6
次の日。私はいつも通り、朝礼が始まる時間よりだいぶ早い時間に学校に行った。前世で通っていた高校は時間に厳しく、十分前行動が当たり前で、遅刻者には厳しい罰が与えられていたのだ。そんな高校に通っていたことが影響して、私は今でも早めの行動を心掛けてしまう。私に付き合わされて、早く出勤しないといけない運転手さんには申し訳ないんだけど。
教室はシンとしている。当たり前だ。部活生は教室ではなくそれぞれの活動場所にいるし、それ以外の生徒でこんなに早くに学校に来る人はいない。手持無沙汰で教室にいるのも詰まらないので、校舎内を歩いてみることにする。
私の前世は平凡な家庭だったので、こんなにも大きな校舎で中学生活を送ったことは無い。ただの散歩だが、大きな建物の中を自由に歩くのには少しワクワクする。白鳥学院の初等部の校舎と中等部の校舎には、あまり違いが無いようだ。生徒数や学年の違いから教室の数や階数は勿論違ってくるわけだけど。
校舎内を彷徨っていると、何処からかピアノの音が聞こえてきた。この階は確か音楽室があったはず。誰かが音楽室でピアノを弾いているのかもしれない。音が漏れているので、扉をきちんと閉めることができていないようだ。
そのことを伝えようと音楽室へ向かい、扉をノックする。私はまだ一年生だし、この部屋の中にいる人がどの学年であっても失礼が無い様に配慮したつもりだ。
「どうぞ」
ノックの音に気づいたらしいピアノの演奏者は、ピアノの演奏を止めて返事を返してくれた。それに「失礼します」と言って扉を開ける。
ピアノの前に座っていたのは、長い髪をツインテールにした女性、鷲宮楓恋様だった。
正直、楓恋様のイメージとピアノの演奏が直ぐに結びつかなかったので驚いてしまった。活発な楓恋様が、こうしてお嬢様であることを感じさせるようなことを、学校でやっている。意外だが、似合わないわけでは……ない、かな。
「何か用でも?」
楓恋様は入ってから何も言いださない私に、訝しげに用件を聞いてきた。いけない、つい呆然としてしまった。慌てて取り繕う。
「いえ、廊下に音が漏れていたので、そのことをお伝えしようかと思っただけですわ」
「あら、そうだったの。それは申し訳ないわね。教えてくれてありがとう」
唯の野次馬でないことが分かって安心したのか、先程まで硬かった表情が柔らかくなる。外部生を取り入れた中等部では、権力者の子供である私たちにすり寄る人が居ないこともない。だから鳥の名家の人たちは外部生に対して排他的なところがある。
楓恋様と会ったのはこれが初めてだし、彼女にとっての私は見慣れない一年生でしか無い筈だ。警戒して当たり前だろう。
「いえ、演奏の邪魔をしてしまい、申し訳ありませんでしたわ。それでは失礼いたします」
長居することもないので、退室の挨拶をして扉を閉める。楓恋様のピアノの音が漏れないよう、隙間が空いて無いかの確認をしてその場を去った。
◆◇◆◇
あの後、校内散策を続けるも特に目新しいものは見つからなかった。外で活動している部活生をたまに見かけたが、走っている姿だけでその人の為人が分かったり、家柄が分かるわけではないので直ぐに見るのをやめた。それに、あまりじろじろ見過ぎて変態扱いされたくはない。
歩いているうちに生徒が登校するにはいい時間帯になったので、いい暇つぶしになったと思う事にする。教室に戻るといつも一緒にいる女の子たちが登校していたので、話の輪に入れてもらった。
「皆さん、ごきげんよう。一体何のお話をしていらしたの?」
「まあ、優莉奈様。おはようございます」
「ごきげんよう、優莉奈様。ほら、今度クリーンアップ活動があるでしょう? そのことについてお話していましたの」
真っ先に挨拶してくれた菖蒲さんに微笑み返し、話していたことを教えてくれた子の方を向く。
「ああ、生徒会が主体になって行う校内清掃活動ですわね。それがどうかしたの?」
「どうかしたもなにも……。外部生ならとにかく、優莉奈様のような鳥の名家の方まで参加しなければならないなんて、おかしいですわ」
その言葉で納得する。そう言えばこの子の家は家柄にうるさいんだった。名家の子供が奉仕される側ではなく奉仕する側になるのが嫌らしい。こういう事を聞くと親の教育って影響力が大きいと実感する。普段は大人しい彼女がこんなにも不満気なのは珍しい事なのだ。
「そうかしら? 私は楽しみにしていますわ」
「楽しみ、ですか?」
そう言えばクリーンアップ活動は毎年、全学年で行われることだ。これに姉はきちんと参加しているのだろうか。姉も奉仕する側に行くなんて真っ平御免だ、と思うタイプだろうし。もしかして、この日は毎回休んでるのかも。そうやってサボる人もいそうだよね、こういう行事は。まあ無遅刻無欠席無早退、所謂皆勤賞を狙っている私には関係ないことだ。
「ええ。だって大人になったらそんなこと、絶対できないでしょう? 今のうちに経験できることは、なるべく多く経験しておきたいの。将来どんな経験が、どこで役に立つかなんてわからないんだもの」
「優莉奈様……」
私の言葉を聞いて、文句を言っていた彼女は押し黙った。あれ、滑った? 寒いこと言ったかな、私。最近の女子中学生の感覚についていけないよ。
「あら、予鈴。それでは皆さん、またお昼休みに」
タイミングよく朝礼の五分前を知らせる予鈴がなったのでその場を離れる。凰院優莉奈として生を受けて十二年は経つが、未だにお嬢様の感覚についていけないことがたまにある。掃除くらいすればいいのに。掃除をすると自分の心も洗われる感じがするので、私は好きだったりする。
「おはよう、凰院さん」
「ごきげんよう、鴇森君」
席に戻ると鴇森君が笑いながら挨拶をしてくれたので、私も笑顔で挨拶を返した。たぶん実行委員会の事だろう。
「今日の放課後、申込用紙を出しに行こうと思ってるんだけど……凰院さんも、一緒にどう?」
「まあ、宜しいの? 私も一人では心細かったので、ありがたいですわ。是非ご一緒させてください」
やっぱり。鴇森君は昨日、鷹司一輝を怖がっていた私に気づいて、気を使ってくれているんだろう。ありがたい。あいつに一人で挑むには、私はまだまだ経験値が少なすぎる。レベル1で魔王に挑むようなものだ。
鴇森君は私の返事を聞いてほっとした様子だった。ご心配をお掛けしました。
「じゃあ放課後にね」
先生が入って来たので、それだけ言って前を向く鴇森君。私も彼に倣って前を向き、出席確認をする担任の先生を眺めた。
◆◇◆◇
「そう言えばもうすぐ桐人君の誕生日だったよね」
「はっ」
放課後。鴇森君と実行委員の申込用紙を提出するために、生徒会室に向かう途中。彼から振られた話題にハッとする。今日は四月最後の金曜日。もう五月もそこまで迫っている。
「もしかして…忘れてたの? 弟の誕生日を」
私の様子に桐人の誕生日を忘れていたことを察したらしい鴇森君は、彼にしては珍しいジト目でこちらを見ている。いけない。ここは弁明しなければ。鴇森君の中の私の株が急降下してしまう。
「いいえ、そんなことは。ただ、私は菖蒲さんと親しくさせてもらっているでしょう? 彼女の誕生日の方が早いから、そちらの方に気を取られていて」
そう。桐人の誕生日が5月9日であるのに対し、菖蒲さんの誕生日は5月3日。時期が被っている。
「ああ、そうなんだ」
「ええ。…鴇森君は、毎年桐人の誕生日をお祝いしてくださっているそうね。私からもお礼を言いますわ」
納得してくれた様子の鴇森君に、これ以上追及されないように話を進める。彼から毎年誕生日プレゼントを貰っていることを、先日桐人本人から聞いたのだ。
あいつは「優莉奈姉ちゃんってたまに俺の誕生日忘れてるよな。それに比べて優さんはやっぱ違うよ。いっつも俺の誕生日当日に、祝いの言葉とプレゼントをくれるし」と本人に愚痴を言ってきた。
一応私とてあいつの誕生日当日に祝わなかったことは無い。両親がはしゃいでいるので嫌でも気づく。朝食の時から豪華だしね。プレゼントの用意を忘れるけど。
「ううん。大したものはあげられてないし、お礼を言われるようなことでもないよ。たぶん桐人君からしたら、凰院さんから貰うプレゼントの方がよっぽど嬉しいだろうし」
こ、こんな時でも鴇森君のキラキラフィルターは発動されるのか。桐人が、鴇森君から貰うプレゼントより、私から貰うプレゼントの方が喜ぶ? ないない。それはない。
「まあ、そんな。……ああ、着きましたわ」
今日は何だかついてるな。気まずいと思ったタイミングでうまい具合に予鈴がなったり、目的地に着いたり。さて、さっさと提出して早く帰ろう。思い出したからには桐人のプレゼントも考えないといけないんだから。
――なんて思っていたのがまずかったのか、この後私は予想外の騒動に巻き込まれ、プレゼント探しどころではなくなってしまうのだった。