いつか安らかに
音を立てて衝突した羽虫がフロントガラスに黄緑色の体液をのこし、ジョムズは自分が偏向シールドのスイッチを入れ忘れていたことに気づいた。
感情計測器に視線を走らせる。反応なし。念のため、左腕の同調を切断し、レコードを操作して過去十数秒の映像を見返した。三面鏡のように両腕を広げたモニタの左下部で過去が反芻される。
運転席から防弾パネルで隔てられた後部座席にはロブ・マッカランがたくわえた口ひげをいまにも食いちぎりそうな仏頂面で座っていたが、ジョムズの失態には無関心でいてくれたようだ。
強制休眠での移動を常とするロブだが、体内時計に従い、今日は習慣を拒否して目覚めていた。
やがて加速と上昇に伴う揺れがおさまると、ロブはおもむろに口をひらいた。
「わたしがわざわざ二〇〇マイルもかけてどこへ行くか、わかるかね?」
「ニューヨーク・シティ、J・J・センターです」
すぐさま、つとめてアンドロイドらしいと思われる答えをジョムズは返す。ジョムズの発言は文節ごとに文字に起こされ、読み上げ処理を施されてドライバー・アンドロイドの喉の位置にあるスピーカーから抑揚なく拡声された。
左腕をハンドルの位置に置きなおし、小指の付け根にあるスイッチを押し込む。同調が復帰した。
ジョムズの仮の身体は、おおむねの形状と関節駆動部の位置だけは人型の、顔はのっぺりとした鈍色のアンドロイドである。三十年前、政府はヒトの外観を持つアンドロイドの開発を規制し、ヒトの感情を学習させた人工知能の開発を禁止した。以降のアンドロイドには顔がなく、会話は一本調子で、同調制御による遠隔操作が露見しないためには身振りと会話内容に細心の注意が必要だった。
生身のジョムズは、飛行車両から二十六マイル離れた操作室で、首から下を触覚デバイスに包まれて座っている。
数か月に一度のカウンセリングの日のみ、ジョムズのような整備局員が、なにくわぬ顔をして操縦席のアンドロイドにおさまる。連邦捜査局ですら許されぬ、整備局のみに与えられた権限。ただしその利用目的および対象は唯一つに限られる。
「そのJ・J・センターで、新しい年金制度について話し合うのだ。逆算年金制度では、〝すべての国民の平等〟をモットーに遺伝子解析から導きだされる寿命に従って受給開始時期が決まる。年金を受け取る期間は誰もがきっかり二十五年だ。死亡した場合は残年数分を遺族または相続者へ支給。これで誰それのじいさんはうちのばあさんより四年も長く年金をもらっていたなんて文句も出なくなるし、国費における年金支出の割合が増大しつづけるということもない。国民も政府も先の見通しがつくんだ。すばらしいと思わんかね? 人工知能なんてものはこんな提案しかしてこない」ロブは語気を荒げた。
感情計測器のランプが不規則に明滅する。ロブが〝心を乱している〟しるしだった。
「ストレスを感じていらっしゃいますね」
「当然だ。我々は人工知能が毎日大量に提出する法案をレビューし続けるためにニューヨークだのワシントンだのに駆り出される。我々は専門家の意見を聞き、人工知能にフィードバックしてやらねばならない――却下、却下、却下、主要な理由、倫理上の問題、とな」ロブは肩をすくめた。「自分がどうしてそんなことを提案したのかもわからん相手にむかって、なにが悪かったかを懇切丁寧に説明してやらねばならん」
「人工知能がより適切な法案を提出するために必要なデータです」
「そうだ。厳密にはあれは人工知能ではない。世界のどこをさがしてもまだ〝人工的に造られた知能〟なんてものはない。あれらはなにも考えていやしない。ただデータから導かれる蓋然性に従ってそれらしいことをアウトプットするだけだ」
ジョムズの脳裏に息子の顔がよみがえった。ハイスクールの自由開発で人工知能に触れた彼は、失望したように同じことを言っていた。
「制度を提案しはするがその制度が必要な理由はわからないし、そんな制度を議会に持ちこんだらマスコミの格好の餌食になることも、人権団体から抗議文書が届くことも、挙句の果てにはよその国の見知らぬ教団から殺害予告まで飛び出してくるなんてこともなんにもわからない」
ランプの明滅が激しくなり、ややあってから間隔が長くなった。
「しかし人の心がないからこそできることもある。人間の限界を超えるには誰でもない存在が必要なのだ。偏見や思い込みなく、赤子のように倦むことなく現実世界へ演算の手をのばしつづける存在が」
自分自身に言い聞かせるようにロブは呟きつづける。
「ときどきはあれも有用な提案をする……犯罪率の低下や、食料生産効率の向上など、あれが人類に果たした役割は小さくはない。ただ良くも悪くもあれは常識を知らない」
「そのためにあなたがおられます、ロブ・マッカラン議員」
「そうだ。そのために我々がいる。我々はいばらの道を歩かねばならぬ。一兆通りの鍵盤を叩き続けてショパンの演奏にあずかれるまで、いずれ人工知能が誰も気づかなかった方法で世界平和を実現することを信じて」
明滅は完全にとまった。かつてのロブは感情をコントロールする能力を有していたし、いまもそうだ。
車内側面のカメラではロブの表情を窺うことはできず、ジョムズは高度計に触れるふりをして斜めの角度からバックミラーを覗いた。アンドロイドの視覚スコープに映ったロブは、膝の上に置いた両手をじっと見つめていた。
「まずはこの国からだ。だからわたしは第三計画に立候補した。中央院議員になった」
「そうです」
思わず声に力が入ったが抑揚は伝達されなかった。第三計画の参加者たちをジョムズは尊敬している。彼らの役に立ちたくてこの仕事に就いたのだ。三十年前、しがない車の整備工だったジョムズを年甲斐もないハイスクールへ、果てはカレッジへとむかわせたのはある昼下がりに耳に飛びこんできたラジオのニュースだった。
ロブ・マッカランを含む十二名の議員が〝第三計画〟に立候補した。彼らは科学と文明の勝利を心から信じ、自分の死後には脳、臓器、あらゆる肉体と記憶すらも献体として提供するという同意書にサインした。ラジオはロブの演説と、気高い精神を伝えた。彼らは不死鳥のように甦り、志は潰えることはない。この献身的態度は永く語り継がれ、心をふるわされた第二第三の立候補者たちが現れるであろうとDJは熱っぽく語り、急遽予定を変更して〝スター・スパングルド・バナー〟を放送した。〝砲弾の赤い閃光と空気を切り裂く爆発が、夜闇のなか我々の旗がまだそこにあることを教えてくれた〟……。
ジョムズは感動に打ちふるえ、工具を握ったまましばらくスピーカーのサランネットを見つめていた。彼の客も彼の隣で、くわえ煙草から灰が落ちるのもかまわず呆然とつっ立っていた。愛国心。そうだ、愛国心だ、と思った。彼の父親は敬虔な信徒であり軍人だった。瑕疵なき存在は神ただおひとり、おれたちは完璧じゃあない、だからこそ努力を怠ってはいかん。何千度も繰り返した説教のあと、国のためになにができるかを考えろというのが口癖で、家族をふかく愛していたがゆえに家族がいては任務に集中できないからと国外基地へ勤務するときは常に単身赴任を選択した。
「でもお前たちに危機が迫ったときはすぐに駆けつける」父は心からそう言った。
ジョムズは母親の血筋か体格に恵まれず、腕力にも自信がなかった。文官をめざすほどの気概もなくくすぶっていたジョムズを、あの日のラジオが変えたのだ。
ジョムズにとって十二名の議員たちは畏敬を捧ぐべき父である。
とりわけロブ・マッカランは、謹厳実直な性格と明晰な頭脳で十二名の中心的存在だった。子はなかったがクリスマスにはできるだけ多くの子どもたちにはちきれそうなほど膨らんだ赤い大靴下を配った。彼の演説は人々を魅了した。彼の勇気は人々に伝播した。
しかし、彼は、自身の判断を後悔し始めているのだろうか?
「なにもかもが変わってしまった」
ロブは窓のむこうへ視線をむけた。日没直前の陽光が鋭く目を刺す。視界の送信を受けて、ジョムズの鳶色の瞳も痛んだ。眼下ではコネチカット・リバーが風に揺れる水面をうろこのように輝かせていた。高度のおかげで離れた地点からでも州議事堂の黄金の丸屋根が見えた。ハートフォードの周囲はすでに郊外で、緯度四十一度半の夕陽を浴びながらどこもかしこもオレンジ色に燃えていた。森も、畑も、点在する家々の雪下ろしのために鋭くかしいだ屋根も。
ロブは目を細めた。専用の飛行車両と専属のドライバー・アンドロイド一体、これも中央院議員の特権である。
「先月地元へ帰った。隣の家のベティはまだそこへ住んでいて、がんを患うしわくちゃの婆さんになっていた。まがった腰でわたしを仰ぎ見て言うんだ、いいわね、いつまでも若いままで、と」モニタがふたたび赤い光を点滅させた。
「筋肉が弱ると鼻で呼吸がしづらくなる。わたしと話していても何度も口をぽかんと開けて……」
ロブは八十七歳の自身の頬をさすった。なめらかとはいかないが少なくともしわくちゃではない、五十代のままの感触があった。
「我々は他人の二倍の寿命を得た。脳に埋め込まれた電極のおかげで」
「はい、存じております」
三十年前、研究者たちは視床下部の神経細胞を活性化させることにより動物の心肺機能を低下させ、休眠状態をつくりだすことに成功した、と発表した。完全なる眠りに落ちたマウスの細胞は数年のあいだ老化の兆候を見せなかったという。
中央院議員たちが被験者となった。彼らは普段の睡眠を完全なる睡眠に置き換え、馬鹿馬鹿しいくらいに生を浪費するドライブの時間も同様にした。
移動のあいだ、彼らは眠り、歳をとらない。
「ほかの者たちが死にむかって歩む時間を、電極は引き延ばす。我々は二十万ドルの手術費と年間三万ドルの維持費を一〇〇年間投資するに値する人物だと判断された。余人をもって代えがたい、と」
「はい、そのとおりです」
「ベティは……ベティが死んでしまったら、アップル・ヒルの知人は誰もいなくなる」
「……」
「ベティは苦しんでいるんだ。かわいそうに」
ジョムズは言葉に詰まった。なにか彼の心を慰めるようなことを言いたかったが、それはできないのだと悟った。
「お気の毒に」型通りの挨拶。
「ベティはわたしになにを望んでいると思う?」
「申し訳ありません、返答できかねます」
「そうだ、周囲の確認と軽いおしゃべりが君の仕事だ。それ以外のことはできない」
「はい、そのとおりです」
「ロボットは決められたことしかできない」
架空のハンドルを握った手のひらにじっとりと汗がにじむ。
ジョムズは話がここで終わることを願ったが、叶わなかった。
「もしわたしが君に『わたしを殺してくれ』と命じたらどうなるかね?」
「命令を拒否します」即答し、「すべてのアンドロイドおよびロボットには安全装置が搭載されており、人間に危害を加えることはできません」表には現れないほどの刹那を悩んでから、ジョムズはつけ加えた。言わなければ不自然だろうと思われた。
「わたしがロボットならどうだろう。ロボットはロボットを殺せるか?」
「場合によっては可能です。なんらかの理由で人間の尊厳が脅かされそうな場合、それを阻止するためなら。しかし理由もなくほかのアンドロイドおよびロボットに危害を加えることは、やはり許されませんので、命令は拒否します」
動揺を気取られないよう、一定の速度で話すことを心がけた。
ロブは黙った。考え込んでいるように見えた。ここでそのようにふるまうのが相応しいからそのように時間をとっているのではなく、自分の持つデータを総当たりに演算し、膨大な量の仮説と検証を繰り返しているように見えた。
沈黙の重みに圧しつけられる記憶。枯れたススキの群生する空き地。その上空で「車を落とせ」と叫ぶ議員の幻影。後部座席からドライバー・アンドロイドにつかみかかり、ハンドルを奪おうとする……。ジョムズは背筋がざわめくのを感じた。
膨らんだ鼻孔から荒々しい鼻息がマイクに入り込まないよう、細く息をする。計測器は黙って事の成り行きをながめているようであった。
ややあってから、ロブは頷いた。
「やはりそうか」
君が言うなら信憑性があるな、とロブは小さく言い、ポケットから煙草をとりだそうとしてやめた。
「アップル・ヒルはなにも変わらない。メイン・ストリートの家が一軒建て直したくらいだ。庭の芝生は刈りそろえられ、『卒業おめでとう』とか『エッセンシャル・ワーカーに感謝を』といったボードが立てられている。ただ道路の亀裂は二十年前に綺麗さっぱり存在を消した。芝生を刈るのはセンサ付きのモウアーだ。ベティの足もとを駆けまわるのも機械犬。わたしにも吠えかかってきたよ。ベティの様子がおかしければ通報して救急車を呼んでくれる。危篤の場合には親戚への連絡も。しかし、人間は減った。身を粉にして働いて、やっていることといえばロボットと機械を増やすことだけだ」
「人口は増え、経済も成長を続けています。それはあなた方の功績です、ミスター・ロブ・マッカラン」
「誰も外を歩かなけりゃ、わたしにはわからんね」
ロブは座席のシートを倒し、身を横たえた。
「もう寝るよ。スリープをかけてくれ」
「二週間のバケーションを提案します」
「マテュー・グレアムを知っているか? あいつも死ぬ前の一年ほどは憂鬱症の気があったな。かわいそうなやつだった。政府はあいつの献体をなにに使ったろう?」
「申し訳ありません、返答できかねます」
「我々は運命共同体なんだ、家族以上に。家族の寿命も延ばしてくれたらよかったんだがなあ。さあ、スリープをかけてくれ」
「ミスター・マッカラン、二週間のバケーションを提案します」
「なら、自分でするよ」
ロブは座席のうしろをふりむくと、ヘルメットを取り出した。頭蓋を覆うようにすっぽりとかぶり、左耳のあたりにあるスイッチを押す。虫の羽音のような低い駆動音がしてモザイク状にフェイスガードが突出し、すぐに隙間なく合わさった。
「政府はベティをスリープさせてはくれなかった。ベティとわたしは離婚したんだ。彼女は実家へ帰った。二人の家の隣の家にね」
思わず背後をふりかえったが、ロブの表情はエナメルのような光沢のある銀の球面のなかだった。力を失くした四肢がシートベルトで縛られた胴体から垂れ下がっていた。眠りについたのだ。J・J・センターへはまだ二時間七分の距離がある。
後部座席とつながるマイクのスイッチを切り、ジョムズは息を吐きだした。顎が前へ出て背が丸まった。アンドロイドも同じポーズをとっているはずだった。同調を全身切断してオート・モードに切り替えながら、今朝ながめた資料を記憶から呼び起こした。
整備局の記録によれば、ロブ・マッカランがカウンセリングの際に自分から会話を打ち切るのははじめてだった。マテュー・グレアム中央院議員が一年前に同様の挙動を見せた。彼は二度カウンセリングを拒絶し、三度目の翌日、彼の死が新聞の片隅に小さく載った。遺体はボストン郊外のメモリアル・パークに埋葬された。ポーラ・ヘント中央院議員が直近二度のカウンセリングにおいてカウンセラーの意図しないタイミングで会話を中断している。ポーラ・ヘントは議員としては若い三十代の外見で、元気のよさが自分の取り柄だと考えいつも快活な挨拶をする女性であった。
カウンセリングだなんて。ジョムズは唇だけを動かして呟き、隠語に溢れ出た欺瞞を苦々しく思った。
せめて整備局のなかでは相応しく呼ぶべきなのだ、感情機能の視認メンテナンス、と。
車はすべるように天と地の狭間を飛んだ。東西と南北のインターステイトがぶつかる立体ジャンクションでは多層的にループする誘導路が左右非対称の花をえがく。やがてマンハッタンへ入った。ブリッジの直線に働きアリ以上の密度をもって車両が隊列を成し、最後の陽光にルーフを輝かせていた。
ジョムズは背筋をのばすと同調をオンに戻した。ロブを目覚めさせるようボタンを押す。銀のヘルメットが蠢動し、リクライニングがかすかな音を立てながらロブの身体を起きあがらせた。
「あと五分で到着です」
「けっこう」
ヘルメットから無感動な顔がのぞく。ロブは厚みのある指先で髪とひげとを整えた。
「二週間のバケーションを提案します」
ジョムズは繰り返した。数秒の沈黙があった。
「君が伝えてくれ」
やがて耳に届いた返答にほっとつきそうになった息を押し殺す。
「かしこまりました」
そのほうがよりよいだろうとジョムズは思った。ロブの希望でなく整備局の要請としたほうが。
「着陸します。揺れにご注意ください」
車は北ポートへ降りて正面ロータリーへとむかった。背後でべつの飛行車両が着陸し、フロントガラスごしに夕焼けに浮遊するさらにいくつかの車両が確認できた。日が沈みきる寸前の照り返しに燃え、壮絶な戦火の跡のような空に十の黒点。閑散とした北ポートがにわかにカラスの群れに狙われた獲物のようになった。
ロータリーからはいくつもの柱に支えられ飾り屋根の突き出たエントランスが見えた。バロック様式を模した重厚な建築に無数の会議室と人とアンドロイドを腹のなかに呑みこんで、J・J・センターは横たわっていた。
ジョムズは先に車を降りて後部ドアへまわり、ロブをうながした。冬眠からさめたクマのように重々しく、やつれた表情のロブが現れた。
「三時間後にお迎えにあがります」
返事はなかった。うしろから追いついた議員がロブの肩を叩く。笑顔のポーラ・ヘントだった。ロブは仏頂面のまま片手をあげて返した。中央院議員たちの車が続々とロータリーへ流れ込み、彼らを降ろし、ふたたび北ポートへとむかった。ドライバー・アンドロイドによる一分の乱れもない隊列。白い枠のなかにおさまると、それぞれの車両は遮光スクリーンを張ってぴくりとも動かなくなった。
主人のプライバシーを完全に保護するため、という名目になってはいるが、本当の目的は車内でアンドロイドらしからぬ動きをする整備局員を隠すためだ。
ジョムズは身体をねじり、防弾パネルに手を当てて中を覗き込んだ。シートには煙草の箱が残されていた。ロブの感情の残滓を見出そうとしたがそれは叶わなかった。ややあって前を向きなおりシートに着席すると、マイクをオフし、全身の同調を切断した。
モニタにはロブの乗っていたのと同じ型、同じ色の十台の車両が映し出されていた。抜け殻となったアンドロイドの視界だ。風がそよぎ、ときどき鳥のさえずりが聞こえた。
おちついた軌道をえがく指先がコール・ボタンを押した。
『暗号化通信を開始します』
オペレーターの機械音声が告げ、さえずりにノイズが重なった。
「ジョムズ・ポーターです。ロブ・マッカラン議員、シリアルナンバーC四〇一Pの定期メンテナンス結果を報告します」
「――どうかね?」
くぐもったウィルキンズの声が応えた。
「深刻な疲れと孤独を感じています。ロブ・マッカラン議員の二週間の休暇を要請します」
「――深刻な疲れと――孤独?」
「対話を中断されました。あとで映像と感情パルス記録を確認してください。中断時は故郷の話をして、離婚した妻が老いていくことへの不満を感じているようでした」
「――……」
無線のむこうで押し黙る気配がした。ウィルキンズはマテュー・グレアムのことを思い出している。先駆けて、ロブ・マッカランに処分を下したほうが手っ取り早いのかを考えているのだ。答えが出ないのはわかっていた。ポーラ・ヘントが元気よく動いているのがその証拠だ。
もっとも恐ろしいのは、暴走した彼らが今度こそ人間を巻き添えにすることだ。憂鬱症は着実に中央院議員たちを蝕んでゆく。そうなったとき、誰かが彼らのスイッチを切らねばならない。その誰かは、殺人の罪を犯してしまうことになりはしないだろうか?
その問いは局員全員が心の奥底で共有するふたつめの恐怖であった。
「――人類に対する叛乱の意志――や兆候はあるか?」
「ありません。休暇をとってはどうかという提案を受けいれました。彼自身も非常な自制心を持ち、仕事には前向きでいたいと願っています」
「――わかった、政府――に上申してスケジュ――ルを調整しよう。……アンドロイドに効――果があるかはわからないが」
「あるはずです」
人工知能が彼らの感情データをトレースしようと演算するのであれば、人間一般に対するストレス対処法は表面的な意味で彼らにもまた有効だ。
「――そう願いたい――ね」
会話の冒頭と数秒に一度、通信には暗号化復元のための遅延ノイズが入る。普段は気にならないそれが今日は妙に耳に障った。自分は誰と話しているのだろうか――ウィルキンズだ。だがカリフォルニアの本局に勤める彼と直接会ったことはなかった。配属の際に一度、映像通話で姿を見ただけだ。ウィルキンズは存在するのだろうか、太って汗っかきな肉体を持ったウィルキンズは?
ジョムズは視線を落とし、軽くひらいた両の手のひらに刻まれた皺を見た。こういうとき人間は手を見るのだ。顔は自分では見えないから。
「――ジョムズ」
通信は終わらなかった。
「なんでしょう?」
「――彼らは〝深刻な疲れ――と孤独を感じ〟ない。――〝不満を感じ〟たり〝前――向きでいたいと願っ〟たりも――しない。とりこんだ対象者の記憶データ――から、対象者ならどのように――ふるまうかを人工知能が計算――して表出しているだけだ」
「知っています」
ジョムズは無線のスピーカーを凝視した。上司の言ったことは理解できる。しかし心に染みこんではこなかった。ジョムズの声色からウィルキンズもそれを理解した。
「カウンセリングを受けろ――。アンドロイドと人間を切り離せな――くなったら、整備局からは異――動だ」
「承知しました」
「気持ちはおれも……――わかるよ」
ランプが緑から赤へと変わり、通信は終了した。呼吸はおちついていた。脈拍もいつもどおりだった。手もふるえたりしない。ジョムズは、自分がウィルキンズとの会話のすべてのターンでコンマ一秒の澱みもなく返答していたことに気づいた。
ジョムズの意識は透明で、澄んだ泉のようだった。たとえば、と彼は心の中で呟いた。
我々が魂と肉体は別物だと考えていた時期があったように、アンドロイドも機械の身体と演算のもとになる記憶データ群をわけて考えるわけにはいかないだろうか? たとえば、記憶データ群さえどこかのサーバに退避させておけば、生前の肉体そっくりのアンドロイドのスイッチを切ったからといって、殺人の罪悪感に苦しむ必要はないというふうに考えられないだろうか?
しかしそれもまた欺瞞であることをジョムズは知っている。自分に置き換えて考えれみれば、冒涜的な思考実験は反吐が出るほどくだらないものであることがわかるだろう。
事故当時の車内映像を整備局内に公開する決断をしたのはウィルキンズだった。鈍色の顔のないアンドロイド。後部座席のマテュー・グレアム議員。「車を落とせ! ……わたしを殺してくれ!」マテューが叫び、運転席へつかみかかる。カウンセリング――否、メンテナンスのために、議員は上空三十メートル地点で目覚めていた。ハンドルを奪われたドライバー・アンドロイドの中身はアントニオという名の整備局員だった。気のいい奴だった。「おれはミスター・グレアムに殺された、しかしおれもミスター・グレアムを殺してしまった……」オート・モードのアンドロイドであったなら、機械の冷徹さで適切な対応ができたかもしれなかった。しかしアントニオは……悲鳴を上げ、相手を押し退けようとした……飛行車両はバランスを失い、ハイウェイ横に設けられたススキの野原に墜落して炎上した。アントニオのほかに、映像を見た二人の局員が離職した。
想像の中でマテュー・グレアムがロブ・マッカランに、ドライバー・アンドロイドが自分自身にスライドする。
おれがその場に居合わせたら、おれはロブのために車を落としてやれるだろうか?
思考が途切れた。
ジョムズは整備局の内部サイトへアクセスし、驚くほど冷静にカウンセリングの予約をとった。「次のような情緒の乱れがみられる場合、カウンセリングを受けてください。一、人間とアンドロイドの同一視、感情移入……」
遠隔操作席のリクライニングに全身をもたれさせる。
ゆっくりと呼吸をするうちにようやく恐怖がせりあがってきた。
三十年前、ロブ・マッカランを含む十二名の議員たちは、視察先のカリフォルニア州サンフランシスコにて人工知能の開発強化を訴える演説の中途、宗教主義者の襲撃を受けた。ラジオはロブの堂々たる演説が銃声と悲鳴によって打ち破られる瞬間を放送した。「己の似姿を創造せんとする者共へ、火の裁きが打ちおろされるであろう!」脳髄を痺れさせるような乾いた発砲音の応酬が聴衆の耳を断続的なリズムで打った。呆然と聞くしかできなかった、しかし最後の最後に、マイクはうめくようなロブの肉声を拾った。
「我々はいばらの道を歩かねばならぬ――たゆみなく願う者に、神は与えてくださる」
静寂が、電波の届く限りの場所に、訪れた。
ただ一人の例外なく、ロブの言葉は心を動かした。ジョムズも唇を火傷した客と顔を見合わせた。店の外へ出るとすべての車が縁石で停止していた。誰も彼もが呆けた顔つきをして、エンパスにでもなったように周囲の考えを深く感じとっていた。
やがて徐々に興奮の波が――熱狂の震動が全土を包んでいった。DJは喚き、〝スター・スパングルド・バナー〟は際限なく歌われ、ホワイトハウスを、各州の議事堂を、取り囲んだ。民衆は声を張り上げて叫んだ、「人類の未来のために、彼らの生きた証を失ってはいけない!」いまやよりよい未来のヴィジョンが見えていた。民衆は自分たちが感動の心を失っていなかったことを喜んだ。英雄が現れたことを寿いだ。行動しなければなにも生まれない。敵を打ち倒すこともできない。誰もが不屈の精神と明日の努力を誓った。栄光が洪水のように押し寄せてきた。そしてそれは一瞬で瓦解した。政府の、「十二名の議員たちは奇跡的に一命を取りとめた」という発表によって。
得体のしれぬおぞけが、熱狂がそうであったようにじわじわと、しかし次の段階では怒涛の勢いで、祝福すべきはずのニュースを耳にした者たちの背筋を駆けあがった。
人々は口をつぐんだ。薄情なことに事件を早く忘れようとした。連邦捜査局が犯行団体を検挙したという報せを最後に、世間は静まり返った。圧倒的な共感動によって結び合わされた民衆は、恐怖の予感もまた共有したのであった。
やがて彼らの前に現れたのは、ブロンズではなく、疑似的な命を吹き込まれた英雄像たちだった。
十二名の死は秘匿された。彼らが襲撃を受けたちょうどその日こそが、彼らが〝第三計画〟の同意書に署名した日であり、事件が起きたのはのちに整備局と呼ばれる技術研究センターで彼らが記憶のバックアップを保存して数時間後のことだった。事件の三か月後、捏造された襲撃の記憶とともに彼らは以前と変わらぬ傷ひとつない姿で政界へ返り咲き、以前にも増して精力的に働き始めた。
艶を失くした毛髪の下に埋まっているのは休眠用の電極ではない、人工皮膚と頭蓋を象ったカヴァーに覆われた演算装置である。身体は無数のサーボモータとセンサ、衝撃吸収材でできている。彼らは果てしないと思える時間を人工知能の調律に費やし、すべての演算を終えた人工知能が人間では考えつかなかった奇策を――いずれ世界の貧困と紛争を一挙に解決する妙計を生みだすことを信じて奮闘し続ける。
彼らは己の奉ずる信条を体現した。彼らはもはや誰からも顧みられることはない。それはやさしさでもあった。十二名以外の誰もが彼らが人間ではないことを知っていたが、口にはしなかった。不条理な襲撃の対価に他人の二倍の寿命を得た人物であるというふうに彼らを扱った。さもなくば人のかたちをした人ではないものを生み出してしまった自らの罪に、民衆は耐えきれなかったのである。
なぜ技術が〝アンドロイド〟を、〝人工知能〟を求めたのか、人々は非言語的な直感で知った。
アンドロイドの外観規制、人工知能の感情機能開発の禁止という退行的悪法は、上院下院ともに満場一致で可決された。これもまた神秘的な防衛本能のなせる業であった。
DJの予言は外れた。気高い献身的態度が永く語り継がれることはなかった。大部分の国民は彼らを忘れた。しかし彼らに心を握られて離れられない者たちもいた――ジョムズのように。
志願して陸軍技術本部から整備局へ転属された日、ジョムズは神に祈ることをやめた。マホガニーの玄関棚から赤い献灯を撤去し、かわりに毎朝一輪の花を飾る。彼が新しく仕えることにした十二名の英雄たちへ捧げるために。車が空を飛ぶようになっても完成しない人工知能にむかって、彼らは切々と世の理を教えた。彼らだけがバベルの驕慢から逃れている。そのことを知るのは整備局員だけである。
閉じたまぶたの裏に妻の笑顔が浮かんだ。長女キンバリーの結婚式でバンド仲間が盛大に演奏したパンク・ロックのやかましい旋律。「結婚したばかりの夫婦に孫の話をするのはセクハラよ」と断じた次女レベッカ。末の長男エディは、カレッジで教員コースを選択しながらまだぶつくさ言っていた。「政府がアンドロイドの規制をしたのもわかるよ、あんな説明可能性の低いものが――自分でもなにを考えているのかわからないようなものが、おれたちのような顔をして混ざりこんでくるなんて考えただけで寒気がするものな」
家族の増えたサンクスギビングの朝、ブライン液から取り出され、オーブンへと運ばれていく七面鳥。あたたかな空気、笑い声、香ばしい匂い、ワインの味、キンバリーの夫がもちこんだレコードは、けばけばしい色のジャケットにふさわしく家を騒音で満たした。歳老いた父は若者の音楽に理解を示した。「ぜんぶおれたちが守ってきた文化だ」
これらすべての思い出が、自分を追い越して老い衰え死んでいくのだ。
ロブの感じたふかい孤独を幻視し、ジョムズはハンドルに額をこすりつけた。鼻がつんとして目に涙が浮かんだ。自分の記憶がアンドロイドに組み込まれたらと考えるたび、罪深い恐怖がジョムズを満たした。〝――死んだほうがマシでは?〟
ジョムズは己のふるえる手を見た。
泉に雫が落とされたのは、そのときだった。
鳶色の虹彩が揺れる。めまぐるしく頭を駆けめぐるイメージは混沌としていたが、やがてひとすじの手がかりをつかんだ。
ロブは言った、ロボットはロボットを殺せるか、と。
あのときジョムズは訂正すべきだった。
ロボットはロボットを殺さない。ロボットは殺されることはない。壊されるのである。
ロブがむっつりと考え込むそぶりを見せていたあいだ、計測器はパルスを受けとらなかった。ロブは新しい仮説を演算したわけでも、ジョムズの答えをもとにその先の可能性を演算したわけでもない。ただ確かめたのだ。考え込むふりをして確信をジョムズの目から隠した。なんのために?
ロブはすべてに気づいている。生身の己が死んでいることも、身体が機械でできていることも、整備局がそれらの事実を隠し、同じアンドロイド越しに彼を監視していることも。
理解して遠すぎるいばら道を歩んでいるのだ。
嗚咽するジョムズの耳に、つないだままになっていたドライバー・アンドロイドの聴覚から、なにか重たい金属が地面に叩きつけられる音が届いた。音はエントランスの方向から聞こえてきた。異常を検知したアンドロイドたちがいっせいに車を降りて行進を始める。その群れにまぎれてジョムズの憑りついているアンドロイドも歩んだ。オート・モードの行進に揺れながらモニタに映し出される視界も前進してゆく。
エントランスのわきに人の形をしたものが倒れていた。手足は折れまがり、潰れていたが、血は一滴もこぼれていなかった。そのせいで余計に惨状がクリアに見えた。
落下防止のため七インチしか開かないすべり出し窓を突き破り、ひしゃげた窓枠をかかえるようにしてガラスの海に横たわっていたのはポーラ・ヘントだった。
ジョムズは同調をオンにした。しないではいられなかった。頭上を仰ぐと、ぽっかりと穴になった窓からロブがのぞいていた。
ロブの唇がしずかに動いた。「眠れ、安らかに」すぐに残りの議員をふりむいて言った、「さあ、我々の仕事をしよう」
膝をつくジョムズを避けて、アンドロイドたちはポーラの残骸へと近づいていった。彼らにはそれがなんだかわからない。人の目に触れる前に回収しなければならない。この場の指揮を執るべきは人間であるジョムズだ。理解しながらも手足は釘付けにされたように動かなかった。
泉は凪いでいた。ロブは最後まで生きのびるだろうと思った。生前からの力強い自制心をもって、人間の尊厳を守るため、機械の身体を破壊し、絶望に陥った仲間たちをロブはやさしく眠らせてやるだろう。そして最後の一人になっても彼は仕事をやめない。罪を引き受け、人類の幸福のために働く。
もう神には祈れないジョムズは、こうべをたれ、ロブ自身に祈った。
いつか御心のとおりになりますように、と。