貧民街は危険な臭い(二重の意味で)
しっかとゼドのマントを両手の爪で掴みながら、ロクセラーナは青い瞳を潤ませる。
(それなのに、たった一日失敗したくらいで落ち込んでいただなんて……心が弱すぎましたわ。その失敗を必ず取り戻すという気概がなくて、どうしますの。もっともっと強くならなくては)
離れている間も、ゼドはたくさんの魔物と戦ってきたのだろう。抱き着いたゼドからは、汗と血の匂いがした。
(うふふふ……今日もゼド様は、良い香りですわ)
他の人間からすれば悪臭でしかないその匂いをうっとりと堪能しながら、ロクセラーナは固くリベンジを誓った。
「それじゃ、お猿師匠。出発するっすよー。フードから姿が見えないよう、気をつけてくださいね」
「うきっ」
前日同様にゼドとの涙の別れを済ませた後、ロクセラーナはポルカのフードに隠れて、薬の材料を売るお店に向かうことにした。
(しかし、水魔法で強制的に全身を丸洗いしたはずなのに……ポルカのフードの中は、まだ臭いますわね。ゼド様が、新しい服を買ってくださったのに)
貧民街に足を踏み入れた時から街全体が臭いとは思っていたが、実はポルカ自身もなかなか臭っていた。貧民街の住民の家に風呂などあるはずもなく、水浴びすら滅多にしない。しかもたまに思い立ったように水浴びをする川は、住民の生活排水で汚れて澱んでいるのだから、理由は押して図るべしというところであろう。
それでも一緒にいるうちに鼻が慣れたから、同じ空間にいること自体には文句はなかったのだが、フードの中に……しかも恐らくかなり長期間洗濯していない服のフードの中に隠れるとなったら事情はまた変わって来る。
(あれはまさに地獄でしたわ……)
ポルカがどこからか引っ張りだしてきた、黄ばんだ服を見た瞬間、正直嫌な予感はしたのだ。それでもゼドがせっかく出してくれた打開案を無下にするわけにもいかず、思い切ってフードの中に潜りこんだ瞬間、あまりの悪臭に卒倒しそうになった。
(服からも頭皮からも、漂う悪臭。身を隠すように言われた以上、新鮮な空気を求めて、顔を出すわけにも行かず……)
ゼドへの愛で何とか30秒は耐えたが、それが限界だった。これ以上その場に入れば命にかかわると判断したロクセラーナは、悪臭サウナ地獄から飛び出し、すぐさま水魔法を展開。お得意の水シャワーで、ポルカと自身の体を丸洗いした。
服ごと洗ったので、ポルカの一張羅のフード付きの服は水浸しで使えなくなってしまったが、飼い主として責任を感じたゼドが、ポルカに新しい服を買って来てくれたので、結果的に臭いはだいぶ軽減された。
(本当は石鹸で丸洗いをしたかったのだけど、お猿の身ではこれが限界ですものね。……それにしても、本当どれだけ水浴びをしてなかったのかしら。滴る水が妙な色をしていたのは、忘れられませんわ)
咄嗟にポルカ限定で追加水シャワーを展開した自分は、悪くないと思う。
思い出すだけで鳥肌が立ちそうになるおぞましい光景を記憶から打ち払うように頭を左右に振って、ポルカの肩の後ろに身を隠す。本当はこんな風に密着するのは、ゼド以外は嫌なのだが、今回ばかりは仕方ない。
(ああ……ゼド様は、どんな時もいい匂いですのに)
じんわりポルカから漂う悪臭にげんなりしながらも、ロクセラーナはポルカの陰で、外の様子を観察する。もしかしたら、薬の材料のお店へ向かう道中にも、何かヒントはあるかもしれない。
(道端に生えている雑草も、初めて見るものばかりですもの。もしかしたら、何か特別なものが混ざっているかもしれませんわ)
名称:ダレ草
概要: 貧民街の路地裏や排水溝の近くに生える常緑草。匂いがわずかに酸っぱい。
効果: 茹でるとえぐみが和らぐ。腹には溜まるが、後味が微妙に残る。飢え凌ぎには有用だが栄養価は低い。
名称:カスミ苔
概要: 湿った壁や地面に薄く生える白緑色の苔。手で触れると粉状に崩れるほど脆い。光を吸収し、暗闇で鈍く発光する。
効果: 微毒が含まれているため、食用不可。匂いも味もないため、貧民街ではスープに入れて食事のかさましに使われることもあるが、下痢を誘発するため注意が必要。発光を利用し、夜の明かりとして使われることもあるが、採取後は効果が一晩しか持たない。
名称:ヤセスミレ
概要: 葉も花も小さく、痩せた土地にしか咲かないすみれの変種。雨水だけで生き延びる。
効果: 苦みが強いので、食用には不向き。花弁は染色に使われることもあるが、非常に淡い色にしかならない為、人気はない。
名称:スモル茎
概要: 崩れかけた家屋の隙間など、風通しの悪い場所に自生する細い草。淡い紫色の斑点が特徴。
効果: 加熱するともそもそした食感で空腹感を誤魔化せる。味は木くずに近いが、食用可。食べ過ぎると便が固くなる。
名称:ベチの葉
概要: 地面に這うように広がるツタ状の草。雨のあとにぬるっとした手触りになる。
効果: 火を通すとほんのり粘り気が出るが、ぬめりが喉にひっかかるため好みが分かれる。腹には溜まるが、栄養は微量。
名称:ナシオ花
概要: 小さな白い花をつけるが、香りも蜜もなく虫も寄らないことで知られる。
効果: 花びらを乾かして煎じるとわずかに胃を落ち着かせる効果があるが、空腹は癒えない。ほぼ気休め用。
(……ううん、何の役にも立ちそうにないものばかりですわ。食べられるかどうかの情報ばかりですし)
「あ、これ食えるんすよねー。腹は緩くなるけど。夕飯のスープ用に採ってこうかな」
「うっきぃ!(カスミ苔はやめときなさい!)」
周囲に人目がないことを確認してフードから飛び出ると、ポルカの手の中にある採取しかけのカスミ苔を叩き落とし、代わりにダレ草とスモル茎、ベチの葉を素早く採取して渡す。栄養価が低くても、微毒よりはマシだろう。
(むむっ、誰か来ましたわ)
人の気配を感じ、素早くフードの中に身を隠すと、間一髪。角を曲がってやって来た中年男性が、ポルカに気づいて近づいてきた。
「お、ポルカ。こんなとこで、食材調達か?」
「あ、エンリケさん。どもっす」
「ダレ草にスモル茎、ベチの葉かぁ。苦くてまずいけど、腹に溜まるから、俺もよく採るわ。あ、カスミ苔はやめとけよ。先月苦い草は嫌いだからって、カスミ苔ばっかり食ってたガキが、下痢拗らせて脱水で死んだらしいからよ」
「マジすか……オレのとこに来てくれたら、助けられたかもしれないのに」
「相変わらずのお人よしだなぁ。おめぇは。栄養失調と脱水が原因だから、薬何かじゃどうしようもなんねぇよ。あ、そうだ。前もらった、薬の礼言っとかねぇと。ありがとな。おかげでだいぶ痛みがましになったわ」
黄色い欠けた歯を見せて笑いながら、腕に巻いた茶色い包帯を見せつけるエンリケに、ポルカが眉間に皺を寄せる。
「……エンリケさん。ちゃんと包帯、新しいのに代えてるっすか。汗とほこりで、めっちゃ汚くなってるじゃないっすか」
「お前にもらった奴、ずっとつけてるに決まってるだろ。布にかけられる金なんかねぇし」
「汚い包帯使い回してると、怪我が悪化するっすよ」
「そん時は、そん時だ。どうせ、俺たちなんか、いつ死んでもおかしくないんだからよ……あーあ。どっかに景気いい話転がってねぇかなぁ」
フケを飛び散らしながら頭を掻いて点を仰いだエンリケは、不意にニンマリと嫌な笑いを浮かべると、内緒話をするかのようにポルカの肩を抱いた。思いの他近い距離に、ポルカの背に張りついて身を隠していたロクセラーナの体が、びくりと跳ねた。
「……そういやぁ、ポルカ。お前、【黒剣】と仲良かったよなぁ。【黒剣】が連れてる猿、めっちゃ高く売れるって知ってたか」
「……知ってるっすけど」
「売っぱらうとこ紹介してやるからよぉ、何とかあの猿盗み出せねぇか? 俺の取り分は二割でいいからよ」