第四話 「反論という名の、罠の入口」
「次は、もう少し具体的なものをお見せしましょうか」
私がそう言った瞬間、殿下が手を上げた。
制止、というよりは——遮断だった。
「待て」
低い声が、広間に落ちる。
私は扇を止めた。
急かすつもりはない。
殿下が次に何を言うか、だいたい予想はついていた。
「その書状が本物だとして、だ」
殿下は、一度深く息を吸った。
場を整えようとしているのが、わかる。
乱れた呼吸を、意地で押さえ込んでいる。
——まだ諦めていない。
それはそれで、感心する。
「アリシア、お前が宿屋の主人を買収したという可能性は残る。
書状の写しも、お前が作らせたものかもしれない」
「おっしゃる通りです」
私はうなずいた。
「その可能性を否定する証拠を、次にお見せしようとしておりましたのに」
「必要ない」
殿下の目が、細くなった。
何かを決意したような、あの目だ。
「私にも、証人がいる」
広間がざわめく。
私は内心で、静かに息を吐いた。
——来た。
扉が開いた。
入ってきたのは、二十代半ばの男性だ。
学園の制服——ではなく、使用人の服だった。
けれどその仕立ては丁寧で、背筋も伸びている。
場慣れした立ち姿だ。
「クロード・ミラ。現在、王宮付きの使用人です」
殿下が紹介した。
「学園在籍時は、私の身の回りを担当していた」
クロードと呼ばれた男性が、深く礼をした。
「クロード、話せ」
「はい」
彼は顔を上げた。
よく通る声だった。
「三年前の春、私は第三学棟の廊下で、アリシア様がエルメラ様に対し、『分相応を知れ』と発言されるのを耳にしました」
会場が、また静まる。
今度は違う種類の静けさだ。
エルメラの証言と一致する——という驚きの静けさ。
「またアリシア様は、宿泊記録の写しを作成するよう、信頼する侍女に依頼なさっていた。
その侍女から直接、私は話を聞いております」
周囲の視線が、また揺れた。
老侯爵の表情が、少し硬くなる。
さっきまで傾きかけていた天秤が、また戻ってくるような気配だ。
「アリシア様は、殿下を陥れるためにこの舞踏会を利用しようとしておられた——と、私は理解しております」
静寂。
長い静寂。
私はその間、扇を動かすのをやめて、ただまっすぐに前を向いていた。
「……」
エルメラが、殿下の袖を、また掴んだ。
今度は安堵の力で。
後列の若い令嬢たちが、また囁き合い始める。
「やっぱり、アリシア様が……」
「でも宿屋の主人は……」
「どちらが嘘をついているのかしら」
天秤が揺れている。
私はそれを、扇の陰で静かに眺めた。
揺れていい。
今は、揺れていい。
問題は——クロード・ミラという人物が、今夜ここに来ると知っていたかどうかだ。
知っていた。
二週間前から。
だから彼の証言の中身も、おおよそ把握している。
第三学棟の廊下の話も。
侍女への依頼という話も。
全部、知っていた。
「クロード様」
私は口を開いた。
静かに、急がずに。
「一点だけ確認させてください」
クロードが、こちらを見た。
表情は穏やかだ。
よく訓練されている。
「先ほどのご証言の中に、三月十五日のことは含まれておりましたか」
クロードが、一瞬だけ——止まった。
ほんの一瞬だ。
気づいた者が、会場に何人いたかはわからない。
でも私は、見ていた。
「……いいえ、三月十五日については何も申しておりません」
「そうですか」
私はうなずいた。
「では、三月十五日の夜、あなたはどちらにいらっしゃいましたか」
今度の沈黙は、少し長かった。
「……王都に、おりました」
「王宮で?」
「は——はい」
「そうですか」
私は口元に、扇をあてた。
笑いを隠したわけではない。
ただ、少し——表情を整えたかっただけだ。
三月十五日。
その夜、クロード・ミラは王都にいたと言った。
それは、本当のことだろう。
ただ——「王宮に」という部分については、少し確認が必要になる。
それは次の話だ。
今夜、急ぐ必要はない。
「ありがとうございます」
私はクロードに微笑んだ。
「もう少しだけ、お時間をいただくことになりますが、よろしいでしょうか」
クロードが、かすかに眉を寄せた。
殿下の顔も、微妙に動いた。
——何をするつもりだ、という顔だ。
「アリシア」
殿下が、声を押さえて言った。
「お前はさっきから、何を——」
「整理をしているだけですわ」
「整理?」
「はい。殿下がお用意になった証人の方の証言に、興味深い点がいくつかございまして」
広間がざわめく。
今度のざわめきは、少し前のものと違う。
さっきまでは「令嬢対王太子」だった。
今は——「何かが起きようとしている」という予感に変わっている。
空気を読むのが上手い貴族たちは、もう気づいているはずだ。
証言の中に「三月十五日」という日付が出てきた意味を。
そしてクロードが一瞬止まった意味を。
「そのお方を呼ばれるとは、思っておりませんでした」
私は殿下に向かって、そう言った。
——嘘だ。
三週間前から、知っていた。
でも今夜は、この嘘だけは許してほしい。
なぜなら——
「よもや、殿下がこの場にクロード・ミラ様を連れてくるとは」
広間の端で、かすかな動きがあった。
扉ではなく、廊下側の窓の方向から。
私は視線を動かさなかった。
「……そうか」
殿下の声が、また変わった。
「ならば、お前は何も知らなかったということだな、アリシア」
「ええ、もちろん」
微笑みは、完璧に保っている。
——さて。
廊下側から気配がした。
複数人。
足音の間隔が、ゆっくりとしていて重い。
この舞踏会に、予定外の客が来た。
扉が、静かに開く。
広間にいた全員が、そちらを見た。
私も、見た。
ただし驚いた顔は、していない。
現れたのは——国王夫妻だった。
会場が、しんと静まった。
完璧な静寂。
殿下の顔が、青くなった。
エルメラが小さく悲鳴を上げかけて、口を押さえた。
国王は、広間をゆっくりと見渡した。
その視線が、殿下を通り、エルメラを通り、私の上で止まった。
「続けなさい」
国王が言った。
誰に向けた言葉か——広間にいた全員が、三秒かけて理解した。
私に向けた言葉だった。
私は一歩、前に出た。
「かしこまりました、陛下」
扇を、胸の前で静かに閉じる。
懐の紙が、まだある。
国王が来た。
殿下の切り札は出た。
揃っていた。
全部、揃っていた。
——では、次の一手を。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
殿下が、切り札を切りました。
アリシアは「そのお方を連れてくるとは思いませんでした」と言いました。
嘘です。
そして国王が、来ました。
「続けなさい」とアリシアに言いました。
これは——アリシアにとって、追い風でしょうか。
それとも、逆風でしょうか。
次話でわかります。
三月十五日という日付の意味も、少しずつ明らかになっていきます。
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次話もお待ちいただけると嬉しいです。またお会いしましょう。




