一
黄昏絵本と紡ぎの姫
一
ボクは“お兄ちゃん”だから。
日差しの優しく差し込む廊下は白い大理石が光って少しだけ眩暈を覚えそうになる。
「やはり、跡を継がれるに相応しいのはエルード様だな」
不意に耳に入った言葉にいつものことだと心の中でだけ溜息をつく。
「そうね。 シェード様もお可愛らしいけれど、……ねぇ?」
いつまでも大きくならない体躯。それは本当のこと。彼らも悪意などない。仕方ないことだ。
足音も気配も消して数歩その部屋の扉の前から遠ざかり、そしてわざと駆け足の音を響かせて歌う。
「ジョセフ、リーン! おやつ出来てる!?」
いつものように、笑顔で、先ほど遠ざかった部屋の扉を開ければいつものように彼らも笑いかけてくれる。
これで良い。
「ありがとう!」
とびっきりの笑顔でそう言って、頼んでおいたアフタヌーンティーのバスケットを受取って部屋を後にする。眩暈がするほど白い光の溢れる城の廊下を駆けた。
「コケモモ、ラズベリー、ブルーベリー、アンゼリカ、ピーナツバターにちょっと変り種、三種の薔薇ジャム」
バスケットからチェック柄のシートに広げられていくスコーンとジャム、熱々の紅茶に銀のカトラリー。
それに呆れるのは十八才くらいの陽を紡いだような金髪に深い紫の瞳をもった青年。小高い丘の上、地べたに敷いたシートに座るには不釣合いな仕立ての服と美貌が、今は呆れ顔で普段の近寄りがたさもなりを潜めている。
「わぁ……! 凄い」
きらきらと青い瞳を輝かせる長い黒髪の少女は十二才くらいで、バスケットの中身を披露する長い漆黒の髪にストロベリーレッドの瞳をもった少年と同じ年頃に見えた。
「さぁ、どれにする!?」
漆黒の髪の少年は少女へと笑顔で広げたおやつたちを指し示す。
少女の青い瞳はまるで空を切り取ったように美しい。
けれど。
(そう思っているのは、ボクだけじゃない)
「少しずつ時間を掛けて全て食せば良い」
呆れたような表情がいつの間にか微笑みに変わった金髪の少年が少女へそう囁く。
傍目から見れば兄妹のようなものにしか見えない年齢差だけれど少女は兎も角、金髪の少年“双子の弟”が少女へ抱いている感情は自分と同じものなのだと、漆黒の髪の少年“双子の兄”は気付いていた。
(ルードは気付いてないけどね)
黄金の髪に深紫の瞳をもつ陽の皇子、エルード。
漆黒の髪に苺紅の瞳をもつ月の皇子、シェード。
この少女がいる世界とは別の世界をゆくゆくは治める王の継承権をもつ、二人は皇子だった。
「そうだね。時間を掛けて、ゆっくりと」
今一緒に過ごす少女はただの人間で、王族でもなんでもない。二人のいずれ治める世界とは違う世界の住人で、ただの森番の子。
ただの、というのに少しだけ違和感を感じるかもしれない力が一つだけ少女にはあったけれど、身分は変わらずただの森番の子。
それでも、そんな少女が初めて出逢った時から大切な宝物であることに変わりなく。
それが永い秘密の始まりでもあった。
楽しそうに笑う少女とエルードの姿を眺める。まだ年齢の釣り合いはシェードの方が合うけれど、それもあと数年すれば逆転するだろう。
少女はきっとこれからもっと綺麗になっていく。緑の黒髪に空を切り取ったような瞳と白い雪のような肌と春の花のような唇。きっと息を飲むほどに美しくなる。
そこに並ぶのは小さな子供ではなく、年相応の青年が相応しい。
(まぁ、姿だけじゃなく継承の事もあるけど……そこは)
どんな事になろうと、悲しませたりしない。絶対に。
この想いの何が厄介かと言えば、困ったことにシェードにとって種類は違えど同じくらい好きなこと。感情の名前は違うけれど、どちらも失いたくなかった。
(欲張っちゃったから仕方ないね)
彼女がもし万が一、自分を選んでくれるなら何もいらないと思うけれど、弟との関係はきっと変わってしまう。それはこの想いが知れても同じ。
優柔不断なのだといえばそれまで。ただ今はこのまま三人で過ごせる時間が続いてくれる事を願っている。
◆◆◆ ◇ ◆◆◆
眩暈がしそうなほどに白い雪が降る。
本当に白い雪の翳は蒼く、それを城の廊下で見つめていた。
一向に成長しない兄皇子では民が不安を持つ。
外見と同じように中身もまるで子供のように気まぐれで、弟皇子に時に窘められる姿も多く見られている。
最近では度々隠れ鬼に弟皇子を巻き込んで遊び呆けている始末。
王を継ぐには相応しくない。
「だってさ」
シェードの溜息混じりとも苦笑混じりとも取れる一言に、その傍らで膝を折って頭を垂れていた青年は唇を噛み締め、手袋を嵌めた拳を強く……強く、握り締めた。
射るような鋭い緑の眼差しを、自らの主と決めた少年へと差し向ける。
常ならば絶対にそんな事はしなかった。
(わぁ。初めて見た。こんなに怒ったハインリヒ)
「ごめんね。こんなボクについた所為でキミに恥じかかせちゃって」
「殿下……私が貴方を主と定めたその時から、私は一つだって恥などと思ったことは無い」
眼光よりも鋭い声には真実と、そして確かな怒りがある。
「ボクが元から王位につく積もりがなかったの、話してあったよね」
「貴方以上に相応しい者など居ない」
「ボクは王様って器じゃないよ」
「ならば誰も居ない。貴方が相応しくないと言うのなら他の誰も」
「ハインリヒ。ごめん」
ハインリヒと呼ばれた騎士は微笑む主を仰ぐ。
「ボクが王位につけば、民が揺れるよ」
そんなのは一時だ。主の力量ならばそんなものはすぐに霧散する。ハインリヒが訴えるけれど、シェードは頷かなかった。
けれど、ハインリヒは知っている。
この幼い少年のような見かけの主が外見とは正反対のものであると。
「ごめんね。ハインリヒ」
いつも。
騎士にと嘆願したのは、自分。
主君となることでそれを叶えてくれた彼の皇子はその時から変わらず、いつもそう呟いていた。
その言葉の意味を、その時は理解できなくて。
「何故、そのようなことをおっしゃるのですか?」
その時の自分が考えうる答えを思って、それを正解と思うしかなかった。
問いかけに、彼の皇子はいつも、
「ごめん」
それしか答えてはくれなかったから。
―――― 何故、もっと、問い詰めてでも聞かなかったのか。
―――― 今となってはもう何もかもが、手遅れだ。
―――― たとえ問い詰め、その真意を知ったとしても、何も変わらなかっただろうが、それでも、思わずにはいられない。
―――― 我が君、何故、…………。
◆◆◆ ◇ ◆◆◆
『ねぇ、約束。君がボクを呼んだなら、何処にいても、いつ如何なる時でも、ボクは君の許へ駆けつけるよ。これは、絶対。だから、きっと、ボクの名前を呼んでね』
「だぁいじょうぶ! 大丈夫だよ。これは、夢だから」
吹雪く音を消すような声。
暖かい。暖かい、体温。
苺の様な紅い瞳はいつも優しくて、お日様のような笑顔と、月のような穏やかな声が、大好きだった。
いつだって変わらないそれは、今のこの時も、変わらなくて。
「ゆ、め……?」
だって、だって。
シェード、今、怖い人たちが、シェードの、背、に。
「怖い夢だね? でも、大丈夫。ほら、ボクは痛そうに見えないでしょう?」
笑っている。いつもと何も変わらない。
けれど、
「鉄、みたいな、におい、する」
「あー。それは、きっと斧の匂いだね。薪を作ろうと思って、触っちゃったから、匂いが移っちゃったかな」
「赤い、色」
「うん。ごめんね。お土産に持ってきたラズベリーのシロップ、割っちゃった。でも、また新しいの持ってくるから、許してね?」
でも、でも。
「夢だよ。怖い怖い、夢。だから、もう一度目を閉じて? 大丈夫。次に目を覚ましたら、怖い夢は終わっているから」
どんな時でも優しくて、暖かい声がそう言った。
「おやすみ。ゆっくり、眠ってね。怖いことなんて、忘れるくらい」
ゆっくり眠れるように、お歌を歌うね。
そう言って、歌ってくれた。
でも。
―――― なんで、そんなに、悲しい顔をしているの……?
青い瞳がまぶたの下に隠れたのを見てから、そっと起こさないように染み一つ無い外套に包んで横たえる。
「…………この子にとっての悪夢なんて、必要ないよね」
そう言って、振り返った。
そこには、黒い影によって動きと口を封じられた村人たち。
恐怖と怒りに血走った目が、自分たちの邪魔をして拘束する影の主である自分へと向かっている。
足元には、先程村人の一人から振り下ろされた手斧が一つ。
斬り付けられた背はすでに傷がふさがり、あるのは血の流れた赤黒い染みと、流れた血が作った乾ききらない水溜り。
「何もしてないのに。何でこんな酷い事、できるのかな? ねぇ、その頭の中、開けてみたらわかる?」
村人たちの足元に一人の老人。
彼は、この子のたった一人の親。血のつながりは無かったけれど、ずっと大切にこの子を育ててくれた人。
その人も、この村人たちに殺された。
それは、異界を越えて切なる魂の叫びを届けるには十分な理由。
「こんな理由じゃなく、呼ばれるの、楽しみにしてたのに」
ざわりと黒い影が揺らぐ。
同時に、村人たちを拘束している影の力が強まったのか、村人たちの顔にどす黒いほどの絶望が浮かぶ。
このまま引き千切ってしまおうか。
「時間、勿体無いかな」
それに、こんな空気の悪いところにいつまでも居させたくない。
そっと横たえていた彼女の身体を抱いて、たった一人この子の親である老人は影で包んで、ボクたちはそこから掻き消えた。
その後、そこに残された村人たちがどうしたかなんて、ボクは知らない。
興味も無かったし、どうでも良かった。
殺してはいないから、誰か死んだとしたらただの村人同士のいざこざだろう。
それよりも、一番にするべき事はこの子を育ててくれた老人の葬儀だ。
「もしかしたら、人の葬儀と違うところがあるかもしれないけれど、許して下さいね」
小高い丘の上に一人分の穴を掘る。
さすがにボクの手でやっていたら日が暮れても追いつかないから、影を使って土を掘る。
出来るだけ、綺麗に整えて遺体をそこへ納めた。
死者に治癒の術は効かないから、血を拭いて新しいお洋服を着せただけだけど。
胸の上で祈るように手を組ませ、花を添える。そこへ、土を静かに被せて行く。
「春になったら、ここは花がいっぱい咲きますから」
とっても綺麗なんですよ。そう声を掛けて。
ここは、いつも三人でお茶をした場所。
今は、雪の白が目に痛いほど。
「最期まで、ありがとうございます」
この老人は、最期まであの子を裏切らなかった。
だから最大限の敬意と感謝を贈る。
「彼女は、きっと、幸せにしますから」
あーあ、こんな風に言うつもりじゃなかったのに。
そう思ったけれど、全てはもう叶わない。
外套に包まり眠る身体を抱え、その世界を後にした。
白い雪が、全てを塗りつぶすように、ただ降って。