四
修嗣の部屋は二階だ。階段を上がると、両側に扉が並んでおり、奥から二番目、七畳の洋室だった。
彼の実の母親は、物をあるべき場所に返さないのは罪悪だと教え続けた。そのため修嗣の部屋は片付いている。勉強机、折りたたみ式のベッド、背の高い本棚。それで全てだ。
制服を脱いで部屋着に替える。ベッドに転がり、天井を眺めた。
目を閉じると、木々の揺らめきが見える。草と埃の臭いが鼻をかすめ、奇妙な鳥が鳴く。
手を伸ばして鞄を引き寄せた。図書室で借りた本を取り出す。実在する医者の逸話で、一八世紀のロンドンを舞台にしている。
重い本を両手で支え、文字を追おうとする。しかし、額縁の中の黄色い葉、藤色のタイル、非常口、祖母の白目、赤い花びら。とりとめのない回想が、疲労した体を布団に沈めていく。
すると、物音がした。ベッドの反対側、壁の向こうから。建物の配置でいうと、二階の最も奥の部屋だ。
壁に掛けられたまっさらなカレンダーが小刻みに揺れている。
ドンドンドンドン。
壁を叩く激しい音。
ドンドンドン。
「修嗣君、入ってもいいかな?」
音とは別に、男の声が聞こえた。
修嗣は、机の置き時計を確認する。午後7時16分。相変わらず時間に適当だ、と思いながら、「はい」と応答する。
扉が開き、背の高い男が入ってきた。
まだ、壁の音は続いている。
「遅れて悪いね。英子さんと話が長引いてしまって」
「いえ、構いません」修嗣はベッドの上で姿勢を正した。
その時、ドンッ、と一際大きな音がした。
まるで、人の頭でもぶつかったような鈍い音だった。
「おいおい、またか。困ったもんだね」
神谷は、壁の方を忌々しそうにしながら、修嗣の隣へ座った。手には教科書を持っている。長い足を組んで、こちらを向く。首筋から柑橘系の匂いがした。
「部屋を変えてもらった方がいいんじゃないか?」
修嗣は前を向く。飾り気のない真白い壁は、蛍光灯の光に照らされのっぺりしている。
「そう長い時間でもありませんから……」
修嗣の言うとおり、音はもう止んでいた。騒音が消えると、普段の静けさがじれったく、人の存在が大きくなったように感じる。部屋のカーテンは閉じられている。
「沙也加ちゃんから聞いたよ。今日は、大変だったね。典子さんは、もう大丈夫かい?」神谷は丁寧に尋ねた。
「ええ、今はもう眠っています」
修嗣は、女たちの口の軽さに辟易した。
「そうか、それなら良かった」神谷は微笑む。
「沙也加のやつがまた数学を教えて頂いたそうで、申し訳ありません。僕が教えられれば良いのですが、あいにく、僕は教えるのは苦手です」
「いや、あれくらいお安いご用だよ。修嗣君は分からないところはないの。例えば、化学とか」
それを聞いて、修嗣は動揺した。心臓が早鐘を打つ。
「今のところ、理数系は大丈夫です。国語や社会は苦手なんですが。教えて頂いても仕方のない暗記科目なので」
「それでも、手伝うよ」
そう言うと、神谷は修嗣の手に自分の手を重ねた。浅黒い皮膚の下に、厚い筋肉が窺える。切れ長の目の上に引かれた太い眉。髪は修嗣よりも長い。神谷は、叔母が連れ込んだ男で、この家の誰とも血の繋がりはない。職業は安定しているものの、普段の挙動が怪しかった。本当に、叔母と結婚する気があるのだろうか。
「結構です」修嗣は慌てて男から離れる。
「そうかい」神谷は笑う。
二人の息遣いだけが場を占める。
「なんですか?」
神谷の笑い声があまりにも長く続くので、修嗣は苛立った。
すまない、と謝罪される。
「化学の安井先生から聞いたよ」神谷は同僚の名前を出した。「今日は、どこへ行っていたんだい?」
修嗣は背に汗が流れるのを感じた。
「いいえ」まっすぐに前を見る。「どこへも行っていません」
秒針は、忙しなく回る。
壁の向こうは、沈黙している。