プロローグ 始まりの穴
目が覚めた時、僕はその場所に転がっていた。視界いっぱいに広がっているのは青。全く遮るもののないその青さは僕を引き込んで、そのまま呑み込んでしまいそうにも見えた。
まだ目が覚めたばかりなので、頭が回らない僕はひとまず身体を起こそうとしてみる。しかし、それはできないようだ。身体に力が入らない。仕方がないので首を回して辺りを見回す。
最初に視界の端に顔を出したのは緑。その次に茶色。そして緑。どうやら僕は木々に囲まれている草原で寝ていたらしい。
寝る前の記憶も曖昧だが、はっきりと断言できる事があった。この鼻を通り抜ける爽やかな草木の臭いや、前髪を揺らす優しい風を僕は、僕の住んでいた街では味わった事がない。
「…つまり、ここはどこさ?」
誰に問いかけるわけでもなく、眼前の空へと問いを投げかける。
「ここはエクリジア」
声のした方を向く。さっきまで眺めていた景色とは逆の景色の中にその声の主はいた。いたにはいたのだが…。
「あの顔が見えないのでこっちを向いてくんない?」
「いや」
僕と反対方向を向いていたので、髪の毛しか見えない。その髪は短くもなく、長くもないような。そんな長さだった。まあ、セミロングって表現でいいんじゃないかな? 僕はその辺の知識はないので名称に自信はない。でも、この髪の長さは男にはない長さではある。
それにしてもなんでこっちを向いてくれないのだろうか。
「まあ、いっか。で、エクリジアってどこ?」
「…地図と水とローブ」
声の主はやっぱり此方を向かずに、そのままの姿勢で僕の足元を指差した。
「それさえあればいい」
そう言い残すともう用はないと言わんばかりに立ちあがる。立ち上がった瞬間布がふわりと浮く。
「あっ、女の子だったんだね、やっぱり」
声と髪の長さで予想はしていたが、それが確信に変わった。
「見えそうで見えない」
何がかは明言しないでおこうと思う。それが僕のためであり、彼女のためでもある。しかし、さっきの発言をした時点でアウトだったかもしれない。
「健闘を祈る。…三号」
「?」
すると彼女の姿は霧のように揺れ出し、そして景色に溶け込むように霧散していった。
その様子をたぶん間の抜けた顔で見ていただろう僕は起き上る。さっき動かなかった身体は、今は糸を張り直したマリオネットの様にスルッと動きだす。さっきまで動かなかったのが嘘みたいだった。
「と、取りあえず状況を確認しないと。ええと、あのこはここがエクリジアって言ってたような気がするけど…」
生まれて此の方聞いたことないよそんな地名。外国かな? ヨーロッパ当たりならありそうだけど…。
場所を確かめるため彼女が指差した方に置いてった地図を手に取る。そこには見慣れた日本地図が描かれていた。
「なんだ? あのこ、置いていく地図間違えたなぁ。ははは。結構おっちょこちょいなんだな」
と言いつつ地図をよく見る僕。その地図にどこか違和感を感じた。
「ええと、エクリジア、エクリジアっと。あ、あった。な~んだ、エクリジアって日本の地名なんだ~。…って九州やないか!」
いきなりすぎてえせ関西弁が出てしまったけど、なんだこの地図は。よく見たら九州の上に大きく『エクリジア王国』と書かれているではないか。それだけではなく、そのほかの細かい地名も変わった聞いた事のないものになっていた。
「い、いたずらか?」
少し冷静になってみる僕。よく考えてみたらおかしい事ばかりだ。寝る前まで、僕は普通の日本にいたわけで…。起きてみたらそこはエクリジアとか言う名前の九州だったなんて事はありえない。うん。ありえる事ではない。
そう考える僕を取り囲んでいる景色はなんだか優しくない気がする。
「そうだよ。あのこのいたずらだよ。このよくできた地図もいたず…って本当によくできてるなぁ、これ。この地図、皮で出来てるよ。すげー。手が込んでるなぁ~」
ははは、と笑いながら立ち上がり辺りを見回すと辺り一面に草原が広がっていた。背の高い草の向こうに整備された土の道が見えるが、それは近代の町に相応しくない道だった。
「あ、あれ~。九州にもビルとか建物いっぱいあるよね。ど、どこ行ったのかな~」
遮るもののない空は建物がない事を僕に見せつけている。
動かない事には解決も何もないだろう。地図と一緒にあったローブをまとう。革袋に入っている水を少し口に含んでから、さっき見えた道へと出る。
道は均してあるので人の手が加わっている事は明白だ。だが、街灯もないし僕が住んでいた町と違って田舎なのかもしれない。…そうであってほしい。本当にここがエクリジアとかいう変な所だったら僕はどうすればいいのだろうか。
「いやいや、ありえないよ」
そうだよね~、と自己完結をして歩き出す。しばらく歩くとなにやら人がいそうな建物が見えてきた。
「そうだよ。こういうのが見たかったんだよ」
その木造やレンガ造りの古風な建物たちは中世をイメージさせるものだった。その集落を囲むように壁があり、その壁の外側には田畑が広がっている。
「…田舎ってこんな風になってるんだな~」
僕は生まれも育ちも都会だ。たまに祖父母の家に遊びに行く事はあったけど、こんな感じじゃなかったような…。
不安になってきたけど、虎穴に入らないと得るものはないわけで…。僕はその集落に向かって歩き出した。
「おい、そこの君」
集落の入口付近にて、僕は呼び止められた。声から察するに女の子だろう。そう思ってその方向を向く。
しかし、そこには誰もいなかった。視界を左右に振って周辺も確かめるが、誰かいる様子もなく、見つける事は出来なかった。
「あれ? おかしいな。こっちから聞こえた気がしたんだけど…」
「その通りだ。こっちだ」
また声が聞こえた。方向はあっているみたいだけど、やっぱり僕の視界に入ってこない。まさか、透明人間なのか? いやいや。そんなのがいるわけないじゃないですか。そんなのがいたのなら、わざわざ自分の居場所を明かすわけがないからね。
「下を見てくれ」
「下?」
下の方を向く。そこには声の主であろう女の子の…
「生首っ!」
生首だった。しかし、血溜まりはない。
「違う! 私は死んでなどいない。しかし、今は死にたいと思うほど恥ずかしい思いをしているのは事実だ」
目の前の女の子の生首は死んでいないと主張してくる。しかし、どう見たって生首だ。けれど生首と地面の接するであろう部分をよく見ると首は地面に接しておらず、溝になっていた。
「あれ、生首じゃない。じゃあその溝は?」
溝という表現に疑問符を浮かべているが、少し考えた後に僕の言いたい事が分かったようだった。
「これは穴だ」
「穴?」
溝ではなく穴だったらしい。そーか。穴と身体に挟まれていたので溝に見えたんだろう。そしたらなんで底が見えるんだろうか?
…はっ! あれか! アレなのか! あれがアレでああなって穴の壁と挟まってそこに見えたのだろう。
「大きいな!」
「いや、小さいからこうして動けなくなっているのだが…」
「?」
「?」
何かかみ合ってない気がするけど、誤解を解いたら解いたで酷い目に遭いそうだからやめておこうと思う。そうする事が僕のためであり彼女のためでもあるのだから…。
「で、何でそんな穴に入っているの?」
腕すら穴の中にすっぽりはまっているので抜けだそうにも動けない。
「べ、別に深い理由があったわけではないのだが、ただ少し…ボーとしていて」
「ボーっとしてたらはまったの? ドジだねぇ」
穴に落ちるのはともかくとして、そんなちょうどいい穴にすっぽりとはまるのがすごいと思う。これは天性の才能、まさに神が与えたドジ!
…いや、確かに自分でも言い過ぎた感じはしたけど、あながちまちがいでもない気がする。穴だけに!
「わ、私はドジなどではない! ただ、この落とし穴が優秀だったのだ! 私ぴったりの大きさに調節されているし、巧妙に隠されていたのだから仕方ないだろ!」
赤くなりながら必死に反論してくる。何だこの生き物。可愛い! 生まれていままで見た事もないぞ。
僕は感動で彼女を見つめていたが、そんなことするよりまず助けろよ、という突っ込みが客観視している自分からきた。それもそうだ。いつまでも彼女をこの状態のまま話すのはいかがなものかと…。
「と、とにかく助けるね」
「助かる」
さて、助けるために手を差し出したものの相手からの反応がない。僕の手のひらを撫でる風が冷たく、僕を虚しくさせる。あれ? 僕の手、そんなに汚いかな? 握りたくないくらい汚いのかな。
「ぐすん」
「なにか勘違いをしているようだが、今の私は手が出せない状態だからな」
ああ、なるほど。僕の手が臭いとかそういう理由じゃなくて、ただ手が動かせないだけなのか。良かった。
それはいいんだけど…。
「僕はどこを引っ張ればいいの?」
彼女は穴にすっぽり入っているわけだし、持つ場所なんて地面から出ている首から上しか選択肢がない。しかし、首を絞めると危ないし、頭を掴むにしても女の子の頭を鷲掴みにする絵面はとてもじゃないけどいいものとはいえない。もし、僕がそんな奴を見かけたらどん引きするだろう。
「うむ。そう言われると困るな…。手は出せないから…。そうだ!」
彼女は何かを思いついたように頭を上げる。
「手を穴に突っ込んで私の胴体をもってくれればいい!」
そうか。そうすれば持ち上げる事ができるのか。
「よしわかった。じゃあ、いくよ!」
って、待てよ? これは意外ときわどいんじゃないか? そう。何がきわどいってそれはボディータッチの話だよ!
さっき確認した通り、大きい。つまりそれ、アクシデントの可能性が高くなるってことだ!
「事故なら仕方ない!」
「まあ、私が落ちたのは事故だな」
うんうんと頷く彼女。全くそんな意図はないんだけど、それでいいと思う。
「それじゃあいくよ」
しゃがみ込んで彼女のはまっている穴に手を突っ込む。流石、彼女とぴったりの穴だけあって、何かと手に当たってくる。土とかアレとか…。
いやそれはいい。ひとまずおいとこうぞ。それよりどう持てばいいんだ? 腕の上からだと持ちづらいから、やっぱり脇の下に手を入れるんだろうな。
「(こ、この圧迫感っ!)うおおおおおおおおお!」
がっちりと持ち、僕は彼女を引き抜くために踏ん張っている腰に力を入れた。
〝ボコッ〟
「ボコッ?」
そんな効果音がしたなぁ~、と思っていたら僕の立っていた足場が崩れた。
「「あっ」」
そのまま流れるようにして、僕と彼女は一つの穴にぴったりはまってしまった。
「状況が悪化してしまった気がするのだが?」
「そ、そうだね~」
このある意味最高な状況を楽しむほどの余裕はなく。ただただ、僕はこの娘との気まずい感じから逃げるように空を仰ぎ見る。
きれいな空はまだ続く。その青い空を見ているとどうにも心が落ち着く。その青の中を泳ぐように何か黒いものが通り過ぎていく。
それは都会ではまったく珍しい光景ではない。毎日頭上を飛行機が通り抜ける事は日常だ。
「(いや、でもアレなんか違うな…)」
影は似ている。飛行機のそれと大差はないのだが…。
「羽が動いている?」
「む、どうした。何かいるのか?」
僕が見ている空の一点を彼女も見つけ驚きの声を上げる。
「ドラゴンが降りてきた? 最近は籠っていたのにこの時期にどうして…」
ドラゴン? はて? この人は何を言っているのだろう。最近は籠っていただって? まるでドラゴンの存在を以前から認識していたみたいじゃないか。
「早く村長に知らせなければっ!」
「ちょ、ちょっといい?」
なにやら焦っている様子の穴にはまっている彼女に呼びかける。いままで引っかかっていた事。その薄く霧の様にもやもやしていたものがだんだんとはっきり見えるようになって来て、僕の中で無視できないほどの大きさの疑問符を作っていた。
「束の事をお聞きしますが…」
日本人とも思えないきれいな色の目をしている目の前の女の子に質問をぶつける。
「ここはどこでしょうか?」
この質問の答えでいろいろと状況が読めるのだ。さっきの地図の九州のあたりに位置していると仮定しても、それはそれでおかしい。僕の住んでいる場所は本州だ。寝て起きて九州に居ますと言われるのもありえない事象のひとつである事は重々承知。だがしかし、まだ日本だ。僕が居たとされる世界の場所であることに変わりはない。
…問題はもう一つの可能性だ。ドラゴンがいる。その事に驚きはするものの、存在自体を驚いたわけではない住民がいる。それが意味する事は…
「ここはエクリジア王国のメリスだが?」
僕が今、別次元の世界にいるという事だ。
閲覧ありがとうございます
本作は読みやすいように字数を少なめにして区切っていこうと思います
今回はプロローグで、次回から本編となります
次回もよろしくお願いします