超変身、或いは虫愛づる姫君
俺、国後六郎は、目覚めた時、この身が巨大な不快害虫になっている事に気がついた。
Gがつくあれである。
恐慌に陥るより、ふと腑に落ちた己がいる事に気付く。
俺、国後六郎は、級友である脇田理恵子と言う女に懸想していた。私立城聖学園高等学校の二年二組。それが、俺と理恵子を繋ぐ唯一の絆であり、それ以上でなど、有る訳も無かった。
脇田理恵子は美しい女だった。仏蘭西人形のようだと言ったものが居る。俺はそれを陳腐な表現だと笑いはしたものの、言い得て妙であると心中で納得していた。
理恵子はその美貌から、数多の男に言い寄られていた。
学内ばかりに留まらず、道行けば、年頃の近い男たちは皆、理恵子に惹かれていく。
だが、男たちは全てがけんもほろろに袖にされ、理恵子の隣を歩くことすら許されなかった。
理恵子は高慢な女という訳ではない。
むしろ、情が深い女であろう。
その証拠に、留学してきたレヒーナという女を、彼女はよく世話をしていた。
理恵子は変わった性質で、言葉を発するときに難解な表現を多用した。
難解な、というのは語弊があろう。
理恵子は相手を慮り、彼や彼女が理解し得るだろうと思う言葉で、心持ちを伝えようとするのだ。
俺が知るかぎり、理恵子の気遣いは殆ど伝わったことが無かった。
故に、理恵子は変わり者の女だと言われ、男たちからも、女たちからも遠い場所にいる。
唯一、レヒーナをともに世話する眼鏡の女……水森と言ったか……だけは、理恵子に偏見を抱かずに付き合っているようである。
俺は理恵子に懸想していたが、この思いを伝えることなど出来ずにいた。
俺の言葉では、理恵子に思いを届かせられる気がせぬ。
俺は陳腐な言葉しか使えないのだ。
陳腐なりに、俺の友人である下山という男は、言語表現の幅を広く有しており、その弁舌で持って、語彙の貧困さをカバーしていた。
言語表現と語彙の違いについては、今語るところでは無かろう。
さて、斯様に鬱々とした日々を過ごしていた俺である。
俺は一年二組の頃より、脇田理恵子を想っており、しかし思いは伝えきれずに、日々を下校する彼女の後をつけることで悶々たる心中の慰めとしていた。
世の中では俺の愛を表現する行為を、つきまといなどと無粋な表現で呼ぶようだが、断じて違う。
俺は理恵子が振った男の数を正確に把握しているし、あの女がどのようなものに愛情を示すかも知っている。
テストの成績からスリーサイズの成長まで心得ていたが、断じて俺はつきまといなどでは無い。
何せ、この胸の内に燻ぶる炎を、彼女に伝える言葉を一つとして持たぬのだ。
故に。
俺が不快害虫となってしまった事は、天啓なのであろうと俺は断じた。
いつも通り、妹が俺を起こしに来て、俺を目にした途端に絹を裂くような悲鳴を上げた。
俺は妹の反応に少しも心を揺らさず、粛々と朝の用意をして、鞄を口に咥えて登校した。
虫の体であっても、朝食の味は何ら変わらぬものだった。
俺が乗り込んだ時、電車はパニック状態に陥り、発車がひどく遅れてしまった。
俺は電車を見限り、自力の登校を決意したのである。
理恵子と過ごすことが出来る時間を、一分一秒であろうと縮められては堪らぬ。
俺は風に向かうと、己の茶褐色の翅が開く事を確認した。
俺はどうやら飛ぶことが出来るらしい。
疾走すれば自動車にも負けまいが、この矮躯である。車に潰されてしまっては目も当てられぬ。
斯様に現代社会とは物騒なのだ。
故、俺は飛翔を選択する。
「ぬうん」
俺は声をあげた。
翅が空気を打つ。
俺の肉体は、軽やかに、宙へと舞い上がった。
一路、我らの学び舎へ。
俺が二年二組の教室に入ると、軽いパニックになったが、俺がいつもの席についた途端、
「なんだ、国後くんか」
と、理恵子と親しい女である金城が言って、事態は沈静化した。
少し複雑な心境である。
だが、そんな事に関わってはおられぬ。俺は虫の体を器用に折り曲げて席につくと、複眼を凝らして想い人の姿を探すことに専念した。
「コックローチ」
不意に愛しい声が聞こえたかと思うと、俺の触覚を撫でる手がある。
俺は仰天した。
これは、俺が一年の間望んでも、決して得られなかった感触。
彼女が吐き出す二酸化炭素は、甘く、切ない。
俺の気門が過呼吸の様相を呈し、四肢は殺虫剤を吹きつけられたかのように痙攣した。
脇田理恵子。
彼女の表情は、慈母の笑顔を浮かべており、白魚の如き指先は、俺の触覚から頭殻をなぞり、椅子に腰掛けるために歪んだ翅を、そっと擦った。
「椅子は翅の美しさを損なってしまいます。国後さんは、お座布団で授業をなさるべきだわ」
優しい言葉だった。
俺は今まで、理恵子が男に対して、このような声音で語ったのを聞いたことが無い。
俺の梯子状神経は感激の電流に痺れ、心臓に類いする背脈管が、炎の如き熱い血液を全身に染み渡らせる。
「あ、ありがとう。君も、今日も美しい」
「ありがとうございます」
俺は理恵子の微笑みで、脳が真っ白になるのを感じた。
今の俺を殺すのに、殺虫剤やホウ酸団子はいらぬだろう。ただ、理恵子が優しい言葉を投げれば良い。
正に、俺は美しい食虫花に囚われた不快害虫であった。
「一緒に食事をしても良いだろうか」
一世一代の告白であった。
俺は、理恵子の前に這いずると、前肢を彼女の机にかけて体を持ち上げた。
他の女達が甲高い悲鳴を上げたが、今の俺には雑音にもならぬ。
男たちも甲高い悲鳴を上げた。やめろ。
「良いですよ。桜の散り際ですので、外に参りましょう」
理恵子の指が俺の触覚を撫でたので、俺は再び、涅槃の心地になった。
愛する女とともに弁当を喰らう。
どれほどの喜びであろうか。
俺は今、この瞬間にも、冷却殺虫剤で凍死させられても本望であったろう。
アシダカグモ何するものぞ。
猫でも杓子でも持ってくるがいい。
俺達は、他愛もない話をした。
昨今の政治情勢や、純文学を奉ずる文壇の凋落についてなど、ごくありきたりの高校生らしい話題だ。
これは、俺が求めていた時間であった。
夢の様な時間はすぐに終わり、やがて下校の時刻となった。
「脇田さん」
「理恵子で良いですよ、国後さん。私もあなたを六郎さんと呼びましょう」
「理恵子さん」
俺の肉体を構成するキチン質が喜びに振動する。
幾度、この関係を夢見たことか。
俺は気門から吐き出す呼気が荒ぶるのを感じつつ、高ぶる気持ちを抑えようと幾度か深呼吸した。
「理恵子さん」
「はい」
再び呼ぶと、彼女は美しい声音で返事をした。
嗚呼、何故俺は、彼女の一言の度にこうしてみっともなく動揺してしまうのだろう。
「貴女は、虫をお好きなのですか」
「はい。あらゆる虫を好んでいます」
柔らかな声が告げた事実である。
だが、俺を包んだのは軽い落胆であった。
理恵子は、俺が国後六郎であるから優しく接したのではない。俺が不快害虫の身であったから優しかったのだ。
俺は大顎を噛みしめて、そっと俯いた。
だが、理恵子は正しく女神であったのだ。
彼女は俺の頭殻を優しく撫でた。
「ですが、六郎さんが私を好いてくださっている事は存じあげておりました。思いを伝えて下さったのは、六郎さんが虫になられたからでしょう」
俺は顔を上げた。
女神は、夕日の輝きを背に受けて、しかし彼女の笑顔は落日の太陽よりも眩い。
「ならば、これは運命なのです」
「……俺は、貴女を乗せて飛びたい」
零れてしまった言葉であった。
しかし、今ならば俺は、本音を口にしたのだと分かる。虫である俺は、愛する女を背に乗せて飛びたかった。
「はい。運命の赴くままに」
俺はゆっくりと、茶褐色だが、透き通った翅を広げる。
背の甲に、女神の柔らかな重みと、体温を感じた。
「往こう」
「はい」
俺たちは、赤く焼けつつある空へと舞い上がった。
春の風はまだ少し冷たく……故に、俺の上にある体温は、確かなのだと感じさせてくれた。
目覚めると、俺は人間になっていた。
強い落胆が俺の身を包む。
いつものように起こしに来た妹は、いつものままであり、俺は朝食を摂ると家を出た。
電車に乗り込んでも、何も起きはしない。
夢だったのだ。
失意のままにバスに揺られる。
時間通り。
到着すれば、少しだけ遅れて脇田理恵子がやってくる。
彼女は自家用車で登校するから、この時だけは俺は、彼女と一緒にいることが出来ない。
果たして、超然たる雰囲気を纏い、いつものままに、理恵子は登校して来た。
俺は鬱々たる心地も忘れ、彼女の美貌に見惚れる。
また、声をかけられぬ日々が始まるのだ。だが、それも悪くはない。
俺は不思議と穏やかな心地で溜め息を吐き、学級活動までを一眠りして過ごそうと決めた。
「六郎さん」
だから、これは夢なのだ。
虫に変じた我が身と、優しい女神の、去りし日の夢……。
「今度は、夏の空を飛んでみたく思います。麦藁では、風に飛ばされてしまいますでしょうか?」
触覚無き俺の髪を、白魚の指先が優しく撫でた。