第三話 「最初の一枚と、殿下の顔色」
先月の十四日の夜——と、私は繰り返した。
声には出さず、心の中だけで。
広間の静寂が、少し変わった気がした。
さっきまでは「令嬢が断罪されている」という緊張感だった。
今は、もう少し違う。
なんと言えばいいか。
天秤が、かちり、と動いた音。
そういう静けさだ。
「……先月の、十四日」
殿下が繰り返した。声が、一段低い。
「何が言いたい」
「確認しているだけですわ」
「答える必要はない」
「そうですか」
私は微笑んだまま、懐に入れていた手をゆっくりと引いた。
紙を、取り出す。
折りたたまれた、一枚の書状。
特別派手なものではない。
ただの宿泊記録だ——王都から半日の距離にある、小さな宿屋の。
「こちらをご覧いただけますか」
私は書状を、静かに広げた。
周囲の貴族たちが、首を伸ばす。
前列にいた老侯爵が、老眼鏡の奥で目を細めた。
広間が、また静まった。
今度の静けさは、先ほどより重い。
「……それは」
老侯爵の隣に立っていた壮年の貴族が、低く呟いた。
「王家の、紋章が——」
その言葉が、さざ波のように後列へ伝わっていく。
殿下の顔が、初めて強張った。
ああ、と思った。
やっと、そういう顔をしてくれた。
三ヶ月待った甲斐があった。
「こちらは、先月十四日付の宿泊記録の写しです」
私は書状を持ったまま、会場を見渡した。
「王家の紋章が押された部屋に、一組の男女が宿泊しております。
記録には名前の代わりに、紋章のみが記されておりました」
「……偽造だ」
殿下が言った。
声は低かったけれど、震えていた。
わずかに、だけれど——確かに。
「そうおっしゃるかと思っておりました」
私はうなずいた。
「ですので、宿屋の主人にもご足労いただいております」
広間の扉が、静かに開いた。
案内されて入ってきたのは、五十がらみの小柄な男性だ。
場違いな平民服が、貴族ばかりの空間に浮いている。
それでも彼は、気圧された様子もなく、まっすぐに前を向いていた。
——三週間前から、根回し済みだ。
こういう場に立つ心構えも含めて、お願いしてある。
「リュカ・ハルト氏。王都近郊、ハルト亭の主人です」
私は紹介した。
「先月十四日の夜について、証言していただけますか」
男性が、こくりとうなずいた。
「はい。その夜、王家の紋章が刻まれた馬車でお越しになったお客様が一組いらっしゃいました。
男性と女性のお二人で、翌朝までご逗留されました」
会場のざわめきが、今度は大きい。
「男性の顔は、よくお分かりになりましたか」
「はっきりとは。ただ、ご逗留の際に——」
彼は少し言葉を選んだ。
「女性の方が、男性を『殿下』とお呼びになるのが聞こえました」
静寂。
誰かが息を呑む音がした。
それが連鎖するように、また誰かが、また誰かが。
エルメラが、殿下の袖を掴んだ。
その指先が、白くなるほど力が入っているのが、ここからでも見えた。
「で、殿下、これは——」
「黙れ」
殿下が、低く言った。
エルメラへ向けた声ではなかった。
私へ向けた声でもなかった。
どこにも向けられていない、ただ追い詰められた者の声だ。
老侯爵が、静かに腕を組んだ。
その表情が、少しだけ変わった——「断罪される令嬢を見る目」から、「断罪する側を見る目」へ。
私はそれを見て、ほんの少しだけ、緊張が解けるのを感じた。
会場の空気が変わると、不思議なものだ。
さっきまで冷たかった視線が、向きを変える。
ちらちらと、殿下の方へ。エルメラの方へ。
そしてまた、私の方へ——今度は少し違う色で。
後列の令嬢たちが、小声で囁き合っている。
「あの書状、本物なのかしら」
「宿屋の主人まで連れてきているのよ、準備していたに決まって——」
「でも殿下が否定なさっているし……」
「あなた、どちらが嘘をついていると思う?」
私はその囁きを、扇の陰で静かに聞いた。
まだ、全員ではない。
でも天秤は、確かに傾いた。
それで十分だ。
今夜は、これで十分。
問題は、殿下が次に何を言うか、だ。
追い詰められた人間には、だいたい二つの選択肢がある。
認めるか、もっと深みにはまるか。
殿下は——迷わず、後者を選んだ。
「その書状は」
殿下が声を張った。
「偽造だ。アリシア、お前が仕立てたものだろう」
ざわめきが止まった。
「宿屋の主人も、お前が買収した人間のはずだ。
公爵家の財力があれば、そのくらいのことはできる」
私は少し考えてから、答えた。
「殿下は、私がこの書状を偽造したとおっしゃるのですね」
「そうだ」
「そして宿屋の主人も、私が用意した証人だと」
「言っている通りだ」
「なるほど」
私は書状を、丁寧に折りたたんだ。
急がなくていい。
殿下がそう来ることは、わかっていた。
だから、次の手も用意してある。
——ただ。
懐に書状を戻しながら、私は広間の端をちらりと見た。
カイが、壁際に立っていた。
こちらを、見ていた。
目が合った。
彼は何も言わなかった。
ただ、ほんのわずか——目を細めた。
応援しているのか。見届けているのか。
あるいはまったく別の何かを、考えているのか。
十年。
十年ぶりに会った人間の表情は、私にはまだよく読めない。
「アリシア嬢」
不意に、カイが口を開いた。
静かな声が、広間によく通る。
「続けてください」
それだけだった。
でも私は、その一言で——なぜか、足元がしっかりする感覚があった。
おかしな話だ。
別に、彼の言葉を待っていたわけではない。
一人でも、十分に進められる。
そのはずだった。
「……ありがとう存じます」
私は前を向いた。
「では殿下、もう少しおつきあいください」
扇を開く。
懐には、まだ紙がある。
一枚ではなく、複数。
殿下が「偽造だ」と言い続けるなら、一枚ずつ出していけばいい。
逃げ道は、ない。
そのことを——殿下がいつ理解するかは、まだわからないけれど。
「次は、もう少し具体的なものをお見せしましょうか」
広間が、また静まった。
今度の静けさは、期待の色をしていた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
証拠の一枚目を、出しました。
殿下は「偽造だ」と言いました。
アリシアは「なるほど」と言いました。
懐に、まだ紙があります。
複数枚。
次話ではそれが出てきます。
——そして、予想外のものも、出てくるかもしれません。
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次話もお待ちいただけると嬉しいです。またお会いしましょう。




