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婚約破棄してくれて、ありがとう。準備は三ヶ月前から整っていました  作者: 銀月ソフィ


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第八話 「公爵家の刃と、私が捨てたもの」

父の声が、広間に響いた。


「本日をもちまして、ローゼンベルク公爵家は——王家への全穀物供給契約を、停止いたします」


 広間が、静まった。


 完全な静寂だった。

 今夜何度目かの沈黙の中で——これは、別の種類だった。


 今までの静けさは「驚き」や「理解」の静けさだった。

 これは——「現実が動く音」を聞いた静けさだ。


「……エドワード卿」


 国王が、静かに言った。

 怒ってはいない。

 ただ、確認するように。


「それは、どういう意味か」


「そのままの意味でございます、陛下」


 父は、国王を真正面から見ていた。

 礼を失しているわけではない。

 ただ——揺れていない。


「ローゼンベルク領は、王国の穀物生産量の三割を担っております。

 その供給を停止することが、王家にとって何を意味するか——

 陛下はご存知のことと存じます」


 国王が、少しだけ目を細めた。


 それから——かすかに、口元が動いた。


 笑ったのか。

 あるいは息を吐いたのか。

 遠くからでは、わからなかった。



「父上」


 殿下が、一歩踏み出した。

 声が、震えていた。


「それは——それは、脅しか」

「いいえ」

 父は答えた。

「ビジネスの話です」


 殿下が、口をつぐんだ。


「ローゼンベルク家は、王家との信頼関係を基盤として、この契約を結んでおりました。

 その信頼が損なわれた以上、契約を見直すことは——当然の判断かと」


 父の声は、穏やかだった。

 怒っていない。

 責めてもいない。

 ただ、事実を述べている。


 それがかえって——重かった。


「加えて」


 父が、続けた。


「隣国コーデル王国との外交窓口として、当家が担ってきた役割についても、今後は見直しを検討いたします」


 今度のざわめきは、大きかった。


「コーデルとの窓口を失えば——」

「東の貿易路が——」

「それは、王家にとって」


 貴族たちが、次々に計算し始める気配がある。

 穀物の三割。

 コーデルへの外交ルート。

 この二つが同時に止まれば、何が起きるか。


 殿下の顔が——変わった。


 青い。

 さっきまでの「青ざめた顔」ではない。

 もっと深い色だ。

 血の気が抜けきった、白に近い青だ。


「そんな——」


 殿下が、呟いた。


「そんなことのために——婚約を、破棄したというのか」


 父が、静かに答えた。


「婚約破棄を決めたのは、殿下でしょう」


 一瞬の、沈黙。


「我々は、その決定を尊重しているだけです」


 殿下が、何か言おうとした。

 でも言葉が、出なかった。



 私は、その様子を見ていた。


 哀れだと思う。

 本当に、そう思う。


 ただ同時に——これは、自分で選んだ道だ。

 三ヶ月前、最初に宿屋へ行ったのは殿下だ。

 エルメラに触媒石を用意したのも、殿下だ。

 クロードを脅したのも、殿下だ。


 一つ一つの選択が、今夜ここに繋がっている。


 私は扇を閉じた。


 ——もう一言だけ、言わなければならないことがある。


「殿下」


 私は、殿下に向かって一歩踏み出した。


 殿下が、こちらを見た。

 その目に、今夜初めて——怒りではない何かがあった。


 後悔、かもしれない。

 恐怖、かもしれない。

 あるいはただの、疲弊かもしれない。


「本日の婚約破棄について、一点だけ訂正させてください」


「……訂正?」


「はい」


 私は、広間全体に聞こえるように、はっきりと言った。


「婚約を破棄したのは——私の方ですわ」


 広間が、また静まった。


「殿下が宣言される前から、私はすでに決めておりました。

 この婚約を、自分の意志で終わらせると。

 今夜この場は、そのための準備でした」


 殿下の口が、少し開いた。


「アリシア、お前は——」

「三年間、ありがとうございました」


 私は、深く礼をした。


 本当に、そう思っている。

 憎んでいない。

 ただ——もう、終わりだ。


「勉強になりました」


 顔を上げたとき、殿下はまだ同じ顔をしていた。

 開いた口が、閉じられないまま。


 広間の貴族たちが、また囁き合い始める。


「……婚約を破棄したのは、アリシア様の方だったと」

「では、殿下は——」

「捨てたのではなく、捨てられた、ということか」


 その言葉が、広間をゆっくりと伝わっていく。


 殿下の取り巻きだった若い貴族たちが、少しずつ、殿下から距離を置き始めた。


 一人が半歩下がった。

 もう一人が、視線を逸らした。

 また一人が、ゆっくりと後ろへ退いた。


 誰も、言葉は出さない。

 ただ、動いている。


 人が人から離れる時の音は、静かだ。

 でもそれは、確かに聞こえる。



 国王が、立ち上がった。


 広間全員が、また頭を下げた。


「ライナルト」


 国王が、殿下を見た。


「今夜のことについては、改めて話す。

 部屋に戻りなさい」


「父上——」

「戻りなさい」


 扈従が、静かに殿下の傍らに立った。


 殿下が——初めて、視線を落とした。


 床を見た。

 それから、私を見た。


 何か言いたいのかもしれない。

 謝りたいのかもしれない。

 あるいは、まだ怒りたいのかもしれない。


 でも言葉は、出なかった。


 扈従に促されて、殿下が歩き始めた。

 エルメラが、床から立ち上がって、その後を追った。


 二人が広間を出ていく間、誰も声をかけなかった。


 取り巻きたちも、誰一人、ついていかなかった。



 扉が閉まった。


 広間に、静けさが戻った。


 今夜最後の、この静けさは——どういう種類だろう。


 私は少し考えて、答えを出した。


 幕が下りた後の、静けさだ。



「アリシア嬢」


 声が、聞こえた。


 国王ではない。

 父でもない。


 振り返らなくても、わかった。


 カイだった。


 いつの間にか、壁際から離れていた。

 広間の中央——私の後ろ、三歩のところに立っていた。


「……お疲れ様でした」


 その一言だけだった。


 私は扇を持ったまま、少し考えた。


 疲れたかどうか、と問われると——正直なところ、よくわからない。

 終わった、という実感もまだない。


 ただ。


「少しだけ」


 私は答えた。


「少しだけ、疲れましたわ」


 カイが、何も言わなかった。


 でも、もう一歩だけ近づいてきた気がした。


 私は前を向いたまま、それを確認しなかった。


 確認したら——扇を持つ手が、また緩むかもしれないから。

 ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


「婚約を破棄したのは、私の方ですわ」


 言えました。


 殿下は去りました。

 取り巻きたちは、誰一人ついていきませんでした。

 広間は、静かです。


 そしてカイが——壁際から離れて、近づいてきました。


「少しだけ、疲れましたわ」とアリシアは言いました。

 次話で、カイが何を言うのかを、どうか楽しみにしていてください。


 第九話は、この作品の第一章の締めくくりです。

 アリシアの「本当のもの」が、少しだけ見える話になる予定です。


 お気に召していただけましたら、ブックマークと評価をいただけますと、次章を書く力になります。

 最終話もできる限り早くお届けします。またお会いしましょう。

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