七
ようやく洋館の壁が見えたとき、修嗣は肩で呼吸をしていた。
フラと目眩がして、倒れそうになる。
ことごとく緑に覆われた地面。彼は、制服のズボンを穿いていたが、草の先が肌に触れてかゆかった。
建物の黒い窓枠の下に、ヒビのように蔦が這っていた。見上げた非常階段は足場が崩れて、侵入するには無理がある。外壁の鉄筋が露出していた。
修嗣は森を迂回して、玄関前に辿り着いた。足取りおぼつかないまま、かつて外壁だったであろう場所に腰を下ろす。時計を見ると、門限が近付いていた。叔母の小言を想像して、ため息を吐く。
玄関ホールの入り口はまるで暗い洞窟のようで、壁のふちに百合の装飾が施され、天井にいくつか穴が穿ってあった。室内に踏み込むと、中はしけった臭いが充満し、天井のシャンデリアには炭のようなものが堆積していた。右手に見える階段は、昨日昇ったものだ。
そちらを無視して、廊下を進む。
「非常口」の看板を再びまたいで、扉のない枠の下をくぐり抜けた。食堂の壁にずらりと並んだ黒い窓枠。葉の集合体に一つとして同じものはない。昨日見た景色とも違う。
広間を大股で進み、部屋の中心に辿り着くと、鞄を投げ出し寝転んだ。
硬いコンクリートが背中を冷やす。目をつむり、周りに意識を集中する。葉がこすれる音。虫が飛び交う。鳥が鳴く。
「眠っているの」
修嗣は、自分が夢を見ていると思った。
声は、少年のものだ。自分よりも高い。
頭を上げると、暗闇が人の形に切り取られていた。
逆光で、顔は見えない。
「おはよう」と誰かが言った。
暑くもないのに汗が吹き出す。影は、間違いなく生きた人間だ。こんな場所に、二人も人間がいることが奇妙に思える。
再び鳥の鳴き声を聞いて、修嗣は視線を彷徨わせる。
「あれはアオジだよ。恥ずかしがり屋で、たまにしか鳴かない」少年はにっこりと微笑んだ。
彼の髪は光の色をしていた。肌は水面に泡立つ波のように白く、遠目にも分かるほどくっきりとした二重の瞳をしていた。
「アオジ……、聞いたことがない」
修嗣は、両手で体を支えながら、首を傾げる。
「冬になると西へ行くんだ」
少年は、背を向けて窓の方を見る。鳥の軌跡を辿るように。
「か弱いんだよ」
「君はどこから来たんだ?」
修嗣は、胸に湧いた疑問を口にした。少年の着ている制服は、修嗣のものとは違う。紺色のブレザーだった。胸にワッペンが付いている。剱を重ね合わせた形をしていた。
「隣町から」少年は、窓とは反対の方角を指さした。
「どうして、こんなところへ?」
この建物は山頂に近く、付近には切り立った崖もある。野生の動物も多く、伐採目的以外で住民は山へ近寄らない。こんな所へ好んで来るのは、修嗣と、悪事を働く人間くらいだ。
「山を探検するのが好きなんだ。ここを見つけたのは昨日だよ。がむしゃらに登っていたら辿り着いた。いい運動だったよ。途中で蚊に刺された」
少年は、細くしなやかな足首にポツリと付いた赤い斑点を見せる。
「山を探検するなんて、危ない趣味だ」
「君もね」彼は笑った。
少年は修嗣と同じぐらいの歳で、家は山の麓にあるという。
物腰柔らかい口調で、質問には全て答えるにも関わらず、修嗣は、どうもはぐらかされているような印象を受けた。第一、まだ互いの名前も知らない。
「そうだ。君に手伝ってほしいことがあるんだ」少年は、空間に円を描くように両手を振った。
こっちへ来て、と相手の反応も待たずに、背筋をピンと伸ばしたまま、食堂の出入り口へ歩き出す。修嗣はあわてて立ち上がり、彼の後を追う。
走り出してから、追う必要があるのか考えた。