は男子達より頭一つ半ほど大きかった。彼女はその体格を生かし、男子達の中に飛び込んで昌男の襟首をつかんだまま諒太の足を絡め取って引き倒していた。その後、二人をそのまま校庭横のコークス倉庫まで引きずり、放り込んでいた。後ろから女子たちが、朱璃の背中を守るようについて来ていた。すでに、昌男の仲間や男子達は、逃げ去っており、半ベソの昌男と諒太も、コークス倉庫の中からがコソコソにげだしていた。
「クソ、父ちゃんに言いつけてやる。」
朱璃はその意味を察して表情が変わった。進藤昌男の父は区議会議員であり、この地域の有力者であった。しかし、それでも他の女の子たちは朱璃に加勢していた。
「いいつけるなら、やって見たらいかが。私も、父に言いつけるわよ。」
細川加代子という、普段は朱璃とあまり仲の良くない小綺麗な子までが、朱璃に味方していた。彼女の父は、中華食堂を経営している商店街の会長だった。
その日の昼休み、昌男と諒太、朱璃が関口先生に呼び出されていた。朱璃が遅れて職員室にくると、昌男たち二人が自分達の被害を訴えていた。
「おれはよ、ただ落ちていたゴミをゴミ箱に入れただけだよ。」
「おれも手伝っていただけだよ。」
後から来た朱璃は、怒りのあまり、顔を赤黒くして、昌男達を睨みつけていた。
「何も書いていないノートを、そのまますてるのかしら。しかも、そのノートには、名前がしっかり書いてあったわ。」
「名前が書いてあったよ。だから、どうしたのさ。落として置くのがいけないのさ。そんなのは、どうでもいいさ。俺たちの服はどうしてくれるのさ。お前の悪事を、父ちゃんに区議会で追求してもらうぞ。」
「なによ。そんなこと。」
朱璃は強がって見せたが、あきらかに追い込まれた顔をしていた。本来ならあきらかに昌男達が悪いのだが、現場を押さえられていないためか、先生でさえ昌男達に言いくるめられてしまいがちであった。関口先生は、もうやるなよ。というのが精一杯であった。教室へ戻ると、やはり昌男達が勝ち誇ったように朱璃や美奈子達女子を前に、囃し立てていた。
「俺たちよりお前の方が怒られたみたいだねえ。おーい、みんな、朱璃みたいに悪いことをしちゃダメだぜ。」
男子達は、昌男達の後ろに立って、囃し立てていた。悔しさいっぱいの朱璃に、加代子達が慰めに集まって来た。また、やっと泣き止んだ美奈子が朱璃にポツリと言った、
「ありがと。」
朱璃は、屈辱感に唇を震わせながら、黙って昌男達を睨み続けていた。
次の日、昌男の父親が梅若小学校を訪ねていた。校長を同行させていた議員は、授業中の関口先生を捕まえて詰問し始めた。
「関口先生、なんでもうちの昌男が一方的にやられていたということですが。」
「彼らは、同じ組の女子のノートを、取り上げてゴミ箱に入れたらしいのです。」
「そんなことぐらいで、コークスを浴びせられるのですか?。やったのは、飯塚朱璃とかいう、父無し子というじゃないですか。そんな子のノートなんて、問題にならないじゃありませんか。あっあいつだな。」
進藤区議は、朱璃を引っ張り出そうとしていた。
「いえ、そんなことは……」
関口先生は、進藤区議の勢いに押され気味だった。
「その子を連れて来なさいよ。先生。私が叱ってやりましょう。」
「そのノートは、飯塚さんのものではないんです。ノートの持ち主は、鵜飼さんという子の持ち物でして…………。」
関口先生は、やっとこれだけ言えた。しかし、区議会議員は、先生の話の腰を折った。
「それなら、そんな子に何か原因があるから昌男が怒るんですよ。鵜飼っていう子を見連れて来なさいよ。」
「でも、彼女は何もしていませんよ。」
「いいから、校長、連れて来ればいいんだよ。」
「関口先生、鵜飼さんを一応連れて来て。」
関口先生は渋々美奈子を連れて来た。美奈子は、当惑しながら校長室に入って来た。進藤区議は、美奈子が入ってくるなり怒鳴り始めていた。
「あんたが鵜飼美奈子っていう子かい。あんたがノートの管理が悪いから、昌男は怒られたんだ。何とか言えよ。」
美奈子は驚き、半べそになった。区議は続けた。
「あんたの保護者に今晩電話してやる。」
そういって、区議はそのまま帰ってしまった。
その夜、進藤区議は鵜飼の家に電話をかけていた。
「もしもし」
「はい。」
美奈子の父親らしい落ち着いた声が電話口に響いた。
「わたしは進藤という区議会議員ですがね。」
「ああ、いつも区の党本部でお会いしてますね。何でしょうか?。」
「えっ、あっ?。」
「御用の向きをお伺い申し上げますが?。」
「い、いつもお世話に、いや、御協力ありがとうございます。」
「こちらこそ。」
「今後ともよろしくお願い申し上げます。」
「こちらこそ。」
進藤区議はこうして這々の体で電話を切った。電話から振り返った美奈子の父親は、美奈子の髪を撫でながら、ひと言だけいった。
「今までよく我慢した。細川さんとも相談して、進藤区議にはしっかり話しておく。もう心配ないはずだ。」
美奈子は、ふと助けてくれた朱璃を思いだしていた。他方、進藤区議はやっとの思いで電話を置いた。
「昌男め、俺に恥をかかせやがって。」
次の日、進藤区議が立ち寄った事務所には、細川加代子の父親も商店街の会長として、相談に来ていた。
「進藤さん、鵜飼さんの娘さんとうちの娘もよろしく。」
このひと言で、進藤区議は身体中に冷や汗をかいていた。その後、昌男は、事務所から帰宅した進藤区議に、散々怒られた。
「恥をかかせやがって。オメェ、よりによって、鵜飼さんのところのお嬢さんに悪さしやがって。」
「えっ、だって、親父はいつも何かあったら何とかしてくれていたじゃないか。」
「黙れ、このバカ息子!!」
昌男は、父親の進藤区議に布団叩きで散々に叩かれ、逃げ惑っていた。逃げながら、昌男は朱璃に復讐を誓った。逆恨みであった。しかし、朱璃は、大人の世界の一角、昌男の父に代表される男というものの、打算と弱みを見たような気がした。朱璃は察しの良い子だった。
朱璃は、察しの良さもあって、少しずつ母親のミサヲが男と女の世界を生業としている現実を、おぼろながら少しずつ感じる年頃となった。
昔、朱璃はミサヲに、会ったことのない父親のことを尋ねたことがあった。
「お母さん、私のお父さんは、誰なの?。」
「根本の繁おじさんよ。時々、プレゼントがとどくでしょう。」
「あの写真のひと?。会いたいな。」
しかし、今、朱璃はミサヲを糾すように問いかけていた。
「なぜ父親だとわかるの?。」
ミサヲは言い淀んだ。正確には、誰が朱璃の父かはわからなかった。それほどまでに、ミサヲは多くの男たちを相手にしていた。
「私にお父さんはいるの?。どうしてそれがわかるの?。」
ミサヲは黙っていた。四年生の朱璃は母親ミサヲに戸惑い衝撃を受けながら、混乱しつつ反抗期の反発をしめした。
「私、分かったの。男の人から女の人に入れられたものが、子供になるって。お母さんは、いろんな男の人を相手にしているって。そして、私のお父さんは誰だかわからない…。」
朱璃の叫びは絶望に近かった。それでも、ミサヲは、朱璃が改めてその質問をしてきたことに次女の成長を感じた。
「そうね。小学四年生のあなたに、どこまで話せば良いのかわからないわ。でも、あなたの父親と考えていいよ、と言ってくれた男の人は、確かにいたのよ。それがあの写真の人。なかなか会えないけれど、あのひとは今でも助けてくれているわ。」
結局は、その後に姉の由美子でさえも男相手に金を稼いでいることを知り、朱璃は母親や姉の現実を驚きながらも自分に原因があることとして受け入れることになるのだった。
さて、そんなことがあったばかりの四月のある日、ミサヲは、疲れを癒しに朱璃を連れて再び土手の上に来ていた。朱璃は、土手の上に座り込んでいる瑠海男を見つけていた。すかさず朱璃は瑠海男の横にすわった。瑠海男は横に見たことのある朱璃がいることに、遠い親戚に会えたような喜びを覚えた。そして、後ろにはニットとパンツルックのミサヲが立っていた。
朱璃が声をかけてきた。
「また会ったね。お兄ちゃん。今日は絵の本を持っていないの?。」
「こんにちは。ごめんね。今日はなにも持ってきていないんだ。」
「それなら、私の本を見る?。」
母親のミサヲが遠慮がちに窘めた。
「朱璃、それはあなたが読まなければ意味はないのよ。」
本と言っても、真新しい算数の教科書ガイドだった。ミサヲが指導していたのだろうか。ただ、朱璃にとっては苦手なものらしく、瑠海男に押し付けて、その場を誤魔化したいらしかった。瑠海男がふと内容をみると、植木算の説明だった。
「ふーん。これって難しいの?。」
「難しくないよ。でも、嫌い。」
すると、ミサヲが少し苛立たしそうに、咎めがちに続けた。
「それなら、朱璃がやってみなさいよ。本当はわからないんでしょう。」
「本当はわからないの。」
瑠海男は、朱璃の素直なおうむ返しに笑ってしまった。気づくと、朱璃が睨んでいた。
「ごめんごめん。どこがわからないの?。」
「計算の仕方!。杭の数から一を引いて、間隔の長さを掛けるはずなのに。答えが違うの。この本の説明も分かりにくいし…。」
瑠海男が見ると、校庭の周囲の長さを測る方法だった。
「これは、端が無いから、一をひかないで計算するんだよね。分かる?。」
「ええー。そんなの知らなかった。お母さんは、一を引くことしか教えてくれなかった。」
ミサヲは、言い訳をした。
「私は算数が苦手なのよ!。お兄さんに御礼を言いなさいね。お兄さんは、直ぐにわかったみたいね。得意なの?。」
「そんなことは無いです。」
しかし、先ほどの説明の滑らかさから見て人並み以上の説明力はありそうだった。
「これもわかるかしら?。朱璃は、何回教えても、ダメなのよ。」
それは、円に内接する正方形が描かれ、円から正方形を除いた部分の面積を求めるものだった。
「円の半径が一なら、円の面積は三.一四。正方形は対角線が二で、二かける二を割る二で二。残りは、一.一四です。」
「えっ?。えっ?。どういうこと?。」
瑠海男が一気に説いたことに追随できず、ミサヲが聞き直してきた。瑠海男は言葉を変えて、図面を示しつつ説明して行った。朱璃もわかったらしい。
「説明もうまいのね。」
ミサヲは驚いていた。途端に、瑠海男は自らの力のなさ、勇気のなさを思い出して声が小さくなった。
「僕なんてチビの出来損ないです。」
瑠海男は、自己嫌悪に近い程の言葉で、自己を否定していた。ミサヲは、瑠海男の立て板に水の説明の仕方と自己嫌悪とのギャップに驚いた。説明のそつのなさと自信の無さのギャップは何からくるのか、生来の頭の良さと自信を持てていないミスマッチを考えながら、ミサヲは続けた。
「そんなことないわ。良さそうなことは、わかるわよ。もし….、もし良かったら、朱璃の勉強を見てくれる?。」
「えっ?。」
土曜日の夕暮れが近かったが、瑠海男は今は、このまま苦しい場所に戻りたくはなかった。瑠海男は、大胆にも母娘の後をついて行くことにした。
ミサヲと朱璃の家は、墨田三丁目にあった。野球場から荒川土手を降り、水戸街道の北側に沿った比較的広いホヘト通りを行き、屋根付き駐車場の手前を右手に折れた路地の奥にすすむと、長屋のような家があった。何人かの母子家庭が間借りしており、一室にミサヲと朱璃は住んでいた。六畳一間に、簡単なキッチンのある部屋だった。キッチンには、使い込まれた鍋とパン、それに包丁が清潔に保たもたれていた。部屋の隅の小さな物入れの上には、見知らぬ三、四十の男の写真と小さな本があった。小さな本は、岩場の羊をたすける砂漠の民の絵の付いた古い新訳聖書だった。
「こんな早い晩御飯は珍しいのよ。」
そういって用意してくれた晩飯は、もやしを混ぜたバター焼めしだった。その後、ミサヲは、おっちゃん相手のお仕事よ、と言って出かけていった。その間、瑠海男は朱璃の宿題などを見てやった。朱璃は飲み込みの早い子だった。というより、瑠海男の説明がわかりやすかったのかもしれない。それでも、朱璃が集中できる時間が短い為に、宿題は直ぐにすまなかった。
姉がいるが兄はいない。そんな朱璃は、年上の瑠海男に色々甘えてきた。妹の直子に慣れていた瑠海男は、勉強を休みながら手慣れた様子でゲームをしてやったり、おりがみに付き合ったりしながら、時間を過ごしていた。
姉の飯塚由美子が、戸の外から朱璃に声を掛けて来た。朱璃より五歳上という高校一年生だった。手に一万円札を何枚か握っての帰宅で、毳毳しい化粧の匂いが鼻についた。
「この人だあれ。」
「勉強を教えてくれるお兄さん。」
由美子はしばらく勉強の様子を見ていた。
「ふーん。あんた、勉強出来るんだ。」
「大した人間じゃないです。役に立たないし何をやってもダメだし…」
「え?。そんなことないわ。その言い方だと、なんか事情があるのね。どこに住んでるの?。」
「葛飾区です。」
「川向こうね。」
瑠海男にとって、由美子は妙に世間ずれした少々苦手な娘だった。由美子にとっても、瑠海男は何故か放ってはおけない人間だった。継ぎ接ぎだらけの国民服に穴あき靴下なのに上がりこんで来て、自信なさげなのにテキパキと解法を教える幼い中学生は、何ともおかしなものだった。
由美子が高校の教科書を持ち出して戻って来た。深川商業の校章が付いていた。
「あんたさぁ、三角関数わかる?。」
「説明ぐらいなら…。」
「へぇ、ウソお、わかるの?。じゃあ、サインてなんなのよ?。学校の先生の説明を聞いても分からないのよね。」
由美子はもともと困っている者を助けないでは済ませない気質を持っていた。その目から見て、瑠海男になんらかのかわいそうな境遇を感じていたのかもしれなかった。他方、瑠海男にしてみれば、高校生が中学二年生に質問することなどありえないことだった。悲しい習性で、きっと騙しているに違いないと見て構えながら応えようとした。しかし、由美子にしてみれば、周りにまともに答えてくれる人が居ないので、教えてもらえれば儲けものとも考えていた。
「海のうねりの波を知ってますか?。」
絵を描いて、由美子の様子を見ながら説明を進めた。
「大きい波ね。」
「そうです。…。それで…,。例えば、ゴミが浮かんでいる東京湾の海原とか、小さいボートが浮かんだ鎌倉の大海原を想像してください。うねりがだんだん高くなって、次にだんだん低くなります。波はこんな繰り返しです。わかりますか?。」
「それはわかるわよ…。」
「それを何かで表したいと考えて、うまく当てはめられたのが、円の中心を直角の頂点にした三角形の三辺の比なんです…。」
瑠海男はちらっと由美子を見た。一生懸命に聞いている顔だった。
「プラスは船やスチロールが上方向か、進行方向にズレている時、マイナスは下方向か進行とは逆の方向にズレている時…」
由美子はほうっといった顔をした。少しわかったという意味なのか、それとも説明は合格という意味なのかは、瑠海男にわからなかった。彼女は、次に、歴史の教科書を持ち出してきた。瑠海男には、興味を引く重厚なものだった。しかし、由美子にとっては全く興味の持てないことばかりだった。
「あんたさあ、世界史は知ってる?。私の学校じゃ、世界史を二年間やるのよね。」
「僕は世界史は、勉強したことはないけど…。封建制度とか産業革命とかなら分かる程度です。」
「ふーん。じゃあ、封建制度ってなんのこと?。」
「うーん…。」
瑠海男は即座に「世界の地理」のヨーロッパの森の記述を思い出した。
「眠れる森の美女はご存知ですか?。森の奥に放置された古い時代の城。そこに、新しい時代の王子が訪れる話です。」
「知っているわよ。何が関係あるの?。」
「この物語に顔を出している森がありますね。このヨーロッパの森が拡大する前の古い時代には、ヨーロッパの各地に、古代から発展した農業の生産基盤の土地を支配した貴族たちがいて、その居城が多くありました。その後、ペストの大流行があり、多くの人が死にたえ、多くの街と城とが、見捨てられ森に覆われてしまったとか、言われています。つまり、中世とは、土地を支配した貴族たちが、国々の経済と政治を制御した時代です。」
説明を聞いた後、由美子は感嘆して言った。
「あんた、小学生に見えるけど中学二年生なんだよね。それに、高校生の勉強がわかるんだねえ。」
「たまたま、ヨーロッパの観光雑誌の内容を思い出しただけです。」
瑠海男は、また、自己嫌悪をしていた。
瑠海男は、このアパートに何回か通うことになった。それは、朱璃のお守り代と教授代を少し出そうとするぐらいに瑠海男を歓迎してくれた為だったし、イジメのない新しい世界だったからだろう。それにミサヲや由美子は瑠海男を労わってくたこともある。さらに、ミサヲはお金を断り続ける瑠海男のために、秘密で代金を貯めておくことにしていた。
その頃の新設校の悪ガキたちは、放課後に本校の元の仲間たちのところへ度々出かけ、合流していた。他方で、合流後に動き出す前に、瑠海男は、自宅から自転車で出かけてしまうことを覚えた。それもあって、一学期の間は、瑠海男にとって比較的やり過ごし易い日々だった。それでも、重太ら札付きのワルの手前、いじめを避けようとサッサと帰宅する弱々しい瑠海男を相手にする男子生徒はおらず、ましてや一番背の低いゴミか子供のような瑠海男を相手にする、物好きな女生徒も居なかった。瑠海男は孤独だった。学校と自宅しか世界を知らなかった瑠海男は、朱璃一家とこのアパートを愛した。
他方、由美子は、もともと積極的で新し物好き、話好きであった。
「私たちの学校ね、修学旅行に、初めて出来た専用列車で、京都に行くことになったのよ。この前、説明会もあったの。皆んな一緒にワイワイしながら、関西へ行くんだって。」
「へえ、どんな列車なの?。」
「名前は「きぼう」なんだって。皆んな一緒に座って、トランプしながらいけるのよ。」
「男子も一緒なの?。」
「そう、一晩同じ部屋みたいなものかな。」
瑠海男もその列車に興味を持った。寝台列車のようなものなのだろうか?。しかし、生徒達が高額な寝台列車に乗れるのか、不思議に思えた。
「寝台列車なのですか?。」
「違うみたい。皆んな座ったままで、一晩かけて移動するみたい。」
「え?。まるで護送列車みたいですね。」
「考えてみれば、そうね。でも、皆んな一緒に一晩過ごすから、楽しみよ。」
友人達と楽しく過ごしている由美子の高校生活は、瑠海男にとって無縁とも思え、眩しく羨ましいことだった。しかし、由美子は瑠海男にも積極的に接してくれた。彼女は、高校一年生にしては男の見方が捌けていて、年上の女生徒らしく気の利かない瑠海男を何かと気遣ってくれた。他方で、中間試験で彼女が少しばかり地理歴史や数学の成績を伸ばしたことは、何かしらの瑠海男の説明が端緒だった。彼女にとって瑠海男は幼いように見えて、だんだんにわからくなる勉強で頼りにするようになっていた。
その後、二週に一度の頻度であったろうか、瑠海男は飯塚家に何度か通うことが重なった。晩春から初夏となり、梅雨明けの近い季節となった。相変わらず、青葉学園での瑠海男は孤独だった。夏休みの前の期末試験が終わって、次の日から、クラスの生徒たちは昼前に学校から帰された。夏休みは実質的に始まったようなものである。しかし、瑠海男はちっとも嬉しくなかった。一般的には夏休みは楽しみな事だが、瑠海男にとっては、監視の目がない市中に犯罪者が解き放たれた世界になるとしか、思えなかった。
そうして、終業式の日を迎えた。下校の途中、やはり工場裏の都営住宅の陰で、ボンタンを履いた上級生や重太達が、瑠海男を待ち伏せしていた。重太は、いつもの下校のルートとは異なる別の道を選ぶだろうと、瑠海男の行動を予測していた。狡猾な彼らの前に、まだ知恵の働かない瑠海男は無力だった。しかし、この日は行幸があった。瑠海男は、先に傘で遊ぶ彼らの姿を遠くから発見できていた。
重太らが逃げる瑠海男に気づいたとき、瑠海男は思いつくままに左に逸れた。隣の学区に深く入り込むルートを選び、見知らぬ家々の道を歩いて、自宅に着いた。しかし、まだ安心をせず、制服のまま自転車を引き出し、南へ向かった。先手に先手をかさね、彼らから遠く逃げ出せればいいと思った。現実に、重太らは、そのすぐあとに瑠海男の家に駆けつけていた。重太は、逃げられたという思いから、再び黒い怒りに燃えていた。
七月の雨は土砂降りが多い季節だった。瑠海男は六号国道沿いで土砂降りに遭った。雨の中、バス停近くのタバコ屋のベンチで、自転車を抱えて雨宿りをしていた。バスから降りる学生や工員らを横に、焦点を定めず強く目の前を見つめていた。夏の雨は、その時の瑠海男の祈りに似ていた。くるしさとはげしさ故に前を見通せず、ただ激しく当たるしか無い時だった。
バス停界隈の辺りで雨の止んだころ、深川商業から帰宅した由美子がバスからずぶ濡れの瑠海男の近くに降りてきた。身長が一四〇に満たないガリガリの身体は、栄養失調の子供のようだった。ものを知っているのに、身につけている制服も雰囲気も貧乏くさかった。確かにこの界隈も豊かではないが、川向こうがさらに貧乏くさい環境にある事は、由美子にも分かった。
「瑠海男ちゃんじゃない?。なにしてんの?。あんた大丈夫?。」
瑠海男は力無く、由美子にアパートまで連れてこられた。朱璃は瑠海男の姿を見て喜んだ。
「瑠海男ちゃんが来てくれた。今日は約束してなかったのにね。」
しかし、瑠海男は、朱璃に対してさえ力なく微笑んだだけだった。
「あれ、お姉ちゃん、瑠海男ちゃんはどうしたの?。様子がおかしいよ。」
「私も分からないのよ。」
瑠海男は、昨日まで、自宅の付近でうろつく田丸や平岩たち上級生などから逃げ出せず、蹴られてうずくまるか文具類を取られて嫌がらせを受けるしかなかった。それでもやっと、今日は逃げだせた。そして、なぜかここまで逃げていたのだった。
「瑠海男ちゃん、元気は出たの?。」
しかし、彼は、力なく微笑むだけだった。瑠海男の好きなこの一家に迷惑もかけたくなかったし、今は、黙っているしかなかった。
「疲れたなら、少し休みなよ。」
由美子がそういって、卓袱台の上に、麦茶を出していた。
「お姉ちゃん、あの髪飾りはどこで買ったの?。」
「錦糸町の江東楽天地よ。」
「学校の帰りに?。私も欲しいな。」
「これは、おじさんがくれたお金から買ったのよ。」
「私にも、誰かお金をくれないかしら。」
「あんたは、まだ知らないだろうけど、ただでお金はもらえないわよ。それなりに、おじさんのために動いてあげなくちゃ。」
瑠海男には、あまり意味のわからない内容だったが、姉妹の会話は賑やかだった。そうしているうちに、由美子が瑠海男の制服をみて、中学校を話題にしていた。
「青葉学園に行っているんだったね。あそこは、学ラン着た奴らが結構いるのよね。うちの高校にも、青葉出身がいるのよ。」
瑠海男は、悪夢がついにここまで追いかけてきたように思えた。見る見る引きつった瑠海男の表情に、由美子は気づいた。
「瑠海男ちゃん、どうしたの?。さっきも普段使わないバス停にいたよね。」
瑠海男は無言だった。
「あんた、もしかしたら、いじめられているの?。」
由美子も、自分が指摘したことに驚いた。
「ここは大丈夫だよ。この辺りは、私の友達も、私の中学校時代の先輩達もいるよ。みんな、守ってくれるよ。それに、葛飾の人たちがここの中まで入り込むことはないから。」
瑠海男は、それでも一人だけで立ち向かおうとしていた。そんな悲壮な顔をした瑠海男をみて、由美子は朱璃とともに瑠海男を連れ出した。雨は止んで地面も乾き始めていた。
墨田区は、町工場の集積地であった。由美子達は、その工場へ勤めながら定時制に通う、由美子の中学時代の先輩を訪ねた。規則正しく打ち抜く音。音もなく静かに勢いよく回る弾み車。機械の周りメンテナンスに勤しむ工員。晩飯近い工場は隙のない躍動感に包まれていた。
「わたしの先輩は、真面目に勤めているみたい。夜の残業もあるのよね。でも、多分会ってくれると思う。」
由美子は、半分自分を安心させるように言葉をつないでいた。やがて、工場の奥から、油まみれの作業服を着た、一九〇センチほどのガタイの大きい青年がでてきた。由美子は彼を、岡田雄二と紹介した。
「おう、由美子じゃねえか。妹さんも一緒か。」
「先輩、お疲れ様。今日は、相談に来たの。」
「なんだ?。飯はおごらねえよ。忙しいから、夕飯も工場で食うんだよ。」
「夕ご飯は心配ないよ。相談というのは、この男の子は葛飾の人なんだけど、通っている学校で、虐められているみたいなの。話を聞いてあげて欲しいんだけど。」
瑠海男は、おずおずと一連の話をした。
「うーん。寄ってたかって、ひでぇことしやがる奴らだな。」
「そうよね。」
横で瑠海男の話を聞いていた朱璃は、黙って瑠海男の顔を見ていた。川向こうの貧しい地域なら、貧しい者同士が片寄合うはずだった。しかし、かの地域で暮らす瑠海男に知られざる困難を見て同情を禁じえなかった。それでも、雄二は瑠海男の姿を見て言った。
「正直に言っていいか?。痩せていて背が小さいし、敏捷でもないよな?。頭も弱いように見えるし……。無駄に坊主頭だし。これだと、いじめて下さいと目立っているようなもんだぜ。」
「酷い言い方をするね。」
「そうだよな。でも、それが現実さ。せめて、反射神経が必要だよな。」
「なにさ、反射って?。」
「喧嘩にゃ、いろいろあるけどよ、反射の鋭さが勝負をつける時がある。」
「そんなの、ゆっくりな瑠海男ちゃんには無理だよ。」
「でも、この世では、強くなければ生きていけない、優しくなければ生きる資格はない、のさ。」
「じゃあ、瑠海男ちゃんはどうしたらいいの?。」
「由美子、こいつは、俺に少し任せろ。お前、瑠海男というんだな。もうすぐ、勤めが終わるから待ってろ。後で俺と一緒に来い。」
雄二の勤めはその一時間後に終わった。
その夜、雄二は、自転車の瑠海男と言問通りを走っていた。谷中の霊園を抜け、右手へ曲がり、坂道を登りきると、ある寺の山門が見えてきた。
「ここには、毘沙門天様がいらっしゃる。戦の神様だぜ。」
そういって、二人は山門へ向かって行った。夜の境内は、既に人影もなく、御朱印の窓口も、固く締まっていた。奥へ奥へと進むうち、雄二は急に無口となった。御堂は不思議なことに、戸がすこし開いていた。ツカツカと雄二は中に入り込むと、外にいる瑠海男をよび入れた。
「はいれ。」
瑠海男は、雄二の口調が微妙に変わったことに気づいた。瑠海男は、御堂の入り口近くに正座した。雄二は、瑠海男の左手に座り、なにも喋らなかった。瑠海男は、戸惑いながら正面を見入った。彼は、姿勢を正す正座を良く好んでいたが、このような厳粛な場では、特に正座が相応しいと思われた。そうして、しばらく、瑠海男の心を見透かすかのような時間が流れた。その間、御堂の正面の奥、毘沙門天の像のあたりは、暗く、はっきりと見ることはできなかった。
少し眠くなり、ウトウトとした時、正面の奥の暗闇から、声が低く響いた。正確には、奥からの声なのか、雄二の声なのか、区別の付かない低さだった。
「ようこそ、来られた。」
「あなたは毘沙門天….。多聞天。正義と闘いの一尊…。」
「よくその名を憶えて居るな。さて、なぜ此処に?。」
「戦いの神であるあなたの所へ、連れてこられました。ということは、戦える力をいただけるのでしょうか?。」
「私が戦いの神だから来たのか?。」
「はい、逃げ出さなくてもよい力を下さい。」
「私は、祈って願われたから与えるような、御利益の神ではない。」
「すみません。頭が悪くて、飲み込めないのですが。」
「お賽銭の額で、願いを聞き入れるわけではない、ということだ。おまえが何を求めているのかが問題だ。」
「では、理由と状況を言えばよいのでしょうか?。僕は理不尽で一方的ないじめを受けて逃げ出し、ここにたどり着きました。何故こんな苦しみがあるのかに悩んで来ました。」
「それでは、なにを求めるか。」
「正義です。つまり、普遍的なイジメの苦しみからの救いです。例えば私は、何か悪を行なってきたでしょうか。一方的な言い分で虐められ、苦しみを得ています。悪であるがゆえ因果応報によって苦しみが与えられているとは思えません。しかし、本来なら、因果応報であるべきです。」
「そうか。単純に苦しみから救い出されることではないのか。」
「ただ、わたしだけが虐めの苦しみから逃げ出せても、他の人はどうなるのですか?。やはり、すべての被害者にすべからく、いじめから抜け出せることが必要です。それには、正義が必要です。」
「頭が弱いと申したではないか?。それにしては、難しい言葉を使うのう…。なぜ、そのように考えようとするのか?。うーむ。それでは、正義を誰が決めるのか?。お前は他の人と言うが、お前に苦しみを与える者を叩きのめすのが正義か?。お前が正義を決めるのか?。」
「うっ、それは…。しかし、あなたが正義を決められるのではないのですか?。」
「わたしは、よく聞き分け、仏法に逆らい破壊し悪を為す者を、ただす者に過ぎない。」
「それでは、無抵抗の者に対して、一方的に害を与えることは、悪とするべきではないのですか?。」
「確かにその行為は悪としてよいであろう。しかし、お前を正しい者とし、彼等を悪とするのか?。それは、誰が決めるのか?。お前か?。」
「分かりません。」
瑠海男は答えられなかった。しかし、瑠海男にとって、毎日一方的に殴られ、蹴られ、倒され、恐怖を味わうことが目の前の現実であった。
「僕は、いじめられるだけの無知な存在です。正義と闘いの一尊であるあなたの強大さの前に、生きる意味も知らない者です。しかしながら、いつも味方はおらず、威嚇され、脅かされ、殴られ、蹴られ、踏みにじられ、辱めを受け続けて居ます。その現実の苦しみを前にして、無知で無力なために混乱したまま苦しみの中にいます。」
「なぜ苦しいと思うのか。苦しみを与えるものは、なんだと思うか。」
「私の通う中学の先輩や重太達です。」
「質問の意味が違うのだが…。質問を変えよう。彼等の苦しみを知っているか?。重太の苦しみを知っているか?。業というものを知っているか?。」
「知識としては、知っています。彼の親にひどいことをされているのも、知っています。彼等が我慢できずに悪い行動に誘惑されてしまうことも知っています。」
「なれば、彼等の苦しみに寄り添い、受け入れ、救おうとしたか?。」
「それをしようとしました。しかし、その姿勢が彼を怒らせました。それでもせよというのであれば、殺されかねません。現実に、重太の仲間が彼を止めたことも、目の前にしています。結局、彼等が自らを素直にせねば、他の者の招きを受け取ることはできません。それでも、招き受け入れよとおっしゃるのですか?。」
「もう一度いう。多分お前は理解できないかもしれんが……。お前は苦しみの中にあり、そして、彼等も苦しみを持っている。皆同じように、苦しみを持ちながら生きている。受け入れるかどうかかは問題ではない。それぞれに業があり、それゆえ苦しみはなくならない。こうして、人間には苦しみが定めとなった。それがお前たち人間の運命。避けられるものではない。しかし、小さな存在の生死や苦しみを明らむるつまり知ることによりに、それらに対するこだわりを捨てれば、苦しみの定めなど問題無いはず。空海聖人が救いの道を説いて千数百年となるいま、既に、人間の菩提心の発達段階、精神と宗教性すなわち十住心に沿って、救いのための諸宗が開かれている。何れもいわば曼荼羅のように、それぞれの位置で意味を持っている。どの道でも、苦しみからの解放としていずれは浄土での救いが実現される。この世の苦しみをあきらめ、浄土での救いを望むとき、何よりも、まず、小さき命であっても救われて生きることが大切なこと。小さなお前は今生きているではないか。それだけでも、奇跡。ありがたいことではないか。大切なのは、この救いを受け入れること。お前であれ、他の誰かであれ、受け入れに抵抗を感じる時であっても、受け入れねばならない。そのようにして尊円寂一切通、すなわちその先にこそ他者への慈悲の心も生まれよう。」
「では、理不尽な苦しみに対して、耐え続けろというのですか。」
「今のお前に理解せよというのが無理であろうな。しかし、苦しみには耐え続け、いずれこだわりを捨てるときに至れば、円寂一切通すなわち、すべてを悟ることになろう。」
「苦しみに耐え続けるしかないということではないですか。そんなぁ〜。それなら、あなたが闘いの神であるのは、なぜですか。」
「私が武をもって守っているものは、仏法。仏法に逆らう者、仏法を破壊しようとする者を、闘い従わせるためだ。お前は、戦うとしたらなんのためか?。そもそも、お前は、なんのために生きているのか?。」
「分かりません。結局何もわかりません。」
そう言いつつも瑠海男は考えた。
「この世の業と苦しみが人の逃げられない運命?。まるで、呪いではないか?。しかも、人間でいる限り、この世の苦しみは、尽きることがない。ということは、解かれることのない呪いということ。つまり、どうしても現実の世界に希望はなく、現実の世界にこだわるままでは、救いもないことになる。救いとは、阿弥陀仏の世界への往生に限られることになる。つまり、明らむることとは、この世を諦めることなのか。しかし、苦しみから逃れられないから、せめて仏法に入ることが、毘沙門天様の言う救いならば、そこに引き入れることが、求められているということか?。ならば、救おうとする相手が、受け入れに抵抗を感じるのであればば強制的でもよいのか?。それならば、力の行使も正しいことになる?。」
瑠海男は、考えをまとめて答えた。
「ならば、いわゆる折伏のために戦いをすべきなのですね。」
「ほう、なるほど。そう理解し得たのか。己の救いのみならず、他の救いまで考えてその様に理解したのか。それならば、力も与えよう。糾す力、従わせる力を約束しよう。そもそも、お前を不自由にしていたのは、運命に逆らう姿勢からもたらされていたのだ。お前が目指す救いへの途上には、金剛薩埵もあろう。それらは避けられん。しかし、究極的には仏法により、救いがもたらされるもの。救われる定めの者に、折伏のため力をを用いることもあろう。」
こうして、低い声は止んだ。気づくと、瑠海男も雄二も突っ伏して居眠りをしていた。瑠海男は雄二に声を掛けて、帰ることにした。雄二も、瑠海男の声に目を覚まし、急いで立ち上がった。ところが、雄二も瑠海男も、足が痺れて動かなかった。雄二が翻筋斗打って瑠海男の方へ倒れこんだ時、瑠海男は今になく瞬時に横に転がって雄二をさけた。それだけでなく、身を翻して、雄二の肩を両手で受け止めていた。今までになく、俊敏な動きだった。雄二は、自らの醜態に笑っていた。そして、瑠海男の俊敏さに驚いていた。
「自らを回転の中心とした変り身、同じ側の足と腕、腰を動かすことができたな?。何か武道でもやっていたのか。」
「いや、何もやっていない筈です。いや、幼い頃、岩手のばあちゃんに、変り身か、なにかおしえられたような。」
瑠海男は何かを思い出した。確かに、なにかが変わったような、思い出したような体の動きだった。
次の日、雄二は瑠海男を連れて合気道の道場へ上った。
「昨夜は引っ張りまわして、疲れたか?。悪かったね。」
「いえ、日暮里からでも、自転車ならそんなに長距離でないことが、わかりました。」
「今日はよ、俺の知っている合気道の先生のところへ行くつもりだぜ。昨夜の身の翻し方ができるなら、そんなに難しく考えないでも、ある程度できるんじゃねえかな。」
「やってみます。」
雄二は、向島の合気道場の門下生だった。瑠海男に自分の道着を着せつつ、師範代の許可を得て、瑠海男に語りかけていた。
「受け身は知っているか?。」
「いいえ、何もかも初めてです。」
こうして、夏休みとともに、瑠海男の基本的な動きと練習とが始まった。他方、朱璃はあまり楽しくなかった。初日に、買ってもらったマリンブルーの水着にはしゃぎ過ぎて、太ももを打撲していたのだった。そんな時に、瑠海男が鞄を抱えて訪れていた。
「こんにちは。」
それでも、朱璃はまだ母親に不平を言い、騒いでいた。
「水の中なら、浮くから大丈夫だよー。船橋へ行こうよ。」
「浅いところはどうするのよ?。歩けないでしょ。」
「分かったわ。どうせ、こんな水着、私には合わないわ。」
瑠海男は、思わず答えた。
「肌が白いから、青が目立つ。よく合っているよ。」
「えっ。」
朱璃は驚いて後ろを振り向いた。後ろから瑠海男が褒めたのを聞いて、すっかり静かになった。朱璃のいくらか伸びた髪を、夏の夕暮れの風が乱れさせていた。瑠海男はスポーティな朱璃の容姿を心から褒めた。瑠海男はもともと服のセンスはなかったが、歳下の朱璃には妹を見るような可憐さを感じていた。
「似合っているよ。今にもささっと海に泳ぎだしそうだ。」
「うん、ありがとう。」
朱璃の返事は、あまり乗らないものだった。それでも、いつになくずっと眺めていた瑠海男の視線に、戸惑いと上気した気分とが混じり合った気持ちになっていた。そのあと、瑠海男は、朱璃に対する一通りの家庭教師の後に、飯塚家から向島にある合気道場に向かった。合気道には、剣術に通じるものがあった。瑠海男は、小刀を構える構えとそこから踏み込む一連の動きに、優雅さと品とを感じていた。彼の遺伝子には、多分武士の魂が代々伝えられていたのだろうか。
夏休みとともに、道場に毎日通う日々が続いた。瑠海男は、雄二を相手に取り憑かれたように、必死に懸命に練習に取り組んでいた。ストレッチ、受け身、投げ、と、初心者から初級者にいたるメニューをこなせるようになっていた。そうして盆の終わり、夏休みは残り少なくなった頃、墨田へ向かう瑠海男の前に、重太と秀夫があらわれた。
「よう、夏休みなのに、道着なんて持って何処へ行くんだ?。柔道でもやっているのかよ?。」
「……。」
「柔道なら、十年やっている俺たちが教えてやるよ。」
瑠海男は、自転車を押しつつ黙って進もうとした。重太は無視されたと感じ、右手を背の低い瑠海男の左肩へ伸ばしてきた。多分、体落としを企図したものだったのだろう。他方、瑠海男は自転車から手をはなすと同時に、重太の手首をとって右に回りつつ、背中から重太の懐に入りしゃがみ込んだ。いつもの練習どおり、相手は瑠海男の体と入れ替わるように投げられていた。倒れた自転車の上だった。重太は痛みに呻いた。秀夫は、目の前の投げを見たことがなかった。秀夫の父親は警察署長で、秀夫は柔道を父に習っていた。しかし、目の前の光景は、慣れていた父親の投げとは異質のものだった。
瑠海男は、重太の顔を一瞥して立ち上がって秀夫に向いた。秀夫は、立ち上がった瑠海男に蹴りかけようとした。それもくるりとかわされ、秀夫は泥の中に足を突っ込んでいた。瑠海男は、自転車を起こし、そのまま走り去った。
「いててて。」
重太は、唸り声を上げていた。
「あの野郎。」
秀夫は、泥の中からやっと足を抜いて、重太に声をかけた。重太は、まだ唸っていた。
「大丈夫か?。」
「痛え。あの野郎、歯向いやがって。」
秀夫は、重太を一瞥して、瑠海男を自転車で追いかけた。いつもなら、瑠海男は悲鳴をあげて止まるはずだった。しかし、瑠海男は止まらなかった。瑠海男は曳舟川沿いに、南へ下った。曳舟川は、足立の葛西用水路から続く小さな川で、両岸には往時船を.曳くために使った道が残されていた。秀夫と瑠海男が、両岸に分かれて走っていた時、四ツ木橋の手前で、瑠海男は立ち止まった。
「まだ後をついてきたの?。」
「この野郎!」
「なんで、そんなに僕を目の敵にするの?。」
「お前が、俺たちの言う事を聞かないからだ。」
「何故、言うことを聞かないといけないの?。」
瑠海男は懸命に声をあげていた。秀夫は、瑠海男を追い込んだことを確信した。鈍いチビだから捕まえるのは時間の問題だ、と思えた。
「やっぱり、頭にくる奴だ。俺たちに口ごたえしやがって。」
「だって、わけもないのに、脅かしたり殴ったり、蹴ったりしてくるじゃないか。なんで?。」
「…。お前が目の前にいるからだ。」
「どうして、目の前にいると、蹴るの?。殴るの?。」
「弱いからさ。」
「と言うことは、僕がいなかったら、他の弱そうな人を虐めるわけ?。」
「だから、どうなんだよ。」
秀夫は瑠海男の問答に引き込まれていった。
「弱そうな人々なら、いじめていいの?。」
「弱い奴は、ダメな奴だからな。虐められる奴に原因がある。」
「本当にそう思っている?。あなたのお父上は、警察官ではないの?。」
秀夫は色をなした。
「親父のことを何故知っている?。」
「僕は馬鹿じゃない。弱い者なりに鳩のように素直に、そして蛇のように知恵はあるよ。あなたは警察官の息子だよね。」
「親父は関係ない。」
「正義と秩序を守る権威がある人の息子が、これでは、あなたの父上は可哀想だ。」
「親父は関係ないぞ、この野郎。」
「そう?。もし、僕の義父とあなたの父上とが知り合いだったらどうするの?。」
「なに?!。」
秀夫の、この返答で瑠海男は十分だった。彼は、まだ良識がありそうだ。もう話す必要はなかった。
「救われないね。このままじゃ。命を失いかねないよ。」
「そんなんで脅しているつもりか。この野郎。」
秀夫は、怒り狂っていた。それを見て、瑠海男は四つ木の土手へ走り出した。 土手を勢いで登り、土手の上に登りきった時、後から自転車を押して登って来る秀夫へ、向き返した。そして、秀夫へ向かって走り出した。自転車から降りつつ、秀夫の自転車へ、己の自転車を突っ込ませた。運動量保存の法則によって、秀夫は、自転車とともに転がった。そして、万有引力の法則によれば、秀夫の跳ね上がった自転車は、秀夫の上に落ちていく…。瑠海男は、秀夫の上の自転車に自分の自転車を投げ重ねた。
「いてえ。」
それでも、瑠海男は構わずに、秀夫の上半身に倒れ重なった自転車の上に体重をかけた。秀夫は、瑠海男の足を捕まえようと、あがいた。しかし、動けなかった。瑠海男は、噛んで含むように言った。
「次回は死ぬかも知れないよ。でも、それで自らの悪を振り返れば、救われるかもしれないね。」
秀夫は、瑠海男を見た。瑠海男の目の冷たさは、恨みのこもった今までのそれとは違って、意志のこもったものだった。瑠海男は、秀夫の自転車に鍵をかけ、キーを遠くへ投げすて走り去って行った。
第二章 二河白道と諦念
朱璃は、気分がふさいでいた。また、運動はおろか外出さえ嫌がるようになっていた。普通なら、打撲は、一か月もすれば痛みも引くはずだった。それが、夏休みも終わろうとしているのに、その痛みが引かなかった。しかも、打撲した太ももの患部に、腫れも生じていた。母親のミサヲは、朱璃の患部を撫でながら独りごちていた。
「なぜ、なおらないのかねえ。ほねつぎの遠山先生も、首を傾げるばっかりだしねえ。」
朱璃は、夏休みの初めに買ってもらったマリンブルーの水着を眺めていた。この夏、とうとう着られなかった。
「つまらない夏休みだったなぁ。」
朱璃は、洗濯物が所狭しと干されている窓の空を見つめていた。ミサヲは続けた。
「日光でも、いってみようかい。繁おじさんが、日光の山荘を使っていいよと言ってくれているの。」
朱璃の表情がパッと明るくなった。夢にも思わなかった山荘という響きに、惹かれていた。
「岡田さんや瑠海男ちゃんと一緒に行きたいな。」
「うーん。瑠海男ちゃんには聞いて見ないとね。」
瑠海男は、いつもより少し遅れて飯塚家に着いた。由美子は、瑠海男が泥だらけであることに気がついた。
「どうしたの?。泥が結構跳ねているわね。」
「ちょっと、例のいじめっ子に追いかけられて…。」
「だいじょうぶだったの?。」
「投げ飛ばして来たから。」
「へぇ?。」
「岡田雄二さんのおかげかなぁ。合気道を練習していたから、逃げられたんだと思う。」
「ふーん。じゃあ、汚れを取ってあげるから、シャツを脱いでくれる?。」
瑠海男のシャツの下は、胸、腹、背中に、無数の叩かれて切れた傷痕や、青あざ、生傷が幾重にも重なっていた。また、それらの皮膚の下にある筋肉は、背が小さいままながら、一ヶ月前には考えられないほど、隆々と鍛えられていた。
「ずいぶん傷痕があるのね。それに、ずいぶん鍛えている感じ……。」
「鍛えているというより、しごかれている感じかなあ。でも、練習の通りに体が動くんだよね。」
横で朱璃が立ち上がって、瑠海男に話しかけた。
「じゃあ、私と背比べをしようよ。背は負けないよ。」
「う〜ん。」
瑠海男の身長は、小学生の朱璃と同じ程度か少し低いままだった。
「だから、嫌なんだよ。背は低いままなんだもの。」
朱璃は、笑っていた。確かに服を着れば、二人とも小学生と言い張れる背格好だった。
日光、鬼怒川温泉へ向かう快速電車は、夏休みの終わりが近いということもあり、浅草始発でも混雑していた。瑠海男は、義父と母親には道場の先生と合宿だと言って、出かけて来ていた。岡田雄二と一緒なので、確かに合気道の先生と一緒とは言えた。浅草からの快速電車は、つりかけ式電動機の唸りを高くしながら、栃木路を登って行った。朱璃にとっても、瑠海男にとっても、いや全員にとって沿線の風景は珍しかった。巨大な土手へ駆け上がる利根川橋梁へのカーブ、田園、日光へ分け入っていく例幣使街道の杉並木、日光からのバスが巡るいろは坂…。朱璃は珍しい景色ごとに歓声をあげ、瑠海男たちは苦笑していた。
冷涼な日光湯元の山荘についたのは、もう夕刻に近かった。漆黒の闇の中で、皆は、あまり歩けない朱璃共々、湖畔での花火を楽しんでいた。
「線香花火で勝負よ。」
「やったことないなあ。」
「線香花火を知らないの?。それなら、一回やって見せるね。」
瑠海男は、打ち上げ花火を見たことはあっても、自ら持って楽しむ花火は経験がなかった。
「ゴホゴホ、ゴホッ。目が痛い。」
由美子や雄二たちが笑いながら見ていた。
「瑠海男ちゃん、こっちの風上においでよ。」
「どうしたんだよ?。花火をやったことはないのかよ。」
経験のない瑠海男は、マグネシウムや亜鉛の燃える色に魅せられたり、煙を吸い込んだりと、経験者なら普通のことでも慣れていなかった。夜は更けて行った。朱璃が気づくと、雄二と由美子は湖畔の散歩に出かけ、ミサヲと瑠海男が残されていた。
「瑠海男ちゃん、一緒にお風呂に行こうよ。」
「えっ。」
瑠海男は戸惑い、朱璃の母親ミサヲの方を向いて返事を待った。
「瑠海男ちゃん、朱璃はまだまだ小四だから、幼いのよ。子供のお願いと思って、一緒に入ってやって。これが楽しみだったらしいから。ごめんなさいね。」
「わかりました……。」
「私は子供じゃないわ。」
またも、朱璃は母親の一言にいちいち反発したくなっていた。
「いつも勉強を教えてくれるから、背中を流してありがとうって言いたいだけよ。」
ミサヲは、議論を避けるように部屋へ戻ってしまった。
山荘には、風呂がなかったため、近くの旅館の風呂へ出かけていくことになっていた。瑠海男と朱璃の呼吸する山の夜の空気は、湿気を含んで涼しく、旅館への道は高原の木々の香りで満ちていた。
「こっちは男風呂だよ。」
「私も。」
「でも、女はあっちだから。」
「小四だからいいの。」
「ふーん。」
朱璃は、瑠海男といる安心感を感じていた。それに、余り人見知りではない朱璃だったが、明日もどこかで顔を合わせることが予想できる見知らぬ女たちに、腫れて引きずっている足を浴場で詮索されるのは嫌だった。しかし、瑠海男は、背の高い朱璃に大人を見ざるを得なかった。瑠海男は朱璃を見ないようにしていた。それよりも、瑠海男は自らについて第二次性徴が出始めても背が低いままなことが嫌だった。
風呂の洗い場へ入ってから、瑠海男は、温泉の成分で咳き込みはじめていた。実際、花火以来、瑠海男の咳は止まらなかった。
「ゴホッゴホゴホ。」
遅れて洗い場に入って行った朱璃は、広さに戸惑い見知らぬ人影に戸惑っていた。それでも、痛みのある足を庇いながら奥へ進んで行った。朱璃は、見知らぬ人影の中に瑠海男の影を見いだし、静かに近づいていった。湯気の中から現れた瑠海男の背中は、叩かれて切れた傷痕や、青あざ、生傷が幾重にも重なっていた。瑠海男が虐められ虐げられていたことは聞いていたが、その結果を再び目の前にして直子は、そおっと瑠海男の背中をさすっていた。
「こんなにいっぱい傷跡があったんだよね。痛かったんでしょう。」
朱璃は労わるように傷痕を一つ一つ撫ぜていた。しかし、瑠海男は後ろを振り向かずに黙っていた。朱璃に心配はかけさせたくなかった。
「あっそうだ、今迄のお礼に背中を流してあげようか?。」
「誰からそんなことを教わったの?。」
「お姉ちゃんから。高校の先輩から教えてもらったんだって。」
「ふーん。」
朱璃が姿勢を変えようとした時、朱璃の太ももに今までにない激痛が走った。
「い、痛い。」
「どうしたんだよ。」
瑠海男は思わず振り返った。朱璃は腫れた左脚をかばうように片脚立ちをして、顔を痛みでゆがめていた。瑠海男は朱璃を椅子に座らせ、左足の大腿部をみた。朱璃は必死に痛みに耐えていたが、二人とも、朱璃が自力では山荘まで帰れないことはわかった。
「瑠海男ちゃん、歩いて帰る自信がないの。どうしよう。」
瑠海男も、朱璃と自分の石鹸の泡を落としながら逡巡していた。朱璃に肩を貸して歩いて行くか、朱璃を預けて助力を仰ぐか、彼女を抱えて帰るか、それともおんぶか。
「寄りかかっていいから。歩けるかな。」
瑠海男は朱璃を歩かせようとした。
「痛い。」
彼は脱衣室まで彼女を抱えることにした。力んで持ち上げてみると、朱璃の体はそれほど重くなかった。
「これなら運んでいけるな。」
「えっ、何?。どうするの?。」
瑠海男の硬い筋肉質の腕で仰向けに抱き上げられた朱璃は慌てて身動ぎし、瑠海男は彼女を落とすところであった。
「暴れないで。運んであげるから。」
山荘までは遠かった。着替えと身支度をととのえたのち、瑠海男は朱璃を負ぶうことにした。
「はい、おんぶ!」
「えっ。う、うん。」
朱璃は、困ってしまった。山荘に帰り着いてから、姉の由美子に何と言われて揶揄われるか?。母からどんな小言を言われるか?。なにより、勝気な朱璃には自分より少し背たけの低い男の子に、おぶってもらうことが悔しかった。しかも、彼女が体重を預けた瑠海男の腕は太く硬い筋肉質であったためか、微妙なくすぐったさがあって慣れることができなかった。
初めは朱璃も我慢していた。しかし、瑠海男の角張った腕が当たる臀部のくすぐったさに耐えることができず、朱璃はもぞもぞ動き始めてしまった。
「さっきも言ったけど、暴れないでよ。落ちちゃうよ。」
「だって…。」
「何を慌てているの?。」
「慌ててないよ。」
「どうしたの?。」
「もう下ろして。」
「でも…。わかったから、暴れないで。」
朱璃は、突然に火照った顔を持て余した。瑠海男はそれに気づいたのか、そうでないのか、そんな朱璃を抱えて帰った。朱璃の顔はさらに赤くなっていた。
由美子は、笑いながら朱璃の顔を覗き込んでいた。
「軽々と持ち上げられたから、びっくりしたでしょ?。瑠海男ちゃんは力持ちだったでしょ?。」
「うん…。」
朱璃は、赤い顔をさらに真赤にしていた。
「でも、足の痛みのことがあるから、二人だけで出掛けないことね。」
瑠海男は、無意識に会話を避けるように黙っていた。女の子同士の話には、もともと苦手意識があった。さらに、姉妹同士の話には入って行けなかった。しかし、雄二は真面目な顔をして、瑠海男に話しかけてきた。
「なぜ、彼女が片膝をつく姿勢を取らせたんだ?。」
瑠海男は受け身だった。
「背中を流してくれるっていうから……。」
「朱璃ちゃんの足に、時々痛みが来るのは知っていたよな。」
「ごめん。」
朱璃は、横から瑠海男を庇った。
「雄二さん、私が自分からやったの。瑠海男ちゃんのせいじゃないの。」
「それでも年長者として、しかも家庭教師までしている立場なら、わきまえるべきだよ。」
「本当にごめんなさい。」
瑠海男は、朱璃に庇ってもらっては、もう何も反論できなかった。それでも、雄二は続けた。
「それに、だ。朱璃ちゃんとなんで一緒に風呂へ行くんだよ。」
完全に受け身になっていた瑠海男は黙っていた。しかし、横から朱璃が答えていた。
「雄二さん。それは、私がお願いしたの。」
「えっ。それって…。」
いいよどむ雄二に、ミサヲがまた答えた。
「雄二さん、私も瑠海男ちゃんに頼んだのよ。」
雄二は黙ってミサヲを見、瑠海男を一瞥し、朱璃を見つめた。
「だって、私はまだ小学四年生だし…。それに、私が足を引きずりながら大浴場へ入って行ったら、知らないおばさん達が、興味本位で足のことをあれこれ聞くだろうし…。次の日にどこかで会えばうるさいだろうし….。」
「まあ、そうだな。」
「だから、瑠海男ちゃんや、オジさん達はおせっかいでないと思ったから、男湯を選んだの!。」
「わかったよ。」
しかし、雄二は怪訝そうだった。
日光からの帰路は、秋霖、雨だった。すでに太平洋高気圧は南へ去る季節であり、秋雨と台風の季節だった。そんな季節のためか、瑠海男は、日光で吸い込んだ花火の煙をきっかけに咳き込み、持病の喘息が出ていた。鼻づまりも伴い、瑠海男の鼻は鼻のかみすぎで赤く腫れていた。瑠海男は、北千住で一行と別れを告げて帰宅した。咳を心配した母は、東堀切の黒田医院へ連れて行った。黒田先生は、花火の煙や温泉のガスによる肺機能の低下を心配した。
「一度、肺機能などの精密検査をしてもらいなさいね。えーと、東大病院に行ったことはあるかい?。私の母校だし、知り合いがいるから。」
「いいえ。存じませんでした。」
「逓信病院は?。御茶ノ水の三楽病院は?。」
「いえ。病院は、近くの民衆病院しか知らないです。」
「あそこは、小さいからな。では、錦糸町の墨東病院でいいかな。」
そう言って、紹介状を書いてくれた。
「咳なんて、弱虫だから出るんだよ。いつも疫病神ぢゃねえか。めんどうくせえなあ。
しかたねえ、納品ついでに、俺が連れていっとくよ。」
土砂降りの雨の中、義父は、めんどくさそうに草履の仕上がりを持ち込むオート三輪に瑠海男も乗せて、病院へ向かった。オート三輪は、二サイクルエンジンの高い音を上げながら、四ツ木橋を駆け上がり、玉の井を抜けて押上駅前の交差点の手前にきた。
「おめえはここで降りろ。ここから錦糸町までは歩いて行け。」
瑠海男は一本の傘を渡され、降ろされてしまった。瑠海男は途方にくれた顔をしたが、義父は構わず行ってしまった。瑠海男は、雨の中の交差点で立ち尽くしてしまった。それでも、真っ直ぐ行くと錦糸町なのだろうと、当たりをつけて歩き始めた。
しばらく行くと、強い雨脚にけぶる行先に曲がっていく都電が見えた。そのさらに先には、道の真っ先を横切って走る総武線が見えた。瑠海男は、都電が蔵前橋通りから南に曲がる四つ目通り沿いに歩いてきていた。瑠海男は、雨に烟る錦糸公園の広がりを左に見つつ、傘に当たる雨脚のザザッという音を聞きながら、京葉道路を越えるまでトボトボ歩き続けた。
瑠海男の病室は、六人部屋の中頃だった。三日程度の入院と言われて居た。それでも、手持ち無沙汰の瑠海男は、入院前に全ての宿題を終わらせて来たことを後悔して居た。何をすることもなく、ぼんやりと窓の外をみると、走り出した焦げ茶色の国電が、雨に霞んでみえた。
「確か、朱璃ちゃんも、何処かへ入院すると言ってたな。」
朱璃は、旅行から帰った日から墨東病院の外科に入院していた。夏休みはあと一週となった。外科の担当医は、炎症の程度を見て至急の精密検査の日程を組んだ。取り敢えずの一週間であった。墨東病院の界隈は、戦災で焼け野原となった後に碁盤の目のように道路を通していた。北向きの朱璃の病室からは、北へ向かう道路と、その先の総武線錦糸町駅が見えていた。新小児病棟にある朱璃の病室には、ミサヲと由美子が交替で通っていた。今夕も、ミサヲが病室に洗濯のために来ていた。しかし、朱璃は、虚ろな目で外を見ているだけだった。しかし、無理もなかった。夏の間、打撲と思っていた痛みは増すばかりだった。また、楽しかった日光から、病院へ直行したことも、不安を煽っていた。
「今度はなんの検査があるの?。」
「血液だって。その後は、レントゲン。」
「漫画を持って来てあげたわよ。」
「キャラメルはないの?。」
「持って来ていないのよ。地下の売店で売っているかしら。これで買えるよね。」
ミサヲは、朱璃に穴の開いたニッケル貨を渡し、帰っていった。夕方、朱璃は、松葉杖をつきながら、地下の売店へ向かった。ゆっくりとしたエレベーターが止まると、薄暗くも、人通りの結構ある廊下が、目の前にあった。売店のありかを探しながら歩いて行くと、医学図書館から本を抱えて低い背の男が出てきた。医者にしては若すぎ、男というより男の子だった。
「あれ、瑠海男ちゃん。」
「はい?。えっ?。朱璃ちゃん?。此処に入院していたの?。」
瑠海男は、松葉杖姿の朱璃に驚いていた。
「足に包帯をしているんだね。でも、打撲だけだったのに…。」
あまり知識を持たない瑠海男でも、普通の状態ではないことが想像できた。そのせいか、朱璃はいつになく寡黙に近かった。瑠海男は、朱璃の様子が心配になった。それでも、朱璃はひとことは言えた。
「瑠海男ちゃんはどうしたの?。」
「肺と血液の検査。入院してから、検査を受けているんだ。病気じゃないんだと思うんだけど。四、五日入院の予定さ。」
すると、突然、朱璃は目を輝かせた。
「瑠海男ちゃんの部屋はどこなの?。」
「旧病棟というのかな、退屈だなあ。何か本はないかなあ。朱璃ちゃんは、本を持ってきている?。」
瑠海男は、よくしゃべる男の子だった。朱璃は思った。瑠海男はやっぱり変わった男の子だ。でも、彼より年上の由美子が、逆に歴史や地理、数学を教えられていたこともあって、頼りになる存在だった。夕飯の後、旧病棟の瑠海男の病室に新小児病棟の朱璃が訪ねてきた。
「ここは古いのね〜。」
「どうしてきたの?。」
「勉強教えて?。」
瑠海男はベッドの空いたところを整えて、朱璃を案内した。
「いいよ。ここへ坐りなよ。何をやりたいの?。」
瑠海男は手洗いに行って、洗った顔をタオルで拭きながら戻ってきた
「あれ?。何にも持って来ていないじゃないか。じゃあ、何しに来たの?。」
一瞬だけ、朱璃はこころを曇らせた。瑠海男は、確かにそれを変に感じた。それでも、朱璃はすぐに人なつっこい顔を見せた。
「えへへ。」
昼間、地下売店であった時には、朱璃は病気の予感があるのか、ほとんど話しかけていなかった。それでも、朱璃は瑠海男の優しさに惹かれ、彼の傍に何か明るい未来を再び取り戻せる感覚をおぼえた。そうして朱璃は、何気なく瑠海男の傍に潜り込み、いつものように人懐こく話しかけてきた。成長し始めた少女のスキンシップに、瑠海男は困惑した様子だったが、他方で、朱璃の明るさを支える気持ちの杖を与えたかった。
「また、西洋の絵の話をしてよ。」
「そうだね。これは誰なんだろう?。」
「モーセという人よ。」
「これは?。」
「サムエル。」
「え?。知っているの?。じゃあ、これは?。」
「サムソンかな。」
「よ、良く知っているね。」
彼は、朱璃を軽く見ていたが、意外にもポンポン名前が出てくる彼女の知識に舌を巻いた。
「ほんと、良く知っているね。」
仰向けに天井を見上げながら、朱璃は笑った。
「絵をときどき見せてもらってたの。」
「どこで?。」
「保育園の保母さんから見せてもらっていたの。絵の中の人たちは、聖書に描かれているのよ。諦めずに歩み続ける人たちね。」
「へえ?。」
朱璃は、背が伸びたせいか、瑠海男をさらに抜きそうな勢いだった。彼女はそんなところでも、瑠海男に親近感を覚えていた。瑠海男は、朱璃一家の中で朱璃のみが持つ魅力が此処にあることに気づいた。
三日後、瑠海男は小児病棟の朱璃を訪ねた。あれから来ていない朱璃に会うためだった。朱璃は、黙って天井の一点を見つめていた。瑠海男は、見たことのない朱璃の様子に不安を感じた。
「私の左足首に骨肉腫があるんだって。足を切断するんだって。」
起き上がった朱璃は、絞り出すような声で淡々と語り、パジャマの下の左足を瑠海男に見せた。瑠海男は、にわかには信じられなかった。それでも瑠海男は、昔、妹を撫でてやったようにその左足を撫でていた。その瑠海男の手にポツリと涙が落ち、すすり泣きが聞こえてきた。
「親戚の人が、私を、呪われているって言うの。」
「なんだって。どうしてだよ。」
「運命だから、仕方ないって。」
瑠海男は、静かな怒りを覚えた。しかし、黙っていた。
「でも、そうなのかもしれない。それでも、もういいの。」
明るいはずの朱璃の涙に、瑠海男は打ちのめされ続けた。諦めの中にいる朱璃の前に、瑠海男には、黙ったまま怒りと無力感しか感じられなかった。
「我慢していたんだね。辛かったんだね。」
瑠海男には、それしか言えなかった。瑠海男は、自らのためにしか生きてこなかった。このとき、瑠海男は初めて他の人のために祈ることを覚えた。彼の中で、朱璃と由美子は、かけがえのない人となっていた。誰に祈ってよいのかわからず、ただ祈っていた。
「救いを。朱璃ちゃんをお救い下さい。」
祈りの中で、瑠海男は流れるような想いを感じた。
「どうしたら、彼女を救えるのか。苦しみ自身は人間の定め。避けられるものではない。しかし、生死や苦しみを明らむる、つまり知ることにより、それらに対するこだわりを捨てれば、苦しみの定めなど問題では無いはず。これを受けいれば救われる。しかし、この理解に至らなければ救いはない。それに、生死や苦しみを明らむるには、阿弥陀仏の世界への往生をしなければ、達することができない。それが救いならば、つまり、明らむることとはこの世を諦めることなのだろう。現世の苦しみから逃れられない。それは人間の業の招いた永遠の呪い。せめて仏法に頼り阿弥陀仏の世界へ入ることが、毘沙門天様の言う救いならば…………。」
瑠海男は、己の救いのみならず、他の救いまで考えた。しかし、隣人の現実の苦しみの前に、現実のこの世における救いは無いと思い続けるしかなかった。
八月末の退院後、休みになると瑠海男は墨東病院へ通った。通うごとに瑠海男の身長は、すこしずつ伸び始めていた。診療もあったが、足を切断した朱璃の見舞いもあった。そうして、秋も九月下旬から十月となり、学園祭の季節だった。各大学、高校、中学に至るまで、一大イベントとも言えるお祭りがあった。しかし、青葉学園では教師たちの監視の目がゆき届きにくくなるときでもあった。瑠海男は群衆の中に目立つ案内係を希望し、九月下旬の金土日に開催された青葉祭を過ごした。確かに、重太らに嫌がらせを受けることさえ避けられたが、終了後の片付けの時を待っていたかのように、重太らが現れた。
「瑠海男、これが終わったあとはどこへ行くんだい?。」
「……。」
「黙っていくのかよ。」
しかし、彼等は、夏休みに柔道とは異なる投げを瑠海男から食らってから、単独で瑠海男に手を出さなくなった。それでも重太は、瑠海男の前に立ちはだかった。瑠海男は彼等を睨みつけ、重太たちは瑠海男を脅そうとしていた。
「今日は逃さないぜ。」
「僕の前に立たないで。」
「用があるのに、返事がないからさ。」
「こちらにはないけど。」
一瞬の隙を突いて、瑠海男は逃げ出した。しかし、背の低い瑠海男は、すぐに追い詰められてしまった。秀夫たちの後ろから、声が掛かった。瑠海男は、学園の先生であることを期待したが、一年上の平岩慎吾と田丸二郎だった。重太たちと同類か、それよりタチの悪い奴らだった。
「重太⁈」
「あっ、先輩。いつもお世話になってます。」
「また虐めてんのか。?」
「教育ですよ。」
「そうか。しかしなあ、教育っていうのは、こういうことだぜ。」
そう言って、慎吾は、突然、後ろ回し蹴りを瑠海男の頭に当てた。空手の技だった。背の低い瑠海男は、フラついてたおれこんでしまった。慎吾は続けて、重太達に先輩風を吹かせ、凄味の効いた声で言い放った。
「おめえら、ちゃんと助けてやるから、必要なときは俺たちに報告しろよ。」
「でも、こいつは弱いやつだから、気にする程の奴ではありませんぜ。」
「そんなこと言いやがっても、お前らは、二人掛かりでやっと抑えているんじゃねえの?。」
「はぁ。」
「これからは知らせろよ。」
「先輩、ありがとうございます。」
「お前らも、こいつにイラついているんだな。」
「先輩も、いらついていらっしゃったんですね。」
瑠海男は、地獄が深くなったと感じるばかりだった。彼らには、確かに苦しみがあるからそれを僕にぶつけているのだろう。しかし、彼らを救うことはできない。素直さがなく、聞く耳を持たない者たちを折伏するには、やはり非力だ。合気道を習ったとしても、重太ばかりでなく平岩たちのような年上まで加わってきては、多勢に無勢であった。夏休みの終わりのころに、秀夫に語り掛けた働きかけの言葉もむなしかった。瑠海男を抑えている重太と秀夫が、慎吾たちに気を取られている一瞬のスキを突き、逃げ出すしかなかった。
「さらに強い意志を示さなければ、彼らを救うことはできない・・・・・。いや、救うなどと考えない方が良いのかもしれない。」
朱璃の病室には、大概ミサヲと由美子のどちらかがいた。ナイトロミンという抗ガン剤治療の始まっていた朱璃は、髪の毛がすっかり抜けた頭を毛糸の帽子で隠していた。ミサヲは、戸惑う瑠海男に発熱している朱璃の手を握らせた。しばらくの後、ミサヲは瑠海男を待合室へ誘った。
「瑠海男さん、お見舞いありがとうね。朱璃は足を切断したうえ、しばらく抗ガン剤治療もすることになったの。彼女には辛いことになっちゃって。でも、朱璃にとってあなたがいてくれることが、心の拠り所になっているみたい。虫のいい話なのだけれど。」
まだ幼い顔の貧相な中学生に、虫のいい頼みをしなければならないほど、ミサヲには朱璃にしてあげられることが限られていた。それでも、その時の瑠海男は、驚きつつも素直にその頼みを聞いていた。
「はい。わかりました。僕にできることは、ただ一緒にいてあげられるだけですが。」
こうしてこの秋も過ぎて行った。朱璃は、三クールを二回ほど、抗がん剤の投与を受けていた。朱璃は、足立区の専門業者から義足を作ってもらい、歩く練習を始めるはずだった。しかし、癌細胞の残りは思ったようには減らず、残すところ一回の点滴で、抗がん剤治療が終わる予定であった、しかし、切断したショックを克服できない朱璃は、義足を作る気力も生きる気力も失っていた。
瑠海男は、度々見舞いに来ていた。食欲を失い、日に日に涙を流しつつ痩せていく朱璃の腕を、瑠海男は何度も握り続けて来た。励まし歩く練習へと導きたい為に。
「あと一回の点滴で終わるね。」
瑠海男は首を曲げる気力もない朱璃の顔を、上から覗き込んだ。朱璃は、その気配に気づき瞼をゆっくり開けた。やがて、朱璃は涙目の瞳を閉じ目を覚まさなかった。若い病人特有の臭いがきつくなっていた。瑠海男は不安に駆られていた。点滴が終わっても、体力は回復しないのではないか。二度と立てないのではないか。ガンは残っていて、また再発するのではないか……。瑠海男は、朱璃の手を握りながらいつまでも逡巡をしていた。
十一月も終り近く、東京でも銀杏の散り切る季節となったこの日、雄二が朱璃の見舞いに来ていた。運動好きな雄二から見ても、身体を動かすことの好きな朱璃が足を切断し、しかも運動を制限されていることはかわいそうでならなかった。
「こんにちは。」
そっと病室に入り込むと、朱璃がゆっくりと雄二の方を向いた。かける言葉もないほど、朱璃は虚ろな目で、雄二を見つめていた。
「これ、お土産、ね。」
朱璃は無言だった。無反応だったというべきだろうか。汚れ物の片付けを済ませた由美子が、申し訳無さそうに雄二を待合室に案内した。
「いつから、あんな風に……。」
「手術後 、ずっと。瑠海男ちゃんも来てくれているのだけれど、彼にさえ涙を流すだけで精一杯みたい。」
「そう。ちょっと外へ行ってみないか。」
由美子は、朱璃を一瞥して雄二を追った。
都電の車庫は、通勤時間帯ということもあり、空っぽだった。二人は、その前を通り過ぎ、都電通りを江東橋へ向かって歩いていた。
「いつ治るんだ?。」
「癌は、治るってことはないんだって。」
答える由美子の眼は、赤く腫れていた。
「そう……。」
頭の良さそうな三高の生徒たちが、二人の横を通り過ぎて行った。下校していく彼らには恵まれた家族があり、希望があり、前途は大きく広がっているのだろう。そんな彼らの姿を見ながら、雄二は薄幸な後輩の家族を襲った不運を口惜しく思った。
二人は無言のまま、江東橋にいつの間にか近づいていた。夜霧の出始めた三高の裏手に回ると、ほとんど人は居なくなっていた。由美子は無人の校庭を覗き込みながら、独り言のようにポツンといった。
「私の学校も、もう、来年の就職活動が始まっているの。」
「そうだろうな。」
「でも、授業や先生の言うことなんて、頭に入らないわ。あっ、そうか、前から勉強なんて頭に入んないんだっけ。」
由美子は寂しく笑った。
「朱璃なんて、学校さえ行けないんだものね。私よりもっと苦しいのに。私が泣き言を言ってどうするのかしら。」
雄二は無言だった。
「母さんも一生懸命よ。だから、我儘な私は少しでも頑張らないと……。」
しかし、言葉とは裏腹に涙が止まらず、由美子は崩れるように座り込んでしまった。身長一九〇にも近い雄二の足元で、震えて崩れ落ちた由美子の肩は、あまりにも小さくあまりにも悲しかった。雄二は、震える由美子の肩を両手で支え、言葉をかけた。
「もう何も言うな。」
次第に光を失う赤い夕闇を前にして、二人は影を重ね、悲しみを重ね、時を重ねていた。
一九六〇年一月、瑠海男は、高校受験の年度を控えた三学期を迎えた。女生徒達は、水原弘の黒い花びらを練習していた。これらの生徒たちが過ごすクラスでは、相変わらず瑠海男と話の合う輩はいなかった。重太たちは、相変わらず瑠海男に絡んでくる。しかも、二人掛かりでは、扱いが厄介だった。
今日も、昼休みに、重太が声をかけてきた。
「瑠海男ちゃん。今週はどちらへお出かけですか。」
瑠海男は、決して行き先を教えてはならなかった。
「……。」
「聞いているんだから、答えてくれてもいいんじゃねえの。」
瑠海男は通り過ぎようとした。
「まてよ。」
重太と秀夫は、瑠海男を二人掛かりではがいじめにした。
「なぜこんなことをするの?。」
「この前、俺たちには逆らえないことが分かっただろうが。」
言葉の掛け合いなら、チャンスを作れる・・・・。
「へえ、先輩たちと一緒でないと、何も出来ずにダメだったのではないですか?。」
「俺たちだけでも……。」
「そう、二人掛かりでですね。」
「一人でもお前なぞ投げられるさ。いつも、神田三座様の御前で、強くしてくれと頼んで柔道の稽古をしているからな。今朝も奉納稽古をしてきたばかりだから、御利益たっぷりだ。」
一瞬の隙をついて瑠海男は廊下を走り、階段の踊り場へ身を置いた。先に着いた重太が、瑠海男の襟首を捕まえた。その時瑠海男の体を階段の下へ沈ませていくと、重太はそのまま下へ投げられていった。重太はそのまま唸っていた。あとから来た秀夫が瑠海男と対峙した。
「重太は哀れですね。関東神社の三座ジンに頼んだらしいけれど、ご利益はありましたか?。御都合主義の祈りに意味が有るわけがないでしょ。本来なら、つまらぬ己の存在にも恵があることを感謝すべきなのに。御都合主義で頼んでご利益ばかりを求めてきたんでしょう、貪慾が貪欲を重ねて呆れましたね。傲慢と貪欲から賽銭をいくらささげても、御都合主義のご利益を求める者に救いはないでしょう。でも、あなたなら今、考え直せるはずです。でも、ここで考え直さないと命が危ないと思います。」
「なぜ命が危ないんだよ。俺を殺すのか?。」
「僕はそんなことを決してしません。ただ逃げて、守るだけ。でも、追いかけるあなたには、傲慢と焦りとが出て来ているでしょ?。わかっているはずです。」
「重太には、なんで言わないんだ。」
「重太は、初めから救いようがないと分かっているからです。ひねくりきって、素直な心はのこっていない。私への憎しみというより、自分の思うとおりにしたいという、傲慢と貪欲と殺意とを持った盗人に成り下がっているんです。」
「お前は、なんでそんな偉そうなことが言えるんだ。」
「僕は偉そうにしていません。妥協しないだけです。僕は率直に語りかけているのに、聞く人が素直でないだけです。」
立ち尽くす秀夫に瑠海男はさらに言った。
「あなたのお父様に知られる恐れもあるのに、何故こんなことを続けるのでしょうか。つまるところ、死ぬ程のことがないと悟れないのかもしれないですね。そして、それがあなたの救いへの道なのかもしれません。」
そう言って瑠海男は立ち去り、秀夫は混乱したまま立っていた。
第三章 風の吹く頃
一九六〇年三月の中旬となった。桜の蕾が色づいて、開花も間近となっていた。朱璃は、一通りの抗癌剤治療を終えて、飯塚家に戻れることになった。大腿部に装着する義足を使い、出掛けることもできると言われていた。
ひさびさの荒川土手だった。朱璃はミサヲや瑠海男とともに、土手を登りきって上に立っていた。川面を渡る風は、軽く巻いてあるミサヲと朱璃のマフラーで遊んでいた。ここは、ちょうど一年前、飯塚家と瑠海男とが知り合った場所だった。
朱璃は治療が一段落したことを瑠海男に伝えていた。また、姉の由美子が見つけた愛も。瑠海男は、信じられない奇蹟を聞くように、朱璃と一緒に喜びを噛み締めていた。
「よく耐えたね。よく回復できた。よく戻って来たね。」
「まだ、ガン細胞はどこかに残っているかも知れないんだって。でも、ひと段落と考えていいだろうって先生が言ってくれたわ。ねっ、母さん。」
「……。」
「私、祈り続けていたのよ。そうしたら、困難な時にこそ何かが豊かにあたえられるのね。そして、私なんかのために働いてくれた人の為に、苦しみの中でも祈り、生きたいって思えたの。」
瑠海男にとって、苦しみの中で単に克服できることを願うはずの朱璃が、祈りと共に喜んでいたことは、理解ができなかった。瑠海男の理解では、自らの苦しみをあきらむること、苦しみを克服しあの世での救いに至ることのために、祈るものだと理解していた。毘沙門天様に教えられたことは、人間の心はその菩提心の発展段階、宗教性に応じて十段階つまり「十住心」に分類されることだった。各住心は、そのまま諸宗の精神性を表し、それぞれの位置と状況の中で何らかの役割を果たし、最上位の真言密教の「秘密荘厳心」が下位を包含しながらすべてを含んでいる、と曼荼羅の思想を教えられていた。
彼女にも、救いが必要なはずだった。自らも他も苦しみから救うには、彼女も瑠海男もそれぞれが智慧を求める行動が必要があると感じられた。しかし、苦しみの中で祈ることを喜ぶ朱璃の思いは分からなかった。
……ふと気づくと、横から朱璃の声が瑠海男に話しかけていた。
「姉ちゃんがね、雄二さんと時々デートしているのよ。」
「へえ。だから、練習に雄二さんが参加していないことがあるんだなあ。」
「デートって、どこへ行くんだろうね。」
「二人とも、運動神経がいいからなぁ……。」
「二人で、自転車で出かけたり、ハイキングに行くみたいよ。」
「とすると、里見公園、江戸川の土手あたりかな瑞江公園も、水元も少しばかり遠いかなあ。」
時々寒の戻りがあったが、春の日差しは、日に日に強まっていた。この土手の上から見渡すと、街並みの全てで春風が外へと誘うように、穏やかにそよいでいた。
「みんなに春がきたのね。長かったなあ。野球の試合もはじまっているの?。」
「そうみたいだね。そういえば、朱璃ちゃんの通学はいつから再開するの?。」
「四月から。でも、勉強が難しくなっちゃったなあ。」
「数学、いや算数は大丈夫だよ。教えてあげる。たとえ遅れていても、飲み込みが早そうだから。算数が強ければ、他の教科もできるようになるよ。」
朱璃が退院すると、その夜から由美子は深夜に帰宅することが多くなっていた。むろん雄二とのデートだった。退院後に朱璃も楽しい日々が続いたが、由美子も楽しく過ごすようになっていた。春の日差しは日に日に強くなり、由美子と雄二は逢瀬を重ねていた。
春休みとなり、桜花が風にくるくると揺れる季節となっていた。春休みに瑠海男は朱璃のために、いくつかの参考書を用意していた。毎日でも、瑠海男は朱璃のために勉強を教えるつもりでいた。しかし、この日、お花茶屋駅へ向かおうとした時だった。間の悪いことに、重太と秀夫が瑠海男の行く手を阻んだ。しかも、学内ではなく田んぼの中の道だった。
「よお。また会ったな。探したんだぜ。浦和学園の田丸先輩が連れて来いってさ。やっと見つけたぜ。」
瑠海男は彼らを特に秀夫を睨みつけた。秀夫は瑠海男から視線を逸らし、重太に同意を求めるように話しかけた。
「こいつ、偉そうに俺たちを睨みつけているぜ。」
それに呼応して重太は言い放った。
「俺たちのしていることは、役に立たないクズを滅ぼすことだぜ。いじめじゃねえさ。俺たちのこの信念は世の中にとって良いことさ。」
「それなら、虐められる苦しみはあなたがたのせいではないの?。」
「お前はクズの分際で、気に障るのが原因なんだよ。」
「それでは、弱いものの権利は侵害されたままなの?。」
「それが気に障るんだよ。クズなのに何が権利だよ。お前みたいなグズは、俺たちのような世の中の人間には、害悪なんだぜ。そんな奴が俺たちの目の前に偉そうにしているからいけないんだぜ。」
「そう。…重太たちの言うことは、一方的で身勝手だね。毘沙門天様が言っている通り、その一方的な態度は悪だよ。明らかに間違っているよ。いくら人間の業だからと言って、間違っているのにそれを認めないなら、苦しみや救いなんて眼中にないし、傲慢以外の何物でもないよね。それに加えて、弱いものが目の前にいると目障りだ、なんてはなはだしい偏見と独善。もう、語る言葉がないよ。」
瑠海男は秀夫の目を見ながら続けた。
「重太には救いがないね、でも、他の人にも救いがないとしか・・・。」
「何言っているんだ、こいつ。」
彼らは聞く耳を持たなかった。瑠海男は天を仰いだ。仕方がない。かといって戦うことは避けたかった。よく考えれば、彼らは必ず俺を相手にしなければならない事情があるらしい。そうでなければ、探しまくるはずがない。でも、瑠海男は戦う必要はなく逃げれば良かった。
瑠海男は各個撃破と奇襲を考えた。攻撃を加えてくる数人の相手に、正面からまともに当たる必要は無かった。また、戦うなら、怪我をさせずに勝たなければならなかった。
瑠海男は街中まで逃げ、街角を横道に逸れ、お花茶屋公園まで路地をジグザグに走り抜けた。予想したとおり、お花茶屋公園で集団は散り、一人となった秀夫が来た。秀夫を誘うように彼は駅へ逃げた。お花茶屋駅は対向型のプラットフォームであり、この時間帯はいつも上りと下りの列車が揃う。それを活かすことにしていた。改札の中へ回数券で入場すると、らトイレの物置きに飛び込むことができた。焦る秀夫は、切符を買い改札口を駆け抜けたあと、ためらいつつ下りのプラットフォームへ降りて行った。タイミングは上り電車のきた直後、その反対側のプラットフォームに彼がいる時と計算していた。そのうちにすぐその時が来た。秀夫は下りのプラットフォームで瑠海男を探していた。上り列車のドアが閉まるころに、瑠海男は反対側のプラットフォームから秀夫に声を掛けた。秀夫と瑠海男の目線が、上り列車のガラス窓越しに交わった。秀夫は線路に降りて上りホームに渡ろうとしたとき、ちょうど下り列車も来ていた。彼は下り列車に気づきのけぞったが、腕を強かに打ってプラットフォームに転がった。それを横目で見ながら、瑠海男の上り列車は駅を離れていた。
瑠海男の狙いどおり、秀夫は肘のみ痛めたのみで済んだようだった。痛みをこらえながら、秀夫は思い出していた。下り列車の車掌と駅員に説教をされながら、瑠海男に言われた言葉が頭に浮かんだ。死ぬほどの目に遭う、と……。背中の悪寒が彼の感じたことのない底知れぬ恐ろしさを表していた。
四月となり、瑠海男は中学三年となった。新卒の谷山先生が瑠海男の担任として赴任して来た。谷山先生は、新進気鋭の若手として青葉学園に迎えられ、新三年生も若い体育の先生に興味津々であった。
「君たちにはこの一年が大切な時期だ。就職にしろ、進学にしろ、普段の生活ぶりを反省してほしい。明日から、みんなの成績と生活態度をチェックさせてもらい、家庭訪問と進路相談を進めていきたいと思ってます。」
若い先生らしく、熱のこもった緒言であった。早速、谷山先生はクラスの生徒全員を相手に、全学科の成績と授業態度とを集約し、親と一緒に一人一人を呼び出していた。しかし、新学期に秀夫はまだ学園をしばらく休んでいた。お花茶屋駅で電車がしばらく止まった事故の原因とされたためか、今までの悪事が父親に知れて謹慎したのか、高校受験を意識した父親の配慮だったのか、いろいろな噂があった。重太達も、少しばかりは卒業後の進路が頭にあったのか、学年の最初の頃は静かだった。また、園芸部に入部した瑠海男は、同じ園芸部のクラスメイト達とも、交流できるようになった。他のクラスメイトたちも、高校受験を意識してか成績の抜け出るようになった瑠海男と交わるようになって来た。
さて、四月の連休の前に、瑠海男は、義父とともに三者面談となった。谷山先生は、最初に二年間の成績を義父に提示していった。
「成績は全体を通して良いところにいますね。特に、数学と理科、社会は学年トップです。問題は今でも続く虐めです。彼は目立たないですが、態度は規律を重んじる馬鹿正直というほどの人間で、申し分ない。目立たない馬鹿正直なところが仇となって、今でも一部の不良からしつこい虐めを受けています。しかし、今ではクラスのほとんどが馴染んでくれているようです。何より皆が彼に勉強のアドバイスをもらいに来るほどです。」
義父は時々目をむいたり、腕を組んだり、落ち着かずに聞いていた。
「先生、こういうこたぁ初めてなんで。こいつがそんなにできるんですか?。そりゃあ、まあ大したもんだ。でも、虐めがまだあるんですね。こいつが不甲斐ないからまだ虐められているんでしょ。多分どこへ行ってもダメなやつだから、卒業したら、丁稚奉公に出そうと思うんですよ。ある程度計算ができるなら、奉公先も喜ぶだろうし。」
「丁稚奉公ですか?。いまどき?。彼の成績なら、三高や一高への進学を考えてもいいと思いますが。」
「うちにゃ、高校へ行かせる余裕なんざ無いんですよ。」
「でも……。」
「こいつのこたぁ、おいらが決めるんですぜ。」
凄むような返事に、谷山先生は絶句して黙ってしまった。自宅に戻った瑠海男は、義父から思いがけないことを言われた。
「俺とおめえとの間にゃ、養子縁組なんぞしてねえぞ。なんで、俺におめえの進学の面倒を見させるんだよ。おめえは、不器用だから虐められるんだぜ。そんな見込みのない奴の面倒なんざ見ていられるかよ。いいか、おめえの母ちゃんは、あの時、やや子連れで苦労していたから面倒見てやったんだ。だがよ、彼女は手先が器用だから草履の手伝いも問題なかったぜ。だから、皆して草履作りが出来ると夢を持ったさ。それが、おめえが不器用でふにゃふにゃしているから、虐められるは、何も出来ねえは。……何か器用なことが出来るんか?。全く………。俺の夢をぶち壊しやがって。」
瑠海男は義父の思いを知らされて、自らの出来の悪さを改めて感じ、虚しさを感じ始めていた。
「なにをやっても、努力しても、我慢をしてもダメだったなあ。」
他方、瑠海男が家庭教師をしていた朱璃の勉強は進んでいた。瑠海男にとっては、それだけが、この世で瑠海男が役に立っている唯一の証しだった。朱璃は、長い間の入院にもかかわらず、五年生程度の算数をはじめとして社会や理科への関心が高く、また、素直な性格も相まって、理解が速かった。瑠海男が言ったことや示した事は、乾いた砂のように吸収され麦のように伸びていた。特に、瑠海男の繰り返しの問い掛けに、朱璃は錯誤を重ねながら、エッセンスを学んでいった。
「縄文の頃の日本では、栗などを食べ、狩猟して肉を取り、土器を作っていた。これを見る切り口は、どこが産地か、誰が生産手段を支配しているかだよ。」
「栗や野獣の肉、魚は、別々のところで採れるから、物の流れが出来るのね。そのうち、お金の流れが出来てくるのね。」
「でも、まだ規模は小さいよ。そして、弥生時代になると、稲作が始まると、どうなるかを説明してみて。」
「お米の産地が出来て、もっと多くの物が運ばれるのかな。それが道と船ね。駅ができて、港が出来て、倉が出来るのね。」
「じゃあ、生産手段は?。それの持ち主は?。」
「生産手段??。持ち主??。」
「土地。そして支配者、豪族、貴族というところ。封建時代だから……。」
「そんなのわからない。もうやめた。」
瑠海男はつい、一生懸命にやり過ぎてしまう。そのため、朱璃は疲れて、黙ってしまうことが目立つようになった。
「じゃあ、今週はこれでおしまい。これで、算数の復習、社会の予習とおまけの勉強も出来たね。来週は、理科と国語かな。」
「あーあ疲れたぁ。」
「でも、学校の勉強には、もうすぐ追いつくよ。」
「もうおしまい、おしまい。外へ出かけようよ。」
「何処へ?。」
「荒川土手。歩く練習もしたい。」
「そうだね。わかった。連れて行くよ。」
「ついでにお菓子を持ってみんなで食べようよ。」
「そんなに持って行くの?。」
朱璃はミサヲや瑠海男と一緒に、ゆっくり川の土手へ向かった。新しい季節をもたらした憲法の記念日らしく、土手の陽と風は、草の芽の成長と人間のたちの成長をうながす香りを放っていた。やっと登りきった土手の上から見渡す草叢と川面のそよぎ、そして甍の波は、登りきった者たちにこの世に躍動する息吹を想像させた。朱璃は特に、己を躍動させる息吹を感じていた。
漸く、ピクニックも終わり帰路につこうとした時、珍しく朱璃の前で瑠海男は自信のない顔を見せた。ミサヲは瑠海男を朱璃の家庭教師に初めて招いた場面をおもいだした。
「僕はあと一年も経たないうちに、馬喰町か浅草橋あたりに見習い奉公に行くんです。つまり、就職ですね。 」
「まぁ。」
控えめなミサヲが珍しく驚きの表情を見せた。朱璃は、好きな家庭教師が来年にはいなくなることに、落胆を覚えていた。
「奉公へ行ったら、いつ帰ってくるの?。」
「義父の話では、昔は一生そこで勤め上げたらしいのですが、今の時代なので、中卒の就職です。でも、ここへ戻ってくることはないようです。義父とは養子縁組がないとか何とかで、僕は中学を卒業したら、自宅から追い出されるしかないみたいだし。」
朱璃は瑠海男に食い下がった。
「でも、何で家から出なくちゃならないの?。お母さんは本当のお母さんなんでしょ?。」
「そうだけど。決めるのは義理の父なので………。」
「瑠海男ちゃんのお母さんの考えはどうなのよ。」
「だから、義理の父にしか決める資格がない……のかなぁ。」
「お母さんに聞いたの?。」
「うーん。お袋が板挟みになるから、言えないな。」
「どうしてよ。」
「朱璃、それ以上は言い過ぎよ。瑠海男さんのお母さんには、強く言えない立場が有るのよ。」
ミサヲには、瑠海男の母親の立場がよくわかった。何の力もない未亡人が、子供を何とか一人前にさせたいという弱み。それをこの息子もわかっていて、あまり強く言えないことも。しかし、朱璃にしてみれば、瑠海男に教えられた社会の教科書に書かれていたように、戦後は男女同権のはずだった。今日の日本において、瑠海男の母親の立場の弱さは、理不尽としか思えなかった。
「瑠海男ちゃんが教えてくれたじゃない、女の人も同じ権利を持っているって。」
瑠海男は自分の教えたことが朱璃の中で活かされていることに、喜びをおぼえた。そのためか、瑠海男は微笑を浮かべたのだが、朱璃はあきれ怒り始めてしまった。
「どうして笑っていられるの?。どうして平気でいられるの?。」
瑠海男の微笑は、哀しげな苦笑のような顔になっていた。
「義理の父の決めたことには、逆らえないんだ。母の立場もあるから…。」
母を人質に取られているに近い瑠海男の立場を、朱璃はおぼろげながら分かってきた。
「こればっかりは、どうしようもないんだ。」
瑠海男が弱音をはいていた。朱璃はそれも気に入らなかった。
「そんなお父さんなら、私はいなくてよかったな。」
「そんなことを言っちゃ、哀しすぎるよ。どんな男女でも、二人一緒にいてなんとか生きていけるんだ。僕の母さんの背中には、再婚するまで弱々しさと哀しさしか感じられなかった。幸せそうな顔をしたのは、再婚してからだったなあ。」
「そんなの嫌。弱い女そのものじゃないの。」
この言葉は、瑠海男の心を逆なでし、瑠海男はしばらく無言だった。ミサヲはミサヲで朱璃の言葉に少なからずショックを受けていた。そして、瑠海男の不機嫌になった横顔を見ながらシミジミと言って見せた。
「女の一人は淋しいものよ。朱璃も、一人じゃ入院していた時耐えられなかったでしょ。」
瑠海男は、ミサヲの言葉に少なからず慰められた。しかし、朱璃は続けた。
「でも、家族が居たし、雄二さんや瑠海男ちゃんがいたから、好きな男の人がいなくても平気だったもん。」
「僕は男として見られていないわけね。じゃあ、僕はどんな存在なんだろ?。」
瑠海男は心の中で苦笑していた。
さて、朱璃は、今だに自分の父親は誰かと言う問いの答えを探していた。瑠海男が帰ってからも、自分の生い立ち、父親、そして想像もできない伴侶にまで想いを馳せていた。
「男の子か。」
そんな独り言を言いつつ思索の中にいた朱璃を見て、帰宅した姉の由美子は不思議そうに話し掛けていた。
「朱璃、あなた、クラス替えしたのよね。好きな男の子はできなかったの?。」
将来の伴侶とはどんな男か、と考えて居た朱璃は赤くなった。まるで今の考えを見透かされたかのように感じたのだった。
「い、いなかったわ。」
「すぐに否定したわね。今好きな人がいるんじゃないの?。」
朱璃のクラスには、いじめっこの進藤昌男と後藤諒太がまた一緒だった。そのほか、鵜飼美奈子や、細川加代子達が一緒だったことを含めて、朱璃にとって代わり映えのしない同級生しかいないという印象であった。そのため、好きな子を問う姉の質問に、こう答えた。
「好きな男の子?。だって、みんなバカばっかりなんだもの。雄二さんみたいな人は居ないわね。」
「ふーん。彼は、かっこよくて真面目な紳士よ。武道をやっているせいかもね。瑠海男ちゃんも同じ道場でしょ?。彼はどうなのよ。」
「えー、うーん。そんな感じじゃないなあ。瑠海男ちゃんには、恋なんて似合わないもの。だって、かっこいいわけじゃないし、目立たない感じだし、服は今だに国民服の継ぎ接ぎだし、この前なんか両方の靴下から、親指が出ていたのよ。ここに出かけてくる時の服より、道着の方がまだ新品みたいに綺麗だなんて、そんな人、いまどき見たことがないわ。」
「でも、彼は被服もよく知っているわね。自分で継当てできるらしいわよ。」
「そういうけど、彼の付け替えた国民服のボタンは、全部種類が違うのよ。それに、よく見ると、左袖と右袖の長さも違っているのよ。チグハグなの。」
「そうねえ。」
たしかに、普通であれば、今時国民服をたいそう大事に着ている男の子に、警戒心を持つのが普通であろう。彼の中身を知っている彼女らだから、彼を迎え入れているのだった。
黄金週間も終わり、五年生の学習はかなり早く進むようになっていた。朱璃は瑠海男の補習が活きて、算数と社会は授業よりも先を行っていた。また、もともと体を動かすことが好きであったことが幸いし、鉄棒や雲梯、マット運動では俊敏な動きをみせていた。
それでも、義足のハンデはカバーしきれるものではなく、走ること跳ぶことについては限界があった。それを昌男達が気づかないはずがなかった。以前の復讐とばかりに、彼等は容赦のない嫌がらせをし続けていた。
ある日、朱璃の社会の教科書が、コークス置き場の中に投げ入れられていた。朱璃のために探していた加代子達が見つけてくれたのだが、今日の授業で参照する京浜工業地帯や京葉工業地域のページが真っ黒に潰されていた。
「きっと、昌男達がやったのよ。」
加代子はそう言って怒りの声を上げていた。それを聞いてか昌男達が近づいてきた。
「朱璃の教科書は、きたねえな。どうしたのさ?。」
「あんただろ、やったのは。」
朱璃は低い声で昌男を問いただした。
「知らねえな。」
しかし、朱璃はくじけてはいなかった。社会の授業が始まって関口先生が教科書に基づいて解説した上で、質問をした。
「日本の工業は、軽工業中心か重化学工業中心か。軽工業や重化学工業って何かはわかるよな?。」
朱璃は補習で頭にあったグラフを思い出し、すかさず答えていた。
「京浜工業地帯には、川崎製鉄、東芝の工場などがあります。京葉工業地域には、ガス工場や石油化学工業が発達しています。」
朱璃は昌男達の呆気にとられた顔を横目に、さらに続けた。
「日本の工業化の中心と言えるこれら地域の傾向から、日本は重化学工業が中心と言えると思います。」
関口先生は、少し驚いた顔をしながら、近づいて来た。
「京浜工業地帯に川崎製鉄や東芝があるのを、よく知っていたね。そこには書いていないと思うが…….。」
朱璃は座ってから昌男に向かって、一言を言わないではいられなかった。
「どう?。既に、頭の中にグラフや表が入っているのよ。見なくたって、隅から隅まで説明できるわ。」
朱璃が昌男に向かって発した言葉を聞いて、関口先生は朱璃の近くまで来た。
「どうしたんだ!?……。この教科書は、真っ黒に塗りつぶされているなぁ。」
関口先生は、朱璃の言葉に怒り狂った昌男の様子を見て言った。
「進藤、お前がやったのか。」
「そうだよ。だからどうしたのさ。」
関口先生は、すかさず昌男の襟首をつかまえ、昌男は、朱璃を睨みつけながら引きずられていった。しばらくして、職員室から戻るやいなや反省の色を見せることもなく、昌男は朱璃から社会の教科書を奪い取り、持ち去ってトイレの便器へ放り込んでしまった。
「どうしてくれるのよ。」
「知らねえな。汚いから捨てちまえば?。片脚も汚いから切って捨てたんだろ。」
朱璃は、思わず昌男に飛びかかっていた。ところが、一瞬早く昌男は朱璃から飛びのいていた。朱璃は、踏ん張れずに転び、やっと片足で立ち尽くすしかなかった。朱璃は、涙をこらえた顔を昌男達へ向けていた。クラスの女の子達の同情の言葉も、昌男たちの悪業を止める力はなかった。開き直った昌男達が続けた。
「そういうのをかたちんばというんだぜ。」
「かたちんば、かたちんば、ババアだから、かたちんババアだ。」
加代子達が昌男達に言い返し始めた。
「やめてよ。なんでそんなことを言うのよ。」
朱璃が四年生の頃なら、昌男達の首を捕まえて引き倒していたであろう。しかし、今は、義足で歩くのがやっとだった。昌男達が嫌がらせをしても、朱璃は追いかけていくことはおろか、片脚のために腕力による嫌がらせを防ぐことさえできなかった。美奈子の受けていた屈辱感はこれだったのかと、朱璃は自分の足の障害を疎ましく思った。
次の週も次の週も、昌男達は朱璃を集中的にいじめていた。
「よお、変な格好してるなあ。脚はどうしたんだよ。チンばあ。臭いなあ。」
加代子達はその度ごとに朱璃を庇い、言い返していた。
「やめなさいよ。なんてこというの。先生に言いつけるわ。」
しかし、昌男は今までの仕返しとばかりに、やめることをしなかった。言葉だけではなかった。教科書やノートを窓の外へ投げ、靴や杖を持ち去り、筆箱を壊していた。
「昌男!またやったな。来い。」
毎回のごとく、昌男は関口先生に襟首を掴まれ、職員室へ連れて行かれた。しかし、たとえ職員室へ連れて行かれても、昌男は口をきかず抵抗し続けていた。
「昌男。それはいじめです。」
「違うよ。やられたから、やり返しているだけだ。」
「いつやられたんだよ。」
「俺たちが四年の頃さ。」
「そんな昔のこと….」
「昔じゃないやい。やられたんだから、やりかえす。何十倍にしてもやり返す。」
昌男は涙を流しながらも、関口先生の言うことは聞き入れなかった。昌男は朱璃にも口癖のようになじっていた。
「お前が俺にやった事を何十倍にして返してやる。」
ある日、また昌男の父親が梅若小学校を訪ねてきた。校長を同行させていた議員は、授業中の関口先生を捕まえて、詰問し始めた。
「関口先生、なんでもうちの昌男がいじめをしていたということですが。」
「昌男君達は、同じ組の飯塚朱璃さんを虐め続けているのです。教科書やノートを窓の外へ投げたり、筆箱を壊したりしているのですよ。」
「持ち物をちょっと投げたり壊したりそんなことぐらいで、いじめという非難を浴びせるのですか?。昌男がやったのは、飯塚朱璃とかいう父無し子というじゃないですか。そんな不良の子のなんて問題にならないじゃありませんか。あっあいつだな。」
進藤区議は、また朱璃を引っ張り出そうとしていた。進藤区議の剣幕に、朱璃や他の女子児童は戸惑い、涙まで浮かべ、怖がっていた。特に美奈子は朱璃をかばおうとして、ガタガタ震えながらも進藤区議の前に立っていた。
「何だい、あんたは。」
「わっ私は、鵜飼の娘です。」
「えっ。この女の隣に座っているの?。この女から離れた方がいいぜ。」
「父に相談します。」
「だから、あんたには関係ないだろ。」
「父に相談します。」
「分かったよ。分かったよ。何もしねえよ。」
進藤区議は、去っていった。
第四章 翼
美奈子の後ろに庇われてはいても、朱璃は追い詰められていた。心が折れてしまい、辛さから逃げることしか考えられなかった。
「私には、悔しくても、もう対抗する力もない。捕まえることさえできない。病気の苦しみは、私を高めてくれる。でも、一方的ないじめは私を壊していく。こんな思いをするなら、病気のまま死にたい。早くこの苦しみから逃れたい。」
朱璃の心が暗い絶望に覆われてしまった時、そこに、美奈子がそっと声をかけてきた。
「朱璃ちゃん…」
美奈子の顔を見た時、朱璃の虚ろな目は涙の跡さえ消え掛けていた。それを労わるように美奈子は続けた。
「私、いつも鵜飼菌なんて呼ばれているけど、辛い時の祈りは神様に届くのよ。昔ね、あなたに助けられた時、いのりが届いたと思えたのよ。」
美奈子は、カラカラに乾いた絶望の瘡蓋で覆われた朱璃の心を、気持ちを込めた一つの祈りで温め続けた。
「ね、一緒に言ってみて。」
「ヤコブよ、なぜ言うのか、
イスラエルよ、なぜ断言するのか。
私の道は主に隠されている、と。
私の裁きは神に忘れられた、と。
若者も倦み、疲れ、勇士もつまづき倒れようが、
主に望みをおく人は新たな力を得、
鷲のように翼を張って上る。」
美奈子の声のあとに、朱璃のたどたどしい声が途切れ途切れに続けられた。朱璃の心の痛みを知る美奈子の真面目な慰めは、朱璃の心を深く癒した。また、慰めの言葉として語られたのは、旧約聖書のイザヤ四〇章と呼ばれる箇所だった。美奈子は、辛い時にはこの言葉で励まされ、耐えに耐えて来たのだった。しかし、なぜこんな言葉が語られたのだろうか。何が、底知れぬ力を与え、強くさせるのだろうか。朱璃の目はやっと潤み、声を押し殺しながらも、涙を流すことができた。美奈子は続けた。
「教会は、葛飾の四つ木なの。ちょっと遠いんだけどね。でも、私は辛いことがあったときにそこへ行くのよ。」
美奈子や鵜飼一家は、そこへ通っているという。化学工場群を手広く経営している美奈子の父は、熱心な教徒だった。次の日曜日の朝、朱璃は自転車を借りて美奈子とともに四つ木にある四つ木教会へ登った。
午前九時から始まったのは少年や児童向けの礼拝だった。二十人ほどの小学生・中学生・高校生が参加していた。
「ここの牧師先生は、川崎先生といって優しい男の方よ。奥様も、しっかりした方ね。小さい子どもたちは、厳しくかつ愛されているのがわかるの。」
朱璃は会堂の後ろ、美奈子の隣にすわり、静かに周りを見渡していた。教会は、賀川豊彦が買い取った空き地の一角にひっそりとあった。この土地は、昔、池だったという。そのためか、周りより一段低かった。あまり立地の良くない所にあるため、教会というより伝道所といったほうがふさわしい小さな建物だった。長いすが六つ、並べられただけの簡素な会堂は、わかば学園という幼稚園を経営していた。会堂の横に設けられている通用口から見える庭には、ブランコやシーソー、ジャングルジムがみえていた。
「皆さん、おはようございます。」
長椅子の前に、若白髪の牧師が立ち、柔らかい細い声で呼びかけていた。
「それでは、皆さん、立ってください。」
こども讃美歌と新約聖書がめくられ、使徒言行録の五旬節が語られていた。
「みなさん、聖霊って聞いたことはありますか。」
「ないよ。」
「知らなーい。」
子供たちは、騒ぎながら答えていた。もちろん、朱璃は知らないことだった。しかし、美奈子は、彼女なりに答えていた。
「悲しんでいるとき、苦しい時にも、そばにいてくれる神様です。イエス様を感じさせてくださいます。」
やはり、朱璃が聞いたことのない事柄だった。やがて、その牧師は朱璃の近くに来て話しかけてきた。
「ようこそ。どちらからお運びでしたか。」
「私は、鵜飼美奈子ちゃんと一緒に来ました。住んでいるところは墨田区隅田です。」
「鵜飼さんとご一緒だったんですね。教会をどうお感じになりましたか?。」
「まだ、初めてなので、なんともいえません。」
「鵜飼美奈子さんは、キリストの教えをとてもよくご存知ですよ。彼女にもお聞きになってくださいね。」
「はい、ありがとうございます。」
十数人の子供達や美奈子一家とともに、子供向けの説教と賛美歌に触れ、魂の時間が過ぎていた。この時、朱璃にとって忘れられない時、そして読み上げられた聖書の言葉が、朱璃の中に染み込んでいくように感じられた。この喜びの歌は、詩編一二二と呼ばれるもので、のちに朱璃にとっても喜びの歌となった。
主の家に行こう、と人々が言ったとき
わたしはうれしかった。
エルサレム、あなたの城門の中に
私たちの足は立っている。わたしは言おう、わたしの兄弟、友のために。
あなたのうちに平和があるように。
わたしは願おう、
私たちの神、主の家に向けて。
あなたに幸いがあるように。
瑠海男は、中学三年生の夏となり、夏休みを控えて進路を決める大切な時期を迎えていた。新卒の若い谷山先生は、瑠海男の進路に頭を痛めていた。その瑠海男は、谷山先生に呼び出されて体育教官室を訪れた。
「親父さんは、なんか言っていたか?。」
「いえ、あれからも、お前を高校に行かせる義務はないと言われました。」
「そうかぁ。でも、いつでも受験できるように、勉強だけは続けておけよ。」
「はい。」
「瑠海男、おまえの親戚はどこに住んでいるんだ?。」
「お袋サクラは茨城出身で、宍戸町南小泉です。でも、親戚に会いに行ったことはありません。戦死した親父は、村崎三郎という名前で岩手県の田老地区らしいんですが、それ以上は分からないんです。」
「そうか、わかった。ありがとう。」
瑠海男は、谷山先生の配慮が身に染みた。しかし、自分の進路については無力感しかなかった。瑠海男は、担任教師のいる体育館にある教官室から、渡り廊下を校舎へ戻って行った。その右手には、園芸部の畑作地が設けてあつた。その陰で、刈り取った雑草に火がついているのを見つけ、タバコの匂いと煙を不審に思った。瑠海男は、その集団に声をかけていた。
「ここは、園芸部の畑地だよ。こんなところでタバコなんか吸わないでよ。しかも、未成年なのに。」
しかし、彼等は重太達だった。
「また瑠海男かよ。うるせえ奴だ。おめえ、弱くて、すぐ逃げるくせに、また間違っているとかいうのかよ。おうっ、皆んな。こいつを逃すなよ。」
その奥に秀夫の姿が見えた。瑠海男は幾分失望しながら、秀夫を睨みつけた。
「あれほど警告してあるのに。」
重太は柔道の構えをとり、瑠海男の襟をとった。瑠海男は重太の動線を測り、横に流れて投げを打つ。しかし、柔らかい土に足を取られ、重太と絡み合って転がった。重太の声のような、高い声が瑠海男の頭に響いた。瑠海男が昔聞いたことのある声だった。
「ジンのひとり、名はない。祟り神とでも言っておこう。首領シャイタン様にお出ましを願わずとも、この祟り神三座ジンが、お前を祟り殺してくれるわ。滅びうせよ。」
「祟りとは笑止。ついに正体を現したね。下がれ、仏法を恐れぬ悪霊。重太よりうせよ。」
「ほほぅ、弱いくせにやたらと騒ぎ立てる愚か者よ。その分際で、この三座ジンによくも大きな口を聞くものよのう。」
「僕は確かに小さな存在ですね。人間の中でも一番つまらぬ存在でしょう。僕に限らず、人間は一人残らず、業による苦しみという永遠の呪いの下にあるのに。そんな永遠の呪いにそんなちっぽけな祟りを与えても、無限大に一を足すようなものです。おろかな祟り神。なんぢは所詮、人間の御都合主義で引き出された神にすぎません。だから、山川不動明王様から見捨てられたのです。哀れな重太のような人間から仏法を遠ざけ、食い物にするものよ。下がれ。」
瑠海男はそのまま転がり、畑地の横の草地に蛇を見つけた。草地に飛び込んだ瑠海男の腕には、アオダイショウだろうか、首を掴まれた蛇が腕に巻き付いていた。口を開けた蛇を見た重太達はギョッとした姿で退き、先ほどの高く響く声も消えていた。そのまま瑠海男は、重太達の真ん中に飛び込み、重太達は、四散するように逃げ出し、秀夫はもんどり打って転んだ。瑠海男は巻き付いた蛇が口を開けた腕を、秀夫の目の前に突きつけた。引きつった秀夫に瑠海男は静かに言った。
「どうしましょうか。この蛇を持ったまま争うとあなたは咬まれてしまいます。いつか僕が申し上げた通り、危ないことになったではないですか。早く、悪いことから足を洗うべきではないかと思いますが。」
この時は、そう言って瑠海男は蛇を持ったままその場を去っていった。しかし、校内タバコ事件は、懲りない重太達によって繰返された。特に重太は、教師たちに問題行動を指摘されても、彼だけでなく彼の親まで、かえって逆上するだけだった。次の日に、やはり怒鳴り込んで来た。
「先生方、うちの重太ばかり責めてんじゃねえか。」
「辰巳さん、あなたの御子息は、昨年度何回も、タバコで注意されるし、注意した無抵抗な相手に手を出しているんですよ。しかも、逃げ出しても追い詰めているし。」
「先生、聞くところじゃあ、息子達にやられているという瑠海男ってやつぁ、変な口答えをしてるって。うちの泰司が問題を起こして手を出しているんなら、そいつに原因があるんだと思いますよ。弱えくせにしゃしゃり出た上に口答えするなんざ、そいつがでしゃばりすぎなんですぜ、センセ。」
「しかし、一方的に手を出しているのは問題ではないでしょうか。」
「なんだい、うちの重太だけが悪いんですかい。これだからダメなんだよ。日教組の教師は。」
辰巳家は、子が子であれば、親も親であった。こうなると、親に注意しても効果がなかった。こうして、重太を止める者はいなくなっていった。生徒達はみな、重太達を避けて早く帰宅するようになっていた。瑠海男もそそくさと足早に帰る日々であった。
そんな瑠海男の楽しみは、瑠海男を歓迎してくれる飯塚家のアパート一室のみであった。教えている朱璃は、元気になるとともに、こまっちゃくれた女の子として成長し、瑠海男をしばしば振り回すほどだった。それでも、癌になってからの朱璃が小学校で受けている仕打ちに、瑠海男は自分の経験を重ね、人ごとではなかった。
「鵜飼さんがあんな辛い目にあわされて、悔しい思いをしていたなんて、知らなかったのよ。」
「でも、それだから、鵜飼さんという子は朱璃ちゃんの苦しみを理解できるし、どうしたら耐えられるかもわかっていたんだね。確かに苦しいけれど、本当の価値ある友人を見つけられたね。」
「苦しみも嫌なことだと思ったけど、自分の成長のためにもなるのね。」
「なるほど、そういう見方をするんだ。」
「どんな見方をしていたの?。」
「うーん、一口には言えない事だな。こういうことかな。つまり、人間には業がある。それが他の人まで苦しめていくように見える。なんで人間の業というものがあるんだろう、苦しむのは何故か、苦しみからの救いはどこにあるのか、と、ずっと考えているのさ。でも、まだわからないことが多いな。」
まだ瑠海男には、彼にとって将来を語らったり、心を魂を共鳴させられる友は未だ居なかった。しかし、このころから、瑠海男は高校入学を視野に入れ、さらに勉強をするようになった。苦しみの中にいる朱璃を救いたいという、彼の胸の朧な思いからだった。しかし、現実はまだまだ改善していなかった。瑠海男の家では、草履職人である義父の収入だけだったが、最近は草履の仕事が少なくなっていた。それもあって、義父は瑠海男の進学に反対していた。というより、そもそも進学させられるほど、余裕もなかった。
「瑠海男。おめえよ、どっからそんな金が出てくるんだよ。もともと余裕がねえのは知っての通りだぜ。進学より、なぁ、前から言ってある通り、中学を出たら日本橋へ丁稚奉公に行けよな。もう勉強道具なんて捨てちまえよ!。」
瑠海男は、黙って聞いているしかなった。しかし、義父は瑠海男の心の中を見透かすかのように、ダメ押しをしていた。
「誰が、おめえを養ってやってきたんだよ。おめえのおふくろと結婚してやった時、くっついて来たから食わせてやっているだけだぜ。」
瑠海男は希望のない今を、耐えるしかなかった。しかし、谷山先生は動いていた。谷山先生は、夏休みのはじめに茨城の石岡で開かれた日教組の教研集会に参加して居た。その活動の合間に、瑠海男の母サクラの故郷、宍戸町南小泉を訪ねていた。サクラの実家は既に没落して、サクラと瑠海男が頼れる近親者は誰も居なかった。それでも、サクラの幼馴染という農家の主婦から、岩手から来た海軍さんと結婚して岩手の大船渡へ行った事を探り当てた。教研集会のあと、教研集会で知り合った岩手の教師仲間を頼って、梅雨の開けた岩手を訪れた。彼は、田老にある山間の落人部落とも、蝦夷の古い民の部落とも言われる集落の、小高い丘の上にある門構えの大きな農家を訪ねた。
「ごめんください。」
中から、三十前後の女が出て来た。
「なんがご用ですか?。」
「私、教師をしております谷山と申します。こちらに三郎さんという海軍航空兵さんが居たとお聞きして。」
「なに、三郎さんの?。あなたどちらから来た?。」
「東京です。」
「ちょっと待ってな。ばあちゃん、大変だよ!。三郎さんのことを訪ねて来た方がいるよ。東京からだってよ。」
奥座敷へ通された谷山先生は、部屋から山間の杉の木に囲まれた山々を眺めて居た。老婆が先ほどの女を従えて部屋に入って来た。
「私は、三郎の母の村崎ルイと言います。これは、三郎の姉の朋子です。」
「改めまして。私は東京で教師をしております。」
「あなたですか?。三郎の知り合いとかいう……。」
「精確にいうと、三郎さんのご子息のことで。」
「なに、それは、瑠海男のことですか?。」
「そうです。」
「瑠海男は息災ですか?。」
「はい、いまは。」
「何か問題が起きたのですか。」
谷山先生は教師から見た瑠海男の優秀さ、ひたむきさ、閉じられた未来を話して聞かせた。表情一つ変えない老婆の目から、一筋の光が溢れ落ちた。
「よくおいでくださいました。そして、よくお話しくださいました。瑠海男がそんなことになっているとは。でも、もうご心配には及びません。早速東京へ行きます。」
谷山先生は、はやい展開に驚きつつも、喜び帰って行った。
夏休みとなり、勉強に勤しむ瑠海男を見て、瑠海男の義父は瑠海男の参考書類を捨て去った。そして、ゴミ捨ての際に亡き父の海軍航空隊少尉時の姿見の写真も捨て去ってしまった。
「なぜ、こんなことを。」
泣いたことのない流石の瑠海男も、この時には押し殺した声で義父を睨みつけ、母の目を見た。しかし、母サクラは目をそらしていた。瑠海男にはわかっていた。お袋は義父がいないと生きて行けない、彼女には選択の余地はないのだろう、と。しかし、瑠海男は再び孤独を感じたまま義父に食って掛かった。
「なぜこんなことまでするのですか。せめて卒業の時まで、なぜ待ってくれないのですか。」
「瑠海男。オメェ、まだわかってねえのかよ。」
拳打ちが瑠海男の左頬を捉えた。ひょろっと瑠海男は倒されていた。目が回った瑠海男を嬲るように、義父の声が響いた。
「おめえは、丁稚奉公へ行くんだよ。俺は知っているんだぜ、あの谷山っていう先生がわざわざ茨城まで行ったついでに、おめえの進学を勝手に相談しているのをよ。だから、この際、はっきりしておいてやる。もう、勉強なんかするんじゃねえ。夢なんか見させねえ。ただ早く働きにでりゃあいいんだよ。」
倒れた瑠海男は、母サクラに顔を向けた。気が遠くなる中で、瑠海男は母の高い声に似た観音菩薩のような声を聞いた。
「苦しみ?。なぜ苦しいと思うの?。」
「僕は、人間の中でもちっぽけな虫のような存在です。それでも、殴られ続け、けられ続け、屈辱を受け、いじめられ続け、耐えることが出来ないのです。菩薩様に問いたい。なぜ、今救いが来ないのですか。」
「お前はお前の苦しみの原因を分かっているではないか。その苦しみを含めて、すべてはそれだけでは存在せず、諸行無常といって移り変わってゆくもの。すべては縁、つまり直接的条件と間接的条件によって生まれたもの、また消えてゆくもの。苦しみという独立した固定的なものはどこにもない。苦しむお前、苦しいと感じるお前がいるから苦しみは存在する。わかるか。」
「では、僕の昔からの苦しみ、殴られ蹴られいじめられる苦しみはいつ消えるのですか?。いつまで待てば良いのですか?。何故苦しいと感じるのですか。」
「それは流れるように消えていく。つまり、こだわりを持たぬ水は抵抗なく流れて行く。この水には淀みもなく苦しみもない。今の苦しみにこだわるな。今の苦しみに意味を求めて何もわからないままであろう。それよりも、苦しみの原因を見つめて理解し認め、その原因を解決することで苦しみを越えていくことを考えると良い。」
「それでは、殴られ蹴られいじめられる苦しみを苦しいと感じるのがこだわり過ぎだと言うのですか?。」
「あらゆる苦しみの原因はとらわれ、執着によるもの。自分の価値観や常識、希望・願望にとらわれ、怒り・苦しみ・悲しみといった偏った感情に埋没し、思い通りにしたいという思いに束縛されておまえは苦しんでいる。あらゆることにおいて、何を感じ感じず、何を思い思わず、何を考え考えず、何を語り語らず、いかに行動し、そして行動しないか。そのすべてがお前の観る世界を決める。これが自業自得、つまり自分の世界は自分が定めているということじゃ。」
「いじめは、被害者にも原因があるというのですか。」
「そうではなく、いじめと捉えてしまう受け手の考え方にも要因があるといっておる。」
「では、水の流れについての議論です。確かに流れの一瞬の淀みのように、苦しいと感じることは、後から後からくる水のそれぞれも、多少の違いがあっても苦しいと感じることには違いないと、思います。しかし、それではずっと続く淀みのように、構造的に連鎖の生じる苦しみは消えません。その苦しみは、なぜ解決されないのですか。」
「もう一度繰り返すが、苦しみの意味、人生の意味、そんなものはないし、それは言葉の世界、抽象の世界の言葉に過ぎない。連鎖が生じるなら、そのままであろうし、やはり、受け手の問題に過ぎない。」
「それでは、苦しみの時に過ぎ去るまでただ耐えるしかないのですか?。それでは、幼いときから続く虐めにも、耐えて耐えて耐え続けるということですか?。それは、虫けらの人間に無理な話です。待たなければならない理由がないし、待っていることはできません。意味があるからこそ、待つことができるのです。そうでなければ、苦しみの連鎖は解決されませんし、菩提心の成長もないということになります。それでは他者への慈悲などいつ獲得できるのですか。」
「だから、なぜ解決されなければならないのじゃ?。いずれは消え去るのじゃ。」
「それでは解決されないままでいいのですか?。苦しみが過ぎ去るまでそれに意味があると思えばこそ、解決されると思えばこそ、耐えられます。意味もなく現実の希望もなく耐えることはできません。他者への配慮の心を得ることなど夢のまた夢です。いじめの被害者にも原因があるとされ、その苦しみがいつ消え去るともわからず、単に耐えるだけ。そんな救いの意味の無いものなら、やはり、人間の業が招いた呪いは、呪いのままなのですね。」
「その態度が、まさにこだわりのゆえの苦しみじゃ。こだわらずに明らかにして克服することが出来なけれは、救いは遠い。」
もう、これ以上の答えはなかった。苦しみにこだわらずに克服する教えは、この世において人間の悟った最高にして最大の悟りであった。しかし、瑠海男は菩薩様から遠く離れてしまったと、思った。
瑠海男は、我に戻った。
「瑠海男?。大丈夫?。素直にお義父さんに従いなさいね。」
しかし、ふと思い出したように、瑠海男はサクラに尋ねた。
「母さん、谷山先生は、道を、可能性を、希望を教えてくれました。でも、母さんたちはこれもダメ、あれもダメとされ、夢を持つと理由もわからないまま道を塞がれてます。何のためですか。私が何かをしたのですか?。」
横から、義父がまた口を出してきた。
「まだわからねえのか。いじめられるだけで、何にも役に立たねえし、不器用なおめえには、困り切っているんだよ。」
瑠海男は、いじめにあって耐えても、対抗しても正義は実現されず、自らの存在の意味さえ無いをことを感じるしかなかった。道は閉ざされ、静かに受け入れるしかなかった。絶望しかなかった。瑠海男の感じていることは単なる苦しみであり、この世では苦しみをあきらむることでしか、進む道がないのだと、若い心は悟らざるを得なかった。
ちょうどその時に、聞き慣れない低いエンジンの音が、家の玄関先で止まった。