18
「あれ? 凰院さん、手の甲のそれ、どうしたの?」
「え? ……ああ、本当ね。どうしたのかしら」
いつもの様に自分の席で本を読んでいると、前を通りがかった鴇森君が私の手の甲を指さしながら尋ねてきた。あまり目立たないから大丈夫かと思ってたけど、流石鴇森君。細かいところに気が付く人だ。
本に栞を挟みながら、さてどう言い逃れようかと考える。手の甲にあるのは小さな擦り傷だ。どこかにぶつけたとでも言えば納得してくれるだろうか…。
「気付いてなかったの? 手当てしてもらった方がいいんじゃない?」
「大袈裟ですわ。このくらいすぐ治りますもの」
「でも、凰院さんの白い手に痕が残ったら大変だよ」
そう言って私の手を労わる様に握ってくる鴇森君。あまりに自然すぎてびっくりした。そんなどこかのお嬢様に言うような言葉…いや、私お嬢様なんだけど……その、少しむず痒い。そんなに心配されるような傷でもないのに。
なんてことはない。この傷は姉のヒステリーに巻き込まれた結果だ。先日の試験結果を受けて晩餐の席で父が私を褒めたので、それに嫉妬した姉に攻撃されたのだ。隣の席で食事を取っている私に向けて故意にグラスを倒し水をかけ、着替えを手伝うふりをして浴室で――という感じ。いつもなら服に隠れる所にしか手を出さないが、今回は余程頭にきていたのだろう。珍しく表に出るところにも傷ができていた。
――期末、気を付けた方がいいよ。
一条先輩のあの言葉が蘇る。あれはきっと、こういうことだったのだ。プライドが高い姉を刺激しないために、私は学校生活のことを両親に話したりしない。けれど、両親にも付き合いがある。私の同級生の話を保護者経由で耳に入れる可能性もあるのだ。完全に油断していた。
姉は嫉妬のこもった目で私を睨んでいた。あの場で従順にしていたおかげで火は燃え広がらなかったが、それでも後が怖い。もう一度同じようなことがあれば、今度は容赦しないだろう。
どうしようかなぁ…。私、凰院家の娘だし、成績がそんなに良くなくてもお金と権力で大学進学とかできるだろうし、もう頑張って勉強するのやめようかなぁ…。そうすれば、姉を刺激しなくて済むし…。
何も最下層を目指すわけではない。姉もあれで成績上位者の張り紙から名前が消えたことはないのだ。だから姉より上にならない範囲で適度に頑張ればいい。
高科先生のこともある。私が問題を解けなければ、先生もすぐに諦めてくれるだろう。他の生徒にとって無意味な問題をずっと作らせるのも悪い。そうだよね。うん。
それできっと、うまくいく。
「ほら、保健室に行こう」
ぐいっと手を引かれたことにより、思考の渦から浮上する。どうやら私が考え込んでいるうちに、鴇森君の中では保健室で手当てをしてもらうという結論が出ていたらしい。強すぎない力で手を引かれながら教室を後にする。こ、このまま行くの? なんだか視線を浴びている気がして周囲を見渡す。幸い人通りは少なかった。
「と、鴇森君。そんなに心配しなくても大丈夫よ。全然痛くないし…」
「ダメ」
こちらを振り向きもせずに断る鴇森君。しっかりとした足取りは迷いなく保健室へ向かっている。なんだか何時にない鴇森君の様子に困惑してしまった。
いつもはこんな強引に物事を進めたりしない子なんだけどな、なんて思いながら彼の背を見つめる。頑なだが、私の手を握る力は優しい。そのことに気付いてしまって、余計にどうしようもない気持ちになった。握られているのは怪我をしていなかった右手だ。少しくらい強く握られても影響はないのに…。
――どうしよう。
取り付く島もないといった鴇森君に、それでも何とか足を止めてもらおうと説得を続けたが――結果は惨敗。何を言っても鴇森君は足を止めなかった。次の角を曲がれば保健室に着いてしまう。もういい。そっちがその気なら。
「――っ、と」
「やっと、止まって、くださいました、わね」
中学生になったばかりの頃の男女差なんてそんなに大きくない。まして私の方が身長が高いのだ。力を込めて踏ん張れば鴇森君の足を止めさせることもできる。
「…そんなに保健室に行きたくないの?」
「この程度で行く必要は無いと言っているのです。当人が問題ないと言っているのだから、もう戻りま――」
ガンッ!
大きな音に驚いて慌ててそちらを見れば、鴇森君が自分の拳を壁に打ちつけているところだった。えっ。なに。なんなの?
「…そうだね。戻ろっか」
「え!? ま、待ってください! 鴇森君の手、赤くなってますわ。というか今のは何を――いえ、それより冷やしましょう!」
状況を正確に把握することよりも、彼の手が赤くなっていることの方が気になって提案する。打ち傷は冷やしてよかったよね!? それより温めた方が良かったっけ!?
「平気だよ、このくらい」
「それはそうかもしれませんが…、でも…」
先程までと打って変わって教室に戻る気満々の鴇森君に、それでもと言いつのる。彼は既に歩を進めていた。慌てて手に力を入れ、ぐっと彼を引き寄せる。
「ま、待って。とにかく落ち着いて。どうしていきなりあんなことを…らしくないわ」
「……僕は駄目だけど、凰院さんはいいんだ?」
「え?」
「心配。僕は凰院さんが心配だったのに、心配させてくれないの?」
そこまで言われて気付く。つまり、先程の彼の行動は怪我を放置しようとする私に対する仕返しということだろうか。そ、そんな…。たかが擦り傷の為に? こんな小さな傷の為に、彼は自分で自分を傷つける様な真似を?
そんなバカな、という思いと、鴇森君ならあり得る、という気持ちが混ざり合って二の句が継げなくなる。どうしよう。本当にそうなら悪いことをした。
鴇森君は暫く私に訴えかけるような目を向けていたが、私が何も返さないと分かると諦めるようにそっと息を吐いた。
「…ごめん。変なことを――」
「ご、ごめんなさい!」
彼の謝罪が耳に入った途端、このままじゃいけないと感じて頭を下げた。反射的に謝ってしまったが、これは何に対する謝罪だろう。
「私、その……。鴇森君の気持ちを、考えていなかったわ」
彼の心配を拒絶したこと。平気で嘘を吐いたこと。彼に自傷させてしまったこと。謝るべきことは頭に浮かぶのに、素直に全てを謝罪することは出来なかった。
「…ううん。僕もごめん。無理を通しちゃって」
鴇森君は優しい。菖蒲さんも春歌さんも優しい。私を気に掛けてくれる人は、多くは無くても存在する。でも皆、まだまだ子供だ。中学生なのだ。そんな彼らに、姉のことを相談するのは気が引けた。
「鴇森君。傷の手当てがしたいの。保健室に付き合ってくれるかしら」
「! うん、喜んで」
私の言葉に安心したように笑う鴇森君。よかった。
自然と隣に並んで歩きだしながら、斜め下にある彼の顔を窺う。まだ幼さの残る顔。彼は漫画に登場していただろうか。全てを正確に憶えているわけではないので曖昧だが、きっとそんなに大役では無かっただろう。
「? どうかした?」
「いいえ、何でもありませんわ」
視線に気づいた鴇森君が不思議そうに見上げてきたが、笑って誤魔化した。
そう。漫画だ。私には大事な使命がある。最近は一条先輩の言葉に惑わされてしまったが、気づけばもう一学期も終わろうとしていた。このままじゃいけない。姉の恋を、どうにか別の形で終わらせなければならないのだ。
あれから姉に相応しい恋人候補探しは進んでいない。部活に入っていないため人脈に乏しいのも原因だろう。
そうだ、二学期の一大イベント――文化祭の実行委員会に入るのはどうだろう。前回の体育祭実行委員会と違って、文化祭は文化部が主体のイベントだ。運営側には運動部の人が多くなるだろう。そこで姉の恋人候補になる男子を見つける。うん。それがいい。
そうすれば、こんな罪悪感から早く解放されるのだから。