六
六限の授業を終えると、修嗣は誰よりも真っ先に教室を出た。鞄には、昨日借りたぶ厚い単行本がまだ入っている。授業中に半分くらいまで読み進めることができた。渡りを抜け、下駄箱で靴を替えると、校門で見慣れた二つの顔に会った。
「あ、兄さん」と、沙也加は朝と同じ笑顔を見せる。目の下の隈は消え、血色が良くなっていた。
修嗣は立ち止まった。
「そんなに急いで、またどこへ行くの」
鞄を両手に抱えて、沙也加が近付いてくる。
「早く家に帰りたいだけだよ。見たいテレビがある」
修嗣は、一刻も早くあの場所へ行きたいと考えていた。
「嘘よ、また秘密の場所へ行くんでしょう」
「行かない。すぐに帰る」
「どうしてそうも隠したがるの」沙也加は修嗣の顔を覗き込む。
「なにも隠していない」
修嗣は首を振ったが、相手は食い下がらなかった。
「嘘よ、絶対」
「修嗣くん、送ろうか?」
沙也加のそばに立っていた神谷が言った。袖口までアイロンの掛かったシャツに身を包み、片手に生徒たちのノートの束を持っていた。
「いえ、結構です。心遣いありがとうございます」
「送ってもらえばいいじゃない。私も乗って行きたいし」
「お前は、図々し過ぎる」修嗣は妹をねめつけた。
「兄さんほど生意気じゃないわよ」
神谷は微笑んで、「まあ、いいじゃないか」と兄妹を交互に見た。
「神谷さんは気にならないの、兄さんがどこへ行っているか。それとも、もう教えてもらったの?」
「いや、知らないよ。でも、いつか教えてもらえるんじゃないかな」神谷は修嗣を横目で見る。
「神谷さんまで、からかわないでくださいよ」
校舎のスピーカーから帰宅を促す音楽が流れ、夕日が三人の影を引き伸ばす。
「じゃあね、兄さん」と妹が手を上げた。「今日は早く帰ってくるのよ」
「気をつけて」神谷も手を振る。彼はもともと背が高いので、手を挙げると迫力があった。
修嗣は二人に軽く頭を下げ、校門を後にする。
空は赤いグラデーションを描き、山へ近付くほど濃い色になっていく。濁った水田が、日に照らされて上品に輝いた。通りに面した民家の軒下で、冬を越えられない夏桜が頼りなげに咲いていた。畑の畝に影が落ち、彼岸花が群生していた。収穫を始めた耕耘機が、低く唸りながら稲を刈っていく。
学校の軒を東へいくらか行くと、トタンで囲われた材木置き場がある。その横に細い公道があった。切り立った斜面に杉の木が群生している。
山は、どこから山なのだろう。
木々が密集し、土は影にある。公道は、車一台がようやく通られる程度の幅しかなく、しばらく行くと、右手に細い坂がある。
坂には、一応階段があるものの、土を寄せ集めて段差にしているだけなので登りにくかった。地中から飛び出した根に何度も足を取られる。 度々、修嗣は木の表に手を付いて、息を吸った。もともと、体が強い方ではなく、季節の変わり目にはいつも風邪を引く。ほんの数分動いただけでも、全身が怠くなった。重い鞄を投げ捨てたくなる。
木漏れ日が、地面に点々と斑模様を作る。
新調した革靴が、白く汚れていった。
坂は幅を狭め、やがて開けた場所に出た。
そこで真っ赤なロープウェイを発見したとき、修嗣は息を切らせていた。
初めは、電車の先頭車両かと思った。近付いてよく見ると、ガラスは曇り、扉は錆びている。雨風に晒されたケーブルがたゆんで、地面に着いていた。これでは、もう動くことはできないだろう。ケーブルに蔦が巻き付き、山の上までずっと続いている。空の下に、白っぽい煙突が見えた。
ロープウェイは、ホテルの衰退と共に役目を果たし、ただの汚い箱になりさがった。座席のシートはめくれ上がり綿が飛び出している。木の葉が詰まっていた。
修嗣はケーブルに沿って坂を登っていく。知らぬ間に、汗をかいていた。
振り返ると、町の屋根が見える。家屋よりも水田の数が多い。四角形の水面が、モザイク画のようにキラキラとして綺麗だった。
足下に、掃き溜め菊を見付ける。坂は急に険しくなる。修嗣は地面に手を着いた。それは、ひんやりとして気持ちが良かった。
山の空気は乾いている。