パール・ピアス
「愛を奏でるマリア」シリーズPART5に当たる作品です。
シリーズでご覧下さい。
作中に未成年の飲酒シーンが出てきますが、未成年の方は真似しないようにご注意下さい。
PM9:45。
「クラウンアソシア・プラザホテル」15階、メインバー「エストマーレ」。
「遙希先輩、今日は本当に有り難うございます」
暗い照明の下でも光る黒いサテン地のリボンブラウスにマーメイドラインロングスカート姿のやけにスレンダーな若いホステスに、日向遙希と共に小野真璃亜は上客として案内された。
真璃亜はいたたまれなさを感じさせつつ、改めて畏まりながらそう切り出した。
「アソシアホテル52階のレストランの夜景があんなに素晴らしいなんて……! フレンチもさすがは本格的なお味で。その上、こんな。こんな素敵なバーの個室を二人きりで、貸し切りだなんて……」
「気にすることはないさ。ここは日向のコネでね。今日はお前の合格祝いという特別な日だからな」
オレンジ色のほの明るい照明の中、L字型のソファのある広々とした個室に真璃亜とは日向と二人きりでいる。
そこは他の常連客の喧騒からも隔絶され、ひっそりと静まりかえった贅沢な空間。
「それにしてもだ。何度でも言うが、驚いたよ。お前がまさか俺と同じ東応大に合格するとはね。それも、俺にまで黙って受験していたとは、真璃亜。お前も人が悪いな」
薄茶色の猫毛の細い髪をかき上げ、彫りの深い、その極めて端正な顔立ちに笑みを浮かべながら、日向が言った。
「だって……あの超難関の東応大に合格する自信なんて全くありませんでしたし……。それに、言えば周囲から大反対されるのはわかっていましたから。勝手に受けちゃいました」
真璃亜は、苦笑した。
「しかし、真璃亜。ウィーン留学を蹴って、本当に良かったのか?」
真璃亜の言葉に、日向は少し眉をひそめた。
「いいんです。留学はいつでも出来ますから。それに、私……音楽馬鹿にはなりたくないんです」
「音楽馬鹿?」
「ええ。音楽のこと、まだまだ学ぶべきことを挙げればキリがありませんが、でも私、音楽以外の世界ももっと知りたいんです。だから、普通の大学生活はずっと憧れでした。元々、松朋に特待入学が決まるまでは、普通科の高校に進学するつもりでいましたし。音楽以外のことも何でもいっぱい勉強して、沢山お友達を作って。幸い今後も学院の教授方に何人か、アカデミックに教えて頂けることになりましたので。ピアノは今まで通り、マイペースで続けます」
そんな真璃亜の表情はあどけなく、やはりどこか夢見がちだ。それは、日向が真璃亜と出逢った松朋音楽学院時代から、全く変わらない。
しかし、すれ違えば誰もが振り返らずにはいられないようなこの美しい少女に、天才的な音楽の才能までもが備わっているとは。
彼女こそ、音楽の女神に心から愛されたごく一握りの非常に希有な存在なのだ。
「それに……」
「それに?」
「い、いえ…。何でも……」
真璃亜は急に俯いてしまった。
そんな真璃亜の様子に、思わず日向の表情が緩む。
「ウィーンに行くより。そんなに俺と一緒の大学の方が良かったのか?」
「え、え、それは……」
「図星、だろ?」
日向はあくまで余裕だ。
真璃亜は紅い顔のまま、すんなりこくりと頷いた。
そんな素直な真璃亜が日向には堪らなく愛おしい。
その時、ドアがノックされた。
「お待たせ致しました」
と、黒服のウェイターがグラスをコトリとテーブルの上に置き、「ごゆっくりどうぞ」と言ってその場を辞した。
「綺麗……!」
思わず真璃亜は声を上げた。
「パール・ピアス、ていうんだ。この店で女性に人気のカクテルだよ」
日向の口調は優しい。
赤いサクランボが一つ小さく彩りを添えているその脚の細いカクテルグラスには、「真珠のピアス」と銘打ってあるように乳白色の液体が注がれ、細かな炭酸の気泡が浮かび上がっている。
「大学にも合格したことだしな。本来なら未成年は飲酒不可なんだがまあ、今夜くらいはいいだろう」
日向は、キープしているモルト・ウイスキー「オーバン」を遣りながら話す。
「俺もついているし。それとも、俺が一緒だと余計危ないか」
「先輩はそんな方じゃありません」
「じゃあ、どんな奴なんだ? 俺は、お前から見たら」
日向はふと好奇心を抱いた。
すると。
依然、紅い顔をしたまま
「遙希先輩は……。優しくて。雅で。そして……。いつでも私のことを」
想って下さいます……と言う真璃亜の声はか細くて、日向の耳までは届かなかったが、その雰囲気で日向には察せられ、日向は更に相好を崩す。
「ともあれ」
日向は真璃亜の前にグラスを掲げた。
「真璃亜、東応大学合格おめでとう!」
乾杯……と、呟いた言葉と同時に、二人のグラスはカチリと小気味の良い音を響かせる。
二月の名残雪を想わせるその白いカクテルは、真璃亜にとってほんのり甘く、そして、極上の味がした。
「ん……」
その時、真璃亜は軽い頭痛を感じた。
「あたま、痛……」
目を閉じたまま、呟く。
頭の芯がじんじんする。
しかし、うっすらと瞳を開くとそこには、スリップ一枚のみの我が身があった。
「どうして……?」
状況が、真璃亜には掴めていない。
その時だった。
「真璃亜」
聞き覚えのある声だがしかし、有り得ないはずの声が頭に響き、真璃亜はばっと身を起こした。
「遙希、先輩……!!」
まだ真璃亜には、事態がよくわからない。
ただ、わかっているのは、目の前には自分に腕枕をしている日向がそこにいるということだけだ。
「お目覚め?」
にこやかに日向が問う。
この状況にも何ら不自然さを介してないかのように。
「先輩…どうして。私……何で、こんな……!?」
一方、真璃亜はパニック寸前だ。
そんな真璃亜を見透かすように、日向は言った。
「未成年に飲酒をさせた俺の責任だが、まったく。想定外だったよ。ああ、その格好か? 覚えていないか? 軽く吐いたこと。ワンピースはクリーニングに出してある。明日の朝には仕上ってるから、心配ない」
日向はあくまで自然体だ。
「ここは日向の系列ホテルだから部屋を取った。酔ったお前をそのままマンションに帰すより、この方がお互い楽だと思ってな。ここの支配人はとりわけ口が堅いから、家族にも知られない。……勘違いするなよ。いつでもこんな部屋の取り方をしているわけじゃないからな」
ぶっきらぼうなようでいて日向の口調は優しい。
真璃亜はやっと少しづつ事態を把握し始めていた。
「で、でも……先輩……」
口にしようとするけれどもしかし、真璃亜にはそれすら憚られるような気がして、言葉にならない。
そんな真璃亜の様子を察するように、真璃亜の耳元で日向が一言、囁いた。
「俺の理性に感謝しろよ」
その一言で、真璃亜は全てを理解した。気がした。
そして、それを証明するかのように日向が続ける。
「俺も男だからな。このシチュエーションで欲情しない男なんているわけがないだろう」
日向は真璃亜を見つめる。
「だけど。不思議だな。お前の寝顔を見ていたら、素肌のままお前にただ触れているだけで。それだけでもいいような気がしたのも本当だ」
「遙希先輩……」
日向はまだ真璃亜に腕枕をしてくれている。
一体、どのくらいの時間をこうやって、日向は過ごしていたのだろうか。
ただただ、真璃亜の寝顔だけを見つめて。
「あ、あの……」
「何だ?」
「有難うございます……。え、と。ご迷惑をおかけして……じゃなくて、あの」
「落ち着けよ、真璃亜」
終始冷静な日向とは対照的に、真璃亜は真っ赤になりながら、今にも消え入るような声で訴えた。
「このままじゃ恥ずかしくて……。だから、せめて、バスローブか何か着たいんです、けど……」
すると日向は、即座に発した。
「Nein」
「え……?!」
真璃亜は、そのドイツ語での確かに否定の単語を耳にして、一瞬、我が耳を疑った。
「このくらいは役得というものだろう?」
「え、え? そんな……!」
真璃亜はすっかり度を失っている。
「冗談さ」
日向はあくまでポーカーフェイスだ。
「でも……」
落ち着きをなくす一方の真璃亜を前にして、日向は、初めて軽い溜息を吐いた。
まるで何かに堪えるように。
それが何を意味するのか、真璃亜にはわからない。
しかし、穏やかだった時間がいつの間にか、詰まるような息苦しさへと変わったことに、真璃亜は気付いた。
そして。
その均衡を破ったのは日向だった。
「酔って眠っているだけのお前を抱くのはフェアじゃない。だから何もしなかった。でも、やはり……。本当は抱きたかったんだ。お前を。今宵だけの戯れじゃない。もう長いことずっと、お前をそうしたかったんだ」
日向は、苦痛にも似た表情を、その美しい顔に浮かべた。
「……だが。それでなくとも純心な、女子高生にしても幼げなお前に手をかけるのは、可哀想な。罪のような気すらして。気の遠くなるようなもどかしい想いをしてきたんだ。今まで、ずっと」
日向の瞳から笑みが消えていた。
「せ、先輩……!」
そして、日向は行動に出たのだ。
日向は真璃亜のそのか細い躰を折れんばかりに力いっぱい抱き締め、そして、口づけた。
「あ……」
それはヘヴィで長く、狂おしいそのキスを、真璃亜はただ、懸命に受け止めている。
日向は何度も、真璃亜の口唇を塞ぐ。
それは、永遠に続くかのように思えるキスだった。
が、しかし。
ようやく日向はその口唇を、真璃亜の口唇から離した。
「真璃亜……泣いているのか?」
真璃亜は滲んだ涙を日向に見られたくなくて、顔を背けている。
「悪かった」
日向は、その身から真璃亜を解放すると、おもむろにベッドから立ち上がった。
「まだ、お前には早すぎるようだな」
真璃亜に向けたその背は逞しく広く、だが形容し難い何か或る種、そう、悲哀の感情を醸し出しているかのようだった。
真璃亜は、その紅の口唇をきゅっと噛んだ。
「遙希、先輩」
そして日向の背中へと、その白くか細いその躰を、そっと寄り添わせたのだ。
それが真璃亜の日向に対する想いだった。
「いいのか……? 真璃亜」
しかし、今度は日向の方が多少躊躇している。
そんな日向の背にただ縋りながら、
「こ、これ以上……女の子に、恥をかかせないで下、さい」
精一杯の勇気をもって、振り絞るように真璃亜は呟いた。
「真璃亜」
その名を囁くと、日向は今度こそ真正面から真璃亜を優しく抱き締めた。
再び。
ゆっくりと口唇が、重なる。
二人にただ愛おしさだけが募ってゆく。
その先にはもう、言葉はいらなかった。
そして──────
二人にとって。
それは決して忘れられない夜となった。
「真璃亜。チェックアウトしている間、コンシェルジェフロアのソファで待っていてくれないか」
「はい、先輩」
翌朝。
チェックアウト間際の午前十一時前、ようやく二人はその熱い息遣いの残る部屋を後にした。
ずっと甘やかな時間を二人きりで過ごしていたら、こんな時間になってしまっていた。
「それにしても」
と、日向はふと呟いた。
「俺はいつまでたってもお前にとっては、「先輩」なんだな。「遙希さん」とでも呼んでくれと、今まで何度も言っているだろう?」
「え、えっと。遙希……」
……せんぱい、と、つい真璃亜は、いつもの呼び方をしてしまった。
「結局、「遙希先輩」か。まあ、それもいいだろう。ゆっくり慣れていってくれ」
日向は苦笑しつつも、機嫌はいい。
一方、真璃亜は恥ずかしさに堪え切れんばかりに、終始俯き、今にも消え入りそうな風情だ。
なんと目映い朝だろう。
昨夜からの出来事は、真璃亜にとってだけではなく、日向にとっても夢現であるかのような、忘れ難い特別な一夜であった。
その時、待っていたエレベーターの扉が開いた。
「せ、先輩……!」
「遙希、だろ?」
エレベーターに乗り、ドアが閉まると同時に、日向が背後から真璃亜を抱き締めたのだ。
「ずっと。この時間が続けばいいのにな」
図らずもぽつりと呟いた日向の言葉が、真璃亜の胸に深く響く。
今、確かに、世界には日向と真璃亜の二人しか存在しない。そんな束の間のひととき。
その間、二人の時間は「永遠」のようだった。
しかし、エレベーターはすぐにコンシェルジェフロア階へと到着し、日向は真璃亜を身から放した。
「じゃあ、暫く待っていてくれ」
何事もなかったかのように、日向はフロントへと歩いてゆく。
真璃亜はその後ろ姿をいつまでも見つめていた。
愛しい人。
ずっと愛してきた人だった。
その麗しい人が自分を愛してくれている。
「音楽」と「日向」と。
どちらも真璃亜にとって大切な、かけがえのない存在だ。
松朋音大でもウィーン留学でもない選択。それでなくともあの難関の東応大を受験するなど、我ながら無謀な賭けだとわかっていた。
が、そうしたかったのだ。
そうすべき、これは「運命」なのだと。
そして、今の自分には、ごく普通の学生生活を送り、情緒を磨くことも音楽の糧になるような気がした。
だから、日向と一緒の大学へ行こうと自然に思った。
そう遠くはない将来に、天才音楽家として世界中に名を馳せるだろうことを思えば、異色の経歴となることだろう。
それでも構わない。
日向が大学を卒業するまでのあと二年間、少しでも身近に、日向の側にいたかった。
それが真璃亜に許される限られた自由時間だから。
その日向とひとつになれた夕べを、真璃亜は一生忘れないと想う。
「悪い。待たせたか」
ふと我に返ると、日向が精算を終えて真璃亜の許に戻ってきた。
「いいえ」
真璃亜はにっこりと微笑んだ。
その笑顔を見るだけで日向にも、何があろうと決して真璃亜を離さないという想いが過ぎる。
二人は一瞬、見つめ合い、しかし同時に目を逸らした。
真璃亜だけではなく、日向にとっても昨夜のことは、やはりどこか面映ゆい出来事だったのだ。
しかし、確かに今の二人にとっては、身も心もひとつになれた充足感が二人の全てを満たしている。
「さて、と。仕上げだ。行くぞ」
日向は、照れを押し隠すかのように真璃亜の肩を引き寄せると歩き始めた。
「え? どこへ行くんですか?」
「まあ、ついてこいよ」
日向は、半歩先に真璃亜のリードしていたが
「ここだよ」
そう言って、ロビー階に入っている或るテナントへと真璃亜を誘った。
「ここって……宝飾店じゃないですか?!」
真璃亜は、思わず声に出していた。
そこはいかにも三つ星ホテルに相応しく、一流の宝飾品ばかりがその豪奢な輝きを放ち、きらきらと煌めいているテナントだった。
「この店は祖母と母と、嫁いだ姉が、親子三代で贔屓にしている店なんだ。俺もたまにつきあわされる。審美眼を養うにはいい場所だ」
事も無げに日向は、そう説明した。
一方、真璃亜はまだ事の性急さについていけない。
ただ漠然と、煌めく空間の輝きに目を奪われている。
「これは日向の三男坊さま。ようこそいらっしゃいませ」
日向の言葉を証明するかのように、その店のオーナーらしき黒服の人物が、素早く傍へ近づいてくると畏まって日向に挨拶した。
「本日はお母様へのバースデイプレゼントでも? 今月はお母様のお誕生日、おめでとう存じます」
贔屓にしているというだけあって、店も抜け目がない。
「いえ。今日はこの娘に、パールのピアスと。それとセットのネックレスを見繕って頂きたいのですが」
「こちらのお嬢様に、真珠のピアスでございますか? それはようございました。丁度良い南洋真珠が入荷したばかりでございます。さ、お嬢様。どうぞこちらへ」
あまりの展開の速さに真璃亜には言葉を挟む間もない。ただ言われるままに店の奥のテーブルへと誘われている。
黒い革張りのソファに座るとすぐ、品の良いグレーのスーツ姿の女性がお茶とおしぼりを運んできた。
とにかく落ち着こう……真璃亜は密かに胸に手を当て、温かい日本茶で乾いた口唇を湿らせる。
程なく別の店員によって、パールばかりの品が数点、恭しく運ばれてきた。
「こちらの南洋真珠、ピンクシルバーの10ミリ玉など如何でございましょう? 昨夜入荷しましたいわゆる「花珠」でございます。光沢、巻き、テリ、真円度、いずれを取りましても遜色のない、世界的にも非常に希少なお品でございます。オーストラリア産・南洋真珠の特徴でございます深い上品な白であるシルバー系のお色目に、ピンクのお色味が絡みあい、より深みのあるお色目を創り上げております」
真璃亜と日向を前に、オーナーは淀みなく静かに説明を続ける。
「このように揺れるタイプにアレンジしてございまして、立派な存在感がありながらも可憐で初々しく、また同じパールのネックレスもございます。お見受けしたところ、そちらの非常にお綺麗なお嬢様にはぴったりのお品かと」
オーナーはにこにこと、一体いくらするのか値段もわからない品を当たり前のように勧めてきた。
「真璃亜。このパール、どう思う?」
そのネックレスを身に着け、耳元にピアスを当てて見ている真璃亜の顔を覗きながら日向が囁いた。
「それは。私も学内演奏会などで、真珠は身に着けたこともありますから。どんなに素晴らしいお品かは……。ドロップ型のピアスは初めてですし」
真璃亜の胸元を華やかに飾る真珠のネックレス。そして、マリアの耳元でマリアの指先に乗り、小さく揺れるそのパールを見ながら
「うん、決まりだな」
日向は明快に、何か嬉し気にそう呟いた。
日向の一言で、その見事な花珠のピアスとネックレスは、格調高い紺色のビロード張りの小箱に綺麗にラッピングされ、日向に手渡された。
「今日はこのカードで。真璃亜。ちょっと席を外してくれ」
「はい……」
署名する日向を横目に、真璃亜は少しぎこちなく、店の奥からその入り口付近へと歩を進めた。
つと振り返れば、ここは真珠だけではない。プラチナの指輪やオメガタイプのネツクレスや……目には変わらず、豪奢な宝石の数々ばかりが目に入ってくる。
もし。
もしも、将来、日向と一緒になる日が来るとすれば、こんな世界が自分を待ち受けているのだろうか。
こんな。自分の日常とは異なる世界で、果たして自分は、うまくやっていけるのだろうか……。
真璃亜は次第に心細くなってきていた。
そんな真璃亜は、また漠然とその想いを馳せ始めていた。
「宗庵流茶道」家元にして、事業のグループ経営の形態が旧財閥系に近い由緒ある日向家。
宗庵流を継ぐのは上の兄「一貴」だが、日向家の事業の総帥を継ぐはずだった下の兄「紘樹」が、日向が松朋在学中に大病に倒れ、紆余曲折の末、いずれ日向が総帥の座を継ぐことになるという。だからこそ日向はウィーン音楽院留学を諦め、即ち、プロのヴァイオリニストの道を断ち、東応大学経済学部に進むことになったのだ。
その日向の重い決断の裏には、実は他ならぬ真璃亜の存在があったとは。
あの時まで自分は知らなかった……。
「天才少女ピアニスト」と騒がれても真璃亜は、幼い頃からごく自然に、ピアノに、音楽に触れていた。
自分の才能を意識するということはなかった。
なのに。
真璃亜の音楽の「天与の才」が、あれほどの実力者の日向をして、ヴァイオリンの道を閉ざす大きな動機となった。
そう日向の口から知った時、初めて自分の「音楽」に絶望した、あの瞬間──────
過去が一瞬にして過ぎり、涙ぐみかけていたその時、真璃亜は、先程お茶を運んできた店員と目が合った。
その三十代ちょっとの女性は、真璃亜を見つめると、にこりと落ち着いた笑顔を真璃亜に向けてきた。
そして、静かに呟いた。
「お客様。お幸せですわね」
幸せ……。
その言葉に、真璃亜の脳裏には夕べの夢のような一夜がフラッシュバックした。
間違いなく生まれて一番幸せだった昨夜の出来事。
それは夢のようでいてしかし、確実に、真璃亜の心の、躰の隅々へと浸透している。
そう。
何を思い煩うことがあるだろう。
あの麗しい人に附いて黙って歩いていけばいい。
きっとそうしてこれからも幸せに生きて行ける。
これからも。きっと。
ずっと……。
「はい、幸せです」
真璃亜は、先程までの憂いを吹っ切るように小さく呟くと、ようやくその美しい顔に咲き誇る華のような笑みを取り戻していた。
そして。
「本日も大変有難う存じました。又のご来店を心よりお待ち申し上げております。大奥様、若奥様方にもどうぞよしなにお伝え下さいませ」
オーナーがやはり畏まって口上を述べ、以下数名の店員全員に見送られながら、日向と真璃亜はその店を後にした。
「真璃亜。これを夕べの記念に」
その丸一日を共に過ごした夕暮れ、日向は真璃亜のマンションの前に車を停めると、そう切り出した。
そして、真璃亜と一緒に選んだ真珠の小箱を、助手席の真璃亜に改めて手渡した。
「まったく。パール・ピアスを飲ませたばかりに予想外の展開になったが、俺は満足しているよ」
日向が、柔らかに笑んでいる。
「遙希、先輩」
小さく呟き、そして真璃亜も愛おしそうにその小箱を大事に胸へと抱く。
思い返せば、パール・ピアスが全ての始まりで、一夜明け、パール・ピアスで終わる一日。
けれど、真璃亜には何よりも、日向の心こそが嬉しかった。
「こんなに。幸せで、いいのでしょうか」
真璃亜は畏れにも似た感激に震える想いだった。
「当たり前だろう? もっともっと幸せになれるさ。俺たちはずっと一緒だ。俺が傍にいない時でも、この真珠のピアスは俺の代わりにお前を華やかに彩ってくれる。俺たちはいつも一緒だ。それを忘れないでいてくれ」
日向は震える真璃亜の肩を抱き寄せ、言った。
「いつまでも」
その春・四月。
東応大学入学式。
桜の花びらが舞い散る時計台の下で。
純白のスーツ姿で微笑んでいる真璃亜を、行き交う男子学生が幾人も振り返ってゆく。
そんな中。
「真璃亜」
片手を挙げながら、真璃亜の目にはスローモーションで、日向が近づいてくる。
あと何秒で日向は真璃亜の許へ辿り着くだろう。
そして、桜貝のような耳元で揺れる、淡いピンクがかった銀色の「パール・ピアス」を発見して、何を想うだろう。
それを想像しただけで、真璃亜には面映くも最高に嬉しい幸福な瞬間が今、訪れようとしている。