金茨姫ロクセラーナ
話は一週間ほど前に遡る。
舞台は、ゼドと水リスザルが出会ったグラディオン王国に隣接する、王政国家ヴァルトハイム。王家と貴族の子弟のみが通う、由緒ある王立学園。その卒業パーティーで、事件は起こった。
「ロクセラーナ・ルセリオ。我が婚約者としての品位も誇りも欠いたその振る舞い――公爵家の威光を笠に着て、罪なき令嬢を虐げてきた君に、もはや王家の未来を託すつもりはない。この場をもって、婚約を破棄する!」
朗々たる第二王子リヒトの宣言に続き、会場中に罵声が巻き起こる。
「ミユユ様に何をしたか、忘れたとは言わせない!」
「当然の報いよ!」
「恥を知りなさい、悪女!」
証拠もない。にもかかわらず、王族が卒業パーティーという公の場で婚約破棄を宣言するという前代未聞の行動に、誰一人として疑問を抱く者はいなかった。
リヒト王子と、その背に庇われる男爵令嬢ミユユ・アークロンド――その二人を除いた生徒たちの瞳は、どこか虚ろで、ひどく無機質だ。
その異様な空気に、ロクセラーナはほんのわずかに眉をひそめた。
「……これはまた、ずいぶんと茶番じみておりますわね。リヒト殿下」
艶やかに波打つ金の髪。氷を思わせる蒼の瞳。その視線は鋭く刺すようで、向けられた者の心を容易く凍てつかせる。
華やかな美貌に漂うのは、薔薇の棘のような威圧感。どこまでも冷ややかで、怜悧。――【金茨姫】の異名に違わぬ堂々たる風格で、ロクセラーナは見当違いの憎悪を向ける群衆を鋭く睥睨した。
「これは……【魅了】スキルでしょうか? 殿下の先天スキルは【状態異常無効】。ならば、これはミユユ嬢の能力と考えるのが妥当。――先天スキルを女性が所持することは、王国の法律で禁じられていたはずですが?」
この世界には、特別な才能――「スキル」と呼ばれる力が存在する。
中でも、ごく一部の人間のみに生まれながらに備わっている力は「先天的スキル」と呼ばれ、魔術や技術では再現できない、唯一無二の能力と言われている。
ヴァルトハイム王国では、この先天的スキルの所持に関して厳格な規定がある。
平民の子が持てば、魔具によって能力を奪われて、王家の資産とされ。
貴族の娘が持てば、スキルを持たない未来の婿や男児の為に、その力を各家で保管される。
スキルを正式に保持できるのは、王族をはじめとする特権階級の男たちのみ。
――つまり、ミユユがスキルを使用している時点で、彼女は法を犯している。
そして【状態異常無効】のスキルを持つリヒト王子は、それを承知で見逃しているのだ。
「ああ、やっぱり君は鋭いな。ロクセラーナ。さすが私の婚約者だっただけある」
悪びれず愉快そうに微笑むリヒト王子を、ロクセラーナは氷のような眼差しで一瞥した。
「では、なぜ、このような児戯のような真似までして、私との婚約を破棄なさるのですか?」
「理由は簡単。――ミユユの方が、有用だからさ」
そう言って、彼はミユユの腰を軽く抱き寄せた。王子の腕の中で、ミユユが勝ち誇ったような笑みを浮かべる。
「私はね、無能な兄を退けて、王位に就きたい。そのために、ミユユのスキルが必要なんだ」
「……それで、私には冤罪を着せ、見せしめに?」
「もちろん、それだけじゃないさ。麗しの金の薔薇。君のような高貴で誇り高い女性を、ただ捨てて終わりだなんて、もったいないにも程があるだろう。君には――最高の活用先を用意してある」
「辺境伯にでも下げ渡し、王家の影響力を広げるおつもりですか?」
「そんな小さい話じゃない。君が嫁ぐのは――魔大陸を統べる覇王、アムル=ナハシュの皇帝だ。第五夫人として、君の華を、あちらで咲かせてもらおう」
アムル=ナハシュ帝国は、魔族の国だ。
人間を劣った存在と見なし、過去には領土を巡って争い、冷酷な支配を行ってきた歴史もある。
今は平和を装っているが、その牙は完全に失われたわけではないというのが、人間側の一般的な見解だ。
そんな場所へ、自分を嫁がせるというのか。
ロクセラーナは一瞬だけ目を見開いた。だがすぐに、その感情を封じて踵を返す。
「……それだけのご用件でしたら、私はこれで失礼いたしますわ」
「ふむ。己の運命を嘆いて、やめてくれと懇願しないのか? 私も狭量ではない。それくらいなら、聞いてあげてもいいよ?」
「決まっていることなのでしょう? ならば、嘆く意味もありません」
完璧な一礼を残し去っていくロクセラーナの背は、どこまでも気高く、どこまでも凛としている。
リヒト王子は、つまらなそうに。ミユユは楽しげに。
遠ざかっていく後ろ姿を、しばし眺めていた。
「まったく、せっかく私が王家との縁談を取り付けたというのに……婚約破棄とは、ルセリオ家の面汚しにも程がある!」
「まあまあ、あなた。そんなにお怒りにならないで。代わりに、王家が帝国との縁談を整えてくださったのでしょう? 見ようによっては、ルセリオ家にとって一層の好機とも言えますわ」
「ふむ、確かに……ロクセラーナ。今度こそ、相手のご機嫌を損ねず、我が家に利をもたらすように」
一方的に糾弾し、弁明すら許さない父公爵。
取りなす風を装いながら、結局は“家”のことしか口にしない母公爵夫人。
ロクセラーナは、両親を無表情のまま見据えた。
「……仰る通りですわ。私はルセリオ家のために、存在しているのですから」
跡取りである弟ばかりを可愛がる――否、弟ですら、ルセリオ家を発展させる駒としか見ていない、冷ややかな両親。
もとより期待などしていなかったが、改めて彼らには愛情の欠片もないことを思い知らされる。
「帝国は、一刻も早く貴女との縁談を望んでいるそうよ。明日には家を発つようにとのことだから、部屋で準備をなさい」
この家に、ロクセラーナの人権は存在しない。
否、この国の高位貴族において、生まれてくる娘など、どこも政略結婚のための道具に過ぎないのだ。
「はい、お母様」
聞き分けの良い人形のように自室に戻ったロクセラーナは、侍女に「一人にしてほしい」と告げて部屋を出させ、ベッドに突っ伏した。
「――ひどい、ひどすぎますわ〜っ! 私が何をしたというんですの⁉ 王子様と婚約した令嬢は、幸せになるのが物語のセオリーではなくて⁉」
【金茨姫】ロクセラーナ――高貴な振る舞いと怜悧な美貌に反して、その本性は、恋に憧れるただの乙女だった。
「このお話も、このお話も、このお話も! 王子様と結ばれた令嬢は、皆そろってめでたしめでたしの大団円ですのに~!!」
ベッドの底に見つからないように隠していた宝箱から取り出すのは、幼い頃侍女エリサがこっそりプレゼントしてくれた恋愛小説の数々。
両親の目を恐れて、使用人たちも皆よそよそしく振る舞う中――ただ一人、変わり者の伯爵令嬢だった彼女だけが、姉のように親身に接してくれた。
もっともそんな彼女もすぐに、縁談で出ていってしまったから、一緒にいられた時間はごくわずかだったけれども。人生で唯一愛情を向けてくれたエリサと過ごした日々は、ロクセラーナの胸の中で大事な宝物のように刻まれている。彼女がプレゼントしてくれた、恋愛小説の内容も。
「……魔族の王に嫁ぐこと自体には、異論はございませんわ。姿こそ恐ろしくとも、心優しい獣と結ばれる物語だってありますもの……! でも、第五夫人なんて! 他にも奥方のいる殿方なんて、絶対に嫌ですわ!」
とても大事な、大事な宝物。……けれど、亜空間収納バッグが手に入らなかった以上、持っていくわけにはいかない。できる限り身軽でなければ、後々困るのだ。
表紙をそっとなぞりながら、一つ一つの物語を脳裏に思い描く。
(大丈夫ですわ……全部覚えていますもの)
(置いていったとしても……エリサが残してもらったものは消えませんわ)
最後にぎゅっと本を抱きしめて箱に戻し、取り出したのは――金色のトルク。
「さあ――ずらかりますわよ」