月夜の変身
『……あぁ、エリサ。恋というのは、こんなにも美しいものなのね』
生まれて初めて読んだ恋物語に、うっとりと陶酔する幼いロクセラーナに、侍女エリサは人が悪い顔で笑った。
『それはお嬢様が幼くて、物語の美しい恋しか知らないから言えることですね』
『え……』
『いいですか。お嬢様。現実の恋というのは、物語ほど美しくはありません。嫉妬に独占欲、劣等感や優越感。裏切りに怨嗟と、そりゃあまぁ、どろっどろに醜い感情に満ちた、恐ろしいものなんですよ! ……あの野郎、絶対に今度会ったら殺してやる』
『な、何があったの。エリサ』
『お嬢様のお耳汚しになるので、語りません。……とにかく、現実の恋が醜いからこそ、人々は創作の中では美しい恋を求めるのです』
あの時はさっぱりだったエリサの言葉が、今のロクセラーナにはわかる。
(恋をしました)
(恋に恋するのではなく、生きた現実の貴方に恋をしました)
(――恋はこんなに醜い感情なのだと、生まれて初めて知りました)
「……嫌よ、嫌! ゼド様があのジャガイモ娘と親しくなる姿なんて、見たくないの!」
涙を流しながら、誰もいない夕闇の小道を一人走るロクセラーナ。喉から洩れた言葉は、懐かしい人間の言葉だったが、彼女は気づかない。
(猿の姿のままならば、ゼド様の一番近くにいられるかもしれないけれど、けして恋愛対象としては見てもらえない)
(私が何もできないでいる間に、あのジャガイモ娘は人間としてゼド様との距離を縮めるのでしょう)
(ゼド様はあんなに素敵な御方だから、きっとジャガイモ娘もゼド様のことが好きになる)
(私はそれを、お猿として傍で見ていることしかできないなんて、絶対に嫌!)
ロクセラーナは気づかない。
何も着ていなかったはずの体が、いつの間にか懐かしいドレスを纏っていることを。
はだしだったはずの足元から、こつりこつりとヒールの音がしていることを。
体に纏わり着く、波打つ長い金色の髪の存在にすら。
「……きゃっ!」
だからこそ、ヒールのかかとが石畳に挟まったことも気づかず、その場に転倒してしまった。
「痛たたた……」
「っ大丈夫ですか!」
食事を終えて、すぐ傍の店舗から現れた赤髪の男性が、慌ててロクセラーナに駆け寄ってくる。その瞬間、空の雲が切れ、月明かりが男とロクセラーナを照らし出した。
(……あれ?)
咄嗟に手をついた結果擦り傷ができた手のひらに違和感を抱きながら、ロクセラーナが顔をあげた瞬間、赤髪の男の顔がさっと赤く染まった。
「――っ⁉ なんて、美しい御方だ」
「へ?」
「その服装からしても、かなり高貴な御立場の御方とお見受けします。何故このような所に?」
(……この方は、お猿を美しいと思う特殊な嗜好の御方なのかしら)
一瞬そう思ってから、慌ててロクセラーナは擦り傷を負った手を二度見する。
(――人間に戻っているー⁉)
今までどれだけ頑張っても解けなかった、ラクシアのトルクの効果が、初めて解除された瞬間だった。
(っ! 亜空間収納バッグ、亜空間収納バッグはどうなってますの⁉)
次に脳裏を過ったのは、小さなお猿の姿で背負っていた小さな小さな亜空間収納バッグの存在だった。お猿の姿から人間に戻れば、通常ならば紐が切れて壊れてしまうはず。
しかし。
(……手首に、引っかかってますわね。どういう仕組みですの)
まるで腕輪のように手首に引っ掛かっていた亜空間収納バッグの存在に、安堵する一方で、思わず変な笑いが漏れる。しかし、ドレスを着た状態だったのが、トルクをつけた途端はだかのお猿になった時点で、深く考えてはいけないのかもしれない。
(トルクも……はまったままではありますわね。外れたわけでもないのに、効果だけ解除されているのは、どういうことなのでしょう)
「えー……こほん。麗しの御方。いかがなさいました」
すっかり赤髪の男の存在も忘れて、現状を確認していたロクセラーナだが、男の咳払いに我に返った。
「いえ、何でもありませんの。ご心配、ありがとうございます」
「なら良かったです。……手のひらに、傷ができているようですが」
「これくらい、かすり傷ですわ」
「いいえ、いけません! 貴方のような美しい御方の、白魚のように美しい手に傷があるだなんて! 今すぐ、私の宿で治療を致しましょう」
「え? え? え?」
強引に手を引く男の顔は、端正で気品を感じる美しさがあったが、だからこそ嫌な予感がして慌ててロクセラーナは【鑑定】を発動させた。
名前:ウィリアム・ロック
職業:一級冒険者
先天スキル:【フェロモン】
後天スキル:【剣技】LV.7【体術】LV.8【誘惑】LV.9
取得魔法:火魔法
性格:女好きの女たらし
(――いやああああああ、貞操の危機! というかスキル【フェロモン】と【誘惑】って、なんですの⁉)
ウィリアムから漂う香水のような甘い香りに、一瞬脳がくらりとしたが、ロクセラーナはそれを振り払うように頭を激しく左右に振った。
「……いいえ、結構ですわ! 殿方がお泊りになっている宿に、一人で出向くなんてできませんもの!」
「貞淑な御方なのですね。ご安心ください。私は嫌がる乙女に無理やり手を出すような野蛮な男ではありませんから!」
「嫌がっている私を、抱え上げている時点で、十分無理やりなさってますわ!」
そう、ロクセラーナは当然のように、ウィリアムからお姫様だっこで抱え上げられてしまっているのだ。
「ああ、貴女は羽のように軽い……」
「離してくださいまし! そもそも傷を治すだけなら、宿になんて行かないでこの場で傷薬をかければいいだけでしょう!」
「そんなことをしたら、貴女はその背中の翼で一瞬にして天上に戻られてしまうのでしょう。麗しの天使様。私はもっと貴女のことが知りたいし、貴女に私のことも知って欲しいのです。……体の隅々まで」
「結構ですわ!」
いくらロクセラーナが拒絶して暴れたところで、ロクセラーナを抱え上げる手はびくともしない。腐っても一級冒険者というところだろうか。
「結構と言っていただけて嬉しいです。それは、いざ私達の愛の巣へ向かいましょう」
「そういう意味ではございませんわああああ!!!」
せっかく人間に戻れたのに、このままロクセラーナの貞操は儚く散ってしまうのか。
ロクセラーナを抱いたウィリアムが、スキップしながらその場から立ち去ろうとした、その時だった。
「――おい、【炎騎士】! この辺りで俺の猿を……お前は、何をしているんだ」
(ゼドさまああああああ!!!!)
息せき切って角を曲がってきたゼドの姿に、ロクセラーナの視界が潤んだ。
(やっぱり、ゼド様は私の王子様……ピンチの時はいつだって、駆けつけてくれるのですね!)
ロクセラーナが感動に打ち震えている一方で、ウィリアムは忌々し気に舌打ちをした。
「……【黒剣】か。お前の猿なんか知らないから、さっさと立ち去ってくれないか。私は今、この麗しい御方と交流を深めるのに忙しいんだ」
「った、助けてくださいませ! この方が、無理やり私を宿に連れて行こうと!」
「……と、言っているが?」
「この私が、口説き落とせない女がいるとでも?」
そう言ってウィリアムは、貴族然とした顔立ちに似合わない下衆な顔で笑った。
「最初は嫌がった女も、私といればすぐに夢中になる。どんなに貞淑な女でも、どんなに愛する相手がいるものでもだ! 本人が望むようになるんだ! だからこれは合意だ!」
「――っふざけないでくださいませ!」
「⁉」
パシーンと、乾いた音が路地裏に響き渡る。
「貴方がどのように魅力的な御方であろうが、どのようなスキルの持ち主であろうが、私の気持ちは揺らぎませんわ! だって、大好きなのですもの。生まれて初めての恋なのですもの!」




