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婚約破棄してくれて、ありがとう。準備は三ヶ月前から整っていました  作者: 銀月ソフィ


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第九話 「ずいぶん遅かったわね、カイ」

広間に、静けさが戻っていた。


 殿下が去った。

 エルメラが去った。

 国王夫妻は上座に残っていたけれど、扈従たちと何か話していて、こちらには向いていない。


 貴族たちは、少しずつ動き始めていた。

 囁き合い、顔を見合わせ、それぞれの解釈でこの夜を整理しようとしている。


 私はその中に立っていた。


 扇を持ったまま。

 背筋を伸ばしたまま。

 微笑みを保ったまま。


 ——少しだけ疲れた、と思った。

 さっきカイに言ったことは、本当のことだった。



「アリシア嬢」


 カイが、また言った。


「少し、よろしいですか」


 私は振り返った。


 十年ぶりに、ちゃんと正面から見た顔だ。

 子どもの頃の面影が、どこかに残っている。

 でも今は、あの頃より——ずっと静かな目をしている。


「……ええ」


 私は答えた。


「よろしくてよ」



 カイが、広間の端へ向かって歩き始めた。

 人が少ない方へ。

 喧騒から、少し離れた方へ。


 私はその後に続いた。


 父が遠くで、老侯爵と話しているのが見えた。

 視線が合って、父がかすかに頷いた。


 行ってこい、という顔だった。


 ——父は、知っているのかもしれない。

 カイのことを。

 十年前のことを。


 いつか聞いてみようと思いながら、今夜は聞かないことにした。



 広間の端、窓際に出た。


 外は暗い。

 王宮の庭に、篝火がいくつか灯っているのが見える。

 その光が、窓越しに落ちて、床に模様を作っていた。


 カイが、窓の外を見ながら言った。


「お見事でした」


「……ありがとうございます」


「三ヶ月、ですか」


「はい」


 カイが、少し間を置いた。


「私が王都に戻ったのは、四ヶ月前です」


 私は、その言葉を聞いた。


「辺境から呼び戻されて——色々と、調べておりました」


「何を、ですか」


「殿下の動向を」


 カイが、窓から視線を外して、こちらを見た。


「アリシアが、危ない立場に置かれていると——そういう話が、耳に入ったので」


 私は、少し考えた。


「誰から、ですか」


「あなたの父上から、手紙をいただきました。四ヶ月前に」


 ——父が。


 私は視線を、遠くの父の背中へ向けた。


 父はまだ老侯爵と話していた。

 こちらを見ていない。


 四ヶ月前。

 私がまだ、全部一人でやろうとしていた頃だ。


「父が、あなたに連絡を」


「はい。ただ、私が動けば殿下に気づかれる恐れがあるとも書いてありました。

 だから今夜まで、ただ見ていました」


 見ていた。


 今夜ずっと——壁際で、腕を組んで、ただ見ていた。


「……そうだったのですか」


「アリシアが声をかけてこなかったので、余計なことはしないようにしました」


 私は、少し笑った。


「声をかけたら、どうするつもりでしたか」


「手伝いました」


「必要ありませんでしたわ」


「知っています」


 カイが、また窓の外を見た。


「あなたは——昔から、一人でやる人でしたから」


 昔から。


 その言葉が、少しだけ、胸の奥に触れた。


 十年前。

 私は九歳で、カイは十二歳だった。

 父の仕事の関係で、ヴァルナー領に滞在した、三ヶ月間。


 あの頃から——カイは、私のことを見ていたのだろうか。



「一つ、聞いてもいいですか」


 カイが言った。


「どうぞ」


「あの書状」


 私は、少し身構えた。


「宿泊記録の話ですか」


「いいえ」


 カイが、こちらを向いた。


「もう一通、存在するはずです」


 広間の喧騒が、遠くで続いている。

 篝火の光が、窓の向こうで揺れている。


 私は、カイを見た。


 カイは、私を見ていた。


 ——この人は、どこまで知っているのだろう。


「……さあ」


 私は、扇を少し上げた。


「何のことかしら」


「アリシア」


 カイが、私の名前を呼んだ。


 名前だけで。

 敬称なしで。

 十年ぶりに。


 私は扇を止めた。


「……それを、許可した覚えはありませんわ」


「では、許可をいただけますか」


 静かな声だった。

 急かさない。

 ただ、真っ直ぐに。


 私は少し考えた。


 断る理由が、見つからなかった。


「……ええ」


 私は答えた。


「よろしくてよ、カイ」


 カイが、手を差し出した。


 白い手袋をした、大きな手だ。

 エスコートを申し出る、貴族の所作。


 私はその手を、少しだけ見た。


 受け取ったら——この夜が、終わる。

 完全に、終わる。


 終わっていいのだ、とわかっている。


 全部、終わった。

 準備していたものは全部使った。

 殿下は去った。

 エルメラは崩れた。

 公爵家の刃は、ちゃんと届いた。


 それでも。


「ずいぶん遅かったわね」


 私は、言った。


 カイが、少しだけ目を細めた。


「……申し訳ありません」


「十年ですわよ」


「知っています」


「それだけですか」


「今更、何を言っても言い訳になるので」


 私は、少し笑った。


 笑うつもりではなかった。

 でも——なぜか、笑えた。


 今夜初めて、本当に笑えた気がした。


「……そうですわね」


 私は、カイの手を取った。


 白い手袋越しに、温かかった。


 カイが、静かに歩き始めた。

 広間の出口へ向かって。


 私はその隣を、歩いた。


 貴族たちの視線が、また集まってくる。

 でも今度は——違う種類の視線だ。

 断罪される者を見る目ではない。


 どちらかというと——物語の終わりを見送る目だ。


 老侯爵が、深く頷いた。

 父が、遠くから、かすかに微笑んだ。


 扉が近づいてくる。


「カイ」


 私は、歩きながら言った。


「もう一通の話は——」


「聞きません」


「まだ何も言っていませんわ」


「今夜は聞きません」


 カイが、前を見たまま答えた。


「あなたが疲れていると言ったので」


 私は少し考えた。


「……気が向いたら、話します」


「はい」


「気が向かなかったら、話しません」


「それでも構いません」


 扉が、開いた。


 廊下の灯りが、差し込んでくる。


 広間の喧騒が、少しだけ遠くなった。


 私は扉をくぐる前に、一度だけ振り返った。


 三百人が、こちらを見ていた。

 シャンデリアの光が、変わらずきれいだった。


 今夜ここで起きたことを、この人たちはしばらく話し続けるだろう。

 アリシア・フォン・ローゼンベルクが、王太子を仕留めた夜として。


 ——でも私には。


 もう一通の書状のことが、まだある。

 カイが知っていて、まだ聞かなかったことの意味が、まだある。

 十年の空白に何があったかが、まだある。


 終わった夜の向こうに、始まる話がある。


 私は前を向いた。


「行きましょう、カイ」


「はい」


 扉が、静かに閉まった。

 ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


 第一章、完結しました。


「ずいぶん遅かったわね、カイ」


 十年分の言葉が、あの一言に詰まっていました。


 カイは「もう一通の書状」を知っていて、今夜は聞きませんでした。

 アリシアは「気が向いたら話す」と言いました。


 その書状に何が書いてあるのか——そして十年の空白に何があったのかは、第二章でお話しします。


 第一章をお読みいただいた皆様、本当にありがとうございました。

 ブックマークと評価をいただけますと、第二章を書く大きな力になります。


 またお会いしましょう。

 扉の向こうの話を、楽しみにしていてください。

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