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水没教室

作者: 萌袖りな

水没教室

萌袖りな







 手で頬を叩こうとしたが思うように動けなかったので、ここが夢だとわかった。

 鈍色の世界。これは色覚を失っているためこう見えているのか、それとも世界がその色に染まったのか。いや、世界から色が無くなりつつあるか。

 息苦しさに意識を取り戻された。ここは海だ。紛れもなくそれだ。言葉にならない恐怖のあまり、海水に涙を(こぼ)した。正確には涙の感覚は海水でかき消されているため泣いていることを証明できないのだが、心が痛むのでそういうことだと解釈させられた。

 そろそろ這い上がろうか。飽きとも捉えられる感情からそう決心し、そういえば差し込んでいた陽の光に向かって進んだ。「ぷしゅっ、はあ、はあ」と飲み込みそうになっていた水を吹き飛ばした。

 見渡す限り、水。際限なく、止め処なく、水。この水がすべて透明に変わったとき、その無限とも言えよう規模に僕は驚愕してまた涙するだろうと思った。しかしその感情はすぐに消えた。

「水抜き、しましょうか?」

 船。音もなく突如現れた船の甲板から声をかけられた。女性の船員だ。言葉の意味を理解できないので、こういうときの癖で僕は無言で肯いてしまった。

「あなたのことが心配ですからね。お代はタダで構いませんよ、夢羽(ゆはね)さん」

 何故僕の名前を知っているのか少し考えていた。顔はよく見えないので、その女性が誰なのかわからなかった。そのとき、水が持つはずの浮力が唐突に無くなり、僕は自由落下した。水から脱出してからも、僕は大空を落ち続けた。気づいたら学校のグラウンドにいた。校舎もグラウンドも、水浸しだった。

しばらく悶絶躄地してから起き上がると、目の前に人が立っていた。意識と視界がぼんやりしていて顔が判別できないことに無力感を覚え煩悶していると、その人は聞き覚えのある声を発した。

「さよならなんかじゃないから」

その言葉について考える暇もなく、時計のアラームが鳴り、目が覚めた。


授業中、僕は教室の隅っこでずっと窓の外を眺めていた。今日も相変わらず雨降りで、合羽を着ても濡れる前髪が視界に入るのを煩わしく思っていた。

 梅雨の雨量は、僕の空っぽになった瓶を埋め尽くした。溢れていく水が世界に流れ出て、すべて水没するのではないかと心配になった。その水の中に僕の涙がどれだけ含まれているのか、彼女の血はどれだけ含まれているのか。血の赤で染まる水になるぐらいなら、僕は涙で色を調和できるぐらいの大粒を流したい。僕が彼女への愛を証明するには、それぐらいしか方法が無い。

 僕は隣の空席を見つめてから、三年B組を見渡した。この教室もいつか泥水や体液で満ちる、そう思うと息が苦しくなり、鼻と口を塞ぎながらトイレに(さっ)と逃げた。クラスメイトも、教師ですらも僕を止めなかった。僕の境遇を知っての選択だろう。その同情や思いやりの視線は無性に腹が立つものだった。差し伸べられた手を払いのけるのは違う、救いを彼らに求めるのはもっと違う。だから僕は、その場から逃げることが正解だと信じ込もうとしていた。

 昨夜見た夢の続きが気になって仕方がなかった。個室トイレの便座でうなだれながら、無音を嗜んでいた。葬式のときもこれぐらい静かで厳粛だったのだろうか。参列していないからわかり得ない。

休み時間まで無駄に過ごしてから、教室に戻って荷物を回収して家に帰り、また眠った。


 潮風が不快だったので、夢を見ているとわかった。広がる景色に見覚えがあった。

 高校二年の修学旅行で行った沖縄だ。僕と彼女は班行動から外れ、存分にデートしていたのを思い出した。

 彼女は、さとうきび畑が近くにある気がするから見に行きたいと言った。さすがにここからだと遠いのではないかと危惧した矢先、五分後にそれを見つけたのを憶えている。彼女は、私の勘は外れないっていつも言ってるでしょ、と胸を張っていた。そのあと白いマンションを見に行きたいと言うので、見つかるといいねと話してからさとうきび畑を通り過ぎて海岸を歩いていると、また直ぐにそれが見つかった。彼女は、これは予測していなかったと言うので、僕はそれがおかしくて、笑っていた。笑う僕を見て彼女も笑っていた。

 記憶が追想される中、海が見え、住宅の密集する場所を歩いていた。すると、一匹の猫が前の角から現れた。それは振り返って僕を視認してから、振り向き直って歩き始めた。興味を惹かれたので僕はそれについていった

 気づくと当時泊まったホテルの前にいて、猫は姿を消していた。どうしようもなく高いそのホテルになぜか登りたくなり、建物の上から下まで這うパイプを伝ってよじ登った。一部屋だけ昼間だというのにやけに光るところがあったので、そのベランダに降りた。窓が開いていたので、そこから入った。そこには、彼女がいた。

 何事もなく彼女は、「これおいしいよね」と話しかけてきた。彼女が手に持っていたのは、僕たち二人ともが好きなちんすこうだった。

「ああ、好きだ」僕は言った。

「私のことは、ちんすこうの何億倍好き?」

 その言い草が彼女らしくて、僕は妙に興奮した。夢だということを忘れて没頭していた。

「二一億四七四八万三六四七倍好きだ」

「ありがとう」

「だから、(こずえ)。僕の元に帰ってきてほしい」

 彼女は微笑んでから、目の下の(くま)を指でいじり、白いワンピースのスカートを揺らしながら、部屋のドアを開けてどこかに消えていった。彼女の空色のレースのチョーカーにうなじごと噛みついて歩くのを止めたかった。体は動かなかった。

僕は誰もいない部屋で暫く立ち尽くし、自分もあのドアを開けようかと迷っていたら、目が覚めてしまった。


 土曜の朝、鏡の前で笑顔を作ってみた。重たい表情筋を左右に、上下に動かすと気色が悪かったため、手を合わせて水を溜め、その硬い塊に打ち付けた。時計を見ると十一時を指していた。すかすかと足音が近づいてきたため睨みつける目を和らげ、タオルで顔を拭き、真顔を作った。母かと思っていたが、そこには妹がいた。いや、血の半分つながった妹と言うべきだろうか。

夢羽(ゆはね)兄ちゃん、おはよう」無垢な声だった。何色にも染まり得る余地のある薄いピンクが相当するその朗らかな表情は、僕の色と対極と見ることができるかもしれない。

「おはよう、由紀(ゆき)。なんでまた、ここに来たの?」僕は訊いた。自分でも驚くぐらい乾いた声だった。

「なんとなく、夢羽兄ちゃんに会いたくなって。最近遊びに来てくれないじゃん」

 由紀は今年で十二歳になる。僕と由紀は互いに幼い頃から友人が多い方ではなく、それを見かねて母が一緒に遊ばせることが多かった。六歳離れているとは言え、気が合うし、一緒に居て心地良い。父が離婚した後すぐに他の女と結婚して子どもを作ったことは、当時こそ憤りを覚えたが、今では由紀に出逢えて良かったと思っている。しかし、この落ちに落ちたこの心の前には、そのピンク色は皮肉でしかなかった。

「夢羽兄ちゃん、顔色悪いよ。大丈夫?」由紀は僕の額と自らの額に手を当てた。「あっつ!」

 由紀は手を引き、驚きを隠せない様子だった。僕は悲しかった。守るべき存在を驚かせてしまったこともそうだが、冷たい由紀の手が梢の手の温度と似ていて、梢を溶かしてしまったように思ったことも要因の一つだった。僕が手を出し、妹がそれを必死に抵抗したような空気が流れ、沈黙が僕の肌が徐々に乾燥していくのを鮮明にさせた。

「夢羽兄ちゃん、寝て休んだ方が良いよ」

「さっきまで寝てた。たまたま起きたところ。またすぐ寝る」

また少し静かになった。由紀は母のところへ走っていった。しばらく洗濯機に手をかけて立っていると、由紀は戻ってきた。

「おばさん、今から仕事だって。看てやれないからって私にお願いされた。それも、神妙な顔で。おばさんのあんな顔、初めて見た」

「由紀は帰っていいよ。僕なら大丈夫だ」

 彼女は目を見開いて、そんな訳ない、という表情を見せた。

「お兄ちゃんのそんな顔も見たことない。見たくないよ。何かあったんでしょ? 今は言わなくていいから、取り敢えず一緒に居させてよ」

 僕は鏡を見た。先ほどより醜い顔になっていたので、由紀がそう言うのも無理はないかと思った。

「お願い」由紀は言った。

 僕は俯いてから、肯いた。


 ベッドに入ったが、長時間寝た後なのでなかなか寝つけなかった。

 由紀は久々に僕の部屋に入ったため、物珍しいものを見る目で色々探索しながら僕を診てくれていた。

「これは?」由紀が持ってきたものは、僕と梢の二人が写った写真だった。由紀に心配をかけたくない一心で、僕はひたすら感情を抑えた。

「もしかして、彼女さん?」由紀は言った。「可愛いじゃん」

「ああ、毎日幸せだよ。僕にはもったいないぐらいだ」

「でも、ちゃんと好きなんでしょ?」

 僕は肯いた。

「なら、もったいないなんて言わないの。好きと好きがそこにあるなら、釣り合ってるんだよ、その恋は」

 僕は、そうだそういうことを知っているやつだったな由紀は、と思った。

「でも、終わってしまった」僕は少し早いかと考えたが自白することにした。「車に轢かれた、一瞬だった」

 妹は少し静止してから、僕の手を何も言わず握りしめた。対極の温度が混ざり、一つの温度を共有した。

「何て言っていいか」由紀は声を絞り出した。後悔や申し訳なさを含んだ涙を滲ませていた。

 僕は由紀の頬を手で包み、親指で涙を拭った。

「今、僕はわからない。何を解ろうとしているのかすら整理できていない。今、心臓(ここ)にあるのは、梢に明日何事もなかったかのように再会して、また小さな奇跡を共に体験して笑い合いたいという純粋な願いだけだ」

「私にできることなら何でもするよ、夢羽兄ちゃん」

「ありがとう、ありがとう」僕は少し(かが)んで由紀を抱きしめた。「由紀と巡り合えてよかった、そう思うよ」

「関係は複雑だけど、そんなの関係ないよ。私はいつでも傍にいるからね」

 それから由紀はお粥を作ってくれたり、林檎の皮を剥いて食べさせてくれたりした。いいお嫁さんになるよ、と言うと、頑張って笑ってくれた。

 

 体の調子が回復してきたので、僕は夜空を見に行きたくなった。昔からそうだ、怪我や精神の衰弱から解放されつつあるとき、僕は高揚を抑えられなくなり、一人で旅をする。中学三年生のときは、肉離れから回復した喜びのあまり往復で三十kmも徒歩で旅をした。その次の日は月曜日で、学年末テストが始まるというのにだ。そのときは梢に散々笑われた。それほどの興奮なので、今回も同様、制御できなかった。

 僕はカーテンを開け、夜の空が晴れていることを把握してから、「少し、星を見てくる」と言った。

「体は大丈夫?」由紀は言った。

 僕は肯いた。

「私も一緒に行く」

 断る理由もなかったので、許可した。

 僕はポストイットに、「母さん、少し出かけてくる。由紀は一緒だから安心してほしい。九時には帰ってくる。ご飯はいりません」と殴り書き、上着を着て家を出た。

 家の近くはネオンや強く体を光らせる背の高いビルが多く、星など見られたものではないとわかっているので、僕たちはバスに乗って光から逃げた。二百六十円を払う地点で降り、高台へ向かった。多少は光を放つ工場はあるものの、ほとんど田んぼのため星空観賞には申し分ない場所だった。

「ここにはよく来るの?」由紀は家を出てから初めて口を開いた。その声は震えていて少し寒そうだったので、僕の上着を着せてあげた。

「梢とよく来たんだ。放課後もそうだし、休みの日でも行きたいと思ったら昼でも夜でも来た。僕らは眩しいものが嫌いなんだ。水族館だとか、テーマパークだとか、色々デートで行ったけれど、僕たちには眩しすぎた。結局ここで二人きりで駄弁っている時間が一番だった。でも、それはある夜に、唐突に終わってしまった。梢は眩しくて硬いものに轢かれて死んだ」

 雨上がりの外が寒いことに今更気づき、声を少し震わせた。由紀は僕に上着を着させ返してきた。

「……聞かせて、二人のこと、もっと」

 由紀は依然落ち着いていた。

「高校に入って、初めて知り合ったんだ。一年からずっと同じクラスで。グループワークで僕ら二人は相手がいなくて、組まされたんだ。それがきっかけで普段から話すようになってさ。あいつ、面白いんだよ。二人で道を歩いていたら、突然両手を写真のポーズにしてしてさ、コンクリートから生える野草を見つめるんだ。普通じゃ嫌だからって、僕が右、梢が左を歩いているとき、僕が右手、彼女が左手で繋ごうって言ってきたこともあったな。そのときは好奇の目が痛かったよ。でも不思議と幸せな気分になれた。一本道の途中で見つけた最高の恋人だった。離さないでどこまでも連れていきたかった」

「梢さんは、なんでそんなことをしていたの?」

「そういうことをしていた時間は、ずっと覚えていられるって言ってたな。生きることが、現実が好き過ぎるんだ」

 僕は少し熱くなってきたので、上着を由紀に着せた。

「暖かい」由紀は囁いた。「きっと、今でも覚えてくれてるよ」

由紀の方を見ると、その横顔は少し怒りすら覚えるような様子だった。何か思っていることがあるのか気になった。言及するのはやめておいた。向き直った。

 僕は何も言うことができなかった。梢は今どこにいるのだろう。怖くて葬儀にも参列していないし、彼女の家の前を通ることも避けてきたし、お墓参りをしたこともない。彼女の横を通り過ぎると、彼女を置いていくことになってしまう。梢は方向音痴だ、心配でならない。梢は興味を示せば何にでも手を出してしまう、不安だ。

 夜空には三十個ほどの光の粒が煌めいている。その中のどれかは彼女だろうか。いっそのこと、そうであってほしい。過去の記憶としてどんどん風化していく存在で終わるなんてあまりにも虚しすぎる。確かに夜空の空に居て、死にかけの星からまだ少し生きられる星へ魂を都合よく乗り換えていくことで、曇りの日でも姿がネオンに消されていても、見守っていてほしい。できることなら粒を何個か手の中に入れ、また以前のように質素なデートをしたい。

流れ星が見えた。由紀も見ていた。梢を探しているのに目障りだ、退いてほしいと思った。それが梢かもしれないという僅かすぎる可能性を排除して。

 僕たちは母を心配させるわけにはいかないので、星を暫く眺めたあと、近くのファミリーレストランで夕食を済ませ、家に帰った。




  二




 悲しい気持ちになったので、夢を見ているとわかった。

 顔を触るとやけに硬い感触があったため、仮面をつけていると理解できた。刀を持っていることも発覚したため、闇の中から出てきた人畜無害そうな人を無差別に斬りつけていった。服に付いた返り血が透明になっていくのを見た。

 ぱしゃぱしゃという音が聴こえてきたので顔をあげると、目の前は川になっていて、護岸壁に腰掛けて釣りをしている友人が二人いた。二人とも仮面をつけていた。隣には、梢がいた。

「よし、来た!」一人が何かを釣り上げた。

「私も、来た」もう一人がまた何かを釣った。

 二人は釣りたての、生首のような(おぞま)しい黒い物体をこれ見よがしに陽気に持ってきた。僕は恐ろしくなって、梢の右脚にしがみついた。

「怖くない、怖くない」梢は言った。

「怖いよ」僕はより強く梢の脚を握りしめて言った。

「私といれば、そうでもないよ。盲目になっているだけ」

 僕は理解できなかった。ずんずんと容赦なく近づいてくる生首のようなものを足で追い払おうと必死にばたつかせた。それでもその二つの塊は進んで止まらない。

「嫌だ!」僕は叫んだ。

「じゃあ、まだ早いよ」梢は冷静に言った。

 その冷たさに身が震えて、夢から覚めた。


 冷たさは、雨のせいでもあった。僕は昨晩見た夢の意味を考えていた。そもそも夢に意味を見出そうとする行為は無意味甚だしいのではないかと過った。しかし、毎回のごとく梢が出てくるので、そうせずにはいられなかった。

 昨夜、由紀は僕の家に泊まっていくと言って聞かなかったので、仕方なく僕の部屋に敷布団を敷いて寝させていた。

「由紀、梢の家に行こう」

 僕は何を言ったのか自分でもわからなかった。少し返答に間があったので僕も梢の家に行くことについて考えてみたが、今なら行けないこともないと思い、撤回せずにいた。

「私も、行っていいの?」由紀は言った。

「一人は不安だ。心が壊れる気がする」

「私も。わかった、行こっか」

 僕たちはお昼を食べてから行くことにした。また昨夜と同じバス停で降りたので由紀はここでいいのかと驚いていた。

 暫く歩いて、梢の家に着いた。過去に二回来たことがあるが、どちらも梢の家族がいないときだったので、これが初めての顔合わせになる。

 インターホンを鳴らすと、女性が出てきたので、僕は「お初にお目にかかります、夢羽と申します」と自己紹介した。

「あなたが……。初めまして、梢の母、カヨです。そちらのお嬢さん、あなたは?」

「突然の訪問、すみません。由紀と言います。……兄の妹です」由紀は都合のいいように言ってくれた。

「そう。雨の中大変だったでしょう。入ってちょうだい」

カヨさんは最初こそ困惑した様子だったが、僕たちを拒絶することなく家に入れてくれた。

「そうね。百聞はなんとやらって言うし、梢の部屋、見てきてちょうだい。あなたのことが本気で好きだったって証拠が残ってるわ」

 僕は肯いた。二階の梢の部屋に入ると、机の上に一枚の紙が置いてあるのが目についた。それには遺書と書かれていた。間違いなく梢の文字だった。

 僕は無言でその文字の羅列を読んでいった。そして、どうしようもなくやるせない気持ちになったので、急いで外に出た。雨は一時的にだが止んでいた。家の前の、コンクリートの間を嫌そうな顔をして流れる川の前で立った。

 暫くしてから、足音が近づいてきた。それは僕の真後ろで止まった。由紀でもカヨさんでもどっちでもよかった。梢なら尚よかったが、由紀だった。

 由紀は何も言わなかった。僕は振り返って、重い表情筋を持ち上げて喋った。

「死んだ人は戻ってこない。死んだら忘れられる。たとえ誰かの心に刻まれたとしても、その体は不快で肩が疲れるからずっとは着ていられない。無意識に脱ぎ捨てて別の体に乗り換える。そして、その人について考える機会があれば、そのときだけ都合よく元の体に戻る。それほど悲しいことはない。だから僕は決めた、梢のことを一瞬間一刹那ですら忘れない、一生。愛し続ける、この体で。僕を僕たらしめてくれていたのは梢だ。梢のために生きる。梢の分まで生きる。それが僕の弔いの仕方、愛の証明の仕方だ」

「梢さん、それで本当に喜ぶのかな」

 僕は怒った。お前に何がわかる、という表情を突きつけた。言葉にはしなかった。誰も傷つけたくはないという気持ちが(まさ)った。

「私だったら、忘れてほしいよ」由紀は、顔色一つ変えずに行った。

「なんでだよ、そんな残酷なこと言うなよ」

「二人は、足を引っ張りあって生きてきたの? もしそうなら、動けなくなった梢さんを引っ張っていけると思ってるの? 私は、軽快な足取りで後ろを振り向かずに歩いている姿を見守ることができるのが一番嬉しいと思う」

 僕は護岸壁の縁に腰掛け、川を見つめた。

「僕は、梢にとって嬉しくないことをしているのか」

「そうだよ、絶対そう。客観的に見ても、尻込みして進んでないようにしか思えないよ、夢羽兄ちゃん。振り返って、すぐそこに梢さんがいることを確認して安心して、一分後にまた振り返って梢さんが消えていないか確認しているようなものだよ。梢さんはどこにも行かないよ」

 僕はそのとき、由紀が僕に対して怒りを募らせていたことを理解した。ちっとも前に進まず何事もいい加減にしている僕を立ち直らせる方法を考えてくれていたのだと知った。僕はその思いに応えることができそうになく、勝手に無下にしてしまう苦しみも味わっていた。

「どこにも行けない梢の思いはどうなるんだ。あいつは好奇心旺盛だって言っただろ。きっと今も興味深いものを見つけて触りに行こうとしているに違いない。僕はそれを代わりにやってあげたいんだ」

「やってどうなるって言うの。虚しいだけだよ、そんなの」

「虚しいのは、目の前で死んでからずっと変わらない」

「だから変わってって言ってるの」

「無理だ」

 暫く静寂が訪れた。脆弱な僕の心がぽろぽろ剥がれて、目の前の汚い川に落ちて流れていく気がした。

 小雨が降ってきたので、由紀がカヨさんの家に入れてもらおうよと言ってきたが、折り畳み傘を由紀に渡してずっと座ったまま動かずにいた。由紀は知らない間に家の方へ消えていた。

 早く梅雨が終わってくれないだろうかと思った。願わくばそのまま夏が過ぎ、秋が来て冬も過ぎ、次の春が来て、その次の次の春が来てほしい。

 僕は仰向けに寝そべって、口を開けた。普通の水より遥かに不味い雨を口いっぱいに溜めて、一気に川に(ほう)った。不快な味が舌にこびりついて離れなかった。背中のコンクリートがちょうどいい位置を探し、目を瞑った。永遠に梅雨が来なければいいと思った。


 ボツボツと傘に雨が当たるうるさい音が聴こえたので仕方なく目を開けると、由紀がいた。

「夢羽兄ちゃん、カヨさんがご飯作ってくれたよ。……だからさ、行こ?」

 僕は素直に肯いた。

 空を覆い尽くす雲のせいで今が何時なのか想像できなかったが、空腹になっていたので夕方ぐらいだろうと思った。

家に戻ると、カヨさんが風呂を勧めてくれた。僕は躊躇う様子を一応見せたが、内心ではまったく遠慮する気など無かった。一刻も早くこの汚い水で湿った体を脱ぎ捨てたいほどだったからだ。

 風呂場はやけに小さかった。ここで梢が毎日体を洗っていたのかと思うと、身体中がぞわぞわした。血が全身を流れる感覚、骨が軋む感覚が気持ちよくなった。それと同時に、ずっとは居られないなと思った。その原因は始終わからなかった。

 梢の体操服上下は僕と同じサイズだったので、それを借りた。風呂から上がって開口一番、僕は由紀に謝罪した。

「ごめん、由紀」

「なんで謝るの?」由紀は言った。

「本来なら、こんなはずじゃなかったんだ。僕がちゃんと葬式に参列して、ご家族とも話をして、それから自分だけの問題にするべきだった」

「そうしてたら私は夢羽兄ちゃんのことを心配しなかったと思う? それは違うよ。お兄ちゃん、顔に出るからさ。私すぐわかっちゃうよ」

 僕はカヨさんに一礼して、カヨさんが作ってくれたご飯を由紀と一緒に食べ始めた。カヨさんは優しい顔をしてから、そうだ、と手を合わせて奥の部屋に行ってしまった。

「おいしいね」由紀が言った。

 本当に、味は確かなものだった。こういうとき、鉛の味だとか、無味乾燥だとかの感想が出てこない僕は罪深いのかもしれないなと自嘲した。

 この味を梢は平生食べていた、僕は今それの一部を食べている。またひとつ、梢と繋がってしまった。

 食べ終わったとき、奥の部屋からカヨさんが出てきた。重そうな段ボールの包みを持ってきた。

「これ、大事な人に渡すんだって、いつも言ってたの。私にすら中身を見せてくれなかったわ。あなたが持っててちょうだい」

「開けてもいいですか」

「どうぞ」

 僕は開放厳禁と黒のペンで殴り書かれたフラップを開けた。そして閉めた。

「どうしたの?」由紀が訊いてきた。

「あの場所で開けてね、って書いてある紙が一番上にあった」

カヨさんは、「行ってきなさい」と穏やかに言った。

 由紀は、「私ここにいるね。見終わったら帰ってきて。そしたら、一緒に帰ろうね」と言った。

 僕は深く首肯した。

 昨夜も行ったあの場所までは、梢の家から三分ほどで行くことができる。そのため、重い段ボールを持っていくのは苦ではなかった。これも計算の内だろうか。

 いつも梢が座っていた定位置に段ボールを置いた。そして中身を一つひとつ取り出していった。彼女がデートのときいつも着ていた白のワンピースと空色のチョーカーがまず出てきた。まだ少し、彼女の香りが残っていた。それから、文字だらけのルーズリーフの束や使い古されたノートが二十冊ほど、僕らが好きだった欧米のアーティストのCDなどがたくさん出てきた。

 僕はその中からどれを丹念に見ようか考えた末、やけに新鮮な香りのするノートを紐解くことに決めた。表紙には、ネオ気まぐれ手記二〇〇四年版、と書かれていた。最後の方を開いて読んだ。


  「七月三日土曜日。ゆはくん、本当に驚いてた。私が水餃子を手に持って耳に当てて、耳が餃子になっちゃった、ゆはくん助けて、って叫んだら、彼ったら形相険しくしちゃって。私の方へ近づいてきて、今すぐ病院に行こう、こういうときは耳鼻科か、いや皮膚科か、とにかく救急車を呼ばなきゃ、だって。おかしな人。でも、最初こそ私の方が逆に困惑したけれど、本気で私を守ろうとしてくれる姿勢は本物で、私泣いちゃった。こんなに素直で素敵な人、他にいないよ」


  「七月七日水曜日。学校で七夕の何かぐらいやってくれてもいいのにって二人で話してた。寂しいから、私たち放課後にあの場所に行って、近くの木に短冊を飾ってきた。私、嬉しくって願い事止まらなくなって、三十枚ぐらい飾ってきちゃった。ゆはくんも六枚ぐらい飾ってたなあ。お互いの紙を見て、なあに、これって訊き合うの、本当に楽しい。願い事を共有するのって、素敵。もっと近くなれた気がした。明日、あの紙回収しに行かないと」


  「七月十一日日曜日。私、もうだめかもしれない。私の勘が外れたことは一度だってなかった。だから、だめなの。今までと違うところといえば、死んだあと何が待っているんだろうって、楽しみになってしまっているところ。それで私、死ぬ前に何をやっておきたいのかについて、初めて意識した。それで、わかっちゃった。私には、ゆはくんにあと四回冗談を言いたいってこと、そして、彼の目の前で死にたいっていう思いを密かに抱いていたことを。二つ目は、死ぬ前にっていう定義から逸れるのかな? わからない。わからないことだらけ。でも怖くなんかない。ああ、愛してるからね、ゆはくん。あっちで、待ってるからね」


 ここが最後のページであることに憤りを覚えたが、その感情はすべて大粒の涙と同化して流れていった。僕は今にも壊れそうになっていた。壊れてしまわないように白のワンピースを胸に当てた。何も出ない嗚咽を繰り返した。今日という日を永遠に忘れないだろうと思った。


 夕日が山に飲み込まれていく頃、僕は荷物をまとめて由紀の待つ梢の家に向かった。疲弊していたが、不思議と一つ肩の荷が下りたような気分でいた。

 家に着いて、梢の遺影に手を合わせて、カヨさんに感謝と体操服は洗って返すという旨を伝えてから由紀と家を出た。由紀が段ボールを持つよと言ってくれたが、遠慮しておいた。

 バス停に向かう途中、僕は胸のざわめきを感じていた。それは今までに体験したことのないほどの大きさのものだった。胸まで上げて持っている段ボールに直接伝わって蓄積し、いつか耐え切れなくなって爆発四散してしまうのではないかという危険性を帯びていた。

 その原因はすぐにわかった。由紀が信号の変わった横断歩道を歩き始めたとき、信号無視をして左折する大型トラックがこちらに猛進してきていた。同じシチュエーションだ、と思った。僕もなんだ、とも思った。

 僕は段ボールを投げ捨てて強く由紀の手を引き、勢いのまま横断歩道へ身を投げ出した。

「曲解だよな、梢」僕は囁いた。

 暗い道をライトで眩しく照らすトラックは、僕の真横で止まった。そして、何事もなかったかのように僕の横を通って行った。由紀は僕の手を引いて僕を横断歩道から退かせた。

「夢羽、兄ちゃん」妹は酷く怯えていた。

「怪我は無いか」

 由紀は肯いた。

 僕は暫く放心してから、「行こうか」と呟いた。そのとき僕は、無理に笑っていたかもしれない。


 段ボールを大切に抱きしめてバスの一番後ろに乗った。由紀は口を開いた。

「夢羽兄ちゃん、私考えたんだ。梢さんって、流れ星なんじゃないかって、思った」

 僕は首を傾げるしかなかった。

「人生って、宇宙なんだよ。暗くて、果てしなく広くて、いつ終わるかなんてわからない。でもさ、流れ星はその長い道のりに一筋の希望を見せてくれるじゃん。その筋は確かに光なんだよ、闇じゃない。闇だったらさ、見えないじゃん。梢さんの死についてずっと考えてたんだよね? 確かにそこに愛はあって、今も変わらずあるんだよね? だったら、それでいいんじゃないかな。大事なのは、立ち止まることでも、盲目に闇を独りで駆けることでもなくて、愛とか願いを胸に抱きながら前を向いて歩いていくことだって、私は思うよ。

 わかるよ。想像しただけで辛いし、夢羽兄ちゃんを見てるだけでそのその過酷さが伝わってくる。でもね兄ちゃん、下向いてちゃ、流れ星見えないよ。梢さんが心配しちゃうよ。それって兄ちゃんが望む未来じゃないでしょ? だったら、前向いて、時折り上を向きながら歩くしかないよ」

 僕は段ボールをよしよしと撫でながら聞いていた。僕の、折れ曲がっていたり(ただ)れ落ちたりしていた部分が、がたがたと再生していく音を快く感じていた。

 死んだ人のために生きるということが一体どんな意味を持つのかわからないままゆっくり進んでいた。今なら、ぎこちないかもしれないけれど、宇宙を歩いていけそうだった。足取りが不安になったら、いつでもそこにいる流れ星を見たい。いつの日か僕が流れ星になるその日まで。

「愛してるからな、由紀」僕は言った。

「何言ってるの。私も愛してるに決まってるじゃん、夢羽兄ちゃん」由紀は満面の笑みを見せた。

 守るべきものがあることの意味を知った夜でもあった。




  三




 高揚した気持ちになったので、ここが夢だとわかった。水浸しの教室にいて、窓の外の景色を見て自分の教室だとわかった。そして、いつか見た夢の続きだと邪推した。

 廊下の方から何かがこちらに近づいてくる音が聴こえた。それはスリッパの擦れる音でも話し声でもなく、耳の奥が熱くなってノイズが走るような、ある種の恐怖や興奮の混ざった音であった。ドアの前に立った人が梢だったので、僕は緊張が(ほぐ)れて思わず泣いてしまった。泣き虫になったな、と自分でも思う。夢の中で泣くというのは、現実のそれとは遥かに比べ物にならないほど感情を刺激されるものだった。心臓が何かの圧で委縮して、今にも消えてしまいそうになる。

「泣かないで」梢は僕の目の前に立って言った。

 僕はあまりの辛さに何も言うことができなかった。

「みんなが心配しちゃうよ」

 友人や家族に迷惑をかけてばかりなので、自覚していた分もっと泣いた。

「もう、覚悟はできたでしょ?」

「ああ」僕は声を絞り出した。

「生きて。生きるしかないから、死は対極じゃないって考えて。そう考えられるようになったら、死はゴールじゃなくなるよ。生きて。生きてから、私と一緒に流れ星になるの」

 僕は肯いてから、「僕がいつ君を見ても目が合うように、ずっと僕のことを見ていてほしい」と言って梢を抱きしめた。

「最後に、ひとつだけ。今ここで、私への愛の証明をして。継続していられる分の愛の言葉が足りないの。だから、お願い」

 わかっていたことがある。目の前にいる人は、梢ではない。彼女はいつも脈拍が激しい。抱きしめたら僕は上下に少し揺れるはずだった。それが無かった。目の前にいる人が一字一句彼女らしい言葉を使って僕を殺そうと目論んでいる輩だったとしても、その変身が解けてしまっても、僕はそれを抱きしめるだろう。だから僕は言ってやった。

「たとえこの教室が、世界が水没したって君を守る。愛してるよ、梢」

 僕が抱きしめていた物体が無くなって、床に勢いよく倒れてしまった。そして、覚めたくない夢から覚めてしまった。


「夢羽兄ちゃん、おはよう」

自分の部屋から出ると、由紀が母が作ったであろう朝ご飯を食べていた。

「体調はどう?」由紀は言った。

「ああ、大丈夫だ。というか、今日月曜日だぞ。学校大丈夫なのか?」

「うん。ママが車で送って行ってくれるって」

「感謝しなきゃな」

 由紀は微笑みながら肯いた。

 顔を洗って鏡の前で笑ってみた。まだ少しぎこちないけれど、以前より幾分かましだった。髪を洗ってドライヤーで乾かし、顔に化粧水と乳液を塗った。

 洗面所を出てリビングに戻ると、テレビでニュース番組が映っていたので少し見た。天気予報士が、僕の住む地域の梅雨明けを発表していた。


誤字等がございましたら申し訳ありません。

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