第1章 横浜来訪者失踪事件 第3話
確かに。
確かに油断はあった。
「結城っ!」
組織の頭目は逃がしたものの、配置されていた兵を全て殲滅することで組織に深手を負わせた。
また仕掛けてくることはあるかもしれないが、それは当分先のことだと思っていた。
そうして出来た、僅かな隙。
その一瞬。
本当に一瞬のことだった。
「おい久瀬っ!!手前何を見た!?結城はっ」
久瀬の異能力は、少し先の未来を予見することが出来る。
だが、それが既に行われ始めている場合、回避は出来ない。
「…結城は、影に引き摺り込まれた・・・・・・・・・・」
「は?どういうことだ?」
「そのままの意味です。結城の影から奴が現れ、そのまま引き摺り込んだ。おそらく異能力でしょう」
「異能力って。結城の異能は無効化だ。効かない筈だろう」
「結城の能力は触れた異能を無効化する。影は結城本人ではないし、影を繋ぐ異能力者が別にいるのなら、触れて何もなくても可笑しくはない。澁澤の仲間に、そういう異能力者がいたということだ」
久瀬と翠川が話しているのを、どこか遠くのことのように聞いていた。
ドストエフスキーには、余裕がなかった。
近くにいたのに。
振り返れば触れられる距離にいたのに、結城を護ることが出来なかった。
何故目を離したのだろうか。
何故隣にいなかったのだろうか。
何故、どうして。
其ればかりが頭を巡っていた。
「おいっ、ドストエフスキー!!」
翠川の強い呼び掛けに、ドストエフスキーは漸く我に帰った。
「…あぁ、すいません」
「ったく。しっかりしろよ」
「それで、これからどうする?結城が何処に連れ去られたのか分からない以上、手立ては…」
「それなんだが、俺は一先ず首領に報告してくる。手前らは先に結城の家に行っててくれ。久瀬、手前は合鍵持ってんだろ?」
「…はい。持ってますが」
久瀬は暫く結城と同居していた。
関わるなと云われたときに追い出されはしたが、鍵は持ったままである。
「何故、零くんの家に?」
「…多分だが、結城はこの事態を想定していたんじゃねぇかと思うんだ」
「「!!」」
「澁澤が逃げたとき、俺は『手前の方が上手だった』と云ったんだが、その時の結城は少し腑に落ちないという顔してた。『だと、いいんだけど』って云ってたしな。抑彼奴は、奴の狙いが自分だと知っていた。なら、何かしらの手段で連れ去られることを想定してなかったとは考えにくい。彼奴は恐らく何処かに奴等の本当のアジトの手掛かりを残してる」
翠川の推測に、久瀬とドストエフスキーは驚いた。
相棒が連れ去られて内心穏やかじゃないだろうが、それでも冷静な判断をしている。
そして云われてみると成る程。
結城なら、それくらいしていて可笑しくない。
もしがあったとき三人なら、否、翠川ならそれに気がつくと思って結城は用意しているだろう。
翠川琉夏は、結城零の相棒だから。
「…じゃ、俺は首領のとこ行ってくる」
****
「…蒼夜」
「何だ」
「酷い顔をしていますよ」
「……だろうな」
久瀬とドストエフスキーは云われた通り、結城の家に向かっていた。
久瀬の顔色は酷いものだった。
そして、恐ろしかった。
触れたら殺されるのではないかと思えるくらい、その身からは殺気が迸っている。
何時もの、穏和な態度からは考えられない。
否、一度だけドストエフスキーは経験していた。
子供達が死んだ時だ。
だが今の久瀬は、その時を凌駕する。
「貴方を」
「?」
「貴方を本気にさせるなら、零くんを狙った方が確実だったのですね。…本当に、悪いことをしました」
それが何の事なのか理解した久瀬は、一層殺気を鋭くした。
「…結城に、何かしたら」
「安心して下さい。私が零くんに危害を加えることは絶対にない。私はは零くんに命を捧げているのですから」
「お前のその忠誠心もあまり気分が良いものではないがな。…云っとくが、結城は俺のものだ」
「前も云いましたが、それを決めるのは貴方ではないと」
久瀬は溜め息を吐いて、少し殺気を収めた。
「行こう。本当はお前に結城の家を教えるのは気が進まないんだけどな」
「…本当に、零くんは何かを残していると思いますか?」
「あぁ」
「!!不安はないのか?何も見つからないという不安は」
「…お前はまだ結城との付き合いが短いから分からないんだろう。結城は、全てを見透す奴だ。彼奴に分からないことはないというくらい、全てを。だから幾つもの策を用意している。どんな状況にも対応出来るようにな」
「それが、外れるということはないのか?」
「ないな。有り得ない」
「けど澁澤は、零くんと同類なのでしょう?」
「…そうだな。けど、だからこそ用意しているだろう。それに、同類だが、結城じゃないんだ。彼奴が読み負ける訳がない」
「琉夏も云っていましたね。『彼奴が間違える訳がない』と」
「あの二人は俺よりも付き合いが長いし、翠川さんは結城の相棒だからな。誰よりも、結城のことについて詳しいだろう。…少し悔しいことだが、戦場での結城を見ることが少ない俺よりは、結城の読みの深さを理解している」
結城は久瀬を特別扱いする。
それはとても嬉しいことだ。
久瀬にとっても結城は特別だから。
けれども、不殺を誓う久瀬には踏み込めない領域があって。
翠川は其処にいる。
仕方がないことではあると理解しているが、気分は良くない。
翠川は結城の相棒だ。
結城の特別は、久瀬だけではない。
「悔しいですね」
「は?」
「栓ないことではあるが、もっと早く出会えていたら、と思ってしまう。ですが、これから知っていけばいいことアニメですね。私は零くんの部下なのですから。しかもどうやら側近にしてくれたらしいですし」
「…それは初耳なんだが」
「零くんの執務室に、私の場所を用意してくれました。此れはそういうことでしょう?」
「唯単に、場所の用意が間に合わなかっただけだろう」
「零くんがですか?今云っていたでしょう。彼がどれだけ優秀か」
「……。結城を取り戻したら、すぐに考え直すよう進言しよう」
「何がなんでも阻止します」
****
「……ん、ここは…」
「目が醒めましたか?」
目を醒ました結城は、声のする方に顔を向けた。
特に不自由は感じない。
どうやら拘束等はされていないようである。
「気分はどうですか?」
「…最高だよ。目の前に君がいなければね」
「ふふ、酷いですね」
「私に何か用?」
「何度も云っているじゃないですか。手を貸してくださいと」
「それは断った筈なのだけれど?」
「ぼくは貴方が欲しいんですよ」
「欲しいと云われても困るね。私は売り物ではないよ?その証拠に、値札は何処にもついてないでしょう?」
「面白いことを云いますね。貴方が売り物なら、幾ら出しても買うというのに残念です」
「…で、私をどうする気だい?拘束もしてないようだけれど」
「お客様にそんなことしませんよ」
「無理矢理連れてきておいてよく云うよね。」
「仕方なかったのですよ。あれしか方法はなかった」
「……、何をされても、私は君の仲間にはならないよ。云っとくけど、私に薬の類いは効かないし、拷問の訓練も一通り受けている」
「貴方にそんなことしませんよ。云ったでしょう?傷つけたい訳ではないと」
「なら、何故私を此処に連れてきた。今のままでは仲間にならないのは分かっている筈でしょう」
「まぁ、そのことは追々話すとして。そうですね、取り合えず」
澁澤は部下に何か指示を出している。
部下は直ぐ様部屋を出ていき、少しして戻ってきた。
手に何かを抱えて。
「チェスでもしませんか?」
抱えていた何かはチェス盤だった。
「………は?」
****
「おい、何か見つかったか?」
「翠川さん」
「否、今零くんが残した資料を読み返してはいますが、判りませんね」
首領への報告を終えた翠川は、結城の家で二人に合流した。
「首領は何と?」
「…あぁ。そりゃあもう、大層ご立腹だったぜ。結城の救出を最優先に、出来れば殲滅してこいと仰せつかった。目的は聞き出せなくてもいいとさ」
「首領…」
「零くんは首領にも好かれているのですか?」
「ま、彼奴は首領の右腕みてーなもんだからな。…結城が拐われたということが広がると色々大変なことになるから、この件は他言しないようにと云っていた。然し、もし手に負えないようなら誰を遣ってもいいとさ。…必要ないよな?」
「そうですね」
「ええ。零くんは必ず助ける。他の手は必要ありません」
「だな」
翠川は二人が読んでいた報告書をとり、最初から目を通した。
「よく調べてある、が、敵の異能力については書いてないな。…彼奴が調べられないくらい、向こうも手練だってことか。流石、結城の同類だな。……ん?」
翠川は何かに気がついたように声をあげた。
久瀬とドストエフスキーは伺うように翠川を見る。
「…分かりづらいが、これ、彼奴の字だな」
最後の報告書の隅に、走り書きのようなものを見つけた。
「(082034)と(053043)…か?」
「それはなんです?」
「…否、分からねぇ。けど、結城が意味のないことを書くわけがねぇ」
「……もしかしたら、それは6桁座標ではないか?」
久瀬は報告書と一緒にあった地図を広げながら呟いた。
「6桁座標?」
「はい。地図を読むのに遣う座標の読み方にあるんです」
久瀬は定規とペンを用意し、地図に書き込み始めた。
書き終えると、二つの場所が示されている。
「…この、どっちかが澁澤のアジト…」
「けど、これ以上は分からないですね」
「どちらも中ってみるか?」
「……そうですね、どうするか」
その時、翠川の携帯が鳴り響いた。
「もしもし?」
『…あの、翠川さんですか?藍です』
「藍?どうしたんだ。珍しいな。手前が俺に電話なんざ」
『結城さんから、頼まれていたことがありまして』
「それは、本当か?」
『はい。兄が目を醒ましてからでいいからと云われていました。それで、漸く目を醒ましたので調べたんです』
「何故俺に?」
『結城さんに、自分に連絡がつかなかった時は翠川さんに報告するようにと、云われていました』
「は、はは。あの野郎。やっぱり想定してやがったな」
『あの、翠川さん。結城さんに何かあったんですか…?』
「其れより、先に報告しろ」
『…はい。結城さんから頼まれたのは、ここ最近人の出入りが激しくなった船が入るくらい大きな使われていない建物があるか調べて、とのことでした。…1ヶ所だけ、ありました。それは─』
「…そうか。ご苦労だったな。これで分かったぜ」
『あの、結城さんは…』
「心配すんな。彼奴は大丈夫だ。結城に限って何かあるわけないだろ?…芥川は、まだ本調子じゃないんだろ。手前はついててやれよ」
翠川は其処で電話を切った。
そして黙って聞いていた二人に向き直り、先程見つけた二つの場所のうち一つを指した。
「結城が居るのは、此処だ。」
****
静かな部屋で、チェスの駒音だけが鳴り響く。
「…一体、どういうつもりだい?」
敵のアジトである此処で、澁澤に逆らう利点はない。
結城は警戒を解かないままチェスに付き合っていた。
「ぼくは貴方と勝負してみたかったのですよ。思った通り、素晴らしい。今まで勝負した誰よりも強いですね」
「それはどうも。君も、中々だよ」
「光栄です」
盤面は進む。
「結城くんはよくチェスをやるんですか?」
「否、やらないよ。すぐに先が見えてしまって詰まらないからね」
盤面は進む。
「あぁ。それはよく分かります。ぼくも、ここまで楽しめているのは初めてですから」
盤面は進む。
「けど、其れだけに残念ですね」
「?何が…」
盤面は進む。
「出来れば、仲間として遊びたかった」
盤面は進む。
「結城くん。貴方は薬の類いは効かないと云っていましたね?」
「云ったけれど。…何、薬でも入れた?」
「ええ。確かに入れました。けど、そのままでは特に害のないものです」
「…そのまま、では?」
「はい。貴方の体に入れた薬は珍しいものでして。単体では何も効果はないのですが、あるものと組み合わせると強い効果を発揮するんです」
「ある、もの…?」
(何だ、これ。目が霞んで…)
盤面が、止まる。
「えぇ。ある一定の動きのものを見ていると、暗示が掛かるんです」
「ある一定…、っ、まさかっ」
「ところで結城くん。そろそろ目が霞んで来ましたか?」
結城は目の前のチェス盤を凪ぎ払った。
しかし、それは遅かった。
結城はその場に崩れ落ちる。
「…何を、した」
「大丈夫です。大したものではありませんよ。云ったでしょう?貴方を傷つけたい訳ではないと」
「何を、したっ!」
澁澤は床に崩れ落ちた結城に近づき、しゃがんで結城と目を合わせた。
「貴方の中の、敵と味方が入れ換わるようにしました」
「なっ、」
「薬も効かない。痛みの類いも駄目。頭が佳すぎるので誘導も出来ない。無効化があるので異能力も効かない。…佳かったですよ。暗示は効いてくれて」
意識を失う結城が最後に見たのは、澁澤の光のない眼だった。
「漸く堕ちてくれましたね。……ぼくの、結城くん」
****
「此処か…」
翠川と久瀬、ドストエフスキーは示された場所に来ていた。
勿論、完全に武装した上で。
「ところで、久瀬。手前は人を殺せないんだろ?…それは、この先進む上で邪魔になる」
「分かっています。…翠川さん、一つ訂正します。俺は殺せない訳ではない」
久瀬は弾倉を確認しながら答える。
心では覚悟を決めていた。
つい最近、再び誓い直したことであるが、それを破ることに躊躇いはなかった。
結城零と引き換えに出来るものなど、何もない。
「信条の為に殺さないと決めていただけです。ですが、もう状況は違う」
「…蒼夜、怒っていますね」
「当たり前だろう」
翠川は結城の言葉を思い出していた。
─蒼夜は、怒らせない方がいいよ。
(…彼奴の友達が普通のやつな訳ない、か…)
「……行くぞ」
「あぁ」
「はい」
*
「澁澤、侵入者だよ」
「あれは、マフィアの人達ですね」
「たった三人で来るなんて、余程の手練ということかな。此処を突き止めているのだから当然か。どうする?」
「勿論、退場してもらいますよ。…遣り方は貴方に任せます」
「了解。即刻退場願おうか」
澁澤はうっそりと笑い、策を企てる彼の肩に手を乗せた。
「宜しくお願いしますね。……結城くん・・・・」