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「ねえ、二人とも。次の試験の対策はもう始めてますの?」
体育祭も無事終わり、皆の意識が迫る期末考査に切り替わった頃。放課後の教室で菖蒲さんと春歌さんと雑談をしていた私は、ふと思い出したように二人に尋ねた。
あの後、一条先輩の忠告の意味を考えてみたものの、私には分からなかった。「周りから向けられる感情に敏感になれ」ということだったが……自衛しろ、ということはその「向けられる感情」は負の感情であるはず。
確かに私は『あの凰院華梨の妹』ということで良く思われないことが多い。それを一人一人丁寧に対応するなんて正気の沙汰じゃないと放置してきたけど、それが仇になるということだろうか。
全く自慢にならないが私の交友関係は狭い。だから、私自身が原因で何かしらの――気を付けなければならない程の悪意を向けられるというのが想像つかない。勿論私も聖人君子ではないので、誰かしらから気付かぬうちに恨みを買っている可能性もあるだろう。けれど、鳥の名家に手を出せる人なんて限られている。忠告をされるほど危険な人物が相手ということか…?
困ったら友達に聞け、なんて言われたけど…。
「そうですね。前回は内容が簡単だったおかげで、事前の準備が不十分でもそこそこいい点を取ることができましたが…期末考査は範囲が広い分、早めの対策が必要だと聞いています」
「私も……数学が少し、苦手なので…先生に…質問しに行こうかと……」
「まあ、数学が? 私、こう見えて数学は得意なんです。私で良ければお教えできますわ」
「そ、そんな……! 優莉奈様の御手を、煩わせるなんて………」
数学が苦手だと言った春歌さんに、せっかくだし勉強会でもするか~と思って提案したらすごい勢いで断られた。え…。そんなにイヤ…? 地味にショック…。
「…優莉奈様は今回も首席を目指していらっしゃるんですよね?」
「え?」
「いえ、前回の試験で優莉奈様は首席でしたから、今回も狙っているのかと…。春歌さんも、それで遠慮したんだと思いますよ」
ああ、納得。つまり春歌さんは、自分のせいで私の成績が落ちるようなことを避けたかったわけね。なーんだ。安心安心。
「大丈夫よ。私は一回首席が取れただけで十分ですもの」
「でも……優莉奈様が…ご両親から、認めてもらえる……せっかくの機会ですし…」
春歌さんが遠慮がちに続けた言葉にハッとする。そうか。凰院家の体面か。
「ふふ、私は次女だもの。お父様もお母様もそこまで期待してませんわ。流石に成績上位者の張り紙から名前が消えればお叱りを受けるかもしれないけど、少し順位が落ちたくらいで何か言われたりはしないわよ」
「だからこそ、ですよ。優莉奈様はただでさえ誤解されることが多いんですから、少しでも――」
「もう、考え過ぎよ」
更に言いつのろうとした菖蒲さんの言葉を遮るように言い切った。「誤解されることが多い」というのは何とも気になる話題ではあるが、このまま続けて両親に認められる流れになるのはまずい。だってそんなの望んでないし。
菖蒲さんも春歌さんも優しい人だから、私が踏み込んでほしくないという空気を出せば察してくれる。ちょっとずるいけどごめんね。私は両親とは今の干渉しすぎない距離感が一番いいと思ってるから、二人の心配は不要だ。
「ねえ、二人とも。私、お友達と一緒にお勉強をするの、楽しみだったの。二人が嫌ならもちろん無理にとは言わないわ。けど、もし断る理由が私への遠慮ならやめてちょうだい」
私は別に、両親から関心を得たいわけではない。今のように適度に距離があるほうが自由にできて便利だし、楽なのだ。
「…分かりました」
渋々、という表情を隠そうともせず菖蒲さんは了承してくれた。ありがとう。
まだ頷いてくれない春歌さんの方を見る。春歌さんは菖蒲さんと一度目を合わせて、ギュッと目を瞑った。三拍ほどおいて、ゆっくりと目を開く。その目はまっすぐに私を向いていた。
「……優莉奈様、もし…私達が負担になったら、その時は……ちゃんと、言ってくださいね」
「ええ」
春歌さんも、長考の末、私を気遣うことを言いながらも首を縦に振ってくれた。よかった。
しかし、「誤解」か…。あんな遮り方をしておいて二人からその話を聞き出すのも気まずいし、他の人にも当たってみるか…。
◆◇◆◇
「おっ! 優莉奈じゃん!」
「………ごきげんよう、要」
菖蒲さんと春歌さんと勉強会をすることになった私は、一人で勉強をしていた時と比べて進度は落ちた。しかし、質問されたことに答えるうちに理解度が深まり、前よりも確実に身に着いたと思えるようになっていた。
そんな満足感とともに廊下を歩いていると、反対側から歩いてきた要に遭遇した。今日は二人とも習い事がある日だったので私一人だ。
「何してんの?」
「自習室に行くところだったの」
「へぁ~~~。自習室」
「何よその声」
目的地を告げると要は嫌そうに声を上げた。よく分からない音だったけど。なんだその声。面白くてちょっと笑ってしまった。
ふと、そこで疑問が生まれた。
「要、貴方、勉強は進んでるの…?」
要は反対側から歩いてきた。自習室は6組側にある階段を上った先にある。私が歩いてきた方にあるのは1組の教室と、その先にある昇降口。帰宅するつもりなら当然手に持っているはずの鞄は無い。手ぶらだ。
「ん? あ~…まあ、それなりに」
「微妙な間が怪しいわね…。今から何するつもりだったの?」
要は部活に入っているけど、試験が近い今、部活は休止期間のはず。
「いや、ちょっと2組のやつに会いに…」
「お~い! 要! 早くしろよ! 遊ぶ時間無くなるぞ!」
私の後方から聞こえてきた声に、要は気まずそうな顔をした。ちらっと振り返って相手の確認をする。知らない顔だ。でも、その手にあるのはサッカーボール。要を急かす声と、『遊ぶ』という決定的なワードが聞こえれば、もう言い逃れはできないだろう。
自分でもジトっとした視線だと自覚しながら要を見る。
「要?」
「あー…ごめんって! でも今日は息抜きなんだよ! な? いいだろ?」
手を合わせてそう言った要は、しかし私の返事を分かっているようで「うんうん分かったありがとなー!」と聞く耳を持たず私の横をすり抜けて行った。
「要! 私、いいなんて一言も言ってないわよ! あと廊下は歩きなさい!」
既に小さくなっている背中に届くよう声を張り上げる。
「まったく……。どうしていつもああなのかしら。最近はましになったと思ったのに…」
放課後で人が少なかったからといって、大声を上げるのははしたなかったかな。しかもよそのクラスの教室の前だし。
要にも「誤解」の件を聞こうかと思ったけど、あいつのことだから周囲の感情にも疎いだろう。聞くだけ無駄だ。
「優莉奈さん」
要の後姿を呆れながら眺めていたところ、後方から私を呼ぶ声が聞こえた。馴染みのない呼び方に首を傾げながら振り向く。そこに立っていたのは、眼鏡のカッチリ委員長、黒崎君だ。廊下に立っていたのは彼一人だったので、私を呼んだのは彼だろう。
「まあ、ごきげんよう、黒崎君」
「お久しぶりです、優莉奈さん。一条君に会いに来たんですか?」
む。何故そうなる。
「いいえ、違いますわ。これから勉強の為に自習室に向かう所でしたの」
「ああ、なるほど。だったらご一緒しても? 僕も自習室に行くところだったんです」
「…ええ、もちろんですわ」
何となく引っ掛かりを覚えながら承諾する。ふと、彼が私のことを「優莉奈さん」と呼んでいたことに気付いた。もしかすると、要の呼び方が印象的だったのかもしれない。そういえば黒崎君の前で名乗ったことは無かったな。でも、今更名乗るのも変だよね。気にしないことにしよう。外部生に下の名前で呼ばれるのは新鮮だ。
「そういえば、前回のテストではおめでとうございます。やはり『鳥の名家』は僕達と一線を画す存在なんですね。あれだけ素晴らしい成績を残したんです。優莉奈さんは、今回のテストでも成績上位者の張り紙から名前が消える心配もないでしょう?」
「そんな、買被りすぎですわ。私だって日々の努力が無ければあそこまでいくことはできませんもの」
「ですが…やっぱり、貴方達は何か……『特別なもの』を持っているような気がしますよ」
「特別なもの? ふふ、大袈裟ですのね」
「…いえ、今のは戯言の様なものです。気にしないでください」
特別なものって何だろう。そういうオーラでも出ているのかな?
「優莉奈さんは、やはりこの学院の付属大学に進学されるんですか?」
「そうですわね。何事も無ければその道に進みますわ」
「そうですか…。学部は? 優莉奈さんは理系が得意ですし、そちらの系統を希望されているんですか?」
「もう大学の話ですの? 気が早いわ。私達、まだ中等部に上がったばかりなのよ?」
私、理系が得意とか話したことあったけ? 前回のテストではほとんど満点だったから、差なんて無いと思ってたけど。
「こういうのは早いに越したことはないと思います。だって、高等部では2年生への進級時に文系と理系の選択をするでしょう」
「そうですけれど…」
「貴方ともあろう方が、まさか先延ばしにしようと? ご自身の人生に関わる、重大な選択ですよ?」
冗談だろう、という目で私を見る黒崎君。彼からは、焦りの様な何かが見えた。気まずくなって私は目線を足元に移す。
「重大な選択」か。今の私にとって、大学や高校のことよりも、姉の恋愛の方が人生に関わる重大なことだ。それに前世で理系に進んだ私は、何となくその道を今回も選ぶつもりでいた。それじゃだめなの?
黒崎君への返答に困っていると、遠くから私を呼ぶ声がした。きょろきょろと辺りを見渡し発生源を探す。どこからだ?
「――い、おーーーい! 優莉奈ーーー! 聞こえるかーーーー!」
「もしかして…要?」
ちょうど自分の傍に合った廊下の窓から外を見る。そこには想像通り要がいた。
「悪い! こっちきて手伝ってほしいことがあるんだ! 今すぐ来てくれーー!」
はあ? さっき私、今から勉強するって言ったよね? なのに今すぐ来い? ふざけてるのか?
そう思いつつ、隣の黒崎君が気になって反論ができない。要しかいないなら大声で叫び返しても構わないが、黒崎君は外部生。つまり私のことをさほど知らない人で、名家のご令嬢が叫ぶなんてはしたない行動をするとは露程も思っていないだろう。そんな彼を驚かせるわけにはいかない。
仕方ない、と拳を要に向けて挙げる。あいつならこれで了承だと伝わるだろう。案の定あいつは嬉しそうに破顔して拳を挙げてきた。ありがとうという意味だ。
「…ごめんなさい。要が呼んでるから外に行くわ。黒崎君は自習、頑張ってくださいね」
「…そうですね。分かりました。残念ですが仕方ありません」
私達のやり取りを見守っていた黒崎君は、眉を下げながらも別れの挨拶をしてくれた。それに安心して踵を返す。要の用は何だろう。おそらくいつもの我儘だ。本当にあいつは手のかかる子供なんだから。
――要の用件に気を取られていた私は、背後に居た彼がどんな表情をしていたのかに気付かず、その場を去ったのだった。
◆◇◆◇
結局あいつの用事は下らない事だった。要と一緒に遊んでいた同級生の一人が、結果が悪かった小テストを紙飛行機にして飛ばしていたらしく、それが運悪く職員室の傍の木に引っかかったらしい。優等生の私が教員の気を引いているうちに彼らが紙飛行機を回収する「奪還作戦」への招集だったのだ。自業自得だと切捨てようかと思ったけど、下らない用事であの凰院華梨の妹を呼び出したことに震える同級生くん(名前も顔も知らないので仮名だ)が憐れになって引き受けた。要は後で覚えてなさいよ。
いざ作戦を実行しに職員室を訪れると、運よく木の傍の席に居たのは生徒会顧問の高科先生だけだった。いや、要たちからしたら運悪く、かな? 高科先生は数学教師で、合理的で厳格な人だと有名だ。私の組は担当が違うけど、要のクラスは高科先生が数学を担当していたはず…。さては小テストも数学だな?
「あの、高科先生…少しよろしいですか?」
「おや、凰院君。どうかしましたか?」
「数学のことで質問をしに来たのですが…」
「…ああ、今職員室に僕以外数学教師がいないから。いいでしょう、どこが分からないのですか?」
全てを言い終える前に高科先生は納得したように頷いた。話が早すぎる。
「はい、この問題集の応用問題なんですけれど…」
「…ここは期末考査の範囲外ですよ?」
「え、ええ、存じております。予習をしていて分からなかったので」
「…成程。学年主席の君にとって、今回のテストは造作もないと」
せっかくなら本当に分からない問題を教えてもらおうとしたんだけど、怪しまれてる…? ま、まずい。
「いえ、その……」
「それ以上は結構。問題の説明に入ります。この問題は――」
え?! このまま解説に入っちゃうの?! 今の気になる返しは何?!
高科先生の言葉は気になったけど、解説はとても分かりやすくて充実した時間だった。途中から要の存在を忘れていたけど、木に引っかかっていた紙飛行機が無くなっていたので彼らも目的を無事達成したことだろう。
念の為要に連絡をとったら「ありがとなー。おかげで助かった! 俺は最初、俺達が見張りしてる間に優莉奈に木登りして取ってもらうつもりだったんだけどさ。アイツらが『明日の朝日を拝ませてくれ!』なんていうから急きょ作戦を変更したんだよ。お前木登り上手いから良い作戦だと思ったんだけどなー」なんて言っていた。後半は聞かなかったことにしたい。
木登りがうまいお嬢様がいてたまるか。子供の頃、要が木に引っ掛けたボールを仕方なしに取ってやったことを憶えてるからか知らないけど、断じて得意ではない! 誤解を与える言動をするな!
はっ! まさか「誤解」ってそういう…? 要のトンチキに付き合ってたせいで私までトンチキな女だと思われて……?
…そんなわけ無いか。
――こうしてテスト勉強や小さな厄介ごとに巻き込まれながら私は、いつしかあの忠告の答えを探すのを止めてしまった。今にして思えば、ここでもう少し考えていればあんな結果は訪れなかったのかもしれない。