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婚約破棄してくれて、ありがとう。準備は三ヶ月前から整っていました  作者: 銀月ソフィ


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第二話 「三年間の罪状と、私の笑いの沸点」

殿下は、しばらく黙っていた。


 広間の三百人も、黙っていた。

 私も黙っていた。


 誰が最初に口を開くか——という、ある種の駆け引きだ。

 勝つのは、焦らない方だと決まっている。


「……っ、アリシア、お前という女は!」


 殿下が先に折れた。

 予定より三十秒は早い。


「三ヶ月前から知っていたなどと、そんなことがあるはずがない!」

「ございます」

「黙れ! 私は今、お前に——」

「はい、承っております。どうぞ続けてください」


 殿下の額に、青筋が立った気がした。

 気がしただけかもしれない。

 でも広間の端で、誰かが「くっ」と笑いを堪えた音がした。

 カイだろうか、とは思ったけれど、確認はしなかった。



「いいだろう」


 殿下が、大きく息を吸う。

 背筋を伸ばして、会場全体を見渡した。

 ——ああ、用意してきたのだな、と思った。


「アリシア・フォン・ローゼンベルク。

 貴様が我が婚約者として相応しくない理由を、ここで明らかにする」


 懐から、折りたたまれた紙が取り出された。

 思ったより分厚い。


 ——三ヶ月、よく頑張りましたわね。


 私は内心でそう呟きながら、扇をゆっくりと動かした。


「第一。アリシアは学友エルメラ・コルトを、日常的に侮辱していた」


 エルメラが、殿下の隣で小さく肩を震わせた。

 ドレスの袖で、目元を押さえる。


 周囲の貴族たちが、こちらへ視線を向けてくる。

 冷たい目だ。


「第二。アリシアは学園の使用人に対し、理不尽な叱責を繰り返していた」


 また、視線が増える。


「第三。アリシアはエルメラに対し、聖女認定の妨害工作を行っていた」


 今度は、ざわめきが起きた。

 聖女への妨害——それは貴族社会では重罪に近い扱いを受ける。


 殿下は読み続ける。

 第四、第五、第六——。


 私は扇を動かしながら、その言葉を一つずつ聞いた。


 事実ではないものが、ほとんどだ。

 一部、事実を歪めたものがある。

 そして最後の一項目だけ——


「第七。アリシアは私に対し、王太子妃としての務めを果たそうとしなかった」


 ——これは、本当のことだ。


 私は殿下を愛していなかった。

 愛そうとしたこともあったけれど、うまくいかなかった。

 婚約者として完璧に振る舞いながら、心だけはずっと、どこか遠くを向いていた。


 それはたしかに、王太子妃としての「欠落」かもしれない。


 でも——


「フ」


 声が出た。


 自分でも、少し驚いた。

 笑うつもりはなかった。


「……何が可笑しい」

 殿下が眉をひそめる。

「申し訳ありません、殿下」

 私は口元を扇で隠した。

「第七番目の項目が、あまりに的確でしたので」


 広間が、またざわめく。

 今度の波紋は、先ほどより少し違う方向に広がっていく気がした。


「的確……?」

「はい。私は殿下のことを、愛してはおりませんでした。

 ずっと前から。それはおっしゃる通りです」


 殿下の顔が、一瞬だけ歪んだ。


「それを、認めるのか」

「事実ですもの」


 沈黙。


「では、第一から第六はいかがだ」

「事実ではございません」

「エルメラが証言している!」

「では、エルメラ様にお聞きしてみましょうか」


 私は視線を、エルメラへ向けた。


 彼女はまだ、袖で目元を押さえていた。

 細い肩が、小刻みに揺れている。


「エルメラ様。私がいつ、あなたを侮辱しましたか?

 具体的に、日時と場所をお教えいただけますか」


 エルメラが、顔を上げた。

 濡れた瞳が、こちらを見る。


「……第三学棟の廊下で」


 声が、震えている。

 演技が上手い。


「三年前の、春に——あなたは私に、分相応を知れとおっしゃいました」


 周囲が静まった。


 老侯爵夫人が眉をひそめる。

 若い令嬢たちが、息を呑む。


「なるほど」

 私はゆっくりとうなずいた。

「その場に、他に誰かいらっしゃいましたか」

「……一人で廊下を歩いていた時でした」

「そうですか」


 私は扇を閉じた。


「三年前の春の、第三学棟の廊下。

 二人きりの場での発言——ということですね」


 エルメラが、こくりとうなずく。


 その瞬間、私は彼女の右手を見た。


 袖を押さえるために持ち上げた、右手。

 薬指に、小さな傷がある。

 引っ掻いたような——いや、違う。

 何かを、押し込んだような。


 ——なるほど。

 そういうことでしたか。


 私は何も言わなかった。

 今夜それを指摘する必要は、まだない。


「わかりました、エルメラ様。ありがとうございます」


 エルメラが、ほっとしたように肩を下ろした。


 早い。


 ここで安心するのは——早すぎる。



 会場のざわめきが、また方向を変えていく。


 さっきまで冷たかった視線が、少しだけ変わっていた。

 全員ではない。でも、何人かが——


 「おかしくないか」


 そう思い始めている気配がある。


 二人きりの廊下での発言を、なぜ証言できるのか。

 見ていた者がいないなら、なぜ知っている?

 エルメラ自身が言ったのか。それとも、教えられたのか。


 老侯爵が、静かに腕を組んだ。


 私は周囲を見渡しながら、扇を胸の前でゆっくりと開いた。


 ——そろそろ、かしら。


 懐に手を入れる。


 指先が、折りたたまれた紙の端に触れた。

 一枚。

 ほんの一枚だけれど、今夜の最初の石を置くには十分だ。


「殿下」

 私は顔を上げた。

「一点だけ、確認してもよろしいでしょうか」


 殿下の目が、細くなった。


「……何だ」


 私は微笑んだ。

 完璧に、静かに。


「先月の十四日の夜、殿下はどちらにいらっしゃいましたか」


 広間が、しん、と静まった。


 エルメラの肩が、わずかに強張る。


 殿下の顔から、じわりと血の気が引いていく。


 私はその様子を眺めながら、懐の紙を指でそっと押さえた。


 ——準備は、ここからですわ。

 ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


 殿下が七つの「罪状」を読み上げました。

 アリシアは六つを否定して、一つだけ認めました。


 認めた理由が、おわかりになりましたか。


 そして——エルメラの右手を、見ていてくださいましたか。

 あの傷は、ただの傷ではありません。


 次話ではアリシアが懐の紙を取り出します。

 殿下の「先月十四日の夜」が、何を意味するのか。


 お気に召していただけましたら、ブックマークと評価をいただけると励みになります。

 次話もすぐにお届けします。またお会いしましょう。

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