第七話 「三月十五日の夜、あなたはどこに」
クロード・ミラが、まだそこに立っていた。
広間の空気が、六話分だけ重くなっていた。
エルメラが床に座り込んでいる。
殿下が二歩だけ後ずさっている。
観客たちが、もう誰も囁き合っていない。
そういう場所に、クロードだけが——まだ証人として立っていた。
私は彼を見た。
よく訓練された立ち姿は、さっきとほとんど変わらない。
でも首元の筋が、少しだけ張っていた。
——気づいているのだろう。
次が来る、と。
「クロード様」
私は静かに呼んだ。
「もう一度だけ、確認させてください」
クロードが、こちらを見た。
目が、かすかに揺れている。
「三月十五日の夜、あなたは王都にいたとおっしゃいましたね」
「……はい」
「王宮に、と」
「そうです」
私はうなずいた。
「では、この書状をご覧いただけますか」
懐から、紙を取り出す。
今夜、二枚目だ。
広げて、クロードに向けた。
クロードが目を細めた。
読んでいる。
その顔が、少しずつ——変わっていった。
「これは」
声が、掠れた。
「王都、南門の旅券発行記録です」
私は答えた。
「三月十四日付で、クロード・ミラの名前で旅券が発行されています。
行き先は——王都から二日の距離にある、東の港町」
広間が、静まった。
「つまり」
老侯爵が、低く言った。
「三月十五日の夜に王都にいたというのは——」
「旅券の発行記録と、矛盾します」
私は続けた。
クロードが、口を開いた。
でも言葉が出なかった。
私はその様子を見ながら、一歩だけ前に出た。
「クロード様」
声を、少しだけ柔らかくした。
「ご証言の内容は、どなたかから教えていただいたものですか」
沈黙。
長い沈黙だった。
クロードの肩が、少しずつ下がっていくのがわかった。
背筋が、ゆっくりと曲がっていく。
それを、広間の全員が見ていた。
「……」
クロードが、殿下の方を見た。
殿下は、目を逸らした。
その一秒が、すべてを語った。
「申し訳、ありません」
クロードが、頭を下げた。
深く。
誰に対してかは、はっきりしなかった。
でも、続く言葉は——はっきりしていた。
「私は——殿下に、脅されました」
広間が、ざわめいた。
今夜一番大きなざわめきだった。
「実家の借金を、公にすると言われました。
証言さえしてくれれば、帳消しにすると——」
クロードの声が、震えていた。
「アリシア様の侍女から話を聞いたというのも、嘘です。
三月十四日の夜、私は王都を出ておりました。
十五日には、もう王都にはいませんでした」
最後の一言は、ほとんど呟きだった。
「……本当に、申し訳ありません」
クロードが、その場に膝をついた。
誰も、何も言わなかった。
蝋燭の炎が揺れた。
私はクロードを見ていた。
怒りは、ない。
追い詰められた人間が取る選択肢は、だいたい決まっている。
彼もまた、殿下に捕まえられた側の人間だ。
ただ——使われた側であれ、嘘は嘘だ。
それだけは、はっきりしている。
「ライナルト」
国王が、殿下の名を呼んだ。
「殿下」でも「王太子」でもなく——名前で。
その呼び方が、広間の空気をまた変えた。
殿下の顔が、灰色から白へ変わった。
「父上——」
「黙りなさい」
静かな声だった。
怒鳴らない。
ただ、静かに、決定的に遮った。
殿下が、口をつぐんだ。
国王が、広間を見渡した。
その視線が、一人一人の顔を通り過ぎていく。
「アリシア嬢」
「はい、陛下」
「まだ、続きがあるか」
私は一拍、考えた。
クロードの件は片付いた。
エルメラの件は片付いた。
宿泊記録の件も、もう反論の余地はない。
残っているのは——もう一つ。
「はい、陛下。一つだけ」
私は広間の端へ、視線を向けた。
父が、そこに立っていた。
エドワード・フォン・ローゼンベルク公爵。
今夜はずっと、広間の端で腕を組んで、黙って見ていた。
私が視線を向けると、父は静かに頷いた。
それだけで、わかった。
準備は、できている。
「陛下」
私は前を向いた。
「婚約破棄に際し、ローゼンベルク公爵家としても、一言申し上げることがございます。
父に、発言をお許しいただけますか」
国王が、公爵の方を見た。
「エドワード卿」
「はい、陛下」
父の声は、落ち着いていた。
この場で、動じていない人間が、もう一人いた。
「発言を、許す」
父が、一歩前に出た。
広間の視線が、すべてそちらへ向いた。
私は扇を閉じた。
ここから先は——父の番だ。
私はただ、見ていればいい。
三ヶ月かけて、父と一緒に積み上げてきた最後の一手が、今夜ここで出る。
「陛下、並びに皆様」
父が、広間全体を見渡した。
「本日をもちまして、ローゼンベルク公爵家は——」
殿下の顔が、また変わった。
父の次の言葉を、先読みしたのかもしれない。
あるいは——今夜初めて、本当の意味で、理解したのかもしれない。
自分が何を失ったのかを。
「続きは、次の話で」
私は心の中だけで、そう呟いた。
扇を、もう一度だけ開く。
父の声が、広間に響き始めた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
クロードが、崩れました。
殿下に脅されていた。
実家の借金を盾に、嘘の証言をさせられていた。
そして今、公爵が一歩前に出ました。
「本日をもちまして、ローゼンベルク公爵家は——」
この続きが、次話です。
殿下は今夜、何を失うのか。
アリシアが三ヶ月かけて積み上げた「最後の一手」の全貌が、次話で明らかになります。
お気に召していただけましたら、ブックマークと評価をいただけますと大変励みになります。
次話もできる限り早くお届けします。またお会いしましょう。




