後輩と、先輩
よろしくお願いします
泉谷厚志24歳。営業部所属のこれといった特徴もない男。入社2年でまだまだペーペーの域を抜け出せていない。これが俺だ。
「お疲れさまぁ。向こうの課長さんはけっこう乗り気だったね」
「ですね。話していても感触良かったっす」
「これは一気に畳み掛けて、契約まで行っちゃうのが間違いないね」
「それがいいと思います。次のアポは来週の木曜日なんでそこで決めちゃいましょう」
俺が会話をしているこの人は、俺の2コ年上の柏木さやか先輩。彼女とは俺が新入社員のときにバディになってもらって以来の付き合いだ。
先輩は短大卒からの入社組なので俺よりもずっとキャリアが長い。ゆえに彼女には新しい気付きをたくさん貰えて大変勉強になるし、お世話にもなっている。
うちの会社ではバディ制度を採っているので、新入社員教育以降もそのままバディを継続することがある。もちろん、個々の技量や得手不得手によってはバディ相手が変わることもしばしばあるらしい。
俺は運がいいことに柏木先輩と新人の頃から継続してバディを組んでもらえている。これは本当にラッキーだとつくづく感じている。
「さーてっと。直帰の連絡も入れたし、夕飯なんてどう? 近くに美味しいご飯も出す居酒屋さんを知っているんだけど」
「いいっすね。あーでも、俺、今日はあんまり食えないと思うんですよ」
「どうしたの? 身体の調子でもわるいのかな」
「いや、身体の方は万全なんすけど。えっと、大したことじゃないんですけど、ちょっと前に実家から段ボール箱いっぱいの野菜が送られてきまして——」
両親は農業を片手間程度にしかやっていないが、祖父母が現役バリバリの農家なのでしょっちゅう野菜などを段ボール箱で送ってくる。しかも今回はいつもよりもずっと多くの野菜が詰め込まれていたのだった。
仕事が忙しかったのもあり、しばらく放置していたのだけど、ここのところの陽気でじゃがいもは芽を出してくるし、玉ねぎなどもやや痛みはじめてきたような気がしていた。
冷蔵庫に保存するっていっても一人暮らし用の冷蔵庫なので、入れられるのは葉物野菜とかの一部でしかない。よって取れる選択肢としてはさっさと調理して食ってしまうことの一択になる。
「——ということで、今俺んちの冷蔵庫には昨日作ったカレーとか大根を煮たやつとかがぎっちり詰まっているんでなんとかそいつらを片付けないといけないんすよ」
「へー泉谷くんって自炊するんだ。今流行りの料理男子ってやつだね」
因みに一昨日はこの暑い中白菜の消費のために白菜と豚肉のミルフィーユ鍋をやった。お陰で白菜を半分だけでも消費できたので御の字だろう。
「俺なんか大したもんなんか作れませんて。あんなの趣味みたいなもんです」
「なるほど。そういうことならわたしも協力しなきゃね」
「?」
今の会話の中でどこに先輩に協力を仰ぐような要素があったのだろうか。柏木先輩の協力ってなんだ。まだ余っている野菜を貰ってくれるとかだろうか?
「つまりはぁ~今晩のお夕食は泉谷くんお手製料理のご相伴にあずかればいいってことだよね。わたしは興味津々な泉谷くんのご飯が食べられるし、泉谷くんはいっぱい作りすぎた料理を減らすことができる。一石二鳥だね」
「えっと?」
「泉谷くんのお家ってどっち?」
「西武線沿線ですけど……」
先輩のお宅は武蔵小金井みたいなので、俺の自宅のある田無からは近いっちゃ近い。先輩が意外と近いところに住んでいたなんて初めて知った。
押し切られる形で先輩を俺の自宅に招待することになった。昨日カレーを煮込んでいる間が暇だったので部屋の掃除をしたのだけど、これが功を奏した感じになる。昨日の俺グッジョブ!
それにしても男の一人暮らしの部屋にいきなり来るとは先輩も何を考えていらっしゃるのだか。もしかしたら、何も考えていないってこともありうるのだけど。
柏木先輩はキレイ系って言うよりもカワイイ系の女性。年上の女性に向かって可愛いはナシかもしれないけど事実なのだからしょうがない。
少しだけブラウンに染めたミディアムロングの髪をポニテにして、耳には控えめなピアスがキラリと光る。営業職ってことも大いに関係するだろうけど、化粧は控えめ。だがそれがまたいい。
誰とでも隔たり無く会話するし、優しくて気も利く。はっきり言って柏木先輩のことを狙っている男性社員が複数いることも確認済みである。
ただ男性からの好意に関してはだいぶ疎いらしく、アプローチを受けても全然気づかない様子を伺わせている。見ていてヒヤヒヤするけれど、いつもそんなのお構い無しで相手を撃沈させていた。
「どうぞ。狭いですけど、寛いでいただければ」
「おじゃましまーす。わっ、案外ときれいにしているんだね。1LDKってことはこっちが寝室かな」
「あー、余計なことしないで座っていてくださいよ。今からカレー温めますからっ」
「ほーい」
素直にテーブル横に置いてあったクッションの上に座る先輩。跳ねるように座り込む姿は子供っぽくて思いの外かわいかった。
「あ、飲み物どうします? ミネラルウォーターかビールしかないですけど」
「ビール一択で」
「あぁ、はい」
自分から言っていてこんなこと考えるのもおかしいけれど『今先輩は後輩とはいえ男の部屋に来ているんですよ? それなのに酒のんじゃいます?』って思うんですよ。
なにか間違いがあったらどうするんですか? いや、間違いなんて起こす気は全く無いけど、兎角間違えってやつはそういうときに起きるから間違いなのであって……。
俺がごちゃごちゃといろんなことを考えている間にも先輩はビールのプルタブをカシュッと開けて「お先~」とかいいながらぐいっと缶ビールを煽っている。
こういうところは天然っていうかナチュラルっていうかなんだよな。気にしたほうが負けなのかね。
料理ができるまともなキッチンがあること、というのが部屋を決める第一条件だったので今のこの部屋に落ち着いた。かれこれ学生の頃からなのでもう6年も住んでいる。
1LDKという間取りも気に入っている。寝る場所と普段いる場所が違うのはスイッチの切換えが出来ていいと思う。駅からそれなりに遠いのとすぐ近所にコンビニがないのはネックだが散歩だと思えば気にならない。
冷蔵庫の中で冷えて固まってしまったカレーを弱火でじわじわと温める。しかもたまにかき混ぜてやらないと焦げ付くし。存外に手間のかかる作業だが俺としてはけっこうこの時間は好きだったりする。
日常のスピードが早いので、こんなところでスローを楽しんでいるのかもしれない。
「先輩、お待たせしています。もう少しで温まるので……って、どこ行った?」
俺がコンロに張り付きでいたので柏木先輩を放置していたのが悪いのだろうけど、あの人は何をしているんだ?
一旦火を止めて、先輩がいるであろう寝室の扉を開けてみる。
「何してんすか?」
「ん? 家探しですが、ナニカ?」
「いやいや、おかしいでしょ? やめてくださいよ」
「おやおや。慌てるとか怪しいね、泉谷くん。ここら辺りかね、君のシークレットなものが隠されているのは」
そう言って先輩は俺のベッドにダイブする。ベッドのマットレスはちょっといいものにしているからか先輩は気持ちよさそうにベッドに沈んでいる。ってそんなのどうでもいい。
「なんで男のベッドにダイブするんですか? あんた可愛い女の子っていう自覚ないの!?」
「……だめ? ふふふ、泉谷くんわたしのこと可愛い女の子って思っているんだぁ。この年になって女の子って呼ばれるのおじさん達以外じゃ初めてかも」
あまりの事態に思わず本音が溢れてしまったが、下手に言い訳するとやぶ蛇になりそうなのでカレーが温め終わることを理由に話を切り上げた。
「いただきます! ん~うっまー。泉谷くんやっぱ料理上手だね」
「市販のルーがいいんですよ。メーカーの努力の賜物っす」
「付け合せが大根のそぼろ煮と白菜のサラダってところがなんかチグハグで良い感じ」
「なんか馬鹿にされているような気もしなくもないですけど」
仕方ないと思うんですけど。今回はとにかく長期保存がコンセプトなので、そういう調理方法だったし、まさか先輩にごちそうするなんて完全に想定外ですから。
「でもすごいなぁ。こういうのがさらってできちゃうのはカッコいいし尊敬しちゃう」
「……うす」
「ということで、ビールもう1本頂戴。その後は、冷蔵庫で見たけど、なんか良さげな日本酒が入っていたね? 冷が美味しいのかな、どうなのよ」
「はいはい。ビールでも日本酒でもどうぞ。ウィスキーもあるので飲みたければいくらでも」
一人暮らしの男の部屋云々は一旦考えるのを横においておくことにする。カレーをガッツリ食べて、酒をちゃんぽんしている時点で色っぽさなど微塵もないので。
柏木先輩から見れば俺なんて仕事もできない半人前の後輩男の一人に過ぎないだろうし、そもそも男として見る価値など有していないのだろう。
普段から男性の好意に気づかないくらいなのだから、ただの要教育個体の一つとしか見られていない俺の好意などには気づくわけがない。
こうやって俺んちに来てくれたのだって彼女の好意からではなく単純に俺の飯に興味があっただけ。要するに食欲だけってことだろう。
ならば精一杯のおもてなしをして気分良くお帰りいただけることが俺の今取れる最良の手じゃないか。
目いっぱいのおもてなしをして、先輩にはタクシーを呼んであまり遅くなる前にお帰りいただいた。一升瓶半分ほど残っていた日本酒は空になった。二人でのんだとはいえ、先輩の飲みっぷりには驚いた。
帰り際少し寂しそうな表情をしてくれたのはご褒美だと考えていいと思う。つまり先輩は楽しかったから名残惜しかったのだろう。十二分に楽しんでくれたことは俺も喜ばしい。
ただし楽しんだのは先輩だけではない。俺も相当楽しんだんだし、この機会を存分に嬉しく思っていた。
「柏木先輩ってあんな表情もするんだな……」
先輩は仕事モードがオンのときは、なんというかクールな印象が強くて、できるオンナ感が全面に出ている。社内で身内だけのときは愛想がいいけどどこか作ったような笑顔でいる印象がある。
なのにオフになった途端、すごく可愛らしい面を見せてくる。そういうところに俺は惹かれたのだけど今夜の彼女は、その可愛らしささえも凌駕するほどで、可愛いの一言で表すのが難しかった。
あんなに楽しそうに笑う先輩を見たことがない。会社の飲み会のときでさえ、あんなに飲んでいないし本心からと思える笑顔も見たことがなかった。
あの甘い笑顔を俺の前だけで、先輩のプライベートの一部を俺と共有してくれたことが嬉しくてたまらない。やや下衆だけど、他の男どもに見せない一面を俺だけが知っているというのにも優越感があった。
正直今夜の俺は正気を保つのが精一杯で、少しでも気を抜いたら先輩のことを抱きしめてしまいそうになっていた。今まで生きてきてここまで人を愛おしく思ったことは一度も経験していない。
「あー、マジでヤバイ。さやかさんのこと好きすぎて気が変になりそう……」
一人で部屋にいるとき限定で柏木先輩のことはさやかさんと名前で呼んでいる。アホ丸出しだけど、ちょっとしたお愉しみなので許してほしいと願っている。
ピコーン♫
『家についたよー! 今日はありがとうね♡また明日』
さやかさんからだった。会社から支給されている端末ではなく、個人所有の端末同士でも連絡先を交換したのだ。
「やだもう……好きすぎる」
明日も平日なので普通に仕事がある。さてどんな顔して彼女に会えばいいのだろうか。明日も二人でまる1日中外回りだ。
「二人きりか……」
思考が恋に恋する中高生並みに低下しているのは重々自覚しているけれど、こればかりはどうにも出来ない。とりあえず馬鹿になるのは今夜までにして明日からはちゃんと仕事しようと思う。
「お、おはようございます。柏木先輩」
「おはよう、泉谷くん。昨日はごちそうさま」
「いえ……」
「早速だけど、今日明日はスケジュールがタイトだから、ちょっとこのあと15分ほど打ち合わせしたらすぐに出るわよ。今日の最初はサナエ商事さんからね」
翌朝の先輩は普段通りのシゴデキパイセンでした。昨夜の甘さなんて微塵も感じないほど。俺自身もかなり忙しく余計なことを考えている暇もまったくなし。
そのまま2日間仕事に邁進して継続、追加、新規の契約を3件取ったところで週末フィニッシュを迎える。今週は稀に見る好成績を収めることが出来た。
「疲れたぁ……」
「泉谷くんもお疲れさま。この2日はわたしも最近じゃ経験してなかった忙しさだったわ。お陰で新規の契約も取れたし」
「先輩の力量ですよ。俺なんか後ろをついて行っただけですもん」
「そんなことないよぉ~。泉谷くんの的確なフォローと鋭い指摘があったからこそ契約に至ったわけだしさ。自信持って大丈夫。わたしが保証する」
最低限バディとしての役割は熟していたようでホッとする。俺が主担当の物件も追加で契約を取れたしちょっとだけ自信を持とうと思える。
先輩は早くもオフモード。仕事はもうおしまいってことだな。
「さて、行こうか」
「? どこへですか。今日はもう直帰ですよね」
「だからだよ。美味しいご飯を食べに泉谷くんちまでレッツゴー」
「は、はぁ!?」
先輩は俺んちに来る気満々だったようで、有無を言わせず俺を駅に引っ張っていく。何気だけど、手を繋いでいるんだよな、今。
——って。
「ちょっと待ってください。うち来てもなんにもないですよ? 野菜類はもう食べてしまったり冷凍したりしてありますし」
「じゃ、なにか買っていこう」
「うーん……はいはい。わかりましたよう。先輩は何が食べたいですか? 俺が調理できるものなら何でも作りますよ」
「おー流石。物わかりがいい泉谷くんは好きだよ。そうだな、昨日今日と頑張ったからガツンと肉が良いかな。油っぽいものなんかいいかも」
違う意味でも「好き」とか言わないでほしい。ちょっと嬉しくなっちまうだろ。
「じゃぁ、揚げ物いってみますか? 唐揚げとかメンチカツとかはどうでしょう」
「ほんと話が早くて助かるよ。唐揚げもメンチもキンキンに冷えたビールに合いそうだね。ハイボールとかもいいかも」
「ははは。じゃ、近所のスーパーで買い物して帰りましょう」
「あーそうだ。わたし一旦自宅に帰っていい? 買い物一人でさせちゃうけど」
普段は買い物なんか一人だしなんの問題もない。油ものだからスーツを脱いで油臭くなってもいいような服を来てくるのかな。
「全然オッケーっす。鶏の下ごしらえもあるし、メンチもひき肉からやるんでゆっくりでいいですからね」
「ありがとう。じゃ、また後で」
それにしても週に2回も来てくれるなんて。
しかも今日は週末だからこの前みたいに早めに帰ってもらわなくてもいい。
でもまぁ、そういうのはだめだよな。俺のこと信用して来てくれている先輩に自分の欲望で長居させるのはちょっと違うかもしれない。
本心を言うなら泊まっていってほしいくらいだけど、流石にそれは恋人同士がやることであって、単なる先輩後輩の仲では一線を超えすぎているだろう。
「でもなぁ……好きになっちまってんだよなぁ」
駅前の店で鶏肉とひき肉を買う。酒屋にも寄ってビールといくつかの酒も買い込む。
その他足りないものとか、つまみになりそうな物を買ったら自宅へと急ぐ。今日は下ごしらえとか色々やらないといけないことがあるので急がないとね。
先輩は7時過ぎに来るというのでまだ時間には余裕があるけど、心の準備のほうは余裕があまりない。2回目と言っても緊張するものはするんだ。
今夜も二人で食事と飲みと。
2回目ともなると別の期待とかもしてしまっていいのだろうか。だめだよな。そういうんじゃないし。
もう何度目かの葛藤は収まってくれそうもない。
とりあえず無心になって、鶏肉を切り、ひき肉をこねることにしよう。
1時間ほどで下ごしらえは終わり、後は材料を油に放り込めば出来上がる。揚げるのは熱々を食べてほしいので先輩が来てからにする。
「まだかな。もう7時過ぎたけど」
7時過ぎって言っていたので少しくらいは前後しても全く問題ないのだけど、待っている身となるとなんとなくソワソワして落ち着かない。
さっきから立ったり座ったりを繰り返しているので、これならば何かつまみでも別途作っておけばよかったと後悔し始める。
ピンポーン♫
インターホンが鳴り、思わず飛び出して行きそうになるが、一度冷静になりモニターを確認し柏木先輩であることを認めて初めてドアを開けた。
「いらっしゃ…………」
先輩の姿を目に収めた途端声が出なくなった。
「えっと、へ、変かな?」
「い、いいえ。まったく、ぜんぜん。いいです。すごく、いいです。かわいいです」
答えが幼児化している。だって、そんなの不可避だと思う。だって、先輩が。いつも仕事ではパンツスーツ姿の先輩が。その姿しか見たことのない先輩が……。
「似合う?」
「とても。スカートコーデ、似合います。下ろした髪も素敵です。えっと、俺、女性のこと褒めたことないんでうまく言えないですけど、一言で言えば最高です」
濃紺のティアードスカートに純白のブラウス。足元はショートブーツと普段とは違った大人甘いコーディネートにくらくらしてしまう。
化粧も直したみたいで、いつもとは全然違って可愛いっていうかきれいっていうか。フローラルなコロンの香りもほのかに香ってくる。
1000パーセントの気持ちを込めて先輩のことを褒めたいのに本当に自分の語彙が足りないことをこの時ほど情けなく思ったことがない。
「えへへ。ありがとう」
「えっと、どぞ。用意はしてあるんで、後は揚げるだけになっています」
「「いただきます」」
30分ほど先輩には待ってもらい、用意してあった鶏肉もメンチも全部揚げた。思いの外けっこうな量になってしまったが、余ったらお土産に渡しても問題ないだろう。
「うわぁっ、おいひい! あちちち……。この唐揚げ、お店で出されているって言われても納得しちゃうくらいに美味しんだけど? メンチは……ううん! これまた最&高だよっ」
「そりゃ良かったっす。ああ、肉汁こぼさないようにしてくださいね。せっかくのきれいな服が汚れちゃいますよ」
「だいじょうぶ大丈夫。子どもじゃないんだからご飯はこぼさないって……あっ」
「ほらいわんこっちゃないですよ。タオルで拭けばなんとかなりますか?」
柏木先輩は注意しているそばからブラウスに唐揚げの肉汁をこぼしていた。ビールとジントニックを飲んだところなので少し酔っていたかもしれないが迂闊すぎる。
「あー、だめみたい。泉谷くん、Tシャツでいいから貸してもらえないかな? 洗面所でこのシミを洗っておきたいんだけど」
「あ、はい。いいですけど、新品はないですよ? それでいいなら……」
「なんとか落ちたと思う。シミにはならないから良かったよ。ごめんね、お騒がせして」
「いえ、大丈夫です。えっと、Tシャツは平気ですか?」
「うん。ちょっと大きいけど平気だよ。泉谷くんの匂いがするね。柔軟剤かな? いいにおい」
「おふ……」
そういうの冗談でもやめてほしい。なんか俺が先輩のこと抱きしめているみたいなこと想像しちゃうじゃないか。いや、勝手に想像しているだけだけどさぁ。
食事も終わったので片付けて、あとはお酒をちびちびと飲む程度にする。つまみはミックスナッツでいいよな。
「先輩なに飲みます? アブサンとかもありますけど」
「アブサン? 聞いたことあるけど飲んだことないなぁ」
「薬草系のリキュールですよ。ちょっとクセありますけど、けっこう美味いですよ」
「じゃ、それを」
勧めておいてなんだけど、アブサンはアルコール度数高いんだよな。まあ、先輩なら大丈夫かもだけど。
バーボンとアブサンをそれぞれグラスに注いで、氷を放り込んだらソーダで割る。食事中から飲んでいたので、両方とも薄めにしておいた。
「そういえば、帰りとかってまたタクシーでいいですか?」
「ううん。帰らないよ」
「帰らないって。いや週末ですからまだ早い時間ですけどね」
「そういう意味じゃないんだけど……」
「ん? 何か言いましたか?」
「な~んにも。そうだ、映画でも見ない? サブスクやっているんでしょ?」
そういうなりリモコンを操作して映画の選択画面を見ながら先輩は作品を吟味し始める。先輩の好みってどういうのだろう。いままで映画とかの話ってそういえばしたことないかも。
「ロード・オブ・ザ・リングの3部作を見ましょう」
「イヤですよ。全部見終わる頃には朝日が昇っていそうじゃないですか」
「じゃぁいいよぉ。これにする」
「わかりました。それでいいですよ。俺、そういうの普段見ないので楽しみです」
先輩が最終的に選んだのは恋愛映画。内容はわからない。見たことないからね。
でも柏木先輩が選んでくれたのだから、心して観させてもらおうと背筋を正してテレビモニターの前に座る。状況上、先輩と肩を並べて見ることになるけど、一応こぶし5個分以上は離れているので問題無しとする。
「これはね。高校の先輩に憧れる後輩男の子くんの恋物語なんだよ。泉谷くんは年上の女性ってどう思う?」
「……いいと思います」
「えへへ、そうなんだぁ~」
なんでそんなに嬉しそうなんだよ? ちくしょう。期待しちまうじゃないか。
「泉谷くんって高校生の頃はモテたの?」
「そんなわけ無いでしょ。先輩みたいに見た目が整ってないですもん」
「じゃ、彼女とかいなかったの?」
「あ~、高2のときに何ヶ月かだけいた事ありますね。大学のときも2年弱くらいは彼女いたことありましたけど、俺なんかそんなもんです」
『先輩はモテモテで彼氏途切れたことなんかないでしょ』くらいの軽口を叩こうと先輩の方に目を向けたんだけど、明らかに不機嫌そうな横顔していたのでお口チャックで何も言わないことにした。
「今は彼女とかいるの?」
「いないっす。もう3年以上そういうのご無沙汰ですよ」
『あなたしか見ていなかったので』とか言えたらカッコつくのかな。情けないけど告白する勇気がまだ湧いてこない。
「じゃあ、泉谷くんもエッチなお店とか行くんでしょ? 4課の五十嵐さんとかそんな話していたもんね」
「いや、俺はないですよ。その場限りの欲望を吐き出すとか俺には無理なんで。だからナンパとかも無理っす」
「……そうなんだね」
ちらりとまた先輩の横顔を伺うと、今度はすこし口角が上がっていてなぜか嬉しそうな表情をしている。
しばらくは映画を静かに眺めていた。思っていた以上に恋愛映画って面白いんだと感じた。けっこう感情移入できるし、主人公の後輩くんにもシンパシー感じてしまう。
「柏木先輩は、年下の男ってどう思います?」
思い切って聞いてみた。もちろん、その年下の男は俺ではなく画面の中の彼ってことにしてだけど。
「………………いいと……おもう……」
めちゃくちゃ間が空いたので逆にそれ以上突っ込んで聞くことができなくなってしまう。その間はなんて考えればいいのだろう。
画面の中では後輩くんが先輩に告白している。ぜひとも成功してほしいと願う。
『おれ、真田先輩のことが好きです! 年下で頼りないと思うかもしれないけど、絶対に先輩が幸せになるように努力するんで、おれと、付き合ってください!』
俺からも頼む。真田先輩、後輩くんの想いに応えてやってほしい。
「あ……」
声を漏らしたのは俺なのか、柏木先輩だったか。
真田先輩は後輩くんの想いに自分も想いを乗せて『わたしも大好き』と返している。そして夕日をバックに二人の影が重なり合う。
良かった。後輩くんの想いは成就したようだ。
思わず感動してしまう。自分自身を彼に投影したせいか若干目頭が熱いのは気の所為じゃないだろう。
「泉谷くん」
「はい」
「キスして」
「はい?」
視線を画面に向けたまま柏木先輩がそんなことを言う。
藪から棒にどういうことなのだろうか。
「言わないほうがいいかなとも思っていたんだけど、映画見ちゃったら色々と考えちゃって……もうだめかな、って」
「だめって?」
「我慢」
「……それなら、俺も我慢しているんで先に言っちゃってもいいですか?」
たぶん第三者に止められたとしてももう俺は止まらないと思う。
気持ちが加速度的に高まっていく。もうこれでもし振られても悔いはないし、先輩が仕事をしづらくなるっていうなら会社を去るのだって吝かじゃない。
「俺、柏木先輩が好きです。一人の女性として好きです。毎日毎日気が狂いそうなくらいあなたのことを想っています。迷惑かもしれないですけど、俺と付き合ってください」
「…………」
先輩の目をしっかりと見ながら一気に告白してしまった。気が狂いそうなくらいとか重すぎるって言った直後に思ったがもう遅い。
でも先輩は何も言ってくれない。
やはり映画のように都合良くはいかないのだ。あくまでも俺と柏木先輩は会社の先輩後輩の仲で、仕事上のバディでしかないということだろう。
一気に気分が萎えていき、先輩の瞳を見つめていた自分の視線が外れていきそうになった時、先輩の目から涙がこぼれ始める。
「あっわっ。すみません。俺、イヤでしたよね、すみません。あの、その……」
突然の涙に動揺しまくる。どうしたらいいのか、間抜けなほど右往左往するばかり。
「違うの」
「へっ、違うって?」
「嬉しいの。わたしも泉谷くんが好き、大好き。一緒にいたい、ずっとずっと一緒にいたい。あなたのことが愛おしくってどうしようもないの」
「…………」
今度は俺が固まる番だった。柏木先輩は、俺のことが好き。愛おしくってどうしようもないくらいに。
何も考えられない。なのに身体は勝手に動いて。
先輩と唇を重ねる。
最初はそっと触れる程度に。
やがてすぐ貪るように。
なんとか唇を離せばこれ以上ないくらいにお互いに強く強く抱きしめ合う。
落ち着いたのはベッドの中で。
時計を見ると告白したであろう時間から2時間ちょっと過ぎている。
どれだけ二人して盛ったのか。
でも無理もないだろ?
ふたりとも思いが募りすぎて重いくらいになっていたんだから。そもそも俺らのことなんだから外野には関係ないけどな。
「先輩に想いが通じて嬉しいです」
「泉谷くん、敬語はやめて。あとその先輩っていうのも仕事中はともかく二人のときは『さやか』って呼んでくれないと嫌だよ」
「おっけ、さやか。ならばさやかも泉谷くんはやめてよ」
「うーん。厚志くんっていうよりも、やっぱり泉谷くんのほうがしっくり来るんだよなぁ」
さやかに名前で呼んでもらえるまでは時間がかかりそうだな。
「さっき、好きって言ったじゃない?」
「うん、まさか嘘だったとかじゃないよな」
「違う違う。本当に泉谷くんのことが好きだよ。じゃなくってね、本当は————やっぱやめた」
「そこまで言っておいて止めるのてずるくない? 怒んないし、呆れたりとか、そういうネガティブなこと言わないからいうだけ言ってみてよ」
そういう中途半端なところで止められちゃうと気になって気が気じゃなくなる。どんなことでもズバッと言ってほしい。
「あのね。じゃぁ、言うけど……本当に引いたりしない?」
「しないよ。信用ないなぁ」
「わかった。言うね。本当はただ付き合うんじゃなくて、えっと、泉谷くんと結婚したいの。言ったじゃない? ずっと一緒にいたいって」
「……」
「やっぱ引いたじゃない! 嘘つきぃ~」
「いやそれは違うよ。あのさ、さやかの言う通り結婚しよう。明日、てかもう今日だな。役所行って婚姻届を出してこよう。申し訳ないが指輪とか諸々はあとでになるけど、そこはご勘弁ってことで」
いわゆる0日婚だけど、実際にはさやかのことを好きになって1年以上は経っているはずだからあまり気にならない。それよりもさやかが俺一人のものだって公式に認められる方が嬉しい。
「いいの?」
「もちろんだけど。それより俺でいいのか?」
「泉谷くんがいいです。あなたを独り占めしたい」
「ならば決定だな。明朝一番で結婚しよう。新しい住まいとかも探さないとだから忙しくなるぞ」
「うん! そういう忙しいのは大丈夫。どんなに忙しくてもクレーム処理のことと比べればへっちゃらだよ」
「クレーム処理と結婚の手続きを同じに考えるのはやめてくれないかな……」
ということで、俺達は結婚します。どこの誰よりもしあわせになる用意はできています!
週明け、会社で結婚の報告をするととんでもない大騒ぎになるのだが、このときの俺達は、まだ知らない……。
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