第一話 「舞踏会の奈落で、私は微笑んだ」
「婚約破棄してくれて、ありがとう」——と、口に出したわけではありません。
ただ、心の中では、そう思っていました。
王太子殿下が舞踏会の広間で宣言した瞬間、私アリシア・フォン・ローゼンベルクは扇で口元を隠しながら、静かに息を吐きました。
三ヶ月前から、この日が来ることは知っていた。
だから今夜、準備は全部整えてある。
宿泊記録、偽聖女の証拠、外交の切り札——そして、十年ぶりに現れた辺境伯。
「婚約を破棄なさったのは、よかったこと」
「ただし、先に決めたのは——私の方ですわ」
これは、捨てられた令嬢の話ではありません。
最初から全部知っていた令嬢が、静かに詰めていく話です。
どうぞ、お楽しみください。
「アリシア・フォン・ローゼンベルクとの婚約を、ここに破棄する!」
王太子殿下の声が、シャンデリアの光の下に降り注いだ。
——あら。少し早かったこと。
三百人の貴族たちが、いっせいにこちらを振り返った。
その目線の重さは、ずっしりと肩に乗る。
けれど私は、扇を口元にあてたまま、ゆっくりと殿下を見上げた。
驚いていないのは、私だけだった。
王立学園の卒業記念舞踏会。
毎年この夜は、白いドレスと酒の香りで満たされる。
私——アリシア・フォン・ローゼンベルクは今夜、公爵令嬢として最後にこの場に立っている。
婚約者であるライナルト王太子殿下から、破棄を宣告されるために。
それが三ヶ月前からわかっていたのは、私の情報網がそれなりに優秀だからだ。
殿下が男爵令嬢エルメラ・コルトと逢瀬を重ねていること。
エルメラが「聖女候補」として殿下に近づいたこと。
そして殿下が、この舞踏会で婚約破棄を宣言する予定であること。
全部、知っていた。
だから今夜の私は、完璧に準備を整えて——「客」としてここに来ている。
「聞こえましたか、アリシア!」
殿下が声を張り上げる。
広間の中央で、彼の隣にはエルメラが寄り添っていた。
薄桃色のドレス。伏せた目。震える肩。
絵に描いたような「守られるべき乙女」の構図だ。
上手いものだと、素直に思う。
「聞こえておりましたわ、殿下」
私はゆっくりと扇を閉じた。
「ただ、少々ご確認したいことがございまして」
「確認? お前に確認など——」
「舞踏会の日取りは、かねてより存じておりましたもの」
殿下の眉が、わずかに動いた。
広間がしんと静まる。
誰かのドレスが、風もないのに揺れた気がした。
「……なんだと」
「三ヶ月前から、この日が来ることは把握しておりました」
声に出してしまえば、なんということもない。
ただの事実だ。
「ですから本日は、確認のために参りました。
殿下がご自分の口で、きちんと宣言なさるかどうか」
静寂が、もう一段深くなった。
三百人が息を呑む音が、聞こえた気がした。
——気がしただけかもしれないけれど。
「な……っ」
殿下の顔が、見る間に赤くなる。
「三ヶ月前から? 知っていたと言うのか!?」
「はい」
「なぜ黙っていた!」
「せっかくご用意くださった舞台を、台無しにするのも申し訳ないと思いまして」
隣でエルメラが、小さく息を呑んだ。
周囲の貴族たちが囁き合う気配がある。
老侯爵が眼鏡の奥で目を細めたのが、視界の端に映った。
「お前は……」
殿下の声が低くなる。
「お前はいつも、そうやって人を見下して——!」
「見下してなどおりません」
私は微笑んだまま、一歩だけ前に出た。
「ただ、事実を申し上げているだけですわ」
扇を、胸の前で静かに開く。
「殿下。本日の婚約破棄の宣言、確かに承りました。
ローゼンベルク公爵家として、異存はございません」
会場が、またざわめく。
異存はない——その言葉の意味を、鋭い者から順番に理解し始めているのがわかった。
被害者が怒るのではなく、むしろ受け入れた。
そして笑っている。
なぜ?
その疑問が、三百人の顔に浮かぶのを、私はゆっくりと眺めた。
——本当は、泣きたかった日もあった。
殿下に選んでいただいた日のことを、今でも覚えている。
あの頃の私は、まだ「愛されるかもしれない」と思っていた。
けれど貴族の婚姻に、そんなものは必要ない。
父にそう言われて、私は納得した。
納得したはずだった。
だから今夜、胸に残るこの重さは——
——なんでもない。
そういうことにしておく。
「では、アリシア嬢」
不意に、声が聞こえた。
殿下のものではない。
広間の端——壁際に立っていた一人の青年が、静かにこちらに歩いてくる。
黒髪。落ち着いた軍服。
人混みをかき分けるでも押しのけるでもなく、ただ真っ直ぐに。
その顔を見た瞬間、私は扇を持つ手を止めた。
「本日は楽しめそうですね」
青年は——カイ・ヴァルナー辺境伯は、声をひそめてそう言った。
笑みは、ない。
けれどその目が、かすかに細くなる。
私は一瞬、答えを失った。
——この人が、なぜここにいる?
「……ヴァルナー辺境伯」
「十年ぶりですね、アリシア嬢」
「ええ」
私は、何とか微笑みを取り戻した。
「十年ぶりですわね」
カイは私の顔を、ほんの一瞬だけ見つめた。
それから視線を殿下に移して、また正面を向く。
「続きをどうぞ」
それだけ言って、彼は一歩下がった。
私はしばらく、その横顔を見ていた気がする。
気がする——というのは、自分でも気づかなかったからだ。
扇を持つ手が、いつの間にか、少しだけ緩んでいた。
さて。
感傷は、あとにしよう。
今夜この場には、まだ仕事が残っている。
三ヶ月かけて用意した準備が、全部そろっている。
殿下が私を捨てたことで、何を失うのか。
エルメラの「聖女の光」の正体が何なのか。
そしてこの舞踏会が終わった後、ローゼンベルク公爵家がどこへ向かうのか。
それを、この三百人に見せなければならない。
私は扇をもう一度開いた。
「では殿下、続きをお願いいたします」
微笑みは、完璧に整っている。
胸の奥のことは——今夜だけは、扇の陰に隠しておこう。
【あとがき】
ここまでお読みいただきありがとうございます。
アリシアは今夜、三百人の前で婚約を破棄されました。
笑いながら。準備万端で。完璧に。
——でも、扇を持つ手が緩んだ瞬間、見つけてくださった方は鋭い。
次話では、殿下が「反撃」を用意してきます。
アリシアはそれを、とっくに知っていますけれど。
続きは、またお会いできれば嬉しいです。




