生活その1 出発
銀さんが家に訪れた。俺は彼の姿を見て、目を疑った。
「どうした? どこか変か?」
銀さんは不思議と冷静だったが、俺は呆然としていた。それもそのはずであろう。彼の服装はおかしかった。
上は、白いタンクトップ。下は短パン。靴下は履かず、素足で下駄を履いていた。
別に夏の服装としてはおかしくはないが、キャンプに行く服装としてはおかしすぎである。
「銀さん、本当にその格好で行くんですか?」
「当たり前だろ。俺はこれで最高な服装なのだ」
そう言って、銀さんは自信ありげに胸を叩いた。
「銀さんがいいなら、別にいいんですけど。で、どこへ行くんですか?」
「まぁ、いいからついてきなさい」
何十キロ歩いただろうか。もう空は夕日の色に染まっていた。
「ここだ」
息を切らした俺に、銀さんが言った。彼が指差す方向を見た俺は、その恐ろしい風景に息を飲んだ。
目の前には、数メートル先も見えないほどの闇に閉ざされた林が広がり、視線を少し上げると、大きな山が聳え立っている。
その山の周りには、得体の知れない鳥(蝙蝠か?)が数えられないほど飛び交っている。
「本気でここでキャンプするんですか!? 絶対魔物が住んでますよ!」
「だからこそいいのだ! 男を磨くためにも魔物は重要だ! 君がいかないのなら某が一人で行く! 怖いのなら帰ればいい!」
俺は一瞬銀さんをぶん殴ってやろうと思った。
彼のその言い方は俺を明らかに見下していた。
きっと銀さんの中で俺は弱い人間になっている。
馬鹿にしているに違いない。
俺は銀さんを見返してやりたいと思った。
だが、それとこれとは別の話だ。
「それではお言葉に甘えて失礼しま……」
「待ちなさい!」
そう言って銀さんは、帰ろうとする俺の腕を掴んだ。
「放してくださいよ! マジ帰ります! こんなとこで死にたくない!」
「俺だって怖いよ! だからここまで君を連れてきたんだ!」
「え!?」
強制イベント発生である。
銀さんは無理矢理俺を連れて、闇の世界へと踏み入れていった。
見る物全てが悪魔に見えるようなその闇の中で、俺は銀さんの姿を見失わぬように目を凝らして進んでいた。
得体の知れない生物の甲高い鳴き声がする中で、カランコロンと銀さんの下駄の音がミスマッチさを演出していた。
何度か隙を見ては逃げようとしていたのだが、その度に銀さんに捕獲され、今ではその気すら無くなってしまった。
いや、正確には無くすしかなくなっていた。
もう俺が来た道は闇で覆われて、出口がわからないほどだった。
「銀さん、どこでキャンプするんですか? 出来れば明るいところでキャンプしたいんですが……」
俺は自分の頭上に目をやりながらそう言った。
闇を作り出しているのは、空を隠すほどに伸びた数万もの木の枝の集合体であった。
「いいか、最初に言っておくが、某だってこの林を理解していない。ただ、この先に広場があるらしくて、そこで綺麗な夜空が拝めるらしいぞ」
俺は、銀さんの他人から聞いたそのままのようなその言葉に疑問を持ち、誰から聞いたか質問した。
「某の友人にサバイバル生活が好きな奴がいて、そいつから聞いたんだ」
「そうなんですか。ならその人に来てもらえば……」
心強かったのに。そう続けようとしたのだが、俺の目に、身体が凍るほどの恐ろしさを表現した看板が現れたため、恐怖で言葉が続かなかった。
『危険! 野生の熊が必ず出ます! 速やかに退避してください!』
それ自体はきっとよくある看板だ。森の奥地に入らないようにと警告する看板だから。
しかし、普通とは明らかに異なっていそうな箇所が二つ発見できた。報告しよう。
一、何かが熊に襲われている絵だと思うのだが、その襲われている何かの絵を、目を凝らして見るとやっと人の絵だとわかるくらい見えにくくなっていること。
まぁ、こんな場所にある看板なのだから、湿気や何かで見えなくなるのも納得してしまう。
別にそれ自体は問題はない。ただ問題は二つ目である。
二、縦四十センチ、横三十センチ位のベニヤ板で製造されたその看板の至る所に、どうやら熊の爪跡らしい傷が付いていたこと。
それによって熊に襲われている何かの絵が見えにくくなっていること。
これが問題である。
「銀さん……どう見てもこれ、熊が引っ掻いた跡ですよね? 看板にも逃げろって書いてあるし、本当に逃げましょうよ」
馬鹿だな~。と言って、銀さんが話し始めた。
「こんな看板を見ただけでそんなに怖がるなよ。もし熊が出てきたとしても、某を恐れて、熊が逃げ出したことがあるし、大丈夫だ」
銀さんは誇らしげに自分の力瘤を見せ付けた。俺は少し安堵した。
確かにそうだ。
銀さんはただの人間ではない。腕力には自信があるし、無類の格闘マスターだし。
きっと大丈夫だろう。
「信じていいんですね?」
「あぁ!」
それ以上、二人の間に言葉は必要無かった。俺は銀さんとがっちりと握手をして、前進した。
もう怖くはない。この銀さんがいれば。




