一
黒い額縁の中で、夏の日を浴びた葉がまるで檸檬のような色をしていた。
ガラスのない窓枠に、僅かに残った破片も、今やすっかり変色して当初の輝きは見られない。
両腕に頭をのせて、市ノ瀬修嗣は目を開けた。
彼は、紺の詰め襟を着ている。今は、前を開けて楽にしていた。気候は安定し、暑くも寒くもない。時折、ゆるやかな風が頬をなでる。
ふと、腰を上げたとき、足下で水の跳ねるような音がした。見ると、藤色のタイルが粉々に割れている。このモザイク柄は、もともと何を描いていたのだろう。割れたタイルの隙間から、湿った土が窺えた。
床に転がっていた学生鞄を掴む。それは、いつもより重かった。修嗣は、図書室で借りたぶ厚い本を思い出す。
「帰ってから読もう」一人で呟いた。
同時に、今頃、学校では何をしているのだろうと考える。
腕時計は、二時を少し過ぎたところ。五時限目は、確か、化学だ。実験室で退屈そうな顔を並べた生徒らが、水を電気分解する様を想像する。H型試験管の中を漂う虹色の泡。修嗣は歩き出す。
灰色の壁に取り囲まれた室内は広く、床には雑多な物が落ちている。背もたれのない椅子、腐食した角材、時代遅れの黒電話、汚れたぬいぐるみ、瓦、雑誌、菓子の包装紙など、これらは、最近持ち込まれた物だ。夜中に忍び込んだ不届き者の仕業だろう。
たとえ見慣れた日用品であっても、ここにあると歪に思えた。
廊下の先に非常口の表示灯が転がっている。修嗣はわざとこれをまたいで進んだ。鳥の鳴き声が冗談のように聞こえる。
ここは、戦後名の売れた俳優や、政治家がこぞって休暇を過ごすような高級ホテルだった。しかし、立地条件の悪さに加え、富裕層以外を寄せ付けない料金設定は、景気の低迷によってあっという間に、高級志向から廃業の条件にすり替わった。一時、精神病院として転用されたこともあったようだが、職員が暴力事件を起こし、評判は地に落ち、経営者の医師は姿を消した。以来、この建物は誰の手も加えられていない。少なくとも、修嗣はそう思っている。
かつては食堂だった空間を抜ける。右手に間口の大きな玄関、左手に階段があった。修嗣は、出口の光に目を細め、階段を上っていく。錆びた手すりに枯れた夏蔦が張り付いている。
二階には、扉がずらりと並んでいた。簡単に開く部屋もあれば、頑丈に鍵のかかった部屋もある。通路のすみに黒い塊が落ちていた。強烈な異臭を感じ、それが犬の死骸だと気付いた。
一、二階の暗さに比べ、四階は明るい。床にゴミはなく、代わりに、天井から剥がれ落ちた塗装が雪のように敷かれている。窓ガラスはどれも黄ばんでいた。
かつて客がくつろぎ、患者が閉じこめられた部屋、看護師が足を鳴らしたナースステーション。
やけに静かな興奮が修嗣を取り巻いた。
両開きの扉は、ベランダに通じているようだ。外に出ると、日差しに目が眩んだ。建物は、中庭を取り囲んだ正四角形をしている。施工主がアールデコ風のデザインを好んだらしく、外壁は装飾が多く、彩りも豊かだ。
中庭には、放棄された木々が野放図に枝を伸ばしている。その隙間に暗闇がわだかまる。ベランダの柵は、ただの鉄棒で、一部は壊れ、斜めにぶら下がっている。
修嗣は、ゆっくりと穴へ近付く。
遠くで鳥の鳴き声が聞こえた。
今まで、どこで声を潜めていたのだろうと思う。
まるで中心に強力な磁場でも存在するように。
一歩、また一歩と。
修嗣は、穴の中へ顔を傾ける。