二
「修嗣さん」
女に名前を呼ばれ、叔母、と出かけた言葉を修嗣は慌てて飲み込んだ。
「ああ、英子さん……」
「今日も随分帰りが遅かったのねえ」
今年、五十を迎える叔母は、襟にレースの付いた上品なブラウスを着ていた。白い顔に引かれた口紅は赤く、大きな鉤鼻は明らかに父系の血を継いでいた。
「来年、受験でしょう。落ちたりしたら、また何を言われるか分かったものじゃないわよ」
英子は、腕を組んで甥の体を上から下まで眺める。修嗣は、人を剪定するような視線が嫌いだった。
「ええ、そうですね。遅くなって申し訳ありません。図書館へ寄っていました。部屋へ戻ったら、すぐに勉強をします」
英子は、ふうんと言って口角を上げる。
「まあ、真面目なのね。私はそう五月蝿いことを言いたくはないのよ。学生なんて、遊ぶための生き物だと思っているし」
「すみません。明日は早く帰ります」修嗣は曖昧に微笑んだ。
「その方が良いわ。御当主を心配させてはいけないわよ」
叔母は肩をすくめると、庭の奥へ歩いていった。灌木の隙間に池にかかった大理石の石橋が見える。先日、植えられた初雪葛がまるで花のように葉を染めていた。夕日が沈みこみ、修嗣は足下に落ちた濃い影を認めた。
叔母が語気を強めた「御当主」というのは、修嗣の父だ。父と、本来の当主がその場にいない限り、彼女は自身の兄をそう呼んだ。英子は、三年前に離婚した。原因は相手の不倫で、子供を置き去りに家を出ると、泣きながら「御当主」へ自身の不運を語り尽くし、瞬く間に市ノ瀬家へ住み着いた。
玄関へ向かう小径は、緩やかな曲線を描き、足下には化粧砂利が敷かれている。
戸を開けて、まず目に入るのは正面の飾り棚だ。今は、真っ赤な花が生けられている。こんな下品な原色を扱うのは叔母に違いない。修嗣は花に背を向け敷台に腰掛けると、二週間前に新調した革靴を脱ぐ。
すると、突然、激しい足音がした。
「あなた、一体何をしていたの! もうとっくに日が暮れているわよ!」
首だけを後ろに向けて、修嗣は固まった。両手は足下にある。
「今日が何の日かお忘れですか? どうせまた飲み屋で散在でもしてきたのでしょう、ええ? なんとか仰ったらどう?」
矢絣柄の袖を振り回しながら、老婆が大声でわめいていた。静脈の浮いた足を何度も床に打ち付ける。白粉をたっぷり塗った顔が、悪鬼のように歪んでいた。
女は、十年以上前に亡くなった自分の夫と、十五になったばかりの孫を混同している。
修嗣は密かに舌を打つ。祖母が眠っている間に自室へ戻るつもりだった。
「聞いているんですか? 私のことなんてどうでもいいんでしょう!」
一際大きな叫び声を発して、老女は飾り棚の花器を持ち上げた。桜湖焼の花器は、水も含めればかなり重いはずだ。
赤い花びらが降ってきた。
あの器を振り下ろされたら、自分はどうなるだろうと考える。
「お母様!」
その時、二人の間に高い声が割り込んできた。後ろ手に髪を束ねた女が、老女を押さえ込む。同時に、花器の割れる音が盛大に響いた。血の代わりに、赤い花が散らばる。
「何をするんだ、馬鹿野郎! たかが女中の分際で!」
老女は子供のように暴れている。女は必死でしがみついている。修嗣はそこでようやく役割を思い出し、押さえ込むのを手伝った。しばらくその状態が続くと、老女が力をなくしたので慌てて支えた。床には割れた器の切っ先が転がっている。
祖母は白目を剥いていた。
「大丈夫、修嗣さん……」
修嗣は黙って母に頷いた。老女の白い頭を床へ下ろす。
ため息が出た。
「あら、まあ。また派手にやったわねぇ」
振り返ると、叔母が戸にもたれかかっていた。実の母親が白目を剥いて倒れているというのに、まるで他人事のようだった。
「そろそろ本気で病院に入れることを考えた方が良いんじゃないの。眞由美さん」
「ええ、そうかもしれません。でも、私の一存ではとても。曹嗣さんと念入りに相談しませんと……」
母が消え入りそうな声を出す。長い睫毛がうやうやしく揺れていた。鼻筋の高さは修嗣と似ているが、二人に血の繋がりはない。
「相談するなら、早くした方がいいわ。貴女がしっかりしないでどうするの?」
「申し訳ありません……」眞由美は、割れた欠片を拾いながら頭を下げた。
はあ、と尊大なため息を吐くと、叔母はこちらへ近付いてきた。
「やっぱり、恵さんの方ができた人だったわ……、あなたときたら……」
「申し訳ありません」
「お祖母様が、いつ目を覚ますか分かりません」
修嗣は、努めて静かに声を出した。
二人の女を交互に眺める。
「寝室へ運びましょう」