三
修嗣は、母と協力して祖母を寝室へ運んだ。叔母は、買い出しを理由に出かけた。家を出るまでの数分間、文句を垂れる叔母に、母は逐一頭を下げていた。
年老いた祖母の体は干からびたように軽く、簡単に折れそうだった。修嗣が胴体を持ち、母が足を持った。
祖母の体は布団に入るとすぐに静かな寝息を立てた。
母は、安堵と疲労をない交ぜにしたため息を吐き、前妻の息子を見上げると、「ありがとう」と囁いた。
「ごめんなさい。また、貴方を巻き込んでしまって……」
「いや」修嗣は膝を曲げて、隣に座った。「正直、叔母さんの言うことにも一理ありますよ。もう、限界なんじゃないですか?」
八畳の寝室に家具はなく、床の間に錦木と黄色い小菊が生けられている。安全のため、花器は陶器ではなく竹だった。
「ええ、そうかもしれません。修嗣さんにも迷惑をかけっぱなしですからね……」
「僕のことはどうでもいいでしょう」彼は、露骨に顔を歪めた。「問題は祖母の体調です。あんな状態ではいつ倒れるか分かったものじゃない。いずれ死にますよ」
「ええ……」母はうつむいた。
今年に入ってから祖母は同じような発作を何度も起こしている。八十を過ぎた辺りから言動がおかしくなっていたものの、元来気性が激しく、誰も気にしなかった。しかし、ある朝、「秀樹さんに奪われる」と叫び、銀行通帳を持ち出すと、同じ夜に「奪われた!」と怒声を上げて、家中を引っかき回した。その時、ようやく家族全員が祖母の異変を知った。知った、というのは言い訳に近い。
彼女は、十五の孫を夫と思い込み、嫁を女中と錯覚している。
「分かりました。今晩、曹嗣さんとお話しします」
「あの人の答えはいつも同じですよ」
「どういうこと?」母は、首を傾げる。
「『恥ずかしいから、やめろ』」彼は、父親の口調を真似した。
そこで、母が黙り込んだので、修嗣は部屋を出た。
背後で襖が閉まると息を吐いた。頭がどんよりと重い。鞄を玄関に置いてきたことを思い出して廊下を戻る。すると、前から少女が駆けて来た。顎のラインで切り揃えられた髪が揺れている。
「兄さん、お帰りなさい」
紺のセーラーに白ラインが二本通り、赤色のリボンは絹で、スカートの襞は綺麗に糊付けされていた。こんなところにも、母の性格が表れている。
「何だ、沙也加」
妹のまん丸い瞳を見つめながら尋ねた。頭のはしで寝室にいる母を意識している。
「何、じゃないわよ。お祖母ちゃんが倒れたんでしょう。大丈夫なの?」
妹は眉を寄せて訝しげな顔をする。恐らく、叔母が大袈裟に脚色した話を聞かせたのだろう。
「いつものことじゃないか。今はもう眠っている」
「いつものことってなによ。うちへ帰ったら玄関が滅茶苦茶で、てっきり強盗でも入ったかと思ったわ。あのお花は、叔母さんが自信作だって言っていたのに」
「誰も怪我はしていない」
「それはそうだけど、そういうことじゃなくて……」
「心配なら顔を見てくるといい。僕はもう休みたいから、部屋へ行くよ」妹の言葉を遮って、修嗣は歩き出した。
「ちょっと……」
その時、腕を引かれる。思わず、足が滑りそうになった。
「ねえ。今日も神谷さん、うちへいらっしゃるそうよ」耳元で囁かれる。
「え?」修嗣は露骨に立ち止まった。
沙也加は微笑んでいる。化粧気のない顔なのに、唇だけがやけに紅い。血色のよい肌には、瑞々しい輝きがあった。祖母や叔母の皺だらけの肌とは比べものにならない。
「私は、数学を教えて貰おうと思うわ。今日出された宿題が、ぜんぜん分からないの」
「また数列?」
「今度は、微分」
「あんまり、神谷さんを困らせるなよ」
ふいと顔を背けると、沙也加は寝室へ入っていった。体をひねる際、ほんの一瞬接吻をされた。口と口がかすめる程度のものだった。妹の悪巧みは、日増しに大胆になっている。
修嗣は、しばらくその場に立ち止まり、右腕で口を拭った。