ウミガメとキックボクシング
卯年に届いた林くんからの年賀状には、『海亀』という二文字がレタリングされていた。
今年も新年になってからポストに投函したようで、消印は一月四日になっている。
僕はお気に入りの絵本を繰り返し読む子供のように、林くんからもらった年賀状を何度も見返していた。
林くんがレタリングした文字には、命が吹き込まれる。
翠色に彩られた『海』の字は、流れるような筆遣いで打ち寄せる波を感じさせてくれるし、濃淡をつけた褐色で描かれた『亀』の字は、まるで水中を泳いでいるかのように伸びやかだ。
冬休み明けに部活へ行くと、林くんが沖縄旅行のパンフレットを机の上に広げていた。
「シロ! 卒業旅行で沖縄に行くから、お前も来いよ!」
「僕、まだ卒業しないんですけど」
「知ってるよ! 俺と伊藤の二人で行く予定だったんだけど、人数多い方がホテル代とか安くなるからさ、春休み暇なら一緒に行こうぜ!」
「金額次第ですね。いくらくらいかかるんですか?」
「二泊三日で十万くらいかな」
「……高いですね、やめときます」
「あと二か月あるんだから、バイト増やして稼げよ!」
「そこまでして行きたくないです」
「なんだとこの野郎!」
久しぶりに、林くんがブチ切れて僕の足に蹴りを入れてきた。
脛に当たって、めちゃくちゃ痛い。
痛すぎて思わず林くんの足を蹴り返したら、椅子ごとひっくり返ってしまった。
バタン! という大きな音がした後にゴッという鈍い音が聞こえてきて、僕は慌てて立ち上がる。
「すみません、反射的に足が出ちゃいました」
慌てて林くんを助け起こしにいくと、目をぱちくりさせて放心している。
「大丈夫ですか?」
「おう。ていうかシロ、お前のキック、めちゃくちゃパワーあるな」
「そうですか? 鍛えられてるからですかね」
「お前、鍛えてんの?」
「鍛えてるんじゃなくて、鍛えられてるんです。うちの父親、昔キックボクシングを本格的にやってたらしくて、小さい頃から無理矢理トレーニングさせられてて」
「何だそれ! 聞いてねーぞ! じゃあ何で今まで俺にも他の奴らにもやり返さなかったんだよ!」
「暴力、嫌いなんで」
僕は答えながら、このことで林くんの態度が変わってしまったら嫌だな、と思っていた。
小学生の時、うっかり反撃して相手を怖がらせてしまい、避けられるようになってしまった経験があるからだ。
だがその心配は、杞憂に終わった。
「お前、強いんなら俺にも闘い方を教えろよ!」
いつもの調子で、林くんが僕に絡んでくる。
「別に強くはないです。ただ鍛えてるってだけで、試合にも出たことないですし」
「ふーん、つまんねーの。まぁいいや。それより、沖縄は一緒に行くんだろ?」
「行きませんってば」
「予約はこっちでやっとくから、任せろ」
相変わらず、僕の話など聞こうともしない。
その時、一人の男子生徒が美術室に入って来て
「シロちゃん久しぶりー」
と僕に声をかけた。
「……伊藤先輩……ですよね? 髪の毛どうしちゃったんですか?」
カラフルだった髪色は落ち着いたダークブラウンに染め直されており、髪型も短く整えられている。
「もうすぐ入試だから、試験会場で浮かないようにしようかなーと思って。ほら、TPOって大事じゃん?」
伊藤先輩の言葉に、林くんも同意する。
「そうだよな。俺もそろそろ金髪やめようと思ってんだよ。今まではちょっとしか親父の仕事を手伝ってなかったから、そん時だけ頭にタオルを巻いてたんだけど、これからはそうもいかないからな」
「意外と常識あるんですね」
僕が感心すると、林くんは得意げな顔で
「まぁな」
と胸を張る。
伊藤先輩が教室の時計に目をやりながら
「林ー、そろそろバンドの練習行こー」
と促す。
「おう。それじゃ、シロは旅行代しっかり稼いどけよ!」
林くんはそう言って、伊藤先輩と一緒に教室を出て行った。
ふと見ると、机の上に沖縄旅行のパンフレットが置き去りにされている。
何気なく手に取ってパラパラめくると、『ウミガメに会えるシュノーケリング・ツアー!』と書かれたページに折り目がついていた。
なるほど。
これを見たから今年の年賀状は『海亀』だったのか。
謎が解けてスッキリした気分になった僕は、旅行代を貯めるためにバイトを増やそうかな、という気になっていた。