五
朝焼けが山の稜線を白く浮かび上がらせる。
まるで舞台の張りぼてのようだ、と修嗣は思った。
学校へ向かう途中、彼は水田の脇に続くあぜ道を歩いていた。稲は穂を実らせ、金粉のように輝いている。山頂に、赤や黄の紅葉が色づいていた。制服の下をすり抜ける風は、秋の匂いを含んでいる。
「兄さん、待って」後ろから沙也加が駆けてきた。「今日は、一緒に行こうって約束したでしょう」
彼女は息を切らせていた。横目で見ると、頬が赤く上気している。
「忘れていた」修嗣は平気で嘘を吐く。
「まあいいわ、ここからスタートすれば。ねえ、今日もどこかへ行くの?」
揃いの制服を着た兄妹は、合わない歩調で歩き出す。真っ直ぐ伸びる道の先に、灰色の校舎があった。早朝の空は紫色で、雲は濃い青色をしている。
「行かないよ。叔母さんが五月蝿いから」
修嗣は右手に鞄を握っていた。沙也加はリュックを背負っている。
「五月蠅いんじゃないわ。叔母さんは、ただ心配しているのよ」妹が困ったような顔をする。「最近、ここら辺も物騒だから。ねえ、聞いた? 隣町で起こった強盗事件……、こんな田舎でも、頭のおかしな人はいるのよ」
「そうだろうね」修嗣は適当な相づちを打つ。
「ねえ、そろそろ教えてよ。兄さん。一体、いつもどこへ行っているの」妹が、足を止めて振り返った。
「図書館だよ」
「嘘よ。私、昨日、図書館にいたもの」
「奥に座っていたから、本棚に隠れて見えなかったんだろう」
「そんなはずないわ。美術の資料を探して図書館中を歩いていたの」
「入れ違いだったんじゃないか」
修嗣は、相手に悟られない程度に、歩みを早めた。
「閉館時間までずっといたわ」
「ふうん」
「ねえ、教えてよ」
妹は飛び跳ねるように尋ねる。その視線の先に、彼女が知りたがっている場所があることを、兄は黙っていた。
「微分はできたの?」修嗣は、話題を変えた。
「全然」沙也加は肩をすくめた。「取りあえず、教えてもらった分だけは復習しようと思ってる」
「へえ、真面目だね」
「まあね。長く続くかどうかは別だけど。兄さんこそ受験でしょう。勉強すべきよ」
「高校受験くらいどうにでもなる」
「そんなに上手くいくものかな。東京へ行けなくなるわよ」
「東京に行きたいのは沙也加の方だろう。僕は、何とも思っていない」
修嗣は、生まれてから一度も土地を離れたことがない。都会の知識はほとんどなかった。しかし、外の世界が格別素晴らしいものとは思えなかった。どうせ、一日の大半は一つの場所に拘束され、たとえ大学を経て社会人になろうと、毎日、同じことが続くだけだ。それなら、住み慣れた地にいた方が良い。
「そういえば」妹は、何かを思いついたように人差し指を上げた。「昨日、ずっと部屋に神谷さんがいたわよね。二人で何をしていたの?」
稲穂の合間に見える瓦屋根はまるで水に浮かんでいるようで、人影は見当たらず、道端に等間隔に並ぶ電信柱の隙を風が入り込み、口の中が乾く。
「化学を教えてもらっていたんだ」
「化学? 兄さん、理数系は得意のはずでしょう」
「そうでもないよ。一箇所、分からないところがあって……」
「ふうん」妹は、考え込むような顔をした。「叔母さんが怒っていたわ。神谷さんを独り占めしちゃ駄目よ」
「あの人はいつも怒っている」修嗣は吐き捨てるように言った。
「そんな言い方をしないで」妹は兄を非難した。
山の斜線から、太陽が顔を出す。あの山の先に、また別の町があり、自分と同じような子供が生活している。そう思うと、修嗣は胸がむかついてきた。
校門で、生活指導の体育教師が怒鳴っている。声を張り上げて、兄妹を追い立てた。軽く頭を下げて敷地へ入る。
「じゃあね、兄さん」昇降口の手前に至って、沙也加が手を振った。「私、今日、神谷さんの授業があるの!」
修嗣は、妹の駆けていく後ろ姿を見ていた。
セーラーの襟が軽やかに跳ねる。