崖から突き落とされ死んだはずの私は、大公さまに拾われ生きていました 〜妹と元婚約者の結婚式に、その大公の腕で現れたら、二人の栄華が音を立てて崩れました〜
一
冷たい風が、頬を撫でた。眼下には、底の見えない、暗い谷が口を開けている。
「ごめんなさいね、お姉さま。でも、あなたが邪魔なの」
異母妹のロザリンドが、可憐に微笑んだ。その隣には、婚約者だったはずの王太子ヴィルフリートが、冷たい目で、わたくしを見下ろしている。
「エレノア。お前のような、面白みのない女は、妃にふさわしくない。ロザリンドこそが、私の隣に立つべき女だ」
わたくしは、二人を、信じられない思いで見つめた。
公爵家の正妻の娘として生まれ、王太子の婚約者として育てられてきた。ロザリンドは、父が外に作った娘。それでも、妹として、大切にしてきたつもりだった。ヴィルフリートのことも、心から慕っていた。
なのに、この二人は。
「安心して。お姉さまが亡きあと、公爵家も、王太子妃の座も、わたくしがぜんぶ、もらってあげるから」
ロザリンドの手が、わたくしの背を、強く押した。
視界が、反転する。宙に投げ出された体が、暗い谷底へと、落ちていく。二人の勝ち誇った笑みが、遠ざかっていく。
(ああ、わたくしは、ここで死ぬのね)
冷たい水と、砕けるような衝撃。意識が、急速に、闇へと沈んでいく。
薄れゆく最後の瞬間、わたくしは、ただ、悔しかった。信じた者に裏切られ、何もできぬまま、命を奪われる。それが、悔しくて、悲しくて。
――そこで、わたくしの意識は、途切れた。
けれど、わたくしは、死ななかった。
次に目を覚ましたとき、わたくしは、見知らぬ屋敷の、暖かな寝台の上にいた。
「気がついたか」
低く、静かな声。傍らに、一人の男が座っていた。
夜のように深い黒髪。血のように赤い瞳。冷たく整った、けれど、どこか凄絶な美貌。まとう空気だけで、部屋の空気を震わせるような、圧倒的な存在感。
「あなたは……?」
「ライハルト・アッシュフォード」男は、静かに答えた。「谷底で、瀕死のお前を拾った者だ」
灰燼の大公ライハルト。その名を、わたくしは、知っていた。帝国最強と畏れられ、王家すら平伏す、絶対の実力者。滅多に人前に姿を現さぬ、伝説の男。
その人が、なぜ、わたくしを。
二
大公ライハルトは、瀕死だったわたくしを、自らの手で、治してくれた。
砕けた骨を癒す高名な医者を呼び、昼夜を問わず、わたくしの容態を気にかけた。目を覚ましたばかりの頃、うなされるわたくしのそばに、彼はいつも、静かに座っていた。
「なぜ、ここまで、してくださるのですか」
回復したわたくしが問うと、ライハルトは、少しだけ、目をそらした。
「……気まぐれだ」ぶっきらぼうに、彼は言った。「谷底に落ちてなお、生きようとする目をしていた。放っておけなかった。それだけだ」
けれど、それが気まぐれなどでないことは、日を追うごとに、わかっていった。
彼は、多くを語らない。冷徹で、無愛想で、周囲の者は皆、彼を恐れていた。けれど、わたくしに向ける眼差しだけは、驚くほど、優しかった。
わたくしが本の話をすれば、静かに耳を傾けた。庭を歩きたいと言えば、自ら手を引いてくれた。悪夢にうなされた夜には、朝までそばにいてくれた。
そして、いつしか、わたくしもまた、この不器用な男に、強く惹かれていた。
「エレノア」
ある夜、ライハルトが、めずらしく、ためらいがちに口を開いた。「お前を谷底で見つけたとき、俺は、生まれて初めて、祈った。どうか、死なないでくれ、と。……理由は、わからなかった。だが、今なら、わかる」
彼の赤い瞳が、まっすぐに、わたくしを捉える。
「俺は、お前を、失いたくない。この命に代えても、守りたい。――お前が、いとおしくて、たまらないのだ」
その言葉に、わたくしの胸は、熱くなった。
信じた者に裏切られ、命まで奪われかけた、わたくし。もう、誰も信じられないと、思っていた。けれど、この人は。血のつながりも、義理もない、ただ谷底で拾っただけのわたくしを、こんなにも、大切にしてくれる。
「わたくしも、ライハルトさまを……」
言いかけたわたくしを、彼は、そっと、腕の中に抱き寄せた。壊れ物を扱うように、けれど、決して離すまいと。
こうして、わたくしは、大公の屋敷で、新しい日々を、歩み始めた。
けれど、穏やかな時間の裏で、わたくしは、外の世界の報せを、静かに集めていた。
そして、二年が過ぎた頃。ある報せが、わたくしの耳に、届いた。
三
「妹のロザリンドが、公爵家を継ぎ、王太子ヴィルフリートと、結婚する……」
その報せを聞いて、わたくしは、静かに、こぶしを握った。
わたくしを崖から突き落とした、あの二人。わたくしの死をいいことに、ロザリンドは、公爵家の跡目と、王太子妃の座を、まんまと奪ったのだ。そして今、栄華の絶頂で、盛大な結婚式を挙げようとしている。
わたくしという、正当な後継者を、亡き者にして。
「行くのか」
わたくしの様子を見て、ライハルトが、静かに問うた。
「はい」わたくしは、迷いなく頷いた。「あの二人に、生きて、会いに行きます。奪われたものを、取り返すために」
「危険だ。相手は、王家だぞ」
「わかっています。それでも、行かなければ」わたくしは、まっすぐに、彼を見た。「泣き寝入りしたまま、死んだことにされて終わるなど、耐えられませんもの」
ライハルトは、しばらく、わたくしを見つめていた。それから、ふ、と、口の端を上げた。
「いい目だ」彼は、静かに言った。「ならば、俺も行こう。――お前を害した者たちが、どんな顔をするか。見物だからな」
わたくしは、驚いた。「よろしいのですか。あなたの立場に、傷がつくかも……」
「傷?」ライハルトは、冷たく笑った。「俺の番を害した者たちを、この手で報いてやる。それの、どこが傷になる」
彼は、そっと、わたくしの頬に触れた。その赤い瞳の奥に、静かな、けれど、凍てつくような怒りが、燃えていた。
「エレノア。お前を谷底に落とした二年前から、俺の中では、ずっと、決まっていた。――お前を傷つけた者は、決して、赦さぬ、と」
そして、結婚式の日が、訪れた。
王城の大聖堂には、大陸中の貴族が集い、着飾って、二人の門出を祝おうとしていた。
祭壇の前には、純白のドレスをまとったロザリンドと、王太子ヴィルフリート。二人は、勝ち誇ったように、微笑み合っている。
その、荘厳な誓いの言葉が、始まろうとした、まさにそのとき。
大聖堂の、重い扉が、音を立てて、開いた。
四
差し込む光を背に、わたくしは、ゆっくりと、大聖堂へ足を踏み入れた。
ライハルトの腕に、そっと手を添えて。
「ごきげんよう。お二人とも」
わたくしが声を上げると、大聖堂中の視線が、一斉に、こちらへ集まった。そして、祭壇の前の二人の顔が――凍りついた。
「え……エレノア……!? な、なぜ……!」
ロザリンドの顔から、みるみる、血の気が引いていく。ヴィルフリートも、幽霊でも見たかのように、わたくしを凝視していた。
「まさか、わたくしが生きているとは、思わなかったでしょう?」わたくしは、静かに微笑んだ。「ええ、そうですわね。だって、あなた方は、わたくしを崖から突き落として、殺したつもりでいたのですから」
大聖堂が、どよめいた。
「な、何を、世迷い言を!」ヴィルフリートが、慌てて叫んだ。「エレノアは、事故で谷に落ちたのだ! 私たちは、関係ない!」
「事故、ですか」わたくしは、冷ややかに言った。「では、なぜ、あの日、あの場所に、お二人がいたのでしょうね。証人も、証拠も、揃っておりますのよ」
わたくしは、この二年、ライハルトの力を借りて、あの日の真実を、丹念に集めていた。二人が事前に交わした密談の記録。崖の下で、わたくしを捜さぬよう、口止めされた従者たちの証言。すべてを、この日のために。
「そんな……そんなの、嘘よ! この女が、勝手に……!」
取り乱すロザリンドの前に、一つの、圧倒的な影が、進み出た。
ライハルトだった。
彼が一歩踏み出すだけで、大聖堂の空気が、ずしりと重くなる。灰燼の大公。その名と姿を認めた貴族たちが、恐怖に、息を呑んだ。
「灰燼の、大公……!? なぜ、あなたが、ここに……!」
「この女は」ライハルトは、静かに、けれど絶対的な声で言った。「俺が谷底で拾い、二年、守り抜いた、俺の唯一だ。――そのエレノアを、貴様らは、殺そうとした」
彼の赤い瞳が、氷のように、二人を射抜く。
「王太子ヴィルフリート。そして、ロザリンド嬢。貴様らの罪は、殺人未遂。しかも、次期公爵家当主と、王太子妃の座を、不正に簒奪した。――この意味が、わかるか」
大聖堂に、絶対的な威圧が、満ちた。
五
「証拠は、すでに、帝国と王家の双方に、提出済みだ」
ライハルトは、冷たく、告げた。「王家も、これほどの醜聞を、揉み消すことはできまい。ましてや、俺が動いている以上、な」
その一言で、王太子ヴィルフリートは、崩れ落ちた。
灰燼の大公が、正式に動く。それは、王家すら、抗えぬということだった。帝国最強と畏れられる男が、殺人未遂の証拠を握り、被害者を守っている。この結末は、もはや、覆しようがなかった。
「ま、待ってくれ、エレノア!」ヴィルフリートが、必死に、わたくしに縋った。「悪かった! すべて、ロザリンドに、そそのかされたのだ! 私は、本当は、お前を……!」
「今さら、ですわ」わたくしは、静かに、彼を見下ろした。
「あなたは、わたくしを、面白みのない女だと切り捨て、崖から突き落とした。婚約者だった、このわたくしを。――その言葉も、その手の感触も、わたくしは、生涯、忘れません」
「ち、違う、ロザリンドが……!」
「わ、わたくしのせいにしないで!」ロザリンドが、金切り声を上げた。「あなたも、一緒に、お姉さまを突き落としたじゃない!」
醜く責任をなすりつけ合う二人を、貴族たちが、侮蔑の目で見ていた。栄華の絶頂にいたはずの黄金の二人は、今や、殺人未遂の罪人として、その正体を、白日の下に晒されていた。
後に、二人は、それぞれの罪を裁かれた。ヴィルフリートは廃嫡され、王位継承権を剥奪された。ロザリンドは、簒奪の罪で、すべての身分を失った。奪ったものは、一つ残らず、彼らの手から、こぼれ落ちていった。
そして、公爵家の正当な後継者として、わたくしの名誉は、回復された。
けれど、それは、もう、わたくしにとって、二の次だった。
「エレノア」
騒動が収まったあと、ライハルトが、そっと、わたくしの肩を抱いた。「怖くは、なかったか」
「いいえ」わたくしは、首を振って、微笑んだ。「あなたが、隣にいてくださいましたから」
彼の赤い瞳が、これまで見たことのないほど、優しく、和らいだ。
「一つ、言っておかねばならないことがある」ライハルトが、静かに言った。「お前が、あの二年、悪夢にうなされる夜。俺は、いつも、思っていた。お前を傷つけた者を、この手で、必ず報いてやる、と。――だが、本当は、それだけでは、なかった」
彼は、まっすぐに、わたくしを見つめた。
「俺は、ただ、お前が、笑ってくれる日を、待っていた。復讐のためではなく、お前が、心から、幸せになるために。――エレノア。もう、過去に縛られなくていい。これからは、俺の隣で、笑っていてくれ」
その言葉に、わたくしは、こみ上げる涙を、こらえきれなかった。
終
大公の屋敷へ帰る馬車の中で、わたくしは、窓の外を流れる景色を、静かに眺めていた。
「未練は、あるか」ライハルトが、ふと問うた。「公爵家にも、王太子妃の座にも、お前は、戻ろうと思えば、戻れる」
わたくしは、少し考えて、首を振った。
「いいえ、少しも。奪われたものを取り返しに行きましたけれど……本当に取り戻したかったのは、地位でも、名誉でもなかったのだと、今なら、わかります」
わたくしは、隣に座る彼を、見上げた。
「わたくしが取り戻したかったのは、自分の人生を、自分の足で歩く、その誇り。信じた者に裏切られ、なすすべもなく死んでいく――そんな結末を、断じて認めない、という意地でした」
「取り戻せたな」ライハルトが、静かに言った。「見事に」
「ええ。あなたのおかげで」わたくしは、微笑んだ。「あなたが拾ってくださらなければ、わたくしは、あの谷底で、終わっていました。……あなたは、わたくしの命の恩人であり、そして、今は」
言葉に詰まったわたくしを、ライハルトが、そっと、抱き寄せた。血のように赤い瞳が、今は、燃えるような熱を、湛えていた。
「エレノア。生涯、俺の隣にいてくれ。もう二度と、お前を、誰にも傷つけさせない。この命に代えても、お前を、守り抜く」
「はい」わたくしは、彼の胸に、頬を寄せた。「喜んで。――ずっと、あなたのおそばに」
馬車の窓の外を、暮れゆく空が、茜色に染めていく。
二年前、わたくしは、信じた者に裏切られ、崖から突き落とされて、死んだはずだった。すべてを奪われ、なかったことにされて。
けれど、違ったのだ。
あの谷底は、終わりではなかった。むしろ、本当の人生の、始まりだった。
もし、あのまま王太子妃になっていたら。わたくしは、上辺だけの幸福の中で、この人にも、本物の愛にも、出会えぬまま、生きていたのだろう。
崖から、突き落とされて。すべてを、失って。
それでも――いいえ、だからこそ、わたくしは、たどり着けた。
わたくしを、命がけで拾い上げ、この世の何より大切に愛してくれる、たった一人の、この人のもとへ。
(了)




